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第一章:理想を追う者たち(一)



   ◆



「彼の曲亭の傑作なりける『八犬伝』の中の八士の如きは、仁義八行の化物にて、決して人間とはいひ難かり」

(坪内逍遥『小説神髄』より)


「世界はひとり實なるのみならず、また想のみちみちたるあり」

(森鷗外「早稻田文學の沒理想」より)



   ◆



 イヌマ・サトルが大学から自宅のアパートまで帰ってきた時、近所の街並みは夕日で赤く染まっていた。


 彼は自分が借りている一〇一号室の扉の前で立ち尽くしていた。


 彼の足元には奇妙な物が落ちている。黒い紐で綴じてある原稿用紙の束だ。一枚目の一行目からいきなり本文が書かれており、題名や作者名は無い。よく見ると欄外にローマ数字の「Ⅲ」が走り書きしてあった。


 サトルには身に覚えの無い物だ。誰かの落とし物か? それとも誰かがわざと置いたのか? 謎であった。


 サトルはしゃがみ込んでその束を手に取り、本文に目を通した。


「世界は東西に分かたれていた。東の帝国は終末をもたらす魔法を知っていた。西の共和国は終末をもたらす武器を持っていた。東と西に挟まれた王国は大いなる対立に巻き込まれて、歪んでしまった。誰かがこの歪みを正さねばならなかった」


 サトルが最初の段落を読み終えると急に辺りが暗くなり始めた。


 もう日が沈んでしまうのか、とサトルは思った。


 彼は顔を上げて、周囲を見渡した。瞬く間に夕日がかげり、ついに何も見えなくなる。街灯の光すら見えない。


 彼は完全な闇に包まれてしまった。


 これは何かがおかしい。普段なら夜でも街明かりが見えるはずだ。


 サトルが困惑していると、彼の左手の甲に鋭い痛みが走った。驚いて見てみると、左手の甲が暗闇の中で赤く光っている。


 しばらくすると不意にまばゆい光が降り注いで辺りが明るくなった。サトルは光に目がくらみ、その後、視界を取り戻して愕然とした。


 爽やかな朝の日差しが広大な小麦畑を照らしている。サトルの周りには大昔のヨーロッパを思わせる田園風景が広がっていた。遠目に見えるいくつかの家屋は西欧のそれに似ていた。


