64話 迷走
兄弟とは何なのだろう。
アウレリアヌスは考えた。
「生まれた時からそばにいる者のことか」
「互いを理解し、信じられる者のことか」
問は、ひと月前の王宮から始まっている。弟アンブロシウスが自分に敵意を向けた時より、今この時に至るまで、それは続いていた。答えはまだ分からない。
西大陸。西方最大の人口密集地。天山である。
王宮を急襲した魔術師たちの組織、魔導会議によって王都を占領されたアンブロシウスは、聖光教の教祖ベーダに助けられ、その配下天鍵の使徒スティリコの魔術によって天山へと空間転移を果たしていた。
弟、アンブロシウスは魔導会議幹部の五賢弟が一人であり、王都急襲の際には兄であるアウレリアヌスに対して敵対したが、今は囚われの身となり、天山にて拘束されている。
アウレリアヌスが天山に逃れてより、ひと月が経過していた。
ロムルス王国は二つの勢力で分断されている。
(父より魔王の位を奪い去ってからわずか数年でこの有様。俺には王たる資格がないということであろうか)
囚われの弟に愚痴を言ってみたこともあった。
「兄上。私はただ、魔導会議がこの世界に必要だと思い、行動を共にしたまで。そこに、兄上に対する感情はありません」
それ以来、弟には愚痴を言っていない。
気にしても仕方のないことを気にしている自覚はあった。
すでに父は亡く、俺は玉座に着いた。であるならば、王としての責務はまっとうせねばならない。
王の責務とは何か。国土と民を守ることにある。
しかし、その国土は二つに割れ、民は俺に反旗を翻した。
俺に王の資格はあるのだろうか。
そこでいつも思考は振出に戻るのだった。
「なあ、アンブロシウスはまだ魔導会議に戻りたいと思うのか?」
「それは勿論。ただ、長い間敵に捕らわれていた私が受け入れられるか不安ではありますね」
「敵か」
「魔導会議にとって、研究を阻むものは敵です」
「ギルダス翁がそう言ったのか」
「ー魔導会議の総意です」
「含みのある言い方だな」
「…別に」
それきり答えなくなった弟を置いて、俺は監禁場所から外へ出る。似たような会話を何度したことか。言葉を交わすたびに、弟のことが分からなくなっていくのだった。
聖光教の研究室の一角に拘束の魔術を張り巡らせ、そこに弟を閉じ込めている。
「陛下。毎日精がでますね」
散歩しているような風情でベーダがいた。
「怪我の具合はもういいのか」
王都脱出時に、五賢弟を四人相手どって俺を逃がしてくれたという。
両腕骨折。両足の裂傷。全身の皮膚はよくわからない呪詛で焼け爛れ、両目を穿たれて失明しかかっていた状態だったのが、ひと月前である。
俺と弟を転移させた天鍵の使徒スティリコがもう一度転移の魔術を用いて迎えに行く間、一人で魔導会議の最高戦力たちを押しとどめていたためだ。
スティリコ他、数人の使徒が王都に転移し、救出することができた。
「ふふふ。年は取りたくないものです。怪我から復帰するのにひと月以上かかってしまうとは」
「あれだけの状態から復活できるのは翁だけであろう」
「いやいや。陛下もあと二十年修行すれば私を超えることは容易いでしょう」
「宗教に興味はない」
「ーそうでしたね」
含みのある視線から逃げるように俺は足早にその場を去った。
「ー今までは、そうだったのでしょうが…」
溜息のような、呟きのような、鍛えた感覚はそんなベーダの声を届けた。
そうだ。
父、ウォーディガーンを超えたいと鍛えた時には、宗教など、己の力以外に頼るなど、小馬鹿にしていた。
どうなのだろう。
今は、よくわからない。悩みを見透かされていると、何もかも打ち明けて楽になりたいと思うことがあった。ベーダの言う精霊はこの世に大きな影響を及ぼす人知の外の存在だという。悩みも望みも全て精霊に託し、生きられたのなら。
