第11話 暁の双星 ― 光と影の誓い ―
白い光が世界の影を引き裂く。
その光は純粋で美しく、しかし冷たかった。あらゆる陰が――人の影ですら――薄れていく。町の人々の足元がまるで宙に浮いたように見え、子どもたちの笑い声が遠のく。
ルシアンは叫んだ。手を伸ばしても、影は指先からするりとこぼれ落ちる。自分の影までが薄れてゆく感覚は、胸に刃を差し入れられたように痛い。
「やめろ! 誰の影も、消すな!」
上空に浮かぶ白巫女の象徴が、静かに輝きを増す。だがその光を前にして、カイは一瞬も怯まなかった。黒い紋章が彼の右腕を走り、瞳には金と黒の混じった色が揺れる。
「ルシアン、離れるな!」
「離れるかよ!」
ルシアンは紋章の痺れを押しこらえつつ、剣を構える。彼の剣は父の形見だ。いま、王の息子として守るべきものがそこにある。だが守る「影」について説明しろと言われても、少年の言葉はまだ足りない。カイの存在は曖昧な予感の塊でしかない。しかし、今は行動だ。
白巫女エルミナの声が虚空に響く。
「皆のためです。影がある限り、悲しみは絶えません。消し去るのは慈悲です!」
だがその言葉の端に、統制と秩序を超えた冷徹さがある。聖女リシェルの言葉――光と影は共存するべきだという教えと、明らかに違っていた。
カイは低く唸るように言った。
「お前らは“消す”ことで救うつもりか。違う、消すことは奪うことだ。奪われたものは二度と戻らない」
彼の周囲に黒い風が巻き上がる。風はただの風ではない。影の残響を掻き集め、ルシアンの周りを守る盾となった。
ルシアンはその風に触れて自分の影を確かめる。確かに、彼の足元に黒い輪郭が戻っている。暖かさが、わずかでも戻ったような気がした。
「ありがとう、カイ」
「まだ仲間じゃない。だが、今はとにかく止める」
二人は背を向け合い、空に浮かぶ白巫女の象徴へと向き直る。だが、その時、胸骨のあたりに鈍い痛みが走る。ルシアンは空気の重さを感じ、視界の端でカイが一瞬硬直したのを見逃さない。
「奴らは“浄化”という名で、魂の選別を始めたんだ」カイが言う。「選別された“影”は、世界から分離される。戻らない。祭儀……禁忌に似ている」
ルシアンの胸に、幼い頃に聞いた断片が浮かぶ。祖父の古い話、王家をめぐる呪い、そしてリシェルが残した祈り。すべてが点でつながり、線となって彼の中で走り出す。
白巫女エルミナは空中で静かに掌を返し、光の矢を落とした。だがその矢は形だけの光ではなかった。落ちた先の影を“刈り取り”、その場から色を奪ってゆく。人々が叫ぶ。床に落ちた影が消え、落ちていたはずの荷物の影までなくなると、目には見えない違和感が生み出される。世界の立体感が失われるようだ。
「このままでは、景色までもが平坦になる!」ルシアンは叫んだ。剣を振り、白い光の矢を叩き落とす。剣から放たれた光は、カイの黒風とぶつかり合い、両者の波動が渦になって爆ぜた。
その爆発の中、カイはルシアンの耳元で小さく告げる。
「今すぐ、みんなの記憶に触れろ。影は記憶――それを呼び戻せるなら、白巫女の浄化も意味を成さない」
「どうやって……?」
「お前は王家の血を引く。光の継承者だ。だが、継承者には“記す力”が眠る。剣だけでなく、心で守れ」
ルシアンは戸惑いながらも、目を閉じる。父レオンから教わった、そしてこの国で紡がれてきた数々の話――祖母の笑顔、古い祭りの歌、町の子どもが転んで泣いた日の光景。彼はそれらを全部、思い出として胸に抱きしめた。思い出す行為そのものが祈りになることを、彼はまだ知らなかったが、感情は自然に彼を後押しした。
その瞬間、ルシアンの周囲に柔らかな光が広がる。そして、その光は地面に落ちていた“消されたはずの影”を、そっと撫でるように戻してゆく。人々の足元に、新たに影が生まれていく。戻された影は暖かく、そして確かな“個人の記憶”を宿していた。
白巫女の光は退いた。だがエルミナは笑みを崩さない。むしろ表情を深め、冷たい美しさを増す。
「なるほど、王家の祈りは“記憶”を呼び戻すか――面白い。しかし、まだ足りない」
エルミナは指先で象徴を振るう。光の鋭い刃が、街中を切り裂くように飛ぶ。人々は悲鳴を上げ、屋根瓦が崩れる。カイが風でそれをかわし、ルシアンは一人ひとりの記憶を強く意識してゆく。彼の中で、王家の昔話が鮮やかに舞う。剣を持つ少年の心に、父の教え、母の笑顔、薬草の匂いが渦巻く。
その時、空の裂け目から一つの声が降りてきた。声は優しく、しかしどこか悲痛だ。
「――お前達よ、忘れてはならぬ。完全という名の均衡は、片方を消すことでしか得られないことはない」
声の主は聖女リシェルの残響のようにも聞こえる。だが違う。より透明で、小さな子が歌うような音色が混じる。その時、カイの瞳が一点に凝る。空に、薄く揺れる白い布のようなもの――仮面を被った女性の姿が見えた。
