第1話 プロローグ:静かな朝に
その日、【始まりの街】アースティンの上空には、絶望を告げる魔物群れが飛来していた。
東の空を覆う黒い影。それは十数体にも及ぶワイバーンの群れだった。
天空の王者たる彼らは、眼下に広がる脆弱な人間の住処を悠々と見下ろしていた。この国唯一の初心者ダンジョンを擁するこの街は、上級冒険者などの脅威が存在しない極上の餌場のはずだった。
ワイバーンたちを率いるボスは、群れの中央後方に位置し、悠然とふんぞり返っていた。これから始まる殺戮と、食らう人の血肉の味を想像し、涎を垂らしながら。
――だが、その愉悦は一瞬にして凍りついた。
何の前触れもなかった。
先頭を飛んでいた一体が突如として縦に真っ二つに両断されたのだ。
噴き出す血飛沫。音もなく両断された巨体が、重力に従って落下していく。
何が起きたのか理解できず、群れが動揺に包まれる間もなく、二体目、三体目となる仲間たちが次々と空中で弾け飛んだ。
ギャァッ!?
ギ……ッ!?
見えない「何か」が、正確無比に群れを襲う。
混乱した群れは、それを避けようと高度を上げ、あるいは散開して回避行動を取る。しかし、二秒、三秒おきに、仲間が次々と両断され、翼を切られ、高高度から錐揉みになって落下していく。もちろん、この高さから落ちれば命はない。
自分の群れが、虫けらのように駆除されていく。
ボスは理解した。これは事故ではない、街からの攻撃だ、と。
恐怖よりも先に、王としてのプライドを傷つけられた激しい怒りが湧き上がった。
『ガァァァァァァッ!!』
ボスは咆哮を上げると、自らカタをつけるべく全魔力を翼に込め、音速に近い速度で街へ向かって急降下を開始した。
その殺意に満ちた突撃は、城壁すら粉砕する威力があるはずだった。
だが――先頭に踊り出た瞬間、彼もまた、魔石ごと綺麗に真っ二つにされていた。
そうして数分もしないうちに、ワイバーンの群れは壊滅していった。
アースティンの街は、そこに住む人々はおろか、斬った当人すら知らない間に、滅亡の危機を脱し、平和な1日を送ることが出来た。
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翌朝。
東の空が白み始めたころ、ジェスロは自宅の庭で日課の訓練のため木剣を握っていた。
昨夜は少し風が強かったような気もするが、今朝は穏やかな晴天だ。
「ふぅ……」
深く息を吐き、無心で木剣を振り下ろす。
ジェスロにとって、この毎朝千回の素振りは長年の日課であり、生活の一部だった。
一回、また一回。
無心で繰り返すうちに、ふと、指先に奇妙な感覚が宿る。
――ヒュンッ!
ただの素振り。けれど、剣先が空を走った瞬間、ブオン! と空気が震え、剣の軌跡に沿って淡い光の帯が彼方まで伸びたような気がした。
「おっ……?」
ジェスロは動きを止め、まじまじと木剣を見つめた。
「今のは……魔力放出か?」
剣を振る瞬間に、体内の魔力が自然と刃に乗る感覚。
そういえば昨日も、遠くに見えた鳥の群れのような影に向かって何気なく素振りをした際、同じような手応えを感じていた。
昨日のあれは気のせいかと思っていたが……どうやら違うらしい。
「最近、どうも剣の振りが変わってきたな。ようやく『何か』を掴めてきたのかもしれん」
まさか昨日の「鳥の群れ」が国を揺るがすワイバーンの軍勢であり、自分の手応えある素振りがそれを全滅させたなどとは夢にも思わず、ジェスロは満足げに頷いた。
「よし、今日はいつにもまして調子がいい」
一通りの素振りを終えると、彼は軽く汗を拭い、家の中へと戻った。
簡素な朝食を済ませ、埃一つない事務服に袖を通す。鏡に映るのは、どこにでもいる冴えない中年男性だ。かつて胸に秘めていた熱い想いは、日々の業務と加齢の中に埋没している。
彼が住むこの街アースティンは、王国唯一の初心者ダンジョンがあり、多くの若い冒険者が集う【始まりの街】。
そんな活気あふれる街で、最強の力を持つおっさんは、街を救っていたとは本人も、周りも知らず日常を過ごす。
革鞄を肩にかけ、今日もまた、受付と鑑定の仕事が待つギルドへと足を向ける。
あの冷たい受付嬢たちの視線と、面倒な依頼者たち。憂鬱な職場だが、生活のためには仕方がない。
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ギルドの重厚な扉を開けた瞬間、俺は小さく息をつく。
薄暗い空間に響く喧騒と、業務開始に向け忙しなく動き回る職員たちの熱気。そのどれもが、今の俺には少し眩しすぎる。
席につき、業務を開始してまだ三十分ほどだっただろうか。
