「○○するなんて二流の仕事」が口癖の三流メイドが転がり込んできたので
「行く当てが、ありません。拾ってください」
俺がその奇妙な少女に気づいたのは、朝から雨がひっきりなしに降る、梅雨真っ盛りの日曜日だった。
冷蔵庫の中身が空という緊急事態でなければ、俺も外には出なかったはずだ。
空腹に耐えきれず、とうとうコンビニに向かおうとしたお昼過ぎ。
アジサイが所狭しと咲き誇る河川敷の高架下を通ろうとしたところに、少女がぽつんと立っていた。
仕立てのいい服を、雨にぬらして。
そのすぐそばには小さなキャリーケースがあり、よく見ると泣きはらした跡がある。
だから、とっさに声をかけた。
「大丈夫? これからコンビニに向かうんだけど、ビニール傘を買ってこようか?」
「なぜですか?」
「ずっとここにいるわけにもいかないでしょ? 親御さんだって心配するだろうし」
「親はいません。養父からは勘当を言い渡されました」
――絶句した。
時の流れが止まったんじゃないかと錯覚した。
アスファルトを打つ雨音だけが、時間が凍り付いていないことを証明している。
濡髪の少女が、こちらを覗き込んでいた。
うるんだ瞳が、何かを強く訴求している。
「いや、でも……」
彼女の養父も衝動で突き放してしまっただけに違いない。もしかしたら、今ごろ後悔して心配しているころかも。
やっぱり、帰るべきだよ。
そう、口にしようとした時だった。
「炊事に洗濯、掃除に裁縫。家事全般できます」
彼女が口を開いた。
提案は、ちょっと魅力的だった。
俺の両親は宇宙工学界隈では有名人で、先週からは海外に長期出張中。
俺は一人暮らしなんて余裕だと言ってみせたが、いざはじめてみると食料の管理もできずにいる始末。
彼女の申し出は、正直、渡りに船である。
「行く当てが、ありません。拾ってください」
*
翌日、俺は生まれて初めて大寝坊をかました。
言い訳をさせてもらうなら、豪雨に備えて閉じた雨戸のせいで朝日が差し込まず、そのうえ何故か目覚まし時計が朝を告げてくれなかったのだ。
「なんで起こしてくれないんだよッ!」
俺は昨日から同居人となった少女に詰め寄った。
三条メイと名乗った彼女は、小首をきょとんとかしげた。
「起こしましたよ?」
「え、マジで?」
起こしてくれたの?
それなのに起きなかったの?
俺どんだけ疲れてたんだよ……。
「はい。それはもう、音もなく忍び込み、音を立てずに騒ぎ立て、音を殺して部屋を出たのですが一向に――」
「起こせよ!」
「音を立てるなんて二流の仕事です」
「うるせえ三流メイド!」
「冗談です。『あと1時間』とおっしゃっておりましたので。学校には1時間遅刻する旨連絡済みです」
「あー、えーと……そっかぁ」
それは俺が悪いな。
「ごめん。それ多分寝言だ……。てか、何時に起こしてくれとか言ってないし、三条さんに当たっても仕方ないよな」
「そうですね」
「肯定されるのムカつく」
「主人がお気になされることではございません」
「いまさら取り繕っても遅いのよ」
ため息交じりに呟いて、気づいた。
三条さん、俺の学校指定の制服着てる。
あれ? ってことはもしかして。
「では、朝食が済み次第参りましょうか」
「あの、三条さん。念のため確認ですが、どちらに?」
「隼学園以外にどちらへ?」
おんなじ学校だったんかい!
だったら始業時間も通学時間もわかるでしょうが!
