第0話「薄紅色のPrologue」
窓から差し込む夕陽を浴びて、辺り一面が茜色に染まる黄昏時。
他の生徒達は既に出払い、がらんとした放課後の教室に、二人の少女の姿があった。
机の上に体重を乗せ、焦茶色の髪を短くさっぱりさせた、いかにも運動が得意そうな褐色肌の少女。
その傍らには、茶髪の少女とは対照的に肌は白く小柄な、目が隠れそうな長さの前髪を片側に寄せ藤色のヘアピンで留めた、一目で華奢と分かる少女。
視線の先、窓の外に見える鮮やかな紅葉が、秋の訪れを静かに告げている。
「あと半年で、初等部ともお別れかぁ」
「うん。あっという間……だった、ね」
夏休み中もずっと一緒だった。きっと、これからも隣で同じ時間を過ごすのだろう。
そんな漠然とした感覚と、表裏一体の不安とが、少女達の心に自覚の無い影を落としていた。
「……あの、さ!」
沈黙に耐え兼ね、茶髪の少女が声を上げる。
そして、鞄から取り出した小さな袋を、もう一人の少女に差し出した。
「それって……」
「こういうの好きだったろ?」
見たところ、それは花の種のようだ。
夕焼けの中でも己の彩を失わない、薔薇にも似た色を持つ花の写真が表面にプリントされている。
受け取った少女の、これどうしたの? と言いたげな視線を受け、視線を逸らして頬を掻く。
「その……親戚に貰ったんだけど、家じゃちゃんと育てられるか分かんないからさ」
「確かに、私……花とか、植物……好き、だけど」
少女の実家は花屋を経営しており、彼女自身も花には詳しい。
だから、この種から咲く花の事も知っていた。
その花が持つ花言葉も。
「……これ、本当に貰い物?」
再び問う。じっと片側だけ露出した目に見据えられ、茶髪の少女は僅かにたじろいだ。
「そ、そうだって言ってるだろ? あたしが花なんて買うように見えるかよ」
「見えないね」
「って即答かよ!?」
それはそれで複雑だ、という顔をする親友に微笑みかける。
「でも、ありがとう。大事にする……ね」
「お、おう……喜んでもらえたなら良かった」
少女は種の袋を、宝物のように胸に抱き締めた。
しばらくそうしていたが、ふと何かを思い付いた顔をすると、前髪を留めているヘアピンを外す。
支えを失った前髪は重力に従って落ち、少女の片目を覆い隠した。
「お返しに……これ、あげる」
「えっ? いいよお返しなんて」
「……ん」
ぐいぐい。
「こんな可愛いの、あたしには似合わな……」
「……んっ」
「わかった! わかったから!」
ぐいぐい。ヘアピンを握った拳をめり込ませるように押し付けられ、全く痛くはないが悲鳴を上げる茶髪の少女。
有無を言わさぬ気迫に逆らえず、その場でヘアピンを着ける破目になった。
「……これでいいか?」
「うん。似合ってる、よ」
忌憚なく本心から言ったつもりだったが、言われた側は恥ずかしくなったのか、頭を振って話を切り上げた。
「もういいだろ! さっさと帰るぞ!」
「はぁい」
決して不機嫌になったわけではないというのは、ヘアピンを外さないところを見ればすぐに分かる。
鞄を持って足早に教室を出ていこうとする親友の背中を、少女は笑いながら追いかけるのだった――
時が経ち、中等部に進級した少女は、教室の片隅にある席で独り、手元の植木鉢を見つめていた。
隣にかつての友の姿は無く、手入れの荒い萌木色の髪から覗く瞳は、光を失くして鉢植えの中の淡い紅色だけを映す。
「おはよう……今日も、暑くなりそうね」
薄笑いを浮かべ、花に向かって語り掛ける様は、傍から見れば不気味の一言。
クラスメイトは彼女を遠巻きに眺め、ひそひそと陰口を叩いているが、そんなものは意に介さない。