「大兄上」
「ロウィーナか」
護衛を連れたロウィーナがいた。
ぎらついた視線をこちらに向ける護衛が一人いる。が、さして気に留めることもしなかった。どうにも、体の中に淀みが溜まっているような気がしていた。
「ご気分がすぐれないようですわね」
「大したことはない」
冷たい母親譲りの視線と鋭い舌鋒を持つ彼女は、その日の天気を話しても他人に恐怖を抱かせるという評判がある。外面がそうだというだけなので、実際は優しい妹である。
誕生日には押し花のしおりをくれたものだ。光に透かして見た時に暗号らしき記号が見えて、それを解くのに一年かかった。妹はそれ以来俺のことをバカ呼ばわりする時がある。言い返す言葉もない。
「小兄上とお会いした帰りですか」
「ロウィーナは会いに行かないのか」
彼女とヘンギストとオイスクは王都から脱出し、ちょうど数日前にここ天山の聖光教拠点にたどり着いていた。それに前後する形で王都を脱出した近衛騎士や駐屯していた軍団の兵もちらほらと天山へ現れていた。
近衛騎士団の団長、竜騎士、百目のフリティゲルンの姿はない。王都襲撃より、行方知れずとなっている。
軍総帥ヘンギスト、副総帥オイスクの指令が王国各所へ届き、軍は天山を司令所として活動を始めていた。ただし、ロムルス王国南方と王都周辺の軍とは連絡が途絶えている。どちらも魔導会議の影響力が特に強いところだ。
妹ロウィーナは各地に張り巡らせたという情報網を通じて、そんな話を集めているらしい。聖光教の拠点内を巡りながら、俺に言って聞かせてくれた。
「大兄上。ひとまず魔導会議の手から逃れたのは重畳でした。ですが」
ですが、と言葉を区切る。その先は言わずとも知れていた。
これからどうするか、だ。
「さてな。ひとまずは体を休めるといい。逃避行は疲れただろう」
一礼し、去る妹。俺の心にはその陰が残る。
どうすればいいのか。単純な答えのような気もするが、自分の中に溜まった淀みのせいで、その単純な答えが分からなくなっていた。
とにかく、あの王都の夜から今日まで、俺の中が淀んでいる。天山の聖光教拠点が漂わせる清浄な魔力が酷く息苦しい。よく晴れた青空さえ忌々しい。
九王の御代をすべて呪いたくなるような気分だった。
(心底、弟に裏切られたのが堪えている)
気分の悪さはすべてそこからだ。だから、もう一度、アンブロシウスが俺の味方になってくれたら、魔導会議を抜けてくれたのならと、考えてしまう。
それでこの一か月、何も前に進んでいなかった。
「いよぉ。旦那、辛気臭い面してんじゃねえよ」
暗がりから声がした。漂う酒の匂いから、酔っぱらいが喧嘩を売ってきたのかと思った。
「ヘンギスト? こんなところでどうした?」
軍総帥が路地裏の地面に座り込み、瓶を転がしている。
本人の性格として、酔態を人に見せることに抵抗がないのは知っていた。だが、一応は軍の総帥としての体裁も整えるのがこの老傑だったはずだ。
「見ての通り、気晴らしさ」
「気晴らし」
目の前でヘンギストが新しい瓶を一本開封する。酒の匂いが鼻につく。飲み物と言うより、傷の消毒に用いるような代物だろう。それをヘンギストはラッパ飲みしていく。
酒臭いげっぷを吐いた。
遠くで兵が総帥を探す声がする。
「探されているんじゃないのか?」
「聞こえねえなァ」
俺は立ち、ヘンギストは地面に腰を下ろしている。足まで投げ出して、なんだか愉快な様子だった。酒のせいかもしれないが。
「仕事は山のようにあるのではないか? またオイスクが外付けの処理用魔道具を増設することになるぞ」
「あいつだって暇さ」
「そうは言うが、兵の受け入れだけでも一仕事だろう」
「別に。今ここに集まってきているのは、みんな聖光教の信者だ。奴らの受け入れはベーダの色ボケ爺がうまくやる」
「ふむ」