カツカツと小気味良い、しかし攻撃的な足音が俺のデスクへ近づいてきた。
顔を上げずとも分かる。ギルドの華、美人受付嬢のベロニカ(二十四歳)だ。
「ジェスロさん、この魔物の素材の鑑定、まだ終わりませんの?」
わざとらしく高い声。周囲の視線を集めるのを見越した、演技がかった口調だ。
彼女は小柄ながら整った顔立ちをしており、人気投票では常に上位を争うアイドル的存在。だが、その美しい顔から放たれる言葉は、俺に対してのみ鋭利な刃物となる。
「ベロニカさん、申し訳ありません。ただ今確認しております」
「あらそう。事務処理能力『だけ』はお高いと聞いてましたけど、お歳のせいかしら?」
彼女の取り巻きであるCランク冒険者たちが、ニヤニヤとこちらを見ている。
俺は表情筋を死滅させ、淡々と作業を進めた。
過去に一度、身に覚えのないセクハラ疑惑(冤罪)をかけられて以来、俺はこのギルドでのカースト最下位に定着している。若くて綺麗な女性が苦手になったのは、完全にその時のことが原因だ。
だが、今日の厄難はベロニカだけでは終わらなかった。
昼前、別の受付嬢サリーが担当する冒険者から、アイテム鑑定の依頼が入った時のことだ。俺はいつものように鑑定を済ませ、親切心から少しアドバイスを添えた。
『これは魔力を込めながら使うと効果が倍増するぞ』
ただそれだけのことだったのだが――。
用を足しトイレから出た俺を、サリーが鬼の形相で待ち構えていた。
「ちょっとおっさん! 何してくれたのよ!」
普段の愛想の良い笑顔はどこへやら、そこには阿修羅が降臨していた。そんな顔をしたら眉間にシワができるぞ、と言いたいが口には出さない。
「余計なことしないで! あんたが余計な知識をひけらかすから、あたしが『不勉強だ』って恥かいたじゃない! 担当変えられそうになったのよ! ふざけんじゃないわよ!」
理不尽な罵倒。
俺はただ「申し訳ありません」と頭を下げることしかできない。
やれやれ、良かれと思ってやったことが裏目に出るとは。これだから若い子との付き合いは難しい。
それから数日後の夜。
俺は仕事終わりに、馴染みの酒場『月の雫亭』のカウンター席で、いつものように解体場で働く友人のトニーとエールを傾けていた。
「なあトニー、なんでベロニカがあんなに俺に突っかかってくるか、お前の顔の広さで聞いてくれないか?」
俺がジョッキを揺らしながらぼやくと、トニーはニヤリと笑った。
「おっ!何だお前、ベロニカが好きなのか?」
「いや、そんなんじゃないけどさ。……ほら、昔はニーナのように、『先輩、先輩』って懐いてたんだよな。今の態度との落差がどうもな……」
「ふむ、やっぱ加齢臭じゃねぇか?ほら、女は月の日に機嫌が悪いって言うだろ?彼女、女の子の日じゃねえのか?匂いにも敏感だろ?」
「そんなに匂うか?」
トニーが俺の匂いを嗅ぐような仕草をする。俺は眉をひそめ、ちょうど近くを通りかかった、ここの娘で給仕を手伝っているリラちゃんに声をかけた。
「……リラちゃん、俺って臭う?」
「うーん、加齢臭とは分かんないけど、みんな酒臭いですよー」
リラが鼻をつまんで即答すると、トニーがテーブルを叩いて爆笑した。
「ははは、そりゃあそうだ!ちげえぇねぇ!」
そんな馬鹿話で盛り上がっていると、ふと、背後のテーブル席から冒険者たちの話し声が聞こえてきた。
「おい聞いたか?例のワイバーンの話」
「ああ、街から少し離れた森の中で、ワイバーンの死体が大量に見つかったってやつだろ?」
「そうそう!しかも大半が真っ二つになってたらしいぜ!以前は翼を切られて墜落死とかだったのに、今回のは殆どが体の真ん中で魔石ごとぶった切られてたんだとよ」
「へえ……一体、誰がそんな真似を……」
俺は彼らの話に一瞬耳を傾けたが、特に気にも留めず、目の前のジョッキを呷った。
世の中には凄い使い手がいるもんだな。俺もそんな達人の爪の垢でも煎じて飲みたいものだ。
「よし、明日俺たちで見に行ってみるか? まだ素材が残ってるかもしれねぇぞ」
「馬鹿言え、もう騎士団が回収した後だって話だぜ」
「ちぇっ、仕事早えな。」
「……でもよ、おかしくねえか? 噂じゃ『魔石すら抜かれてなかった』らしいぞ。倒した奴は素材も取らずに立ち去ったってのか?」
「そりゃ誰かが話を盛ってんだろ。ワイバーンの魔石なんて金貨何枚になると思ってんだよ。放置するわけねえって」
男たちがゲラゲラと笑っている。
ちょうどその時、リラが追加のナッツを持って俺たちの席へやってきた。
「はい、ジェスロさん、トニーさん。いつものナッツです」
「おう、ありがとうなリラちゃん」
俺は礼を言いながらナッツを一つ摘むと、隣で既に出来上がっているトニーに向かって、独り言のように呟いた。