ただ窓の外、中庭の縁に広がる向日葵畑に視線を投げ掛け、ぽつりと。
「……嘘吐き」
誰かに向けて呟かれたその言葉を聞いたものは、静かに咲く薄紅の花の他にはいない。
―――――――――――――――――――――――
都内某所 特殊異能力公安部《高天原》本部
十年前、一人の男によって設立された、能力者と呼ばれる素質を持つ者達のもたらす様々な影響から国と民、何より彼ら自身を守る使命を抱く特務機関――それが、この《高天原》である。
「潜入捜査、ですか?」
本部内の一室に呼び出され、扉の前で姿勢を正す少女――祠堂 深奈は、告げられた指令を鸚鵡返しに反復した。
蛍光灯の光に照らされた髪は燃えるように紅く、二つ結びが深奈の呼吸に合わせて揺れる。
七分袖のジャケットの下からは、タンクトップの裾を持ち上げるたわわな果実が主張し、17歳という若さに見合わぬ色香を放っていた。
「ええ。柏木指令から、直々のご指名だそうです」
「直々にって……私を?」
驚くばかりの深奈に苦笑で返すのは、暗い茶髪を短く揃え、穏やかな印象を抱かせる初老の男性。
高柳 賢治。深奈が見習いエージェントの頃から世話になっている、元警察官僚の構成員である。
「潜入先が女子校である事と、ここ数ヶ月の実績を鑑みての判断でしょうね。資料を纏めておきましたから、詳しくはそれを見てください」
高柳がデスクの上に紙の束を置いて着席を促したので、深奈は椅子に座り、資料を手に取った。
そこには、ある学校に関する調査結果が写真付きで記載されている。
「私立、揺神女学院……」
エスカレーター式の教育機関、という所は深奈が通っている天ヶ原総合学園と同じだが、特筆すべきはその校風にあった。
『大和撫子の育成』をモットーに掲げており、通常カリキュラムに加えて礼儀作法や習い事といった、立派な女性になる為の教育を受けることができる。
そのため一般校より授業の進みが速く、中途入学の難易度は確率1%の門と謳われた天ヶ原にも引けを取らないという。
「そんな場所に異能力者が派遣されるってことは、やっぱり能力者絡みですか?」
「いや、それがそうとも言い切れないんですよ」
「……えっ?」
ある種の確信を持って問う深奈に、しかし高柳は曖昧な返答をした。
深奈を含めた異能力者は《高天原》でも指折りの実力を持ったエージェントであり、それが能力者の関与しない案件に駆り出されるなど有り得ない。
「君に調査して貰うのは、とある噂についてです」
「噂って、そんな――」
そんな物で《高天原》が動くわけ、と言いかけた深奈の言葉は、続く高柳の言葉に掻き消された。
「『正義の味方』の噂だ、と言っても?」
「っ……!」
曰く、揺神女学院には、日常の裏で学院の平和を守る為に戦う存在がいるらしい。
しかし、実際に見たという証言は無く、噂だけが生徒達の間で広まり続けているというのだ。
普通なら眉唾物の夢物語で片付けられる話だが、《高天原》はこれを能力者による隠蔽工作だとする仮説を立てた。
一般人が持たない特異な力を手にした者は大抵、増長し問題を起こす場合が殆どだが、中には過去の大事件を受けて潜伏しようとする者もいる。
そういった隠れ能力者を保護する事も《高天原》の重要な任務なのだ。
「君が指名された理由が分かりましたか?」
「それを聞いたら、行かないわけにはいきません。だって私は……」
「正義の味方、ですからね」
一年近く深奈の成長を見守ってきた男は、彼女が戦う理由をよく知っている。
だから、資料を預かって部屋を出ていこうとする少女の背に向けて、一言。
「寝坊しないよう、気を付けてくださいね」
「………………ぜ、善処します」
たっぷりの間を持たせて、深奈はそれだけ答えたのだった。