2 王国の憂鬱
隣国エイトリアの第3王子とアスカ姫の婚約をトルカ王がまとめたのは、アスカがまだ王宮の物置で顔を真っ黒にしてラドゥエルを困らせていた頃のことだった。
王国の置かれた状況は、急速にリスクが高まってきている。原因はこの王国にはない。西の大国が、後継ぎをめぐる内紛で力を弱めてしまったことに起因する。
相対的に北の帝国の力が強まり、そのあたり一帯のパワーバランスが崩れてしまったのだ。
この機に北の帝国は、このあたり一帯の小国を併呑しようと、巨大な軍団の編成を始めたのである。
トルカ王の治める王国も、その中にある。
この4月に入ってからというもの、放っていた間者からそうした情報が重なるようにしてもたらされてきた。
トルカ王が一人娘と隣国の第3王子ユート殿下との婚約をまとめたのは、同盟のためであった。北の大国は、1国で対処できるような相手ではないのだ。
勝てないまでも、同盟が多国間に及び、侵攻が簡単ではないと分かれば、北の皇帝も進軍を思い止まるのではないか——。
だが、それは多分に希望的観測でしかなかった。果たして——。
やはりというか、北の皇帝が恐れていたのは西の大国だけであった。それが力を弱めた今、領土を拡げるのはこの機をおいて無い。その他の小国などは蹴散らせばいい——と皇帝は考えた。
「ご注進! ご注進!」
王宮の謁見の間に駆け込んできた伝令は、それだけを言っただけで蹲ってしまい、背中で息をするだけで声を出せないようだった。
「無礼であろう! 王の御前であるぞ!」
誰かが叫んだが、トルカ王はそれを制した。
「よい。誰か、水を持て。落ち着いて話せ。数瞬を急いでも事態は変わらぬ。」
伝令は水を飲まされると懸命に息を整えていたが、やがて大きく息を吸うと泣き出さんばかりの声をはり上げた。
「きっ・・・北の帝国が! 侵攻を始めました! その数2万!」
2万、という数に、重臣たちは一様に驚きの声をあげた。
ただトルカ王1人が、険しい表情をしたが驚いてはいない様子だった。
この事態は、王にとっては予測の範囲内であった。ただ問題は、これにどう対処するか——だ。
王国の兵は、総動員しても2千人程度しかいない。2千で2万を迎え撃つなど、到底できることではない。
「まずは、国境付近から住民をこの王都へ避難させよ。その際、持てる限りの食料を持ってくるよう厳命せよ。」
籠城するにせよ、食料は必要になる。籠城して勝てるとも思えないが、食料をそのままにして逃げてきたのでは侵攻軍に力を与えるだけになるであろう。
「急げ! 体力のある者を10人選んで、直ちに国境へ走らせよ! 軍は・・・、軍はそのまま残り、荷駄隊だけを庶民の食料を王都へ運ぶ手伝いのために後進させよ! その後のことは・・・・」
その後のことは・・・。どうする?
敵は2万の大軍だ。間に小国サマシアがあるとはいえ、その兵力はせいぜい5百そこそこだ。
どうする? トルカ・・・・。
「むしろ軍を進めて、サマシアで戦いましょう。その間にエイトリアに同盟に基づく援軍を要請するのです。エイトリアならば4千人は兵を出すことができるはずです。」
実質的に軍のトップである上将軍サマダが、王の前に進み出て進言を行った。
「そ・・・それでも3国合わせて6千5百ではないか。それで上将軍は2万の大軍に勝てる算段がお有りなのか!?」
内務大臣のカシャギが指を上げて、甲高い声でサマダ上将軍を詰問した。
「だまらっしゃい! 戦を知らぬ者が、こういう危機に愚にもつかぬ横槍を入れられるな! それともカシャギ殿には王国を救うもっと良い案があるとでも申されるか!」
「そ・・・それは!・・・しかし、我々文官にも、いや、王に対しても、寡兵でどのように2万の大群を防ぐのか聞かせていただいてもよろしかろう!」
「そのようなことは、こんな場所で言うことではない! どこに敵の間者が紛れておるか——。」
それまで黙って眉根を寄せていたトルカ王が、片手を上げて2人を制した。
「まあ、待て。内輪で争っている場合ではない。」
2人はすぐに姿勢を正して王の方に向き直り、頭を垂れた。
その2人を前に、トルカ王は王としての命令を下した。
「上将軍、そなたはわが兵団を連れて直ちに国境まで向かえ。ただし、まだ国境は越えてはならない。私からの伝令を待つように。」
「は!」
サマダ上将軍は右拳を心臓の前に当て、王命を拝した。
「私はエイトリア王に手紙を書く。しかし、その前に——。」
と外交大臣の方を見た。
「北の皇帝に使者を立てよ。口上はこうだ。
偉大なる皇帝陛下。我がトルキシアは陛下と争うような逆心はいささかも持ってはおりません。穏便に領国を通過いただけるのであれば、陛下のために近隣国も同様にするよう説得いたしましょう。今後の朝貢も増やしたいと存じます——。
良いか。できるだけ誠実で朴訥な者を使者に選べ。まずは、北の皇帝の腹づもりを探りたい。」