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AlstroemeriArca

作者: 月詠来夏

 初恋は大抵叶わない、と世の中は言う。そう考えると、僕は相当幸運な人間なんだと思う。

 十六歳にしてようやく叶った。その相手は、昔から近所付き合いがあった親同士の影響で一緒に遊ぶようになった幼なじみ。いつしか、二人でいることは当たり前になっていた。そして、僕も彼女もお互いが初恋だった。


 ────那樹、こっちだよ!

 初めてデートで街に赴いた日。全てがいつもとは違う表情を見せた日。彼女は僕の手を引いて、見慣れたショッピングモールを指さした。

 ────今日はあそこで、二人で遊ぼ! 那樹はどこに行きたい?

 どこでもいいよ、とはにかんだのを覚えている。二人で一緒なら、どこにだって行けるから。

 ────じゃあ、行ってから考えよっか……あ、早くしないと! 時間がなくなっちゃうよ?

 焦燥に駆られたために、思わず離されてしまった僕の片手。彼女は無意識にショッピングモールを目指す。だけど、その刹那に起こった光景は、僕からあらゆる感覚を奪っていった。


 だけど、奪われたのは感覚だけじゃなかった。


 この花屋に来るのも何度目のことになるだろうか。店の人には、すっかり顔を覚えられてしまった。といっても、店の人から花を買う目的を聞かれたことはない。客の動機にはとことん無頓着でありたいらしい。人と話すのが少々不得意な僕にとってはありがたいことだ。

 いつも通り、赤いアルストロメリアの花を買う。彼女が好きな花だ。どうやら百合の一種らしく、百合の形によく似ている。あいつは好き好んで、赤いアルストロメリアを象ったキーホルダーや髪飾りを買っては付けていた。僕はそこまでしてアルストロメリアに固執する彼女に呆れることが多かったが、今となってはそれが彼女のアイデンティティなのだと思い知らされるばかりだ。

 料金を支払い、店を出る。見慣れた街で、見慣れたくなかった場所に、僕は重い足取りで向かう。


 僕──御坂(みさか)()()の幼なじみであり、恋人でもある同級生──(すず)(しろ)晴花(はるか)。彼女は去年、街の交差点での交通事故に巻き込まれた。原因は車両側の信号無視。幸いと言っていいのか分からないが、命に別状はない。

 だが、僕と晴花の時間はあの日から止まったままである。彼女は事故の後遺症か何かで、事故から一年経った今でも昏睡状態だ。一度も目覚めたことがない。

 あれ以来、僕は眠り続ける晴花の元にお見舞いに通い続けている。学校の友人にはどことなく避けられるようになり、たまに会う晴花の姉以外に一緒に行く者はほとんどいない。だけど、むしろそれでよかった。一人の方がなんとなく気楽だからだ。元々の根暗な性格も相まって、僕は自然と他人と距離を置くようになっていった。


 晴花の入院している病院は、僕や晴花の家に近い場所にある。徒歩で十分くらいで、僕はいつも学校から帰ってきてすぐに花を買いに行き、あえて遠回りして病院に行く。晴花が事故に遭ってからは出かけることも少なくなったので、一応軽い運動のつもりだ。

 束ねた数本のアルストロメリアを潰さないように、赤ん坊を抱き抱えるようにして持ち運ぶ。僕は病院へ晴花のお見舞いへ行く際には、必ずアルストロメリアを持って行っている。両親は僕にあまり小遣いを渡してくれないが、晴花のお見舞いのための代金は出してくれる。事故以前から近所付き合いがあった夫婦の娘のためだと知れば、僕の小遣い程度とは話が別だ。

