第12話 灯の継承 — 影と光のあいだで
暁の空が薄紅に染まる頃、王都ルクスは静かに動き出した。
戦いの痕跡は街のあちこちに残るが、人々の表情は明るさを取り戻しつつある。祭りの準備をする者、瓦礫を片付ける者、薬を求めて診療所へ向かう者。生活は戻り、だがどこか慎重で、互いの影を尊重する空気が漂っていた。
診療所の窓から、紗夜は朝の風景を眺めていた。隣ではルシアンが訓練に向けて剣の手入れをしている。カイはまだ外出しておらず、街の外で“暁の契約”の意味を確かめているはずだった。
「今日も忙しくなりそうね」
紗夜がそう言うと、ルシアンが振り返ってにっと笑った。
「母さんのところはいつも賑やかだ。俺、診療所の手伝いもできるようになりたいんだ」
「無理しないでよ、まずは王の務めを忘れずにね」
ルシアンは胸を張るが、その眼差しの奥にはまだ少年らしい好奇心が光る。彼は“王子”としての責務に誇りを持っているが、それを押し付けるだけではない柔らかさも持っている。紗夜はそんな彼を見て、心のどこかが軽くなるのを感じていた。
――一方、その日、城の執務室では重い会議が開かれていた。
白巫女教団の改革案、被害を受けた家庭への補償、そして何よりも“影と光の共生”をどう法制化するか。具体的で現実的な措置をまとめる必要がある。
「エルミナは協力的だが、教団内部の過激派がどれだけ従うかは未知数だ」
「教団は民心を掴んでいる。急激な締め付けは逆効果だろう」
レオンは静かに答えた。
「だからこそ、教育と仕事を通じて示していく。影を持つ者も安心して暮らせる社会を、具体的に作る。それが今、我々にできる最善だ」
その言葉に、議場の空気が少しだけ和らいだ。実行計画の策定が始まる。ルシアンの顔がふと思い浮かび、レオンは窓の外に目を移す。若い世代がこの国の未来を形作るのだと、静かな決意が胸を満たす。
数日後、王都の公会堂で大きな式典が催された。
“影と光の祭”——以前とは意味の異なる、修復と共生を誓う行事だ。エルミナは修道女たちと共に壇上に立ち、頭を下げて民に謝罪と協力を求めた。彼女の表情は柔らかく、かつ真剣だった。あの日の仮面が外され、素顔をさらすことは多くの非難を浴びたが、同時に再出発の象徴でもあった。
紗夜は人混みの中で、子どもたちに薬の注意をして回る。ルシアンは父の隣で民の声に耳を傾け、カイは遠くからその様子を見守っている。カイの目には、まだ暗い光と淡い金色が混ざり合っている。彼は自分が何であるか、何を守るべきかを問い続けていた。
式典の終盤、エルミナはふと紗夜の方へ向き直った。
「紗夜さん、よろしければ教団の癒やし学講座の講師としてご協力いただけないでしょうか。光だけでなく影の理解も、民に広めたいのです」
その申し出に、紗夜は一瞬戸惑った。だが、内側から湧く直感が答えをくれた。
「ええ、喜んで。私も学びながら伝えたい」
二人は固く握手を交わす。そこに、かつての対立の影はない。ただ、未来へ向けた互いの約束があるのみだった。
夜。診療所に戻ると、カイが戸口に立っていた。風が彼の黒髪を揺らす。
「帰ってきたのか」
ルシアンが驚きと安堵を混ぜた表情で駆け寄る。カイは軽く頷き、窓辺の椅子に腰を下ろした。
「外で色々見てきた。人々の生活、森の様子、影の残り方。どうも、影は単純な“悪”じゃない。形あるものを守る役割もある――それがわかった」
「で、それでどうするんだ?」ルシアン。
「まずは、街で起きた“影の欠損”の復旧作業をする。消えた影の代わりに、記憶や文化を守る施設を作る必要がある。紋章持ちの者として、俺も手を貸す」
ルシアンの顔が明るくなる。二人の間に言葉なく確かな信頼が育っているのを、紗夜は嬉しく思った。
「母さん、今日から俺も手伝うからな。王子だけど、診療所の雑用もやる」
「わかった。まずは包帯と煮出しの鍋を覚えてもらうよ?」
穏やかな笑いが室内に広がる。だがその時、遠くで小さな子どもの泣き声が聞こえた。窓の外を見ると、通りの角で一人の少女が立っていた。顔に薄い痣、目には不安が宿っている。
紗夜は慌てて外へ出る。近づくと、少女はしゃがみこんで小さな箱を抱えていた。
「どうしたの?」紗夜が優しく声をかけると、少女は震える声で言った。
「おばあちゃんの影が消えたの。朝、起きたら……おばあちゃんがそこにいるのに、影がなくて、転んだらふわっと消えそうで……怖いの」
紗夜は膝を折って少女の目を見た。胸が締め付けられる。
「大丈夫。私たちが直すよ。おばあちゃんの名前は?」
「マリー。森の薬草のことなら、誰より詳しいの」
ルシアンも手伝い、三人で急いでマリーさんの家に向かう。家に着くと、確かに家の中は普通だが、所々に違和感がある。床の古い織物の陰影が薄く、棚に置かれた陶器の影がまばらだ。マリーさんは台所に座り、目を閉じていた。
「マリーさん、私は紗夜です。あなたを診せてください」
紗夜は手を伸ばし、マリーさんの手を取る。冷たくはないが、どこか実体が曖昧に感じられる。紗夜の胸に、かすかな記憶の断片が流れ込んだ。織物を織っていた手の感触、孫の笑い声、平凡で温かい日常の蓄積。影はそこに根ざす“記憶”なのだ。
「これはね、影の“薄まり”だわ」紗夜は小声で言う。彼女は急いで煎じ薬を用意し、温められた布でマリーさんの手を包む。手から伝わる体温を安定させ、彼女の心の中の何かを呼び戻すイメージで、紗夜は祈るように言葉を紡いだ。カイは静かに黒い風を送って、影の粒子を集める。ルシアンは自分の思い出を大声で語り、家の空気に“過去”を満たしていく。
ゆっくりと、マリーさんの目が開いた。小さな笑顔が戻る。
「ありがとう……若いの。私の影が戻った気がする」
少女の目に光が戻り、家の影も少しずつ鮮やかさを取り戻していく。小さな成功は大きな希望になった。通りを歩く人々がそれを見て声を上げ、助け合いの輪が広がる。
その夜、三人は診療所の屋根に上り、夜空を見上げていた。月が静かに浮かび、風が心地よく頬を撫でる。ルシアンは剣を肩にかけ、カイは腕を組んで遠くを見ている。
「今日はよく働いたな」ルシアンが笑う。
「最初の一歩だ」とカイ。
「まだ試練は続くが、二人でなら乗り越えられる」紗夜はそう言って二人を見渡す。
カイは小さくため息をつき、遠くに消えたものを思うように言った。
「兄上のことは、忘れてはいない。だけど、俺の道は違う。影も光も抱いていく。その先で、何が起きるかは分からない。だけど、誰かの側にいることは分かる」
ルシアンは真剣な眼差しでカイを見た。
「それなら、ともに歩もう。王子としてではなく、一人の仲間として」
二人は拳を合わせた。夜風の中、固い約束が生まれる。
――まだ道は長い。だが、灯がともった。影を恐れるのではなく理解し、光を盲信するのではなく分かち合う。そうしてこの国は少しずつ変わっていく。
紗夜は小さく笑い、二人の合図を見届ける。月光が三人をやさしく包んだ。
 