知らなかった。人数が集まっていることは知っていたが、その一人一人がどのような人物なのかは、俺の意識の外にあった。ため息がでる。
「飲めよ。陛下も気晴らしが必要そうな面してるぜ」
「いや、俺はー」
ただここにいるだけの旗頭。弟に裏切られ、父の師に背かれ、むざむざと、何をなすことなくひと月を無駄にした愚かな王だ。昼間から酒など飲んではいられない。
「自分がダメな奴だから、飲めないってんなら、俺はどうよ? 王都をむざむざ捨てた男が、酒をお前に進めてるんだぜ? むしろ今しか飲めない酒だぜ」
今しか飲めない酒。その言葉に心が動いた。
気が付けば、汚い路地裏に座り込んでいた。
老人と二人、何の味もしない酒を飲む。
「酷い酒だ」
ヘンギストはカッカと笑う。
「だが、気分はいいな」
地べたに座り込み、空を眺めた。どことなく痛快である。
「この喧嘩、どっちが勝つと思う?」
「喧嘩?」
周囲に騒ぎの気配はない。中天に差し掛かろうとする日輪が光線を投げかけてくる。
「ギルダスとベーダの喧嘩さ」
「ああ、そのことか」
ロムルス王国を二分する戦いになりかけている状況を、一対一の喧嘩に例えられるのが、いかにも老傑のヘンギストらしい。その大雑把さに思わず少し噴き出した。
「まあギルダスだろう」
「へえ」
答えを促すようにヘンギストは瓶を呷る。俺も喉の滑りをよくするために口いっぱいの不味い酒を飲みほした。
「各地の領主が七対三で魔導会議に協力的だ。魔術と魔術師がこの国でどれだけ有効か、無傷で王都を占領することで宣伝したおかげだな」
「嫌に自虐的じゃないの。もうちょっと自信持てよ陛下」
「馴れ馴れしい爺だ」
「あとは、単純に五賢弟の戦力があるな。少し戦ったが、あれと正面から戦えるのは、俺か、ベーダ翁か、目の前にいる酔っぱらいの爺か、古の三戦士、そのくらいじゃないか?」
「まあ、野に埋もれてる実力者を除けばそんなモンだろう」
「よく今まで国の中の研究機関として収まっていたものだ」
「確かに!」
げらげら笑うヘンギストにつられて、俺も笑い出した。これはダメだ。勝てる見込みがない。そう思うほどに、おかしくなってくる。足元もよく見ずに、父を乗り越えて、魔王などと名乗り、自分が一番強いような顔をしていたのだ。
「俺は馬鹿だな!」
「いいじゃねえの! 馬鹿に乾杯!」
「乾杯!」
すっかり悪酔いしていた。まずい酒を大量に飲めば無理もない。
「まあでも、勝ち目で言ったらベーダの爺にもある」
「聞こうか」
今度はヘンギストがベーダの強みを語るらしい。いつ、誰と、どこであっても、酔っぱらって最強談義をするのは格別に面白いものだ。
「聖光教は精霊を使った治療魔術で、一定数の領主から硬い支持を得ている。大体、そうだな、さっき陛下が言ってた通り、三割から二割ってとこか」
「そうだろう。誰だって死の淵にある家族や友を救われれば悪い感情は持たない」
「あとは、使徒だな」
「ああ。そういう者たちがいるとは聞いたことがある」
「陛下をここに連れてきたスティリコがまずそれだ。他にも何人かいるらしいが、まだ人数が分からん」
「スティリコか。古の三戦士の一人で、現在はベーダ翁の懐刀と聞くな」
「まあ、それは五十年前の肩書だがな」
「今は違うと」
「使徒の連中は、精霊をその身に宿すんだ。しかも、飛び切りデカくて強い魔力を持った精霊をな」
「それが五賢弟に匹敵すると」
スティリコが深く頷く。
「間違いない。何なら、スティリコ単体で五賢弟全員を相手にして勝てる」
ちょっと息をのんだ。確かに古の三戦士の実力は知っているし、そのうちの一人竜騎士フリティゲルンの力量は肌で分かっている。それでも、魔術の粋を極めたといえる五賢弟相手に、勝てると言い切るのは驚いた。
「それは、なかなか激しい喧嘩になりそうだな」