*
期せずして通勤通学ラッシュを避けることになった俺たちは、スペースに余裕のある電車に揺られていた。
「あの、三条さん」
「なんでしょう?」
「距離、近くないですか?」
隣に座るくらいならわからなくもない。
だけど実際には、制服同士が触れ合うくらいぴたりとマークされている。
嬉しいけど、思春期の男子にはキツイ。
「主人のそばを離れるなんて二流の仕事」
「いや通学と家事代行って関係ないよね?」
「私が隣にいるのは不快でしたか?」
その聞き方は、ずるい。
「オーケー。好きにしてくれ」
「承知いたしました」
学校につくまでの間。
俺たちは電車に揺られながら同じ時間を過ごした。
職員室で遅刻届を受け取った後は、クラスが違うので別行動だ。
「相川くん、遅刻なんてめずらしいね!」
1限目の途中で授業に合流した、次の休み時間。
声をかけてくれたのは、隣の席の花里さんだった。
「あ、と、花里さん……! じ、実は目覚ましが壊れてたみたいで」
「あはは! あるある! あたしもこの前――」
つい返事が上ずってしまった。
だって、片思いしてるんだから、仕方ないだろ。
ずっと、この時間が続けばいいのにな。
6月になってからの席替えで、花里さんの隣になって3週間。来週か再来週には次の席替えが来て、また離れ離れになってしまう。
そうしたら、こうやって話しかけてくれる機会も減って、疎遠になっていくんだろう。
……いや、だなぁ。
いっそ思いを伝えられたらと考えなかったわけでもない。
だけど、現状を壊したくなくてずっと動けずにいる。
思いをしたためた手紙は、今も俺のカバンの中だ。
(あ、待てよ? 俺の手で渡すことができなくても……)
例えば三条さんに手紙を渡してもらうのはどうだろうか。これだったら俺でも花里さんに手紙を渡せるのでは?
「あ、チャイム鳴った。相川くん、またお話ししようね!」
「うん」
次の授業は、ほとんど聞いてなかった。
花里さんに伝えたい言葉を、ずっと探していた。
*
「なるほど。つまりこの手紙を矢に括りつけ、花里という女子の心臓を射抜けばいいのですね?」
「物理的に貫こうとするな。普通に手渡してくれればいいんだよ」
家に帰ってから、三条さんに手紙を渡してもらえないか相談してみた。反応は芳しくなかった。
「……この時代に手紙ですか?」
ジト目で見られた。
えー……、そんなにダメ?
「いいじゃん! 手書きには電子データにはない良さがあるんだよ。俺はそれを大事にしたいの!」
「……そういうもの、でございますか」
そういうものなの!
「承知いたしました。では、明日手渡してまいります」
「本当か! ありがとう!」
っていう話をしたよね⁉
「ねえ、三条さん」
「なんでしょう?」
「本当に手紙渡してくれた?」
「はい。間違いなく、しかと」
放課後になって、1時間がたった。
呼び出した場所に、花里さんは来なかった。
それが意味するところはひとつ。
脈が無かった――
「しかと差出人を吉田という架空人物名義に書き換え、呼び出し場所を第3校舎に変更したうえで手渡しさせていただきました」
「なんでだよ!」
「敵に策を悟られるなんて二流の仕事」
「味方に情報を伝達しようとしたんだよ三流メイド!」
道理で来ないわけだよ!
まだ第3校舎にいてくれるか?
いや、さすがにもう帰ったか⁉
くっ、まだいてくれることを信じて向かうしかねえ……!
いなかった。
いなかったよ、もうすでに。
「気を落とさないでください」
「……誰のせいだと思って」
いや、もういいや。
人を頼った時点でダメだったのかもしれない。
(もう一回、告白しよう)
今度は三条さんに頼らないで。
*
木曜日の4限目は体育だった。
梅雨の時期ということもあり、行われるのは室内競技。今年はバレーの年だ。
ぶっちゃけバレーは得意じゃない。
というより、運動自体好きじゃない。
だけど、今日ばかりはテンションを上げざるを得なかった。
「相川くん! おんなじチームだね!」
なぜって、花里さんと同じチームになれたから……!
