第14話 影の聖域へ
朝露が葉の縁を光らせる。王都を離れ、北へ向かう幹線路を逸れたところに、古びた森が口を開けていた。そこは人の往来が少なく、木漏れ日もどこか翳っている。紗夜は薬箱を肩に、ルシアンは短剣をぶら下げ、カイは黒いマントを羽織って、三人は静かに歩を進めた。
「この森の奥に“聖域”があるって、老神官は言ってたね」紗夜が囁く。
「暁の契約に関する古文書が残ってるはずだ。カイの過去に繋がる何かがあるといいが」ルシアンは慎重だ。だが確かな緊張が、その声に混じっている。彼は王子として、仲間としての責任を重く感じていた。
カイは足元の落ち葉を踏みしめながら、遠くを見つめる。彼の瞳は時折黒から金へと揺れた。目の奥にあるのは、幼い記憶と断片的な既視感――それは夢か、過去か、あるいは誰かの遺伝か。
「ここで……待て」カイが指を立てる。三人の前方に、石で組まれた小さな祠が見えた。蔦が絡まり、苔が深く根づいている。祠の扉には奇妙な紋様が刻まれ、触れる者の手に少しだけ冷たさを伝えた。
「聖域の入口ね」紗夜が息を吐く。彼女は薬師の直感で空気を確かめる。ここには“記憶”が留まりやすい。植物の匂いが、古い祭事の香りを伴っている。
ルシアンが扉に手をかけると、低い唸りが森の中から返ってきた。その音は生き物の息遣いにも、人の呟きにも似ている。
「聞こえるか? 古い声が」カイが呟く。彼の顔にかすかな花模様のような赤味が浮かぶ。一歩一歩、三人は祠の中へと入った。
内部はほの暗く、中央に石の祭壇がある。祭壇の周囲には、かつての祈りを示すであろう小さな器具――陶器の破片、燭台の残骸、そして古い札が散らばっていた。だが最も目を引くのは、祭壇に置かれた一つの小さな鏡だった。鏡は黒曜石のように深く、光を吸い込むように鈍く輝いている。
「……これが聖域の核心か」紗夜が呟く。鏡に近づくと、空気がひんやりと肌を撫で、誰かの遠い記憶が指先をくすぐる。紗夜は無意識に手を伸ばし、鏡に触れた。
瞬間、視界が流れた。白い光と黒い影が交錯する。川のせせらぎ、誰かの笑い、鋭い刃の音、そして幼い男の叫び――短い断片が脳裏をよぎった。紗夜は息を詰めて手を引いた。彼女の胸に、誰かの温かい手の感触が残る。
「見えたか?」カイの声が耳元で響く。彼は鏡を見つめ、唇を噛むようにしていた。瞳が揺れるたび、鏡面に黒い渦が揺らめいた。
「これは……記憶の穢れを留める“鏡”のようだ」紗夜が言う。「古い魂の想いがここに閉じられている。触れると、少しだけ分けてもらえる」彼女は息を整える。薬師として、人の記憶や心の痕跡を読む才能があった。だがこの鏡は別格だ。個人の小さな記憶ではなく、集合的な“影”の断片を宿している。
カイは静かに膝をついた。右の手の甲の紋様が、祭壇の光に反応して淡く揺れる。「俺の中に、何があるのか確かめたい」その声には決意があったが、どこか恐れも混ざっている。ルシアンはそっと彼に近づくと、肩に手を置いた。
「無理はするな。俺たちがいる」ルシアンの言葉は不器用だが温かい。
カイはゆっくりと鏡に額を寄せる。冷たい表面が皮膚を撫でると、再び断片が流れ込む。だが今回は紗夜も、ルシアンも同じようにその記憶を共有した。三人の心がひとつに綴られるような感覚が起こる。
――灰色の城壁。黒い羽根を持つ男がひざまずく。幼い女性が祈りを捧げる。血の匂いが風に混じり、古い歌が断片的に流れる。
映像ははっきりしてくる。そこは千年前か、それとも別の記憶の層か。カイの中に眠るものは、確かに影の王と関わるものだ。しかし、映像に現れる彼は、憎悪に満ちた怪物というよりも、守る者、哀しげな表情のある一個の人間だった。
「彼は……守ろうとしていた」紗夜がぽつりと言う。彼女の声に湿り気が混じる。見せられた断片は、憎しみだけでは説明できない複雑さを孕んでいる。愛、責任、犠牲――それらが絡み合った記憶だ。
突然、鏡の縁から淡い光が迸り、小さな文字列が祭壇の縁に現れた。古い言語だが、紗夜には直感で意味が入ってくる。
『影は忘却ではなく、記憶の負荷なり。
取り去るは救いではない。守るべし、癒すべし。』
「リシェルの、言葉かな……?」ルシアンは息を呑む。
だが鏡は一枚の映像では終わらなかった。次の瞬間、カイの中で何かが叫んだ。黒い風が祭壇を吹き抜け、祠全体の空気が震動する。カイの目から金色の光が一閃し、彼の中の紋章が深い黒へと濃くなる。
「くっ……!」カイが膝をつき、顔を押さえる。痛みとも懐古ともつかぬ声を漏らす。
「大丈夫か」ルシアンが駆け寄る。紗夜も薬箱を開け、温めた布を差し出す。だがカイはそれを拒むように振り払い、苦笑する。
「痛みはすぐに収まる。だが、見えたんだ。本当に、俺は――」彼は言葉を探す。「――かつて誰かを守ってた。影は忌むべきものってだけじゃない。守るためのものだった」
カイの視線が遠くを捉える。祭壇の鏡が最後に一つの像を映した――白い布をまとった少女が、静かに微笑んでいる。彼女の手には小さな花束。表情は慈愛に満ち、だがその瞳には深い悲しみも宿っている。
「リシェル……」紗夜が小声で呟く。そこにあったのは、彼女が前に聞いた“聖女”の姿に限りなく近いものだった。そして、同時に胸の奥でかすかに温かい振動がした。紗夜は気づく――この聖域の鏡は、ただの記録装置ではない。聖女と影、その両方の声を未来へと繋ぐ“媒体”なのだ。
「ここにきてよかった」ルシアンが言う。彼の声音は静かだ。だがその目は確かに決意に満ちていた。「カイ、お前が何者でも、俺たちはお前を仲間だと思ってる。過去がどうであれ、未来は自分たちで選べる」
カイはふと笑った。その笑顔は少しだけ、影の王の面影を残すような厳しさを帯びているが、同時に新鮮だった。
「ありがとう。俺も、選ぶ。暁の盟約のやり方で、この世界を守るって」
その時、祠の外から鈴のような音が聞こえた。風が森を抜け、何かが近づいてくる。影の聖域に、誰か他の足音が響く。
ルシアンは剣に手をかけ、紗夜は薬箱を閉じ、カイは黒い紋章を拳で包み込む。三人の影が、祠の床に長く伸びる。月はまだ高い。
「来るのか、仲間か、それとも――敵か」紗夜が低く言った。
答えは、次の音が教えてくれる。森の中、夜明け前の冷気が震えるようにして深まっていった。
 




