第19話 不器用な少年
アンリは今日も午前から座学の授業を受けていた。
「……スカラ先生、妹の、シトラスの様子を見てきたいのですが、構いませんか」
講師が教本から目を上げ、アンリの目を見つめて答える。
「どうしたのですか? 妹ができたのが、そんなに――」
「スカラ先生、お願いします」
アンリは講師の言葉を遮り、真剣な表情で告げた。
その目を見た講師は、ゆっくりとうなずいて教本を閉じた。
「……いいでしょう。では本日の講義はここまでにします」
教本を片付け、帰ろうとする講師に「ありがとうございます!」と告げたアンリは、部屋から駆け出していた。
部屋を出たアンリは、途中で侍女を呼び止めて尋ねる。
「シトラスがどこに居るか、知らないか」
「シトラス様ですか? それでしたら奥様の部屋にいらっしゃるかと」
「ありがとう!」
アンリの足は、まっすぐティベリオの部屋へ向かって駆け出した。
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ティベリオの部屋の前で息を整えたアンリが、そっと開け放たれたドアから様子を窺う。
中にティベリオの姿はなく、シトラスが一人で刺繍を刺していた。
彼女は鼻歌を歌いながら、一心に刺繍に打ち込んでいる。
長い亜麻色の髪の毛が、体と一緒に揺れて実に楽しそうだ。
こうして見ていれば、とても可憐な少女なのだ。
だが、その動きが突然止まった。
思いつめるような表情で刺繍を見つめたあと、ため息とともに刺繍枠をテーブルに置いた。
そして、とても大人びた眼差しで窓の外を眺めていたのだ。
不思議な少女だと思った。
天真爛漫な少女に見えるが、大人びた公爵令嬢らしい面も持つ。
そして時折、こうしてとても悲しい目をするのだ。
さらに昨日の失神騒動や昨晩の錯乱する様子。
――彼女には、何か秘密があるに違いない。
エルメーテ公爵は、まだその秘密をアンリに教えるつもりがない。そのくらいはアンリにも理解できている。
だが、その秘密を打ち明けてもらえる日が来るのを、アンリは待ちきれなかった。
――シトラスに、あんな目をさせてはいけない。
ただその一心だった。
アンリが思い切って口を開く。
「シトラス、どうしたんだ?」
シトラスが弾けるようにアンリに振り向いた。
「おにい……さま。いえ、なんでもありませんわ。
それよりお兄様こそ、どうなさったのですか?
今は講義のお時間ではないのですか?」
アンリは室内に入り、シトラスのそばに腰を下ろしながら告げる。
「……どうやら気分がすぐれないように見える。
どうだろう、また馬で走ってみないか」
十歳なりに、必死に考えた言葉だった。
シトラスが微笑みながらアンリに答える。
「ポニーは先日、乗せていただいたばかりですわ。
それに今のドレスでは、馬に乗るのは難しいと思います」
「そうか……なぁシトラス、お前の秘密を私に打ち明けてはもらえないだろうか」
アンリは思い切って、単刀直入に切り出した。
不器用なアンリでは、話術でシトラスの心を救う方法などわからなかった。
シトラスが驚いたように目を丸くした。
「どうなさったのです? 秘密など、私にはありませんわ。
特別な聖女だそうですから、それで普通の方とは少し違うのでしょう」
アンリは苦笑を浮かべながら、シトラスに答える。
「あまり私を馬鹿にしないで欲しい。
確かにまだ子供だが、お前や父上が隠し事をしていることぐらいわかる。
父上はまだ、私や母上に秘密を打ち明けるつもりがないようだ。
だが私は、シトラスのそんな悲しそうな瞳を我慢できそうにない。
話を聞くぐらいなら、子供の私でもできるだろう。
悩みがあるなら、聞かせてくれないか」
シトラスはまじまじとアンリの目を見つめていた。
アンリはその視線を静かに受け止め、シトラスの言葉を待った。
「……お兄様がそんなに饒舌になるだなんて、本当に必死ですのね。
もっと口下手な方だと思っていましたわ」
「お前の力になりたいんだ。どうか私に、お前の力になる機会を与えてくれないか」
シトラスは刺繍に手を伸ばし、自分が刺した花を指でなぞっていた。
しばらくそうして考え込んだ後、再びアンリの目を見つめた。
「……お父様の許可を得ずに伝えてしまえば、あとで私たちが怒られてしまいます。それでも構いませんか?」
「構わない。お前が父上に叱られるようなことになれば、私がお前をかばってみせる。
私が無理やり聞き出したと言えば、お前が責められることはあるまい」
シトラスが小さくため息をついた。
「では、少しだけお話しします。
私は聖神様から、この世界を救うように命じられているのです」
アンリはぽかんと口を開け、シトラスの目を見つめた。
「世界を救う? どういうことだ?」
「このまま国をシュミット宰相の好きにさせていると、十年後に聖神様の封印が破られ、魔神が復活して世界が滅ぶのです。
私は聖神様から、洗礼の折にそう告げられました。
それを阻止するのが、聖女である私の義務であり使命なのです」
アンリは呆然とシトラスを見つめていた。
壮大過ぎて信じがたい話だが、シトラスは母親たちの命を救った聖女――そこに間違いはない。
その聖女が聖神から言い渡されたというのであれば、それは事実なのだろう。
「……それは分かった。だが、なぜそのように悲しい目をしているんだ?
