それでも前に進んでいる
朝、窓から射す光がまぶしくて、目を細める。
坂本紬は、カーテンを閉めようか迷って、そのままにした。
目覚めたこと。顔を洗ったこと。洗濯機を回したこと。
全部、些細なこと。でも、それが彼女にとっての「今日の一歩」だった。
春先に心が動かなくなり、休職を決めてから、数ヶ月が経っていた。
「どうして自分だけが動けないのだろう」
「もう元には戻れないかもしれない」
そんな考えが、時折、彼女の心に濃い影を落とした。
それでも、日々は過ぎていく。
近くの公園に咲く紫陽花は、最初は青く、今は淡いピンクに変わっていた。
気づけば、夏の蝉の声が、朝の静けさを破るようになっていた。
「前に進んでるのかな、私」
声に出してみる。返事はない。けれど、風がカーテンをふわりと揺らした。
その音が、まるで「進んでるよ」と言っているようで、少しだけ涙が出た。
*
図書館で借りた本を読んでみる日もある。
一冊も読めずに返す日もある。
誰とも会いたくない日もある。
でも、誰かと話してみたいと思う日も、最近は少しだけ増えてきた。
ある日、郵便ポストに、一枚の手紙が届いた。
前の職場の同僚からだった。
「何もできないけど、紬さんが今日をちゃんと生きてるなら、それでいいと思う。
この前話してた、紫陽花の場所、まだ咲いてるかな。今度、行ってみようね。」
彼女は、その手紙を何度も読み返した。
そして、手紙の最後の行に、小さな字で書かれていた言葉に、そっと触れる。
「止まってるように見えても、大丈夫。種の中では、ちゃんと芽が育ってるんだから。」
彼女は、もう一度だけ、紫陽花の咲く道を歩いてみることにした。
歩幅は小さいけれど、たしかにそこに「進む音」があった。
そして、それを自分の足で、ちゃんと確かめるように歩きながら、紬は少しだけ微笑んだ。