「一緒に頑張ろうね! 相川くん!」
「そうだね……! 絶対に勝とう!」
俺はこの拳に誓った。
絶対に活躍して、カッコいいところを見せるんだ。
ボロ負けした。
それはもう、完膚なきまでに叩きのめされた。
体育は他のクラスと合同で行われるんだけど、その対戦相手にあいつがいた。最近我が家に転がり込んできた三流メイド、三条メイが。
目的は知らないけど、あいつは執拗なまでに花里さんを狙った。バレー経験者かってくらい強烈なスパイクを打ち込んでくるものだから、花里さんはいすくんでしまうし、カバーに入った俺も無様なレシーブを繰り返すばかりだった。
「……今日の体育の時間さ」
駅を降りて、自宅に向かう道すがら。
俺は隣を歩く同居人に声をかけた。
「なんで、執拗に花里さんを狙ったんだよ」
「そのようなことは一切……」
三条メイは嘘を吐いていた。
誰の目に見ても明らかに、彼女は花里さんを集中攻撃していた。
「そんなはずねえだろ!」
だったら、どうして認めない。
なんで嘘を吐く。
理由なんてわかり切ってる。
やましいことがあるからだ。
「なんなんだよ、お前……!」
感情が膨れ上がる中で、唯一冷静な部分が「彼女に当たっても意味がない」と訴えている。
だけど、もう自分をごまかせなかった。
三条メイがきてからめちゃくちゃだ。
何もかもが空回りする。
「もううんざりだ! 二度とその顔見せんなッ‼」
言い放つや否や、俺は彼女から視線をぐいっとそらした。視界から彼女が見切れる刹那、映り込んだ表情は――泣き出しそうな目をしていた。
……んだよ、それ。
泣きたいのは、こっちだっつうのに。
*
言い過ぎた。
時間をおいて少し冷静になると、ちっせえ男だなって自己評価だけが残った。
家のカギは開けたままだが、ドアが開いた音はしない。三条さんはまだ外にいるのだろうか。
ごめん。
ただそのひとことが言いたくて、衝動的に家を飛び出した。入口に彼女はいない。帰り道を引き返し、最寄り駅まで走った。
だけど、ついぞ。
三条さんとは会えなかった。
見つかったのは、駅の近くに巣を張るジョロウグモくらいのものだった。
さすがに、そうか。
もう家出の期間も長い。
いい加減、ほとぼりも覚めた時期だろう。
今ごろ家に帰って、養父と仲直りしているかもしれない。
もう二度と、彼女と接することはないかもしれない。いや、多分、無い。
俺から、拒絶したんだ。
また家に戻ると、静寂が迎え入れてくれた。
短い間だったけど、この家を賑わせてくれた彼女はもういない。
「……この家、こんなに広かったっけな」
なぜだろう。
胸に残ったのはすがすがしさではなく、一抹の寂寥だった。
*
金曜日がやってきた。
次の月曜日には、席替えだ。
だから、意を決した。
花里さんに告白するなら、今日しかない。
「用って、何かな。相川くん」
放課後、俺は花里さんを呼び止めた。
花里さんとは駅の上り下りが逆方向なので、駅に着くまでが勝負だ。
つまり、猶予は無い。
……のだけれど、いざ話そうと思うと、言葉がうまく形にならない。
緊張しているのだろうか。
それもあるだろう。
だけど、それだけじゃない気がする。
なんだか、どんな言葉をかけたところで、花里さんには届かない気がした。
自分の口だからこそ気づけた。
多分、今の俺の言葉には重みがない。
口先だけの言葉になってしまう。
どうしてかはわからない。
だけど、そんな予感があったから、なかなか切り出せずにいた。
俺がいよいよ口を開いたのは、カンカンと鳴り響く鐘の音が聞こえてきた時だった。
「きちゃったね、電車」
「……うん」
「あたし、もう行かなきゃ」
「待って――」
言葉にしなければ。
でも、なんて?
頭の中が、真っ白になって。
それで、それで。
「一生かけて、花里さんを幸せにする! だから、俺と付き合ってください!」
口をついて出たのは、やっぱり軽薄な言葉だった。
ダメかもしれないな。
そんな予感がした。
だから、つい、顔を俯かせて――
「ありがとう。……私も、明るくて気さくな相川くんが好き」
顔を上げた。
「でも、相川くんには私より幸せにしないといけない相手がいるんじゃないかな?」
「……え?」
「また月曜日ね、相川くん」
電車に乗り込んだ花里さんが、手を振った。
下唇が、わなわなと震える。
鼻の奥が、つんとさす。
形容しがたい何かを飲み込んで、理解したのはそれからだった。
「……ああ、振られたのか」
予感していたことじゃないか。
傷つくことを、覚悟していたはずだろう?
はは……思い出せよ。
ほら、花里さんは『また月曜日ね』って言ってくれただろ?
つまり、これまで通りの関係を続けてくれるってことだ。
想定しうる最悪と比べれば、安いものだろ?
なあ?