 今日も両親から貰ったお金でアルストロメリアを買った。両親には感謝しかない。

「あれ? 那樹……」

 急に声をかけられて振り返る。懐かしい声だ。少し甘く優しい声色は、どこか晴花に似ている。

「琴美姉さん……」

 (すず)(しろ)琴美(ことみ)。晴花の二つ上の姉だ。僕も琴美姉さんのことは本当の姉のように尊敬しており、昔はよく僕と晴花、琴美姉さんの三人で遊んでいたものだ。

「また晴花のお見舞いに来てくれたの? いつもありがとうね」

「ううん……僕にできることなんて、これくらいしかないし」

「そんなことないよ……なんて言っても、お世辞にしかならないか。私もこれから行くところなんだ。一緒に行こ?」

 僕は静かに頷いた。


 病院を前にしたところで、琴美姉さんは僕に気を遣うようにして微笑みかける。

「晴花のこと、忘れないでいてくれてありがとうね」

「どうしたの? 急に」

「え? ああ、いや……もうあの事故から一年経ったのに、那樹は今でも晴花を想ってくれているんだって思うと……なんか、感慨深いなあって」

「そうかな。僕はただ、晴花を忘れられなくてしつこくなってるだけだよ」

 そんなことないよ、と琴美姉さんは首を振った。その瞳はどこか陰っていて、深みがあった。


 病院に入り、エレベーターに直行する。晴花の病室は一人部屋で、六階にある。エレベーターの中で、琴美姉さんはなんとなくそわそわしている。しばらくして、

「ねえ、那樹。あの小箱、まだ持ってる?」

 小箱、というのは晴花の宝物を入れている箱のことである。晴花が眠っている今、僕の宝物でもある大切な代物だ。

「あるよ。持ってきてるよ、今日も」

「そうなんだ……」

 琴美姉さんはそれだけ言うと、エレベーターのボタンに目を向ける。

 ポーン。六階です。エレベーターの機械音声が、僕らの会話を止める。

 静まり返った廊下に足音を響かせながら、晴花の病室へと向かう。窓から射し込んでくる光は強い上に白く塗られた壁と床であるため、反射してきて眩しい。

「ああ、ここだね」

 琴美姉さんが立ち止まり、病室を確認する。軽くノックして、ドアを開ける。

 ────中は病院特有の消毒の匂いと、どこか懐かしい香りが混ざりあっていた。窓が空けられなびくカーテンの裏に、しおれたアルストロメリアが差してある花瓶が置かれている。

「やっほー、晴花。元気?」

 琴美姉さんがそう声をかけても、相変わらず誰も返しはしない。……一年前のあの日から、ずっとこんな調子だ。

 僕は病室のドアをきちんと閉めて、眠る晴花の横に歩み寄る。血の気のなくなった真っ白な顔も変わらない。

「……来たよ、晴花」

 僕が声をかけても同じだ。「うん」とも「こんにちは」とも言わず、ただ瞳を閉じて夢の中にいる。

「新しいアルストロメリア、飾っておくよ」

 窓際にある花瓶を手に取る。しおれた方のアルストロメリアを抜き取り、部屋に常備されている水場に置く。水も取り換えたところで、花束にしてあった方のアルストロメリアを花瓶に差し、窓際に置いておく。

「よかったね、晴花」

 琴美姉さんが笑いかける。晴花は眠っているはずなのに、なんとなく笑みを浮かべているように見える。

 ……晴花がまだ生きていると確信していられるのは、眠る晴花の笑顔を見られるからだ。だけど、たまに不安に思ってしまう。晴花は本当に生きているのだろうか、と。そんな不安もいつの間にか消え去っていることが多いので、あまり気にせず晴花の元に通っているが。

「ねえ、琴美姉さん。ちょっといいかな」

「どうしたの?」

「この小箱……未だに開かないんだ。鍵がかかってるみたいなんだけど、何か知らない?」

 ポケットから小箱を出す。赤や桃色で彩られた女性向けのジュエリーボックスだ。半年前に琴美姉さんから譲り受けたもので、彼女曰く晴花の宝物が入っているらしい。だけど何をどうやっても開かず、鍵がかかっていると分かったものの思い当たる節はなく、結果中身を拝めずにいる。

「ああ……私は晴花の机の中から見つけただけだからね……鍵の場所は晴花しか知らないと思う。半年も前のことだからねー。私がよく覚えてないってこともあり得るけど」

「そっか……」

 当の本人しか知らないというのなら、もう僕にはどうしようもないかもしれない。僕がいつか死んでしまったら、このままこの箱は開けられずに放置されるのだろう。そう思うと、少し悲しく思えた。