それほどつらく苦しい使命なのか?」
シトラスが弱弱しく微笑んだ。
「私は宰相や陛下の治世で、苦しんでいる人々を救わねばなりません。
苦しんでいる人たちの心に温かな幸福を与えることが、聖神様の封印を強化することにつながるからです。
今この瞬間にも、苦しんでいる人々が大勢います。
彼らを少しでも早く、大勢救わなければ、私の使命を果たせないのです。
そんな私が今、こんな場所で刺繍を刺している――いいわけがありません。
ですが今は、何をしていいのかもわからない。
私の力は小さなもの。そんな大それた使命をどうやって果たすのか、途方に暮れておりました」
「お前の力は決して小さくなどない! 現に母上たちの命を救ってくれたではないか!」
シトラスの微笑みが、少しだけ優しいものに変わった。
「ええ、エルメーテ公爵家を救えたのは何よりでした。
あのままではお母様たちだけでなく、いつかお父様やお兄様も宰相の手によって殺されていたでしょう。
今回はそれを防げそうなので、それだけは安心しています」
アンリが眉をひそめた。
「今、『今回は』と言ったのか? どういう意味だ?」
シトラスが慌てて口元を手で隠した。
「……今のは、聞かなかったことにしてください。
まだ『それ』を話すのは、早いと思います。
少なくとも、お父様の許可が必要な内容だと、私は思うのです」
「なぜだ? そこまで言ってしまったのなら、全て教えてはくれないか」
シトラスが目を伏せ、悲しげに答える。
「余計なことを知れば、お兄様の身が危険にさらされます。
敵は、宰相は貴族社会を牛耳る男。子供のお兄様が勝てる相手ではありません。
宰相に隙を見せることなく追い詰め、国政の場から追放するのが第一の目的なのです」
確かにアンリが下手な動きをして宰相派閥にでも捕まれば、エルメーテ公爵の足を引っ張る。
それはシトラスにとっても大きな痛手となるだろう。
アンリは小さく息をついて尋ねる。
「では、なぜあれほど王族を拒絶したのか、その理由を教えてはもらえないか。
田舎の農村で暮らしていた七歳の少女が、王族と関わる機会などなかっただろう。
遠目に見ることすら不可能だ。どこで陛下や殿下たちと面識を得た?」
シトラスは困ったように微笑んだ。
「それも、いつかお話しできることだと思います。
ですが今は、どうかお許しください。お兄様」
アンリは思わず、シトラスの両手を握りしめていた。
驚くシトラスの両目を射抜くように見つめ、必死に思いのたけを言葉に込める。
「私はシトラスを守りたい。母上たちの命を救ってくれたからじゃない。
私が『私の意志』で、シトラスという女性を守りたいと強く思ったんだ。
お前を守るためにも、何があったかを知っておきたい。教えては……くれないか」
アンリの、精いっぱいの言葉だった。
自分の人生の中で、これほど誰かを大切に思うことなどあるのかと、自分で驚くほどだった。
十歳と七歳――子供同士ではあれど、一人の男性として、一人の女性であるシトラスを守りたいと、全身全霊で願ったのだ。
アンリの目を見つめ返していたシトラスが、ふっと大人びた笑みをこぼした。
「ふふ、五年後には『冷血貴公子』と呼ばれることになるアンリ公爵令息が、そのように暑い言葉を口にするだなんて、とても不思議な気分です。
わかりました、できる限りお話しいたします。
――お母様、そちらにいらっしゃいますね? お母様もこちらへおかけください。長い話になりますので」
ドアの陰からティベリオが姿を見せ、戸惑いながらシトラスに近寄って行った。
そうしてシトラスは自分の身に起きたことを、十年前のあの日からぽつり、ぽつりと話していった。




