第5話(前編) 影の使いと血の契約
王宮の朝は静かだった。
だがその静けさの底に、昨日とは違う緊張が流れている。
朝の光を受けて、紗夜は薬棚に並ぶ瓶を整理していた。
夜明け前、書庫を襲った“影”の気配――あれは幻ではない。
(きっと、あの呪いの正体に関係してる)
指先に触れた薬草の感触が、どこか冷たい。
そのとき、扉が静かに開いた。
「さよ」
低い声。振り返ると、レオンが立っていた。
外套を羽織り、剣を腰に差している。
「王都の外で、不審な動きがあった。影を見たという報告だ」
「まさか、もう……」
「狙いはお前だろう」
「どうして私が?」
「“異界の薬師”はこの国にとって希望だ。だが同時に、呪いを終わらせる存在でもある。
――呪いを撒いた者にとっては、邪魔な存在だ」
レオンの言葉に、紗夜は小さく息を呑む。
「でも、私には戦う力なんてない」
「俺が守る」
短く、強い言葉。
「それに――お前にも、力があるはずだ」
「え?」
レオンは懐から、昨夜見つけた黒い本を取り出した。
宝石の欠片が埋め込まれた表紙が、月光のように微かに光る。
「この本には“影を封じる契約”が記されていた。
血と誓いを交わすことで、互いの命を繋ぎ、力を呼び覚ますとある」
「……血の契約?」
「お前が嫌ならやめる。ただ、これしか方法がない」
レオンの声は静かだった。
けれど、その瞳には迷いがなかった。
紗夜は少しの間考え、それから頷いた。
「わかった。やる」
「いいのか?」
「うん。私も、この世界に来た理由を確かめたいから」
レオンは短く頷くと、短剣の刃先で自らの指先を切った。
一滴の血が、光を帯びて宙に浮かぶ。
「次はお前の番だ」
紗夜も恐る恐る指を切る。
痛みよりも、不思議な温かさを感じた。
血が混じり合った瞬間、宝石が淡く輝いた。
そして二人の手の間に、金色の紋様が浮かび上がる。
「……なに、これ」
「契約の証だ。これでお前は俺の“守護対象”になる」
「それって、なんか……物騒な響き」
「逆だ。お前が傷つけば、俺も痛みを感じる。
つまり、どちらも死ねない」
「え、ちょっと、それって不便じゃ――」
軽口を叩こうとした瞬間、部屋の外で激しい音がした。
空気が揺れ、薬棚が震える。
「来たか」
レオンが剣を抜く音が響く。
ドアの向こうには、黒い霧のようなものが広がっていた。
その中から、形を持たぬ“影”がうねりを上げる。
それはまるで、夜そのものが意思を持ったようだった。
「レオン!」
「下がってろ!」
影が襲いかかる。
レオンの剣が光を放ち、霧のような闇を切り裂いた。
しかし、切り離されたはずの影がすぐに再び形を取り戻す。
「効かない……!」
「さよ、今だ――あの印に力を!」
言われるがままに、紗夜は両手を胸の前で組む。
その瞬間、手の甲に刻まれた紋様が淡く輝き出した。
温かい何かが体の奥から溢れ出す。
それは魔力でも、炎でもなく――“癒やし”の力。
光が広がり、影を包み込む。
叫び声とも風ともつかぬ音が響き、影が一瞬で霧散した。
「……消えた?」
息を呑む紗夜の肩に、レオンがそっと手を置いた。
「やはり、お前には癒やしの力が宿っている。
影の力を相殺できるのは、お前だけだ」
紗夜は震える手を見つめた。
淡い光がまだ残っている。
(これが……私の力?)
恐怖よりも、不思議な静けさが胸を満たしていった。