「そうだ。実につまらん」
「つまらないのか? 見ごたえはあると思うが」
拍子抜けするほどあっさりとした感想で、俺は安易な質問をしてしまう。ヘンギストが上を向いた。空を見た。俺の問いかけに答えようかどうか、迷っている横顔だった。
「そんな面白そうな喧嘩に、俺は混ざれない」
ぼそぼそと喉に引っかかるように、酒で回らない舌の上で転がした言葉が耳に入ってきた。それだけで、脳内にいくつもの想像が湧いてきた。
人知を超えた魔術。強力な使い魔。強大な力を手に入れた武力の最高峰達。血沸き肉躍る激戦。
そしてそれを横で見ながら酒を飲んでみているだけの自分。
(これは違う)
違う。何がだろうか。
「俺が魔力災害を見てから、五十年鍛えてきた最強の軍隊は魔術の前に砕けた、戦う前に分解された。クソみてえな気分だ。しかも、それをやったヤツが俺を抜きにして最強決定戦だ。吐き気がする」
(そうだ。それだ)
ヘンギストの悔しさが、記憶を呼び覚ます。
(目の前に最強として語られる存在、奴らには俺の手の届く、今この世に存在している連中で、俺はその中に入っていない。それが、たまらなく悔しい)
手の届かない過去なら励みになる。これから生まれる可能性ならこの手で打ち砕くことができる。今、目の前にあって、戦うことができない。自分が最強であると示さなければならない。無性に心が沸き立った。
(最強の二文字が魂を滾らせるのだ)
俺は立ち上がった。
「気合の入った顔だな。何か思い出したのか」
「父を思い出した」
「ウォーディガーンを?」
「父を倒したときのことを思い出した」
ヘンギストが立ち上がった。
「ならあの時みたいにやるんだな」
「やる」
あの時、大陸最強と言われた父を超えた時、一対一の真っ向勝負で魔王を負かしたときのこと。無骨な直剣を手にして太古の魔獣を切り伏せて進み、横っ面を殴り飛ばした記憶だ。
それは確かに立った最強の座の記憶だ。
そして今立っている敗北者の地面だ。
「ありがとう。ヘンギストさん。俺はやっと負けたことが分かった」
「なに、傷の舐め合いは一人じゃできないってだけの話さ」
「そうか」
苦い顔を見て思い至った。
「ヘンギスト軍総帥も負けたのか」
「まあな」
王都占領時に軍の組織だった抵抗はなかったという。それを裏切りだと謗る者もいるが、俺は事実を知らないし、確認する気もない。
「負けを取り返す機会を自分から手放したのさ」
負けた将が酒に浸り、もう一度立とうとしているのだ。己の力で立ち上がる意志を沸き立たせているのだ。負けを認め、悔しさを飲み込み、つらさを酒で紛らわせ、それでも己の強さを証明したいのだ。
「なら、もう一度掴むまでのこと」
「その通りさ。気張るぞ若造。ウォーディガーンを見送ってこのざまじゃあ、さっさと若い奴らに道を譲れと言われちまうからな」
「俺はまだ二十代だ」
「知るか。俺は七十を超えた。負けてたまるか」
やる気は出た。
「それはそうと、これからどうするかは考えないとな」
何しろやる気しかない。
「任せろ。俺にいい考えがある」
爺がにやりと笑った。ヘンギストが酒瓶を片手に語った内容に、俺の口角もにやにやしてくる。
「いい考えだろ?」
「いい考えだ」
ヘンギストと酒をかっ食らったその夜。
俺はこっそり天山の聖光教拠点から出発した。着の身着のまま、食料、薬、金も持たずに身一つで闇に紛れる。聖光教の研究拠点とはいえ、研究者や聖職者の家族や日用品や食料を売りに来る商人も暮らしていて、人の出入りは夜中でもそこそこにあった。
酔っぱらいの散歩のようにして、流れに乗って人の少ないところまで歩く。山を中心とした街なので、人の暮らしがなくなるところまで来ると山の陰に隠れられるようになった。
緩やかな丘陵は一足で乗り越えられる。