 小箱をポケットにしまうのと同時に、病室のドアがガラッと開けられる。


「あら、琴美……と、那樹、君」


 看護師と思ったら違った。それも、長らく会わなかった人物だ。

 晴花と琴美姉さんによく似た顔……二人の母である、(すず)(しろ)優子(ゆうこ)さんだった。

「お母さんっ。病気は大丈夫なの?」

「いいのよ琴美、私は平気。……久しぶりね、那樹君」

「ど、どうも……」

 一年前のことを思い出して、挙動不審になってしまう。病気と言っていたが、優子さんは元気そうに見える。全体的に少し痩せたような気がするが、事故以前となんら変わったところはなさそうである。

 優子さんは琴美姉さんから離れ、眠る晴花に近づく。

「晴花……しばらく来れなくてごめんね。でももう大丈夫よ。お母さんが来たから……」

 晴花の白い顔を覗き込んで、優子さんは笑う。

 その笑みを、大人の女性特有の甘い声を、僕はどこかで恐ろしいものと認識していることに気がついた。

 次に優子さんは、奥にゆっくりと近づいてくる。

「ねえ、那樹君」

「はい……?」

 僕がたじろぐ中で、不気味な微笑みを浮かべてくる。

「どうして晴花の近くにいるのかしら?」

「え……そ、それはただ、お見舞いに」

「あなたのお見舞いなんて、晴花は望んでいないわよ。事故に遭わせた男の顔なんて見たくないでしょう」

「っ……」

 違う。この人の言っていることは理に適ってない。晴花はそもそも、誰のことも見ていない。ただ夢の中から抜け出せずにいるだけで、僕のことを嫌いになったかどうかなんて分かりやしない。そんなこと、とうの昔から知っていることだ。

 だけど……僕の心の中には、まだ罪悪感に似た感情が渦巻いていた。

「早く帰ってくれないかしら? 今のあなたに、晴花と共にいる資格なんてないわ」

「で、でも……」

「帰れって言ってるのよ!!」

 ガシッ、と両肩を勢いよく掴まれた。爪が肩に刺さる勢いで食い込んできて痛い。優子さんの醜く豹変した形相が、僕の視界を埋め尽くした。

「なんで晴花だったの!? なんであんたじゃなかったの!? どうして晴花の方が、こんな目に遭わなきゃいけなかったの!?」

 肩を掴まれたまま白い壁に追い詰められる。その衝撃か、ポケットから何かが転がり落ちた。

 ────晴花の小箱だ。

「ま、待って、ゆう、こさ……」

「あんたなんか、何もできない甘えっ子じゃない!! 晴花や琴美がいないと動けない、都合のいいロボットじゃない!! ロボットのくせに、私の娘を殺すんじゃないわよっ!!」

「っ……!」

 もう少し言い様はないのかと内心傷ついた。だけど言い逃れはできない。現に僕は晴花を傷つけてしまった。そんな僕に、この人に抗う勇気はない。

「ちょっとお母さん、やめて!! ここ病院なんだよ!?」

 青ざめた表情の琴美姉さんが、僕から優子さんを剥ぎ取った。羽交い締めにしながら、病室のドアの方へ引っ張っていく。僕は壁にぶつかった衝撃のせいか、目眩で床に崩れ落ちてしまう。小箱は……無事みたいだ。

「琴美は黙って!! 晴花が、晴花が……」

「気持ちは分かるけど、だからって那樹にあたるなんてひどいよ!」

「あんたは分かってないわよ! 晴花があんな姿になったのは、誰のせいだと思っているの!?」

「っ……そんなの、とうに分かってることじゃない!」

「うるさいのよ!! ……あんたは大人しくそこで見ていなさい、二度とそいつがここに来られないようにしてあげるわ」

 優子さんのバッグから出てきたのは……果物ナイフだった。ああ、もしかしたら、優子さんは最初からそのつもりで晴花の所にやってきたのかもしれない。

「いい加減にして、お母さん!! また閉鎖病棟に送られてもいいの!?」

「ええ構わないわ。私が晴花を救ってやるのよ。私は晴花の母親なのよ、母が娘を助けないのはおかしいでしょう?」

「……狂ってるよ、こんなの……間違ってるよ!!」

 ナイフの奪い合いや言い争いをする鈴城親子から僅かに目を逸らし、床に転がる小箱に目を向けた。届くわけのない手を伸ばす。

 晴花……こんな時、君ならどうする……? 僕はどうしたらいいのだろう……?