「噂の真偽は知らんが……今日、俺が騎士団の依頼でワイバーンの魔石を数個鑑定し、換金手続きをしたのは事実だぞ」
その言葉に、トニーが赤ら顔で身を乗り出してきた。
「ういっ……マジかよジェスロ! やっぱり実在したのか!」
「ああ。中々の純度だったよ」
「へへっ、で? その魔石とよぉ、受付のセルマちゃんと、どっちが大きかった?」
トニーが下卑た笑みを浮かべる。
俺は呆れつつも、「ん?」とわざとらしく首を傾げた。
「何の話だ?」
「何って、決まってんだろ! ここだよ、ここ!」
トニーが自分の胸の前で、ふくよかな大きさを強調するジェスチャーをする。そして、悪巧みをする子供のような顔で囁いた。
「どっちが大きいか教えてくれたら、さっき言ってたベロニカの件、探っとくよ」
「……お前なぁ」
俺が呆れ半分で口を開きかけた時、横から鋭い声が飛んだ。
「もう! そんな話ばっかりしてると、いつまでたっても結婚できないんですよ!」
リラが呆れた顔で腰に手を当てている。
トニーは悪びれもせず、へらへらと笑った。
「もんだいねえぞ! リラちゃんがセルマちゃんくらいおっきくなったら、俺が嫁に貰ってやるからな! 安心しろ!」
「……はいはい。売れ残った時はお願いしますね。えっと、お水でしたね。持ってきます~」
リラは表情一つ変えず、手慣れた様子で酔っ払いの戯言を受け流す。そして俺の方を向くと、十歳とは思えない大人びた口調で言った。
「ジェスロさん。ジェスロさんは、あんな風になったらダメですからね?」
「……善処するよ」
俺は苦笑いしながら頷いた。
リラはトニーの空いたジョッキを回収して奥へと戻っていった。その小さな背中を見送りながら、俺は小さく息を吐く。
「……たくましいもんだな」
酔っ払いをあしらうあの手腕。この酒場で働いていると、年端も行かぬ少女でも強くならざるを得ないのだろう。彼女の将来が末恐ろしくもあり、頼もしくもある。
俺の名はジェスロ。ギルドのしがないオッサン受付兼鑑定係りである。
ギルドでの一日は多少のトラブルに目を瞑れば、こうして下らないやり取りで平和に過ぎていく。恋人がいないことくらいが不満だが、まあ安全に暮らせているだけ良しとしよう。
――そう思っていた。
翌日、いつものように二日酔い気味でギルドに出勤すると、ギルドマスターのゴルドが珍しく真面目な顔で俺を呼び止めた。
「ジェスロ、ちょっと良いか? 今から頼みたいことがあるんだ」
「はい、マスター。なんでしょうか?」
「実はな……今日は初心者ダンジョンへ立会を頼みたいんだ」
初心者ダンジョンへの立会? それはいつも、武闘派職員であるダニーの仕事のはずだ。
「ダニーはどうしたんですか? またサボりですか?」
「いや……それがな、昨日、女性冒険者から訴えがあってな。詳しく調べたら、まあクロだったので即刻クビになったんだ」
ゴルドは苦々しそうに言った。
ダニーの奴、また女関係でやらかしたのか。これまでも色々問題を起こしていたが、クビになるとはただ事じゃないぞ。
「それで急遽、俺に白羽の矢が立ったと?」
「ああ。今日、とある貴族様のご令嬢が初心者ダンジョンに入るんだが、もうスケジュールの変更がきかない。女性職員でダンジョンに入れる者はいないし、かといって美人局のような真似をしたダニーの件直後だ、うかつな男を行かせるわけにもいかん」
マスターは俺の肩に手を置き、すがるような目で見てきた。
「そこでだ。五体満足で、女っ気がなく、枯れていて安心できる男の職員となると……お前しかいない」
「枯れていては余計ですよ!」
俺は抗議したが、マスターは聞く耳を持たない。
本物の剣なんてまともに握ったことすらないのに大丈夫か? まあ、木剣は体力維持と師匠の言いつけで毎日振ってはいるが、実戦経験は皆無だぞ!
「ですが、俺は戦闘経験はほとんど――いえ、ゼロですよ」
「心配するな。お付の冒険者もいるはずだ。多分、騎士見習いかあちらさんの従者だろうさ。お前はただ職員としてそこに居てくれれば良い。知識豊富で鑑定持ちのお前なら、万が一の時にでも役に立つだろうしな」
貴族のご子女……断れないというわけか。
貴族と関わるなんてろくなことがないし、出来たら御免被りたいんだが、ゴルドの困ったような顔を見れば嫌とは言えなかった。
まさか、こんな朝早くから俺の平穏な日常が終わりを迎えることになるとは……。
今日一日、一体どうなってしまうのだろうか? 貴族の子女ってのが、わがままなとんでも女じゃないことを祈ろう。
不安と、ほんの少しの諦めを胸に、俺はダンジョンへ入る準備をすべく会議室に向かった。




