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新感覚『般若心経』 〜蒼龍くん物語スピンオフ〜  作者: 蒼龍寺 佐藤堅明


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第十話(最終回):一期一会の夕焼け

すべてが「空(くう)」であると知ったとき、世界は虚無になるのではなく、むしろ鮮やかな輝きを取り戻します。

 執着を捨てた商人と、おじいちゃんを追い続けたカモメ。

 二人が泥沼の果てに見つけたのは、かつて蒼龍くんが老カモメに贈った、あの温かな時間でした。

シャリホは、もう手帳に不満を書き込んでいませんでした。


泥だらけのまま、荷車の車輪をじっと見つめます。


怒りでも、見栄でもなく、

ただ「動かしたい」という気持ちが、静かに胸にありました。


彼は折れた木の枝を拾い、車輪の下に差し込みます。

角度を変え、力の向きを変え、息を整えます。


そして、ぐっと押しました。

ズズッ……。


あれほど動かなかった荷車が、わずかに前へと進みます。


もう一度。

ズズッ。


泥から、車輪が顔を出しました。


「……出た」


シャリホは、ただそれだけを呟きました。

誇るでもなく、叫ぶでもなく。


カモメが肩をすくめます。

「やれやれだぜ。ずいぶん静かな成功だな」


シャリホは、泥のついた顔のまま微笑みました。

「静かな方が、よく見えます」


カモメが空を指します。

そこには、山の端から広がる、燃えるような夕焼けがありました。

空一面が、橙から紫へとゆっくり溶けていきます。


風が止まり、泥の水面にも、同じ色が映りました。


「……綺麗だ」


シャリホは、値踏みすることなく言いました。

「これにも、値段はあるのでしょうか」


カモメは笑います。

「つけてみなよ」


しばらく考え、シャリホは首を振りました。

「……つけない方が、きれいですね」


そのとき、遠くの空に、ゆっくりと舞う一羽の老いたカモメの影が見えました。


孫のカモメが、小さく翼を震わせます。

「おじいちゃんが好きだった空だ」


その声には、焦りも不満もありません。


ただ、受け継がれた時間への静かな敬意がありました。


老カモメは近づき、優しく言いました。


「よい夕焼けじゃな」

それだけでした。


シャリホは、泥のついた手で懐の手帳を撫でます。


そこには、失敗も、見栄も、愚かさも、すべてが記されています。


しかし今、それは恥ではなく、

確かに生きてきた証のように思えました。


「私は……世界を自分の都合で測っていました」


シャリホは静かに頭を下げます。


「けれど今日、世界はそのままでよいと知りました」


老カモメはうなずきました。


「一期一会じゃ。

今この瞬間は、二度と戻らぬ」


夕焼けは、誰のものでもありません。


それでも確かに、

今ここに立つ者を、平等に包み込みます。


やがて夜の気配が降りてきました。


カモメたちは空へ舞い上がります。


去り際に、孫のカモメが言いました。

「おじさん、また泥にハマったらどうする?」


シャリホは少し笑って答えます。

「そのときは……まず、空を見ます」


「やれやれだぜ」

二羽は夕闇へ溶けていきました。


シャリホは一人、静かに立っています。


泥はまだ足元にあります。

人生も、これからです。


けれど、胸の奥は澄んでいました。


夕焼けの残り火が、彼の顔を柔らかく照らしています。

(完)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作は、般若心経の芯の教え「五蘊皆空」を、現代の私たちの悩みに重ねて描いた物語です。


私たちは、

「ある」と思い込んで執着し、

「なくなる」と思い込んで苦しみます。


けれど実際には、

形あるものは条件によって成り立ち、

条件が変われば姿を変えるだけです。


空とは、虚無ではありません。


それは――

何度でも、やり直せるということです。


泥沼に立っていると感じるとき、

世界を責める前に、

握りしめた拳を少し緩めてみてください。


その瞬間、景色は変わります。


夕焼けは、いつでもそこにあります。


合掌

蒼龍寺住職 佐藤堅明 九拝


※明日(2月26日より毎日午前7時投稿)より、新連載を始めます。

『永平寺はブラック企業!? ――月給3000円、不眠不休の厨房で学んだ「完璧じゃなくてもいい」』


修行の現場で見た現実と、そこで得た気づきを、率直に綴ります。

全24話。どうぞご覧ください。

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