 そんなことを考えているうちに、僕は意識を手放した。


 次に目を開けると、白い天井が目に入った。頭が妙にモヤモヤする。全身にはまだ気だるさと鈍痛が残っていた。

「あっ、那樹! 大丈夫?」

 琴美姉さんが僕のことを覗き込んでいる。……ああ、そうだ。僕は晴花の病室で気を失ったのだ。ということは、ここは別の病室か。お見舞いに来ただけのつもりだったというのに、病院側に余計なことをさせてしまって申し訳ない。

「貧血とか心身の疲労のせいみたい。今日は入院だって」

「そっか……ごめんね」

「私は何もしてないよ。看護師さんが駆けつけてくれたから、どうにか収まっただけで……」

 苦笑いする琴美姉さんの両手には、包帯が巻かれている。病院に来た時にはなかったものだ。

「琴美姉さん、それ……」

「あ、これ? お母さん、ナイフなんて持ってたからさ。奪おうとしたら、逆にこっちが怪我しちゃって。看護師さんに手当してもらったから、大丈夫だよ」

「そっか……そういえば、優子さんの病気って、もしかして」

「うん……晴花があんな状態になってからずっと、うつ病を患っていたんだ。時が経つほどひどくなって、しまいには私やお父さんにまで罵倒を浴びせたりして……近所でも色々と問題を起こしたことがあったから、精神科の閉鎖病棟に入院させたの。二ヶ月くらい前にようやく出られたんだけど……あれじゃあ、また閉鎖病棟に逆戻りだね」

「…………」

 優子さんや旦那さんをしばらく見なかったのは、優子さんが閉鎖病棟に入れられていたからなのか。

 これではっきりした。僕が……鈴城家をバラバラにしたのと同じだ。

「でもね、悪いことばかりじゃなかったんだよ」

「え?」

 琴美姉さんは黙ってズボンのポケットに手を突っ込んだ。しばらくして出てきた掌の中には、金色に光る小さな鍵があった。

「黙っててごめんね。お母さんが来ると思って、出せずにいたんだ」

「そ……それって、まさか」

 僕は夢か何かでも見ているのだろうか……。夢なら早く目が覚めて欲しいと思った。だけど、琴美姉さんから受け取った鍵の感触はしっかりと冷たい。

 そういえば、気を失う前に小箱を落としたはずだ。少なくとも僕は拾っていないし、病室のテーブルにも置かれていない。

「琴美姉さん。小箱はどこ?」

「え? 私は拾ってないけど……」

 胸に痛みが込み上げた。とてつもなくまずい予感が、僕を支配する。

 いてもたってもいられず、僕は患者衣のままベッドを飛び降りた。

「ちょっ、那樹!? どこ行くの!?」

 琴美姉さんの叫びも聞かず、病室を飛び出す。貧血と疲労はちっとも回復していない。だけど回復するのを待っていたら、きっととんでもないことになる。それだけは、なんとかして避けたかった。


「待って!!」

 病院の外へ出て、後ろ姿を見せて歩く女の人元へ駆けつけた。虚ろな目で振り返った彼女はやはり優子さんで、僕の姿を捉えた途端果物ナイフをバッグから取り出す。

「……もうあんたの顔なんて見たくないわ。何の用?」

「晴花の小箱を僕から奪ったの……優子さんですよね」

「……これのことね」

 優子さんはもう一回、バッグの中に手を入れる。果物ナイフを持っている方とは違う手には、赤と桃色のジュエリーボックスが乗っかっていた。間違いない……晴花の小箱だ。

「これを私から奪って、どうするつもりなの?」

「それは僕が、琴美姉さんから譲り受けた物です。……あなたが持つべき物じゃない」

「違う!! 私は晴花の母親なのよ、母親である私が持ってなけりゃおかしいじゃない!!」

「母親であれば、娘のために娘の恋人を殺そうとしてもいいんですか?」

「黙れっ!! あんたに何が分かるっていうの!?」

 ここまで来て、普段の自分からは考えられないことを口走ったことに、今更ながら気がついた。それと同時に、ここで引き下がることもできないことも自覚する。

 言ってしまおう。一年以上抑え込んでいた、僕の本音を。

「確かに、僕はあの時何もできなかった。きっと来るであろう信じ込んでいた救いに甘えていた。それは自分が一番よく知っていて、自分の一番醜い部分だ。……あなたが言うことは、それほど間違ってはいない」

