第二章:「偽善」と「必要悪」(三)
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ジェスナー警部補はビルの階段を昇っていた。
最上階までたどり着き、屋上のドアを開ける。
屋上には一人の男がいた。男は望遠鏡でどこか遠くを見ている。
ジェスナー警部補はその男に話しかけた。「おい。コドライン」
名前を呼ばれて男が振り返った。彼がビレント傭兵社のオグデン・コドラインである。白波海賊団を実質的に支配している男。市警と海賊をつなぐ橋渡し役だ。
サトルに対する暗殺作戦を立てたのはコドラインである。
コドラインはジェスナー警部補の顔を見て言った。「今回はあんたが手伝ってくれるのか」
ジェスナー警部補は頷いた。「そうだ。今回の作戦を支援する担当者になった。よろしく頼む」
「おう。よろしくなぁ」コドラインは軽い調子で言い、再び望遠鏡をのぞき込んで作戦の経過を見守った。
「いいか。あまり長引かせずにさっさと始末してくれよ。いつまでもこの区画を閉鎖できるわけじゃないからな」警部補がコドラインの背中に向かって言った。
現在、リーストル市警が辺り一帯に交通規制をかけており、人と車の出入りが制限されている。民間人への影響をできる限り小さくするための配慮だ。
「急いで片づけるんなら、機関銃でありったけの反魔弾をぶっ放すのが一番いいんだがなぁ」コドラインはぼやいた。
「それは勘弁してくれ」ジェスナー警部補が言う。「証拠の揉み消しも情報の口裏合わせも結構大変なんだ。そちらが派手に暴れるほどこちらの仕事が増える」
「分かってる。分かってる。言ってみただけだって」
◆
サトルは走っていた。とにかく人通りの多いところを目指している。
左腿からの出血は止まらない。
しばしば海賊たちが先回りをしたり、待ち伏せをしていたりして、その度にサトルは危うく追いつかれそうになる。
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屋上から通りを見ていたコドラインが「来やがったな」と呟いた。
「どうした?」ジェスナー警部補が訊く。
「獲物が俺の間合いに入って来た」コドラインはそう言って望遠鏡を懐にしまい、足元の鞄からボルトアクション式ライフル銃を取り出した。この銃にはニヒリウム反魔弾が装填されている。
眼下の通りを、サトルが左腿から血を流しながら必死に走っていた。
コドラインがしゃがんでボルトアクション銃を構える。標的はサトルだ。
「あんた……狙撃できるのか」ジェスナー警部補は驚いた。この世界における現行の銃器で精密な狙撃ができる人材は限られている。
「これでも戦時中は狙撃手だったんだよ」コドラインはサトルに照準を合わせながら言った。「捨て駒をぶつけて気をそらしといて、本命が死角からとどめを刺す。上手いもんだろ?」
警部補は舌を巻いた。
コドラインは勝利を確信した。
しかし、彼が引き金を引こうとした瞬間、黒い何かがバサバサと音を立ててコドラインの視界に飛び込んで来た。
カラスだ。一羽の大きなカラスがボルトアクション式ライフルの銃身に留まっている。
よく見ると、そのカラスの左足には金属の足輪がついていた。これは使い魔用の交信器だ。飼い主の魔道士が遠くの使い魔に指示を出す時、その指示を受信するための物である。
このカラスはマチルダの使い魔のヴェロニカだ。
「クソッ!」
コドラインは足輪を見て目の前のカラスが使い魔だと気づいた。
そして、咄嗟にボルトアクション銃を振り回す。しかし、ヴェロニカは銃身をガッチリとつかんで離さない。銃身が嫌な音を立てた。
ヴェロニカはチャームド・レイヴンという品種のカラスだ。使い魔として使役することを想定し、魔術的な手法で品種改良されたカラスである。