 サトルは日本の市街地にいたはずだった。それなのに、いつの間にか外国の農村らしき場所に放り出されていた。


 さらに不可解なことに、サトルの服装はがらりと変わっていた。先ほどまで着ていた服ではなく、麻のローブを身にまとっていた。


 彼の持ち物はすべて無くなっている。バッグも、財布も、腕時計も、スマートフォンも無い。原稿用紙の束も消えてしまった。


 そして、左手の甲には謎の赤い紋章が刻まれている。


「は……? えっ……?」


 サトルは混乱していた。本当に見ず知らずの場所へ来てしまったらしい。


 彼はのろのろと立ち上がり、ふらふらと道を歩いた。


 しばらくして、サトルは現地の住民らしき男たちと出会った。彼らは麦わら帽子を被って農具を持っており、一頭の農耕馬を連れていた。おそらく農夫だと思われた。


 農夫たちはサトルの知らない言語で話しかけてきた。まったくコミュニケーションが取れなかった。


 サトルが途方に暮れていると、一人の若い農夫がサトルの手の甲にある赤い紋章を見て驚きの声を上げた。


 紋章に何か心当たりがあるようだった。


 若い農夫は急にサトルの腕を引っ張って歩き始めた。あれよあれよという間にサトルは連れていかれてしまった。



   ◆



 そうしてサトルがたどり着いたのは、教会のような建物の中だった。長椅子が並び、奥には大きな祭壇がある。


 サトルの隣には麦わら帽子を被った若い男が立っている。サトルをここまで連れてきた農夫だ。


 彼は麦わら帽子を脱ぎ、サトルを置いて建物の奥へと消えていった。


 残されたサトルがしばし室内を観察していると、農夫が白い装束の女を連れて戻って来た。


 白装束の女はサトルのすぐそばまで近づいて、いきなりサトルの首にペンダントのような物をかけた。


 サトルは驚いたが、彼女は構わず話しかけてきた。


「私の言葉が分かりますか?」


 サトルは突然、現地の言葉が理解できるようになった。なぜ理解できるようになったのかは分からない。


 彼は混乱しつつも、「はい」と返事をした。


 白装束の女は自己紹介をした。「私はシェリル・ノウエントと申します。この神殿を受け持つ神官です」


 「神殿」や「神官」といった普段はあまり耳にしない単語が出てきたため、サトルの頭の中で疑問が渦巻いた。しかし、何はともあれ、まずは挨拶をすることにした。


「はじめまして。イヌマ・サトルです。何だかよく分からない内に、ここへ迷い込んでしまって」


 サトルは若い農夫を見た。すると、農夫はぶっきらぼうに名乗った。


「俺ぁ、グレッグ。近所のブドウ農家だ」


「よろしく」サトルは笑顔で言った。


「ああ」グレッグは仏頂面で頷いた。不愛想な男だ。


 サトルはノウエント神官に気になったことを一つ訊いてみた。


「このペンダントは翻訳機なんですか?」


 最新テクノロジーの産物か、と思ったのだ。音声を拾って翻訳する機械だろうか、と。


 すると、突拍子も無い答えが返ってきた。


「自動翻訳の魔道具です」


「魔道具?」


「魔法の道具ですよ。あなたの体内にある魔力を糧として作動しています」


 サトルは自分の置かれた状況が恐ろしくなった。考えられる可能性は三つだ。


 可能性その一。ここは「魔法」という概念を信じるカルト団体のアジトである。


 可能性その二。何者かが大がかりなトリックでサトルを騙そうとしている。


 可能性その三。サトルはファンタジー小説のような異世界に転移してしまった。


「どうやら、戸惑ってらっしゃるようですね」ノウエント神官は優しく微笑んだ。「ご説明しましょう。そちらにお掛けください」


 サトルは彼女に促されて手近な長椅子に座った。彼女も彼の隣に腰を下ろす。


 ノウエント神官は笑顔を絶やさずに語りだした。「あなたは次元を司る神々に選ばれた来訪者です。その手に刻まれた紋章こそが、来訪者の証です」


 サトルは自分の左手の甲を見た。顔には出さないが、頭の中は依然として混乱と疑念でぐちゃぐちゃだった。


 ノウエント神官は説明を続けた。


「あなたは神々の意志によって、元いた世界と異なる世界に導かれました。つまり、今、私たちがいるこちら側の世界に」


 可能性その三だ。彼女の言葉を信じるなら。


 ノウエント神官の語り口はだんだんと熱を帯びてきた。


「次元の神々はこの世界の人々にとって有益な人材を探し出し、最も適した時代と地域に導くと言われています」


「ノウエントさんは次元の神々を崇拝してらっしゃるんですか?」サトルは尋ねた。


「はい。私たちは次元教団。次元の神々による恩寵をこの世界で代行する者です。こちら側の世界に現れた来訪者たちを手助けする役割もあります」力強く答えるノウエント神官からは宗教的な熱意が感じられた。


「そうなんですか……」サトルは思わず頭を抱えた。奇妙な原稿用紙を拾って以来、目まぐるしく状況が動くものだから、すっかり参っていた。


 一方、ノウエント神官は嬉しそうに喋り続けた。「その翻訳器はイヌマさんにお譲りします。どうかこちらでの生活に役立ててください」


「これは魔法の道具だとおっしゃいましたよね」サトルは言った。


「ええ」ノウエント神官は頷く。


「この自動翻訳以外に、何か魔法を見せていただくことはできますか?」サトルはいかにも興味津々といった表情を装った。内心では、そもそも魔法という現象自体をまだ疑っている。本当に魔法があるのなら他にも実演してもらいたい、というのが本音だ。


「うーん……どんな魔法がいいでしょうかね」ノウエント神官は考え込みながら言った。「私は回復魔法を得意としています。傷を癒す魔法です」


「それは興味深いですね」サトルは感嘆したような顔をして頼んだ。「是非とも見せてください」


 彼は自分自身の右手の小指を強く噛んだ。皮膚を噛み千切って小さな傷を作る。


「この傷を魔法で治していただけませんか?」


 傷口から少しばかり血が出ていた。


 ノウエント神官はサトルの傷口に手をかざして「詠唱、癒したまえ」と呟いた。彼女の手は淡い光を発した。


 すると、サトルの怪我は瞬く間に癒えてしまった。


 魔法だ。正真正銘の回復魔法である。


 こうなるとノウエント神官の説明を信じるしかない。


「……ありがとうございます」サトルは半ば呆然としながら言った。「とても貴重な体験でした。元の世界には魔法が無かったので……」


「イヌマさんはこれからこの世界でもっとたくさんの魔法を体験することになりますよ」ノウエント神官は朗らかに笑った。


「これからこの世界でどうしたらいいんでしょうか?」サトルはやや俯いて呟いた。


「まずはこの国で暮らすための準備が必要ですね」ノウエント神官が言った。「信頼できる魔道士を見つけて弟子入りすることをお勧めします」


「ここはどんな国なんですか?」サトルはノウエント神官に目を向けて尋ねた。


「中央立憲王国。東と西の大陸に挟まれた島国です。次元教を国教としています」


 サトルはここへ来る前に読んだ不思議な文章のことを思い出した。


「ひょっとして東の大陸には帝国があるんですか?」


「あります」


「西には共和国が?」


「ええ。どうしてご存じなんです?」


「この世界へ来る前に変な文章を読んだんですよ。それに書かれていました」


「ああ。それはきっと神託ですね。次元の神々が来訪者を導く際に一つの指針として授けるものです。その神託には何と書かれていましたか?」


「こちら側の世界は東西に二分されている。東の国も西の国も終末をもたらす力を持つ。王国は東西の対立に影響され、歪められている。誰かがその歪みを正すべきである。……そんな書きぶりでした。読んでいる途中でこちらに転移しました」


