2 失態
その犬は左足の付け根から出血しているようだ。
アリコスはこの世界にも犬がいるということに一瞬感激をして、どうしようか動作をいくつか思い浮かべてみた。
止血といえば締め付けるのがいいから、服を破るとして、家に連れて行けばいい治療は受けられるだろう。ただ見たところこの子はまたわ仔犬で赤い色は左足を染め切っている。
(これじゃあ間に合うかどうか…)
そこまで考えて、この悲壮感漂う中、アリコスはリドレイの囁き声に、ポーションの文字を思い出した。
「セサリー、私、人を呼んでくるわ」
「アリコスお嬢様?お一人で行かれては…」
「いいの。さっき道具屋を見かけたからすぐ戻るわ」
「はい」
きっとセサリーは社会見学を兼ねて、と思ったから許してくれたのかもしれない。
実際カルレシア公爵家領地は、スラムもないような治安の良い場所だからなかなか襲われることもない。しかもシールド《魔法》があるし。
それはそうと、道具屋の話は真っ赤な嘘だ。
大通りの人目が散るところで、アイテムボックスを使う。
いつもの手順で、一本の黄色いポーションを出す。
今度のシステムはご丁寧に、右手に持たせてくれた。
(さーてっ、さっさと戻ってワンちゃんを飼っていいかお父様に聞きに行こう。あ、そういえば馬車の人、予定通りにこないので困ってないかしら)
「お前!」
何事だろう。何か騒ぎがあったようだ。
こういうときはすぐさまお暇するに限る。誰か転生者が野暮を起こしたに違いない。
野次がてらあたりを見回してから、そそくさと帰路に着く。
(大丈夫だ、この辺りではないようだ。人も波もあるから、呑まれられる)
とはいえあまり目立たないよう、町娘がお使いから戻るように。
「女!」
まだ叫び声がする。また同じ声だ。
「お前のことだ」
肩に手がかけられた。背筋に鳥肌が立って、すごくすごく驚いて、心臓が大きく跳ねた。
力が強い。それだけでなく恐怖心に煽られて、アリコスは大人しく体が回れ右をする。
「今のはどうやった」
でも視線は合わせられない。
「聞いているんだ」
「……な、ななななな…なんでしょう…」
こんな時、なんでいえばいいんだろう。というかこの声、どこかで…。
「お坊ちゃま。声を落ち着けて、その子怖がってますよ」
「え?」
手が離された。
「ああ、すまん」
突然の謝罪に顔を上げると、そこにはよく知る2次元の顔があった。
やはり、と思ってしまった。
ふとそんな予感がして、この時にはそうだと思い込んでいた。
野暮を起こしたのは私の方だ。王子様付きに会ってしまった。ただ先程のイネックのことがあって、アリコスは多少の無礼より一刻も早くその場を逃れることを優先しようと心に決めた。
やはり人一倍整っている。その顔についつい見入ってしまいそうになる。
だがこの人ももう会いたくもない人の一人だ。
「では私、急いでおりますので」
スカートの端を持って一礼をする。
身に染み込んだ、高貴な人に会ったときの最低限の礼儀だ。その中でも特に洗礼された動きだ。どれだけ驚こうと急ごうと一寸も狂うわけがない。
なのにキースが呼び止めたので、アリコスはほんの少し戸惑いを見せたが、なんのことないように笑みをつくって見せた。
「お前、待て。金はやる。だからその手品を見せろ」
「はい?なんのことでしょう」
「そのなんだ、いまさっきお前のやった空中に突然物を出す手品だ」
急にバカらしくなったのか、キースは頭を掻いた。
「あの、私、なにを言っているかさっぱり…」
「だそうですよ、見間違えでは?」
「本当に…」
「あの、私、本当に身に覚えがなくて」
「そんなはずは…」
キースの声が小さくなっている。
カスト万歳だ。キースの幼少からの護衛兼友人で、キースの入学による人事異動から数年後、戦争で真っ先に死ぬ。
だから同じように攻略対象の護衛兼友人でも、ケーカとは比にならないくらい、むしろほとんどモブだが回想シーンでちょくちょく出るので名前はある。
「それでは私、本当に急いでおりますので。失礼いたします」
ポーションのない方の手を、思い切り握り、靴ずれの痛みを感じながら早歩きをする。
(キースにアイテムボックスを見られていたとは厄介だわ。このあと言いふさられることはないでしょうけど、何かの拍子で出会ったとき、顔を覚えられていたら)
まざまざと悪い予感が頭を駆け巡っていく。