チャームド・レイヴンは他のカラスよりも足の力が圧倒的に強い。ヴェロニカはその力で銃身を曲げてしまった。
コドラインはナイフを取り出し、ヴェロニカに向けて突き出した。しかし、ヴェロニカは軽やかにナイフを避けて、繰り返し鳴きながら飛び立った。
ヴェロニカはコドラインとジェスナー警部補のはるか頭上で旋回しながら鳴いている。
コドラインは下の通りを見た。もうサトルの姿は無かった。
「クソッたれぇ!」
コドラインは曲がって使い物にならなくなった銃を怒りに任せて足元に投げ打った。そして、頭を掻きむしった後、慌ただしく銃を鞄に詰め込み、立ち去ろうとした。
「おい。どこ行くんだ?」ジェスナー警部補が呼び止める。
「ずらかるんだよ! 相手側に俺らの居場所がばれちまった! もう一人の魔道士がここに来る!」コドラインは大声で返した。
リーストル市警と白波海賊団はサトルだけでなく、マチルダの目撃情報もつかんでいた。二人が別行動を取っている間にサトルを狩って、その次にマチルダも仕留める算段だった。しかし、その目論みは破綻しようとしている。
ジェスナー警部補は顔色を変えた。
彼らの頭上ではヴェロニカが鳴き続けている。
コドラインがドアを開けて屋内に入ろうとした。ジェスナー警部補もそれに続こうと駆けだす。
その時、彼らの背後で風が吹きすさぶような音がした。
彼らは振り向いた。そこには、どこかの貴族私兵隊の制服に身を包んだ女性が立っていた。ギラついた目でコドラインと警部補を射貫くように見ている。加速魔法でビルの屋上伝いに移動して来たマチルダだ。
「潔く投降するがいい! さもなくば、実力を行使する!」マチルダは二人に向かって勧告した。
コドラインは懐の拳銃を抜いた。この銃にもニヒリウム反魔弾が込められている。しかし、彼が狙いを定めて引き金を引くよりも早く、マチルダが「詠唱、風の如く」と唱えた。
マチルダは加速魔法で彼我の距離を一気に詰める。その時、コドラインは発砲したが、反魔弾は外れてしまった。
たとえ反魔弾があろうとも、命中しなければ意味が無い。凄まじい速さで動き回るマチルダは、反魔兵器を頼りにする者にとって天敵であった。
マチルダはコドラインに回し蹴りを食らわせた。コドラインの身体が吹っ飛ぶ。彼は先ほど自分が開けたドアから屋内に転がり込み、階段を転げ落ちた。
マチルダはジェスナー警部補と向かい合った。不思議と警部補は戦う素振りを見せなかったため、マチルダは彼を攻撃すべきか否か迷っていた。
「俺はリーストル市警のジェスナー警部補だ」と警部補は名乗り、マチルダに身分証を見せた。
「警部補。あなたが警察官でありながら、無法に与するのはなぜです?」マチルダは問い質す。
「この街を守るためだ」
「守るため……」
「この街はこの国の工業派にとって希望そのものだ。この国で最も工業化に成功した街。工業主義の模範都市。だからこそ、魔道派にとってこのリーストル市は目の上のたんこぶだ。実際、魔道派や帝国のスパイが何度もこの街を潰そうとしてきた。その度にこの街を守ってきたのが俺たちだ。市警、傭兵、海賊が三位一体になって魔道主義者の魔の手を阻んできた」
「白波海賊団の犯罪を容認していたのは、彼らを禁輸品の運び屋として、都合のよい戦力として利用するためですか?」
「警察官が禁輸品の反魔弾を持ち込んだり、使ったりするのはちょっとまずいしな。そういう汚れ役はとっくに汚れてる連中に任せておけばいい。海賊も、それを操ってるビレント社も、この街にとって必要悪なんだ」
「白波海賊団はこの街で悪事を働いて市民を脅かしています。それでもなお街のためになると?」
「そうとも。リーストル市全体の存続に比べれば、一部の市民の被害なんて取るに足らないな」