「ようやく認めたの? そうよ、だからあんたは────」

「だけど僕は、あなたみたいに過去ばかりを見つめているわけじゃない」

「なんですって……?」

 ふと周りを見渡すと、僕と優子さんを取り囲むようにして人集りができていた。不審なものを見るような目付き、恐怖に怯えた目付き、今すぐやめるように訴えかける目付き……とにかく十人十色の表情が、僕と優子さんに集中していた。

 正直僕は、この場から退けばどれだけ楽か考えている自分に呆れている。琴美姉さんだって心配しているだろうし、両親だって僕が倒れたことを知っているか分からない。

 だけど、ここで逃げたらダメだと思った。むしろ自分を変えるチャンスには丁度良かった。僕がずっと言葉にしようと思っていたこと。幻にしたくないこと。幻にしてはならないもの。全て吐き出そうと決めたのだ。

 だから、僕は拳を静かに握った。

「そりゃあ、僕は晴花に目覚めて欲しい。眠っていた間にあったことを話してあげたい。一年間の空白を埋めるぐらい一緒にいたい。だけど、晴花を目覚めさせるために人を傷つけたいとは思わない。僕は晴花のことを、この世の誰よりも尊い、かけがえのない存在だと思ってる。優子さんだって、晴花を愛しているんでしょう?」

「……っ、それ、は……」

 優子さんの果物ナイフが小刻みに震えている。小箱を持つ手は緩んでいる。このままナイフを下げてくれれば、この騒ぎは収まるだろうけど……。

「もしも晴花が目覚めて、あなたがいなくなっていたりしたら……晴花はきっと悲しみます。僕は晴花の恋人として、あの子を悲しませるようなことは決してしたくない。それはあなただって……同じなんじゃないんですか」

「っ……黙れええぇぇっ!!」

 小箱を道沿いの草原に捨てて、優子さんは果物ナイフを構えて僕の方に突進してくる。人集りは悲鳴や絶叫を上げて逃げ出していく。騒ぎを収めるどころかパニックを起こしてしまった。こうなれば、優子さんのナイフを避けるか、一か八かナイフを受け止めるしかない。だけど、今の僕にそんな体力は残っていない。


 そうした判断を下す前に、優子さんの動きが止まった。


 果物ナイフを構える優子さんの手首を掴んだ男が、僕の前に立ち塞がっていた。比較的華奢な僕とは違い屈強な身体つきだ。その人物に、僕は少なからず見覚えがあった。

「なっ……どうして、あなたが……?」

 優子さんも驚いていた。それはそうだ。何せ今は夕方近くで、まだ仕事に行っているはずだったから。

「それはこっちのセリフだ。ナイフなんか振り回して……周りのことも少しは考えろ」

 男は優子さんからナイフを奪い取る。それでようやく優子さんは落ち着いたようで、その場に膝をつく。

「大丈夫か、那樹ちゃん」

 男──(すず)(しろ)哲平(てっぺい)さんは、振り返ってニカッと笑ってみせた。

「哲平さん……! ありがとう、ございます……」

「何、俺は当然のことをしたまでだよ。今までなかなか会えなくてごめんな。せっかく晴花のお見舞いに来てくれたのに、散々だったみたいだな」

「いえ……僕は大丈夫ですから」

「うむ、やっぱり若者は違うなあ……そうだ、あの小箱も取っといてやったぞ。そこの草原に落ちてたからな」

 そう言って、哲平さんは僕に小箱を差し出した。受け取って汚れがないかどうか確認すると、多少土汚れがあるものの大した外傷は見当たらない。

「さあ、早く病室に戻れ。入院してなきゃいけないんだろ?」

「あ……そうでした。ありがとうございました」

「いいってことよ!」

 そういえば琴美姉さんを放っておいたままだった。心配させっぱなしだ。僕は哲平さんと優子さんに一礼して、病院内へ急いで戻っていった。


「もう、那樹! 急に動いたりしちゃダメでしょ!」

 病室へ戻ると、案の定琴美姉さんに怒られた。僕に非があることは間違いないので素直に謝り、ベッドに潜る。すると琴美姉さんはすぐに機嫌を直した。

 琴美姉さんに小箱を見せると、「よく取り返してこれたね」と驚愕された。

「お父さんが来てくれて助かったよ。本当に運が良かった……」

「もしかして、電話で呼んだの?」

「まあね……那樹が倒れてる間に。ああ、それと。さっきお父さんから電話があったんだけど、お母さんをもう一回精神科に連れていくってさ。『今まで、色々うちの家族のことで迷惑をかけてしまって済まない。那樹ちゃんのご両親によろしく伝えておいてくれ』だって」