切り立った断崖は体一つで登攀した。
一晩、進み続けた。
朝日が昇る。
「あれが関所か」
眼下には天山に出入りする人々を管理するための関所があり、薄明の中だというのにちらほらと旅人がいた。商人、傭兵、といった旅慣れた格好の者達や、王都から逃れてきたロムルス王国の軍服姿も見られる。
「さて、俺はあっちだ」
西大陸の東側にロムルス王国の領地は広がっている。大陸北の海岸から大陸南東にかけてが支配権を持つ土地である。
天山から流れる雪解け水の川、アムル川は内陸北の天山から南東の王都へ向けて流れている。そのアムル川が眼下に流れていた。背を向けて、北を見る。ヘンギストの案によって、俺はこれから西大陸の北の大地を目指す。
大陸北方はまばらな村と魔獣の土地である。まずは装備を整えなければならない。
(無一文、装備もなし。あの爺め)
旅支度の一つでも整えてくれるのかと思いきや、そんなこともない。自前で装備でもくすねておこうかと思ったが、あとで説教されるであろう倉庫番が気の毒になった。
そんなわけで、着の身着のまま、無一文である。
「腹減った」
北を目指して山を行く。北は魔獣が多いが人は少ない。通りすがった魔獣の尻尾をむしってそのまま齧って腹を満たしたが、中々村は見えてこなかった。行きかう旅人の姿もない。
素材の調達にでも行くのだろうか。魔術師とその護衛の一団を発見して半日潜伏した以外は毎日足を進めていた。その間、人と出会うことはなかった。
「そろそろこの辺で腹を満たそうか」
縄張りに踏み込んだ俺を待ち構えて、魔獣が現れた。このあたりではよく見かけた魔獣である。六対の長い足で岩場を素早く移動する。高い足に支えられた胴体は俺の目線からかなり高い位置にあり、フワフワした体毛に覆われていた。
カサカサと動きまわる姿は少し不気味であった。大型の魔獣である。循環型、肉体強化の魔術によって引き上げた五感にはほかの魔獣が隠れている気配が伝わってくる。
(増援、無し。ここいらの主かな?)
人間を見たことがないのだろう。俺が堂々と岩の上に立っている俺にすぐ襲い掛かることはせず、遠巻きに素早く動きまわっては様子を伺っていた。
(下手に手傷を負わせれば、格付けが済んで逃げてしまう。なるべく一撃で、速やかに)
怯まずに立ち続ける俺を始めて見た魔獣だと判断したようだ。一気に距離を詰めてくる六本足の魔獣。俺の真上に胴体を運ぶと、意外にも胴体の真下が大きく開き、ぬめっとした口が開いた。
踏ん張った。足場にしている岩が砕ける。
(魔獣の特徴を所見で見抜くのは難しいな)
魔獣の口から舌が伸び、地面に突き刺さった時、右手に脳、左手に心臓をつかみ取っていた。
ゆっくりと地面に近づきながら魔獣の様子を窺う。脳や心臓が複数ある個体ではなさそうだった。ゆっくりと足が折れていく。
(体毛がいい火付けになりそうだ)
今日は晴れ。外で焚火をするのが心地よいだろう。
魔獣の体毛で心臓と足、脳みそを焼く。岩塩を振りかけて、口に運んだ。まずかった。肉体強化の魔術で味覚を強化する。毒らしき味はしなかったが、一応消化器官にまで魔術の強化をかけておくのがいいと思った。
焚火を見ながら、弟と妹を思う。
難しいことを考えて気分が重くなることは無くなっていた。時々、無事だろうかと心配になるだけである。裏切られたとしても、弟は弟。そう思えるようになっていた。
ヘンギストの見立ては正しかったのだ。
何より必要だったのは、動く状況から距離を取り、一人になることだった。一人で、敗北を噛みしめることだった。弟に負けた。父と共に国を作った人に否定された。
それを受けとめる時間を、ヘンギストがくれたと思う。
煙が昇る。魔獣の体毛は燃やすときに少しいい匂いがした。
「見つけましたわよ!」
匂いにつられて誰かやってきたようだ。