ジェスナー警部補は冷ややかに言い放った。
そして「海賊退治なんて偽善もいいとこだ」と凄む。
「……偽善ですか」マチルダは面食らった。
「あんたらの活躍でこの街から海賊がいなくなったとしよう。そしたらどうなる? 魔道派やら帝国やらが街にやって来て何もかも滅茶苦茶にするだろうさ。リーストル市全体がとんでもない被害を受ける。海賊団を壊滅させれば、この街も壊滅する。あんたらがやろうとしてることは偽善なんだよ」
マチルダは絶句した。その場で立ち尽くした。
よかれと思って実行したことがより大きな被害をもたらすのなら、それは本当に正しいと言えるのか。マチルダは葛藤していた。
「自分がやろうとしていることの重大さに気づいたか? 分かったらこの件からは手を引け」ジェスナー警部補はそう吐き捨てて屋上から去ろうとした。
「お待ちください!」とマチルダが呼び止める。
警部補は振り返らずに言った。「どうする気だ? 俺を止めるか? それが何になる?」
マチルダが後を追うかどうか逡巡している内に、警部補は行ってしまった。
◆
その後、マチルダとサトルは無事に合流することができた。
「すまない。サトルの言った通りだった。私兵隊の制服でなければ、こうしてサトルが狙われ、追い詰められることは無かっただろう」
合流した直後、マチルダはサトルに詫びた。
謝る主君に対し、サトルは「被弾したのは私の力不足ゆえです」と言い、「騎士たる者が己の素性を隠すわけにはいかないのでしょう? 堂々としましょうよ」とつけ加えた。
二人は追手を撒くことに成功した。そして、情報を共有しながらミトナス客船社のホテルに戻った。
グノカ社長の「あなたの正義に投資する」という約束もマチルダに伝わったが、マチルダは浮かない様子だった。
ホテルに着くと、従業員が銃創を負ったサトルを介抱してくれた。
「ありがとうございます」
サトルが従業員に感謝の言葉を伝えると、従業員は声を落としてこう言った。
「いえ。実はですね。グノカ商事の方から連絡がありまして。マチルダ卿のご一行をお支えするように頼まれたのです」
「そうなのですか」
「グノカ商事も、ミトナス客船社も、中央運輸ギルドに加入しておりまして」
曰く、中央運輸ギルドの加入企業はいずれも魔道派や工業派に与していないため、派閥の都合に縛られないマチルダの活躍に期待しているらしい。
従業員の話を横で聞いていたマチルダは複雑そうな顔をしていた。
サトルは訝しんだ。合流して以来、マチルダの様子がおかしかった。
従業員が席を外した際、「どうかなさいましたか?」とサトルが尋ねると、マチルダはジェスナー警部補に指摘されたことを語った。
そして、「海賊たちは必要悪で私は偽善なのだと言われてしまったよ」と暗い声で言った。
その話を聞いたサトルは一つ提案をした。
「それなら、マチルダ卿が合法的な手段でこの街をあらゆる勢力から守ればよろしいかと。さすれば、非合法の悪は不要となります。必要悪を陳腐化させましょう」
これは大胆な提案であった。この街をあらゆる勢力から守る。つまり、市警、傭兵、海賊を相手取った後、返す刀で東方の帝国や国内の魔道派をも迎え撃つ。この世界のほとんどを敵に回すのだ。
サトルはマチルダの旅に同行する以上、いずれそのような戦いに直面するのは必然だろうと思っていた。彼はすでにそう割り切り、腹をくくっている。
「そうか……」マチルダはサトルの胸中を知ってか知らずか笑みをこぼした。「そうだね。言われてみれば当然のことだ。それでこそ世直しじゃないか」
マチルダは迷いの無い晴れやかな顔で宣言した。
「まず、白波海賊団を倒す。そして、私たちが彼らの必要な役割を引き継ぐ。ただし、私たちは合法的な戦い方で魔道派や帝国のスパイを阻む」