5 胃腸風邪
それからもジュリアス様は空いた時間にルカス殿下の稽古の見学にくる。
時折何か言いたげな様子をしていることもあったが、ジュリアス様は堪えるように何も言わずに剣を振るルカス殿下を眺めていた。
今日はルカス殿下の稽古の後、ジュリアス様に頼まれて剣の手合わせをした。
噂に違わずジュリアス様の剣の腕は素晴らしいものだった。
腕力では男の人には敵わないが、無駄のない剣さばきと素早さで、それなりに剣技に自信のあった私だが、明らかに手加減されているのに彼には全く太刀打ちできず、私の自尊心はバキボキにへし折れた。
でもジュリアス様と剣を打ち合うのは楽しかった。
もっと鍛錬がんばろ……!
「いやー、いい汗かいたな!」
「はい。ジュリアス様との手合わせ、大変良い経験になりました」
「それはよかった。またやろう」
私が「はい」と返事をするとジュリアス様はニコリと笑ってタオルを手に訓練場の隣にあるシャワー室へ向かった。
「では、僕はこれで……」
「え、アルトはシャワー浴びていかないのか?」
騎士しか利用しないシャワー室は個室ではなく衝立で区切られているだけのものだ。
だから、私はどんなに汗をかいても濡れタオルで顔や首元を拭う程度でシャワー室を利用したことはない。
「僕はいいです……」
「なんで? いっぱい汗かいただろう? 午後も仕事があるんだから汗流しておいた方がいいよ」
ジュリアス様が強引に私の手を引いていく。
シャワー室は夕方は騎士たちでいっぱいになるがこの時間帯に利用する者はほとんどいない。だからといってジュリアス様の隣でシャワーを浴びるわけにはいかない。
私は「いいです」と抵抗するが、ジュリアス様は「私が王子だから遠慮してる?」「身分なんて気にしなくて良いよ」と別方向の気遣いを見せてくれる。
「侍従のいる自室でシャワーを浴びた方がいいのでは?」と提案したが「シャワーくらい侍従などいなくても問題ないよ」と流されてしまった。
そして強引にシャワー室に連れて行かれ、脱衣所でジュリアス様はパパッと服を脱いでいく。
上半身に身につけていたもの全てを脱ぐとジュリアス様の鍛え上げられた胸板が現れドキリとする。
服を着ているとシュッとして見えるけど、かなり良い身体付きで、なるほど強いはずだ、と納得する。
私がドキドキしながらジュリアス様の胸板に釘付けになっていると、ジュリアス様はトラウザーズと下穿きを一気に脱ぐ。
「っ……!」
キャーッと叫ばなかったことを褒めて欲しい。
私は慌てて目を逸らす。
「なんだ、脱がないのか? 男同士なんだから恥ずかしがるなよ」
「あっ、いや……その……、僕は普段からシャワー室は使ってなくて……」
ジュリアス様は「そうだったの」「まあ今日はここで汗流してから戻りなよ」と言いながら全裸でタオルを手に取った。
私は「いえ、僕は……」とジュリアス様に背を向けながら話していたのだが、ジュリアス様はわざわざ私の前に回って「どうしたの? 気分悪い?」と全裸のまま私の顔を覗き込む。
「〜〜……っ!」
父や兄の裸だって見たことがない。
「ちょ、アルト……! なんて顔してるの!?」
私の赤面がうつるようにジュリアス様が顔を赤くする。
「き、禁止だ……!」
「へっ……?」
「男同士なのに……そんな顔をされると変な気分になるだろう……! アルトはシャワー室の利用は禁止だ!!」
「ご、ごめんなさい、ぼ、僕、外で待っていますから!!」
変な気分にさせている自覚のあった私は両手で顔を押さえて飛び出した。
だって、私は異性の身体だと思ってジュリアス様の身体を見てしまったのだから。
