明晰夢
「ファイアー!!」
勢い良く右手を突き出し、三久川貴也は呪文を唱える。
現実の世界ではもちろん魔法など使えない。だがファンタジーな異世界を再現している今夜の夢の中なら、なんだって出来る気がしていた。
次の瞬間には、手の平に集まった熱が炎となり、真っ直ぐ敵に向って放たれる気がする。
――気がするだけだった。
「出ないのかよッ!」
そう都合よく魔法など出ない。
それが己の想像力不足なのか、出来るハズがないと無意識で思い込んでいるからなのか、原因は分からないが。
とにかく出ないものは出ない。
城壁のすぐ外、見た目からも最弱感を漂わせるブヨブヨした魔物から逃げ惑いつつ、貴也は自分の夢に一人ごちた。
「夢ならもうちょい俺に優しくしてくれ!」
と。
怪我こそないものの、ほうほうの体で城内に逃げ戻った貴也は、目覚めた時に出会った少女を探すことにした。
中世ヨーロッパを思わせる、庭園に面した石造りの廊下を歩く。
噴水から水の流れる音、木の枝で休む鳥の囀り、全てがリアリティに溢れ、ここが夢の中だと忘れそうになるほどだ。
進む廊下の壁面には電気でも蝋燭でもない謎の光源。屋内を照らすほどの輝きを放つ不思議な石で、かろうじて夢の中の異世界だと認識は出来るが。
見知らぬ城内を記憶を頼りに進み、ようやくスタート地点。
貴也がこの世界で初めに目覚めた部屋へと行き着いた。
木製の重厚な扉を、ギギギと音をたてさせて押し開くと、最初に貴也が見た少女が声をあげる。
「あ、戻ってきましたね。
お師匠様!戻ってきましたよ!」
喜色を含んだ声で叫び、師匠とやらを呼びに走る可愛らしい少女。
真っ白いローブを身に纏っているので、魔法使いや魔術師なのかもしれないと貴也は思った。
高校二年の貴也より若干年下、発展途上の体にはややブカブカのローブが走りづらそうである。
その女の子が、ややあって師匠とされる細身の男を連れて戻ってきた。
「驚きましたよ。
目覚めたと思ったら、すぐに走り去ってしまったものですから」
男にそのように咎められるが、貴也に悪びれた様子は一切ない。それはそうだ、夢の中なのだから。
謝る必要もなければ反省する必要もないだろうと、普段では考えられないほど貴也は大胆な心持ちになっていた。
そんな彼の様子を意にも返さず男は続ける。
「申し遅れました。私の名は『ポラ・シーオ・マハオ』と言います。
ここボードレイド城で宮廷魔術師を勤めさせていただいている者です。
この世界では少し名が知れているのですが、今の貴方には分からなくて当然ですね」
「少しだなんて謙遜すぎますよお師匠様!
魔王を倒した勇者の一行、勇傑の7人の一人『紫石の杖のポラ』と言えば、知らない者などいません!」
と、少女は師匠の偉業を誇るように嬉しそうに語る。
空を映し出したかのような、大きめな円らな瞳が印象的で、柔らかそうな頬は幼さを象徴するかのように薄く朱に染まっている。
まだ丸みを残した輪郭に、美少女というより可愛らしい女の子という印象を貴也は感じていた。
「えぇと、君。
魔王を倒した?魔王はもういないの?」
「あ、申し訳ありません、自己紹介がまだでした。
私の名前はルーイン。ルーイン・シェイラです」
貴也が『君』と指した少女が、思い出したように自分の名前を名乗った。
少し大人しそうな雰囲気だが師匠に対しては無邪気さも見せており、こんな妹がいたら良かったのになと貴也は思う。
同時に、夢の中とはいえこの可愛らしい少女、ルーインにセクハラ紛いのことをするのは良心が咎めるので止めておこうと心に決めた。
「それで魔王のことなんだけど」
「あ、はい!そうでした!
この世を闇に包み人々を恐怖のどん底に貶めていた魔王は、つい二週間ほど前に倒されました。
予言の通り勇者アラニスと、旅を共にした勇傑の7人の手によって」
「あ、そうなんだ。
わりとタイムリーな感じの設定なんだな」
「え?タイム……設定……?」
聞きなれない単語に、ルーインは困惑してしまう。
「ふむ。
さきほど飛び出したことといい、まだ目覚めたばかりで混乱しているのかもしれませんね。
私は勇者の目覚めを王に報告しなければなりませんから、ルーインは彼に少し城内を案内してあげて下さい。
のんびり歩けば落ち着きを取り戻すでしょう」
「はい、分かりましたお師匠様」
ルーインの返事を待ってから、ポラと名乗った細身の宮廷魔術師は部屋をあとにした。
「では、私達も行きましょうか。
あ、私のことは気軽にルーインとお呼び下さい勇者さま」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。
さっきから俺のことを勇者と呼んでいるみたいだけど……」
「はい、そうですよ?
お話した、魔王を倒した勇者アラニス。
それが貴方なのですから」
当然ながら、まったく身に覚えがないので『そっかー』と生返事をしておく。
それを特に不審にも思わないルーインと共に、貴也は城内の散策に出向くことにした。
ルーインの説明を聞きながらボードレイド城の中を見て回る。
彼女の話では、ここは辺境の小さな国だということで、城内の装飾や調度品も質素なものばかりだそうだ。
手こそ繋ぎはしないものの、可愛らしい女の子と二人で歩くのはまるでデートのように感じられ、貴也の心は躍った。
女性と二人で出歩くなど、幼馴染と以外は経験がない。
その幼馴染にしても、高校入学以来は時間が合わず……というよりも、近所や友人達の目が気恥ずかしくて、二人で出歩くということはなくなった。
もっとも家がすぐ近所なので、毎朝のように部屋まで起こしに来てくれているが。
「ここは訓練場ですね。
このお城を守る兵士さん達が、日々鍛錬している場所です」
解説してルーインが扉を開いた途端、汗と埃の混じった男臭い熱気がムワッと押し寄せ、貴也は目を閉じる。
夢の中で不快な思いをする必要はないなと思い、『ここはいいよ』とルーインに告げるとすぐに扉を閉じることにした。
――しかし凄いなと貴也は思う。
見るもの、聞くもの、匂い、風。
全てがリアリティに溢れ、現実と見紛うばかりである。
自分の意識や感覚もはっきりしており、通常の夢とは一線を画す。
話には聞いたことがあったが、これがいわゆる『明晰夢』というやつなのだろう。
生まれて初めて経験する明晰夢に、貴也は興奮を隠しきれないでいた。
だが、こうも聞いたことがある。
あまり夢の中で興奮しすぎると、夢から醒めてしまうと。
最初は興奮のあまりすぐに城から飛び出して、外にいた魔物と戦ってみたりもしたが、その話を思い出した今は冷静だ。
なるべくこの夢に長く浸かっていられるようにと、心静かに楽しんでいる。
自主的な行動は控え、展開に流されるまま。
それが夢を長く楽しむ方法だと、なんとなしに心得た気になっていたのだ。
せっかくの明晰夢。
せっかくの異世界。
だが貴也はまだ知らない。
この世界が現実であり、貴也が思うよりもずっとずっと残酷で厳しい世界なのだと。
そう遠くない未来。
彼はそのことに気付いてしまうのだった……。