「――白き巫女ではないか!」カイが叫ぶ。視界の隅で、彼はあの祠の光を思い出す。白巫女の仮面は、リシェルの“断片”から正しく生まれたものかもしれない。だが、断片が独自の意思を持つとき、それは歪む。
ルシアンとカイの間に、言葉が交わされる。互いの違いを超えて、生まれたばかりの信頼が芽吹く。
「お前が“影”なら、俺は光だ。だが、どちらが正しいかは、戦って決めるものじゃない」ルシアンが言う。「俺たちで、答えを見つける」
カイは短く頷いた。彼の黒い風が凝縮し、ルシアンの周囲に防壁を作る。その風は決して破壊的ではない。守るための風だ。
エルミナは仰ぎ見て、ゆっくりと下りてきた。その姿は死者のように完璧で、誰よりも美しかった。彼女の白衣は光の波紋のように揺れ、目元には深い慈悲の仮面をまとっていた。
「あなたたち、良くも来たわね」彼女は微笑む。「この国のために、あなたたちは何をするつもり?」
ルシアンは剣を構え、カイは黒い紋章の力を固める。二人は呼吸を合わせ、一歩ずつ前へ進む。彼らの足は、かつてないほど確かに土地を踏んでいるように感じた。地に立つという感覚の重みを、二人共に噛みしめる。
「ただ守るだけだ。消すことはしない」ルシアンの声が震えないのは、母の柔らかさと父の強さが胸で混ざっているからだ。
エルミナは一瞬、驚いたように眉を上げたが、すぐに表情を閉じる。
「ならば、あなたたちの覚悟を見せてください」彼女が呟くと、周囲の光が渦を巻く。白い光と黒い影が、世界をまるで別の色に染めようとぶつかり合う。
戦いが始まった。だがそれは単純な剣戟の応酬ではない。ルシアンは“記憶を呼び戻す力”を用い、街の人々の個々の記憶や小さな幸福を光へ乗せる。一方、カイは影の記憶を集め、静かな旋律のごとく闇を奏でる。光は一瞬の純白で相手を固めようとするが、そこに含まれるのは“忘却”の冷たさだ。影は温度をもって戻り、光はそれを抱きしめてから浄化する。技術ではなく、信念のぶつかり合いが世界を揺らした。
やがて、エルミナの表情に小さな亀裂が入る。彼女の白い仮面の裏側に、かすかな影が差す。
「……なぜ、私の祈りは届かないの?」エルミナは呟く。「私はただ、人々を救おうとしただけ……」
その声は人間の苦しみを帯びる。だが彼女が見過ごしていたのは、救済の形の多様さだ。救済は奪うことではない。共に背負い、分かち合うことだ。
カイはその言葉に反応し、声を抑えるようにして言った。
「教団は変われるかもしれない。だがまず、あなたが自分の恐れを見つめ直せ。それが出来れば、争いは終わる」
エルミナがふと怯んだ瞬間、ルシアンは勢いを取り戻し、剣を振るう。その一撃は、光と影の狭間に差し込むように柔らかく、しかし確かに届いた。剣先は白い仮面に触れたが、破壊するのではなく、仮面に蓄積された“痛み”を映し出した。仮面の中で、埃に埋もれた記憶がこぼれる。
エルミナは震え、そして膝を折る。白い光が乱れ、浄化の儀式は止まる。街の空気が一斉に息を吐くように和らいだ。
静寂。やがて、人々の拍手のようなささやきが湧く。だが大きな勝利ではない。これは始まりの終わり。課題はまだ山積みだ。
ルシアンとカイは、互いに目を合わせる。戦いを経て芽生えた尊敬が、短い会話の代わりになる。
「これが始まりなのか?」カイが問う。
「ああ。だが今日は一歩進んだ。次は教団そのものの改革だ」
カイは腕を下ろし、黒い紋章をゆっくりと沈める。彼はまだ自分がどんな存在かを模索している。だが、今は確かなものがある。友と呼べる存在、守るべきもの。
白巫女エルミナは床に座し、仮面を外した。そこにあったのは、思ったより若い顔だった。目は疲れて、しかし誠実だった。
「私が間違っていたのかもしれない」彼女は囁く。「でも、どう導けばいいのか分からなかった……恐れから、硬くなってしまったのです」
紗夜の言葉が、遠くで聞こえてきたように思えた。白と黒、光と影の対話は、苛烈でありながら、やがて互いを照らすものになっていく。
こうして、暁の双星はひとつの誓いを交わした。光と影、二つの力は争うためではなく、この世界をより良くするために使われるべきだと。
夜が明け、空は淡い暁色に染まった。ルシアンは父から引き継いだ使命を思い、剣を鞘に納める。カイは自らの影と向き合い、それを恥じることなく受け入れた。二人の間には、まだ試練が残る。だが今、胸の奥に芽生えたものがある。
「これからも、よろしくな」ルシアンが言う。
「ああ、頼むぜ、王子」カイが返す。
世界は完全ではない。だが、それでも続いていく。誰もが自分の影を抱きしめ、光を見つめる。暁は終わらない、けれどそれは恐れるべきことではない。新しい誓いの下で、人々はまた歩き出す。