私は逃げ出すようにシャワー室から出ていった。
大失敗。
結局、私は外の水道で顔だけ洗って首の汗を拭いて終わりにした。
そして、しばらくしてシャワー室から出てきたジュリアス様に「アルトは男臭さがなくて色々危うい」と言われてしまった。
「いくら男同士といえどもアルトは細くて小柄で綺麗な顔をしてるから、裸であんな顔をされたら変な気を起こす者だって出てくるかもしれない」
「常日頃から危機感を持って」とか「騎士団内に男色家もいるかもしれないから注意して」や「剣がなくても抵抗できるようにもっと身体を鍛えて」と何故かこんこんと説教をされて再度「心配だからアルトはシャワー室、利用禁止」と言い渡された。
私はもともと利用しないから良いのだけど、アルトは困るかもしれない。心の中でアルトにごめんねと謝罪した。
◇
そしてアルトとの入れ替わり生活が三ヶ月ほど経過した頃、王宮内で風邪が流行した。
「ルカス殿下が風邪で寝込んでいらっしゃるので本日の剣技の稽古は休みでお願いします」
いつもの王宮内の訓練場に行くとルカス殿下の侍従が伝えてくれた。
ルカス殿下大丈夫かな? ひどくないと良いけど……
ルカス殿下の心配をしつつ、今日ルカス殿下に会えないことを残念に思う。
今日の仕事ひとつなくなっちゃったな。騎士団の訓練場へ行って誰か捕まえて鍛錬でもしようかな。
そんなことを考えながら王宮の隣に建っている騎士団の建屋へ向かおうとすると、ジュリアス様がやってくる。
「ルカスは大丈夫だよ。あの子も竜の血を引いている。子どもだから熱だって出るけど、きっとすぐに治るよ」
ジュリアス様は私の心配事を察してそう言ってくれた。
「ねえ、アルト。ルカスの指導が休みなら、一緒にお茶にしないかい?」
王太子殿下の誘いを断るわけにはいかないので、私は「よろこんで」と応え、ジュリアス様と温室でお茶をすることになった。
ジュリアス様の側近のルーティス侯爵令息がわざわざお茶を淹れようとしたので、私は慌てて交代した。
「アルトはお茶を淹れるのが上手なんだね。シグルド以外でこんなに美味しいお茶を淹れる男は初めてかも」
しまった……!
私は淑女教育の一環でお茶の淹れ方はかなり厳しく学ばされたが、幼い頃から剣のことばかりだったアルトはお茶の淹れ方すら知らなかったかもしれない。
この場合大人しくルーティス侯爵令息の用意したお茶を「すみません」と言いながらいただく方が正解だったかも、と反省した。
――アルトごめん……入れ替わりが終わったらお茶の淹れ方、特訓しようね……
そう思ってハッとした。
入れ替わりが終わったら、か……。
アルトと入れ替わって三ヶ月が過ぎている。
この生活もあとひと月だけ……。
アルトとは手紙のやりとりをしている。
私はアルトの婚約者で私の大親友でもある子爵家の令嬢ソフィーナにアルトが怪我をしているからお見舞いに行ってあげて、と連絡をしておいた。
骨折をして利き腕が不自由なアルトはソフィーナから献身的な看病を受けているらしく、手紙には怪我をしても良いことがあった、と喜びが綴られていた。
私の方も入れ替わり生活は今までにない刺激がたくさんで楽しかった。
この生活があとひと月で終わってしまうのかと思うと寂しくて、何となく込み上げるものがある……。
込み上げる? うん、なんか込み上げてる……。
「そういえば、ルカスは胃腸風邪だったみたいだけど、アルトはうつったりしていない?」
胃腸風邪。
その単語を聞いて納得した。
ああ、すごい込み上げてるわ……!