「そっか……父さんと母さんにもちゃんと連絡しておかなきゃ」

「私が電話しておくから大丈夫だよ。……そういや、那樹。小箱の鍵もあることだし、晴花の小箱開けてみなよ」

 そうだった。小箱を病室のテーブルに置き、患者衣のポケットに入れていた鍵を取り出す。小箱の鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。

 カチャ、と封印が解かれる音がした。そっと、蓋を開ける。

「あっ……これって……」

 箱の中に入っている物を見た時、僕と琴美姉さんは言葉を失った。

 赤い百合に似た花を象った髪飾りと、小さく折りたたまれた手紙があった。手紙には「那樹へ」と小さく可愛らしい文字で書かれていた。

「最初から那樹宛だったんだ……知らなかったよ」

 琴美姉さんでさえも知らない贈り物だったのか。僕の元にきちんと小箱をが辿り着くなんて、もはや偶然でしかない。

 手紙をそっと開いてみると、短いメッセージが書かれていた。


『大好きな那樹へ


もうすぐ誕生日だったよね?

ちょっと早いけどプレゼント!

髪飾りでごめんね?

でも、どうしてもアルストロメリアを

あげたかったから……喜んでくれると

嬉しいな。琴美お姉ちゃんには内緒だよ?

素敵な誕生日を過ごそうね!


晴花』


 そういえば、晴花が事故に遭った日の数日後は僕の誕生日だった。晴花はきっと、あの日のどこかでこの小箱を鍵と一緒に僕に渡す気でいたのだろう。

「そっか……那樹の誕生日のために……そうだったんだ」

 琴美姉さんは静かに、だけど必死に言葉を探していた。僕に気を遣ってくれている。いつもこうやって気を遣われてばかりだ。

 僕は静かに首肯する。

「ありがとう、琴美姉さん。晴花のプレゼント、確かに受け取ったよ」

「え? ああ、うん。喜んでくれたなら、よかったよ……」

 琴美姉さんはそう答え、僕のベッドから離れる。僕の両親へ電話しに行くのだろう。僕は小箱を静かに抱きしめて、布団に潜り込んだ。

 今日は色のなかった日常に、一色の絵具をべったりと塗り付けられたような日だった。絵具はことごとく乱暴に塗られたけど、それは近い未来、僕に少なからず影響を及ぼす。なんとなく、そんな気がしていた。


 早朝。僕は患者衣を脱いで、元の普段着に着替える。琴美姉さんは一旦帰ってしまったのか病室にはいなかった。まだ起きるには早すぎるくらいの時間だ。

 僕にはまだ一つ、やり残したことがある。太陽が昇り切らぬ朝に、僕は病室を抜ける。


 晴花の病室には、昨日取り替えたばかりのアルストロメリアが凛として咲いていた。カーテンが閉まっていたので開けたのだが、窓はきっちり閉めてあった。寒いと悪いので窓はこのままにしておこう。

 小箱の中から、アルストロメリアの髪飾りを取り出す。今になって思えば、この髪飾りはワニクリップ型なので、髪以外にも容易に着けられる。なので、自分のジャケットの胸のポケットに挟むようにして着ける。

「おはよう、晴花」

 晴花の雪に似た顔を覗き込みながら、優しく声をかけた。

「誕生日プレゼント、一年くらいかかったけど……ちゃんと、受け取ったよ。遅くなってごめんね」

 相変わらず、返事は返って来ない。分かり切ったことではあるけれど、それでも密かに晴花の声を聞きたいと思っている。

 揺れていた考えがこうやってしっかり保てるようになったのは、ある意味優子さんのおかげかもしれない。彼女が僕を殺しにかかったことで、僕の中で麻痺していた危機感にエンジンがかかったのだろう。感謝すべきかな、と今になって思う。

 大丈夫。僕は、いつまでも待ち続けられる。自信を持って言える。

「晴花。ずっと、待ってるからね」

 窓辺にあるアルストロメリアが、僅かに揺れていた。


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