なんて、自問自答を繰り返した。
だけど正直なところ……そこから先のことは、あまり覚えていない。
気が付いたら家側の最寄り駅を出ていた。
帰り道を歩く足取りは、鉛でも引きずっているかのように重い。
「……は、はは」
そのうえ、天気予報が嘘を吐いて、車軸を流したような雨が降り始めた。急いで帰らなきゃ。そう思うものの、足は棒になってしまったかのように動かない。
なんだかどうでもよくなって、近くの公園で雨に打たれていた。
その時だった。
「……風邪を、引いてしまいますよ」
「え?」
不意に、後ろから声をかけられた。
俺を上からたたいていた雨粒が、なにか遮蔽物に弾かれる音だけを残している。
傘をさしてもらっているのだと、すぐに気づいた。
それを持ってきてくれたのが、誰なのかも。
「三条、さん」
そこに、少女が立っていた。
出会った日と同じように、瞳を潤ませて。
どうしてここに、だとか。
あのときはごめん、だとか。
言いたいことも、伝えたい言葉も、沢山あったはずなんだ。
だけど、どれもこれも声にならない。
ただ無性に、しゃくりを上げて泣きたかった。
「……主人のいいつけも守れないなんて、私もとんだ二流ですね」
ただ、ただ。
彼女の優しさが、苦しくて。
「……バカ。この、三流メイド」
「はい。申し訳ございません」
今はただ、甘えていたかった。
*
明くる土曜は、遅い目覚めだった。
言い訳をさせてもらうなら、雨に打たれた体は体力を損耗していて、そのうえ買い換えたはずの目覚まし時計が鳴り響かなかったのだ。
「……だから、なんで起こしてくれねえんだよ」
昨日は三条さんも泊っていた。
よくよく考えたら彼女の私物は、キャリーバッグに収まる程度とは言えこの家に置かれたままだったのだ。
それを回収しに来て、雨だったのでそのまま泊まったと言ってもいい。
この家にいるはずなんだから、起こしてくれてもいいじゃないか。
文句を言いつつ、一応目覚まし時計のアラームをオフにしようとした。でも、その必要はなかった。
「……俺、昨日目覚ましかけたよね?」
目覚ましを手に取って確認する。
やはりアラームがオフにされている。
寝ぼけて切ったのだろうか。
いや、そこまで器用じゃないはずだけど。
「三条さん?」
寝室を抜け、リビングに向かう。
月曜日から木曜日まで。
彼女はいつもそこにいた。
だから、今日もそうだと思ったんだ。
いなかった。
そこに、誰もいなかったんだ。
かわりに、一枚の書置きだけが残されている。
その紙は上半分がちぎり取られていて、残った部分に短い言葉だけが記されていた。
『今まで、お世話になりました』
「……え?」
力強い、文字だった。
覚悟だとか、気迫だとか、そういうものが感じ取れる。
だというのに、なぜだろう。
胸がざわつく。
嫌な予感がする。
スマホを取り出し、三条さんにLinearで連絡を入れようとしたとき、着信音が鳴った。
すわ三条さんからかと思ったが、相手は花里さんだった。
「はい。相川です」
声は上ずらなかったが、気持ちは急いた。
根拠はないが、はやく三条さんに連絡を取れと直感が騒ぐのだ。
『もしもし? あのさ、相川くん。火曜日のことなんだけど』
火曜日?
火曜日と言えば……手紙を出した日か。
三条さんが勝手に手紙の内容を書き換えて――。
書き換え、て?
いや、待て。おかしい。
だとするなら、それは花里さんの知りえない情報のはず。
だって三条さんは、差出人を架空の人物に書き換えて――
『三条さんにも言ったけど、本当にどうしてもすぐに帰らないといけなかっただけだから。相川くんと話したくなかったわけじゃないんだよ?』
「……待って。あの手紙、花里さんに、ちゃんと届いてたの?」
『え? うん。三条さんから聞いてない?』
三条さんは、そのままの文章を届けていた?
だったら、どうしてあんな嘘を吐いたんだ?
「いや、俺は、手紙にいたずらしたとしか……」
『あー、ごめん! 変な気をつかわせちゃったみたい!』
「どういうこと?」
『へ? 相川くんが傷つかないように、自分が悪者になろうとしたって話じゃないの?』
すぐには理解が追い付かなかった。
一拍おいて、言葉の意味を反芻して、受け入れる。
三条さんが、俺のために、嘘を吐いた?