「してるかも……です……! うっぷ……ち、近くにご不浄って……」
吐き気が込み上げていて危険な状態だ。
早くトイレに駆け込みたい。
「えっ!? こ、こちらに!」
ルーティス侯爵令息がすぐに案内してくれて、私は近くのトイレに駆け込んだ。
なんとか間に合いオロロと吐く。
吐きながら生理的な涙がポロポロとこぼれ落ちていく。
少し吐いたがまだ気持ち悪くてトイレから出られないでいた。
すると大きくて温かな感触が私の背中を優しく撫でる。
「ジュリアス様……!」
「大丈夫?」
慌てていてトイレの鍵を閉めていなかったので、ジュリアス様は心配をして様子を見にきてくれたようだ。
背中をさする大きな手が心地良い。
だけど、甘えてはいけない。
「ジュリアス様、だめです。うつるといけないので……!」
胃腸風邪は吐瀉物からもうつるので、ここにいては彼にうつしてしまう。
それにみっともない姿を見せたくない。私は彼の手を拒絶する。だけど彼は……
「私は竜の血のおかげでどんな病気もしないから大丈夫だよ」
そう言って彼は私の背中をさすり続ける。
「ですが……! ううっ……」
私は再び彼のことを拒絶しようとしたが、すぐに第二波がやってくる。
「ん゛っ…………ぉぇ゛………」
我慢などできず、私はまた涙を溢してオロロと戻す。
「我慢なんてしないで全部吐いて。病気なんだから、体裁なんて気にしないで」
ジュリアス様は私の背中を優しくさする。大きなその手が私の冷えた身体を温めてくれて、お腹の中のものを全て吐ききることができた。
私が吐き終えて少し落ち着きを取り戻すと、彼はすぐに濡れたハンカチを差し出してくれる。
「使って」
もちろん私は申し訳なさすぎて彼の申し出を断ったが「もう濡らしちゃってポケットに仕舞えないから」と言われ、私は恐縮しながらハンカチを受け取り口を拭った。
「落ち着いた?」
「はい……お見苦しいところを……すみませんでした」
「行こうか」
「えっ?」
彼は私をふわりと横に抱き上げる。
「寮まで送るよ」
「じ、自分で帰れるので結構です……!」
「そんな真っ青な顔で言われても説得力がないよ」
彼はそう言ってゆったりと歩き出す。
すらりとした手足なのに安定感がすごい。抱き上げられて足を進められているのに振動がほとんどなくて気持ち悪さを感じない。
それどころか、心臓がドクンッと跳ねて身体に熱いものが駆け巡る。
そう言えば小さな頃にもこんなことあったな、と昔のことを思い出す。
そうだ、あのときも私はジュリアス様に迷惑をかけていた。
「迷惑だなんて思っていないから気にしなくて良いよ」
彼は私の心を読めるのかな。すごい優しい顔で微笑まれた。
ああ、やばい、泣きそう。
「ありがとう、ございます……」
私は彼の腕の中で小さくなって、彼の胸で顔を隠すようにして応えた。
アルトは普段王宮からすぐの騎士団寮で生活している。
貴族だから個室を与えられていて、一部屋にシャワーもトイレも完備で、食事は食堂で、洗濯は決まった曜日に洗濯係に出すだけと、私がアルトに成り代わって過ごしても不便のない生活だった。
「今シグルドにはアルトが数日騎士団を休むこと連絡するように指示をしたから」
「え……、いえ、騎士団は休めません……」
騎士の仕事は健康管理にうるさい。自己管理の甘さで風邪を引いたなどアルトの評価に関わってくる。私のせいでアルトの評価が悪くなるのはダメだ。
「ううん。さっき吐いて楽になったかも知れないけど、これからきっと熱が出る。ルカスもそうだったから」
「で、でも……」
「騎士団内でも風邪が流行っているだろう? 副団長も今風邪で寝込んでるらしいから、今回の風邪でアルトが騎士団内で肩身の狭い思いをすることはないよ。それにルカスの胃腸風邪をうつされてるわけだから、職務上での病気扱いにしてもらえるようシグルドがうまく言ってくれてるはずだよ。だからゆっくり休んで」
よかった。それを聞いてホッとした。
「アルトの部屋はここ?」
「あ、はい。ありがとうございました」
私は鍵をポケットから取り出してジュリアス様の腕の中から降りようとしたが、彼はさっと私の鍵を取り上げカチャリと私の部屋を開け、私を抱いたまま中へと入る。
「寝台まで」
「え、いや、大丈夫です……!」
「遠慮はいらないよ」
遠慮したわけではないのにそう言われ、彼は私を抱き抱えたまま部屋の奥へと進んでいく。
ちょっと、待って……
部屋が散らかってるとかそういうのはないけど、部屋には見られるとまずいものがある。
「ま、待ってください……!」
「いいから」
違う! まずい! やめて……!
私は彼の腕から無理矢理降りてすぐそこの寝台まで調子の悪さを堪えて猛ダッシュ。そしてすぐその上に吊るしてあるものを引っ張り外し腕の中に隠した。
「えっ……?」
ジュリアス様が固まっている。
「み、見ました……?」
「あ、ああ……」
私の腕の中から黒のレースの下着がはらりと落ちる。どう見ても女物。
しかも自分の持っている下着の中で一番布の面積の少ないちょっといやらしいタイプの下着。
――最悪だ。一番バレちゃいけない人にバレちゃったよぉーー……!