「そうだったんですね。もしかするとイヌマさんは立憲王国の歪みを正す人材として神々に選ばれたのかもしれません」


「この神託はそういう意味なんですか?」サトルは不安になった。厄介なことを背負わされてはたまらない。


「いえ。確定したわけではありません。別人を指している可能性もあります。神託というものは解釈次第ですので」


「解釈次第……」サトルは気が遠くなりつつも、神託の肝心な部分について確かめようとした。「ところで、もしかしてこの世界はいつ滅んでもおかしくない情勢なのでしょうか?」


「終末の日が訪れる可能性は十分にあります」ノウエント神官は重苦しい声で答えた。「今から五年前、人類連盟と魔族同盟の総力戦が人類側の勝利で幕を閉じた後、世界は東方統一帝国と西方連邦共和国に二分されました。どちらの国も世界を荒廃させうる手段を持っており、辛うじて均衡が成り立っています。万が一、東西の全面戦争が起これば、この世界は滅ぶでしょう」


「なるほど」


 二大国がある種の冷戦状態にあるのか、とサトルは理解した。


 帝国と共和国が世界を滅ぼしうる力を互いに突きつけ合うことでパワー・バランスが保たれているらしい。


 強大な抑止力による危うい平和。


――ファンタジーの異世界に来たと思ったら、そこは滅亡の一歩手前だった。


 サトルは自分の前途を案じた。


「元の世界に帰ることはできますか?」と彼はノウエント神官に訊いてみた。この世界が滅びる前に逃げることができれば御の字だ。


「それは神々のみぞ知ることです。少なくとも人間が自力で世界間を移動することはできません」


「自分の意志で帰れる見込みは無いのでしょうか?」


「そうですね。あくまでも神々の意志によって決まることです」


「そうですか……」


 サトルが黙り込むと、ノウエント神官は「少々お待ちください」と言って立ち上がった。


 彼女は手首に巻いたブレスレッドを口元に近づけた。ブレスレッドにはボタンやダイヤルのような部品がついている。彼女はボタンを押した後、ダイヤルをカチカチ、カチカチと何度か回した。


 すると、彼女のブレスレッドから溌剌とした若い男の声が聞こえてきた。「もしもし。マルストン二等神官です」


「シェリル・ノウエント三等神官です」


「おや。ノウエントさん。どうされました?」


「実は、私のところに異世界の来訪者が現れまして」


「ほう。今年に入ってから初の来訪者ですな」


 サトルは自分のそばに立っていた農夫のグレッグに小声で尋ねた。「あれって、もしかして遠くの人と通話してるのか?」


「ああ。魔道具を使った交信魔法だ」とグレッグは答えた。この世界では常識らしい。


 ノウエント神官がどこかの誰かと話し込んでいると、不意に神殿の扉が開け放たれた。皆が驚いて扉の方を見ると、身なりのよい中年の男がズカズカと中に入って来た。彼の背後には軽装の兵士たちが控えている。


 グレッグはその場で跪いた。サトルも慌ててそれに倣い、グレッグの隣で跪いた。


 どうやら、突然やって来た男は高貴な身分の人物らしい。


「来訪者の紋章を持つ人間が現れたそうだな」男は尊大な調子で言った。彼はサトルに気づくと、口の端を上げて笑った。「貴殿が異なる世界からの来訪者かね?」


「そのようです」とサトルは跪いたまま答えた。


「そうか。では、立ちたまえ」


 サトルは指示通りに立ち上がった。すると、男はすぐに次の質問をした。


「名は何という?」


「イヌマ・サトルと申します」


「はじめまして。イヌマ君。私はギルバート・マギア・ブライムだ。ブライム伯爵家の当主であり、辺り一帯を領主として治めている」


「お目にかかれて光栄です。伯爵閣下」サトルが恭しく言うとブライム伯爵は鷹揚に頷いた。


 伯爵はノウエント神官にチラリと視線を移して言った。「ノウエント神官。イヌマ君を私の館に招いて、もてなしたい。構わないな?」


「……イヌマさん自身が望むなら、私が口を挟むことなどできませんが」と彼女は歯切れ悪く応じた。


「イヌマ君。来てくれるかね?」伯爵はサトルに確認した。ただし、その声にはどこか有無を言わせぬ威圧感があった。


「はい」サトルは大人しく伯爵に従った。貴族の機嫌を損ねるのは得策ではなさそうだと判断していた。


 伯爵は護衛の軽装歩兵とサトルを引き連れて神殿から出た。外には豪華な馬車が留まっている。六人ほど乗れそうな大きさの馬車だ。周りにはクロスボウとサーベルで武装した騎馬隊がいて、辺りを警戒していた。軽装歩兵や騎馬隊はおそらく伯爵に仕える私兵の類だろう、とサトルは思った。


「よい馬車だろう?」伯爵は自慢げに言った。「王都随一の名工に作らせた逸品だ」


「これほど立派な馬車を初めて見ました」とサトルは言った。嘘ではない。そもそも実物の馬車を直に見ること自体が初めてだ。


 伯爵と軽装歩兵が馬車に乗り、サトルもその後に続いた。馬車は騎馬隊に守られながら伯爵邸に向かった。

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