呼び出しを断られたと知った俺が、振られたと思って落ち込まないように、わざと道化を演じてくれた?
「いや、でもだったらバレーはなんで……。だって、三条さんが花里さんを狙う理由なんて」
『あーそれはだねーワトソンくん』
「ワトソンくんじゃないですけど」
『相川くんに、活躍の場を作ってあげるためだよ』
「……へ?」
今度こそ、理解が追い付かなかった。
花里さんを執拗に狙う理由と、俺の活躍がどうつながるんだ。まったくわからん。
『あのときさ、相川くん、私をかばってレシーブに入ってくれたでしょ?』
「え、あ、うん」
『試合には負けちゃったけど、かっこよかったよ』
……頭をぶん殴られた気がした。
実際には、俺のそばには誰もいないのだけれど。
「……バカだ」
声に出さずにはいられなかった。
「大バカ者だ……俺!」
そんな彼女に、俺は何て言った。
――二度とその顔見せんなッ‼
それから俺はどうした。
彼女にきちんと謝ったか?
奥歯をぎゅっと食いしばる。
じわりと鉄の味が口内に広がる。
「ごめん花里さん! 俺、行かないと!」
今なら、昨日の花里さんの言葉の意味が分かる。
――でも、相川くんには私より幸せにしないといけない相手がいるんじゃないかな?
そうだ。このままじゃいけない。
きちんと、会って話をしないと。
こんなお別れ、絶対にダメだ。
『うん。頑張ってね! 相川くん!』
走った。
どこに。――わからない。
どれだけ。――息が苦しくなるほどに。
駅に向かった。
雨上がりの蜘蛛の巣が、陽に照らされて煌めいていた。だけど彼女の姿はない。
学校に向かった。
練習中の部活を確認してまわったが、彼女の姿はどこにもない。
考えてみれば、俺は彼女のことを何も知らない。
知ろうとしてこなかった。
――手書きには電子データにはない良さがあるんだよ。俺はそれを大事にしたいの!
……そういうもの、でございますか。
彼女は、知ろうとしてくれていたのに。
俺の方からは、まるで歩み寄らなかった!
彼女の立ち寄りそうな場所も、彼女の育った家も。
俺はなにひとつ知りやしない。
「……ぁ」
いや、ひとつだけある。
望みは薄いけど、他に当てもない。
電車に揺られて引き返す。
帰り道を河原に向けて逸れ、土手を下って河川敷を走る。
アジサイが咲き誇る高架下に、少女が立っていた。
「……どうして、ここに」
少女は困惑の表情を浮かべていた。
「ここ以外に、キミが行きそうな場所を、知らなかったから」
乱れた息を整えながら、じとりとまとわりつく汗をぬぐいながら、声にした。
「二度と顔を見せるななんて言って、ごめん!」
プライドとか、意地とか。
想定していたものはなにひとつ、言葉の邪魔をしなかった。
「俺、自分のことで精いっぱいで、三条さんのことなんて、何にも考えて無くて――」
願ったことは、ただひとつ。
もし、許されるなら。
「後悔、ばっかりなんだ。だから――!」
もう一度、やり直したい。
それが、嘘偽らざる本心だった。
そんな俺に、彼女はふっと微笑んだ。
「炊事に洗濯、掃除に裁縫。家事全般できます」
「……え?」
急に、何の話?
と思ったが、はたと気づく。
はじめて会った日も、彼女は同じことを言っていた。
「ですが、それ以外は不器用で……」
だけど、続く言葉は少しだけ違った。
彼女は気恥ずかしそうに、眉だけを困ったようにハの字に曲げて、人差し指で頬をかいている。
「それでも、私を必要としてくれますか?」
言葉にした彼女の表情は、真剣そのもの。
だからとっさに――
「一生、俺のそばにいてほしい」
――ありふれた言葉をこぼした。
だけど、しかたないじゃないか。
本心から、そう思ったんだから。
彼女はその場でくるりと回転すると、笑顔を見せた。
「行く当てがありません。拾ってください」
雨上がりの太陽のように、まぶしい笑顔だった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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