44話 怪物
東王国に生を受けてより、この国の柱石たるべく生きてきた。
しかし、臣は腐り、民は溝に慣れ、王は気力を失っている。
加えて、北からの圧力は増すばかりであった。
(そんな国で、私にできることは何か)
仕事はこなせるが、心にたゆたう誇りの在処は、分からなくなりかけている。
(いっそ私も腐ってしまえばよいものだが)
それは誇りが許さない。遥かなる先祖より、祖父へ。祖父は毒盃を呷り息絶える間際に父へ伝えた。父は老いに理性を蝕まれ、自我もなくなりかけたその間際に、私に伝えた。
レムス家の誇り。レムス王国の家臣としての誇り。男としての誇り。人としての誇り。
先祖が累々と重ねた誇りを、私が投げ捨てることはできないだろう。
誇りと弱さを抱えて、私は五十年生きてきた。全ては、平和を守るために。
「ふう。夜通し飲むのは、妻に止められているのだが」
地平線から朝日が光線を放つ。
まっすぐな光の筋が、レムス公爵邸門を貫いている。
私、ウォーディガーンの前に目を開けているのは、中肉中背の中年の男。
(誰だ?)
特徴らしい特徴は無い。強いてあげるなら、落ち着いた眼に、知恵の光が宿っているように感じることだろうか。
「訝し気な顔をなさっているが…。ああそうか、顔を合わせたことはありませんでしたか」
私、レムス公爵当主、レムス・ジェームズの前に立つのは、ロムルス代王国三代代王、ロムルス・ウォーディガーン。
やや線が細いように思えるほかは、何の変哲もない青年に見える。
ただ、なんと言えばよいのだろうか。適切な言葉が見つからない。
「レムス公爵家当主。レムス・ジェームズと申します」
私の名乗りを聞いて、驚く顔。身支度を整える仕草。
「お初にお目にかかります。ロムルス・ウォーディガーンです」
名乗り返す声。
どこかに、異質な、不気味な気配が漂っているような気がする。最近騒がしい、北辺の遊牧民に似た気配。それよりももっと禍々しい、何かが根本から異なるような感覚。
ただの勘だが、私はそれを信じた。この青年は、ただの親戚ではない。この国を、もしかしたら世界を大きく動かすような、そんな何かを秘めている。
「しかし、なぜ公爵様がここに?」
「ああ、その様というのはやめてください。お互いに親戚の扱いでいきましょう。私のことはただのジェームズで結構」
「はい。では、その。ジェームズ殿がなぜ館の外の、しかも酔っぱらいの身体の間に?」
心底当惑した顔だ。昨日の酔いの残りと、当惑。それに微かな期待が出ている。
あまりの初心さに、私の警戒心は小さくなる。
「ははは。家の前で酒盛りを始められては、屋敷の主人としては出てこざるを得ないでしょう」
「それは、申し訳ありませんでした」
「いやなに、ずいぶん楽しそうだったので、つい混ざってしまったのですよ」
「ははあ」
戸惑った顔。困惑と、疑心が読み取れる。
第一声が叱声だと思っていたか。
(微かな期待をもって、酒盛りを始めた。予想通りに当主が出てきたはいいが、人物像が予想と違った。と、思っているかな?)
正確に相手の心の内を読み解く。この王国で人の上に立つにはそれが欠かせない。
「まあ、館にご案内いたしましょう」
「護衛達は?」
「目覚め次第、ご案内いたしましょう。おい、聞こえているな?」
影から出てくるように、執事が現れる。
「御意」
若すぎる代王が、一瞬警戒心を露にするが、執事だと気づいてそれを治めた。
そのあたりの反応は見事なものだ。王としてではなく、軍人としての立ち振る舞いだが。
(修羅場をくぐってきただけのことはある。平和慣れした東の人間では、中々こうはいかないだろう)
密かに感心した。西大陸の現状はおおよそ把握していたつもりだが、そこで戦い続ける人々については、少し知らなければならない。
「家内の淹れた薬湯が二日酔いにはちょうどいいのです。ゆっくりしながら、お話を伺いましょう」
この若者は数年ぶりに来た代王国の正式な来訪者だった。
興味があった。どんな考えを持っているのか。どんな資質を持っているのか。どんな生き方をしてきたのか。
(怪しい風体の護衛達を館に入れないようにしたら、そのまま酒盛りを始めるとは)
仲良しごっこで生きてきた甘い育ちにしては、酒盛りというのが気にかかる。さんざん館の前で騒いで、ついには私を引っ張り出した。
(貴族への挨拶としては減点ものだが…)
堂々と案内を受けている姿は小気味よい。
(すこし鈍いのかな?)
やがて扉をくぐり、客間にて妻が出迎える。
そつなく挨拶を交わすウォーディガーン代王と妻。代王は、完璧な作法で東大陸流の挨拶をして見せた。
(礼儀作法は完璧か。これはなかなか読みがいのある男だ)
訪れた相手の館の前で酒盛りを始めた男。礼儀作法の完璧な堂々とした男。
(交わりそうにない要素が交わっている)
妻が、卓に薬湯を用意して下がっていった。侍女任せにせず、自分で淹れに来たところを見るに、彼女も彼に多少の関心があったらしい。
表情を変えずに退出した彼女からはいかなる感想も読み取れなかったが。
「―と、言うわけでお力添えをお願いしにまいりました」
ざっと話を聞く。
「まずは、難儀な道のり、御足労様でした」
言葉の綾で、難儀、と言ったが、そのような言葉では到底足るまい。修羅場をくぐるというのが比喩ではなく相応しい旅路だった。
「国を半ば魔獣に食われ、雑多な勢力で首都を奪回、その後、僅かな手勢ではるばる海を越えなさった」
(とはいえ、それだけではないな)
顛末を記したという報告書が私の手元にある。初めに手渡され、それを見つつ口頭での説明を受けたのだ。
推定の被害状況も記載がある。
(百万を確認した魔獣の群れに、国土の中央を西端から東端に横切られた。結果、港が壊滅。ここまでは良しとしよう)
「して、船の航路は?」
「地図を出しましょう」
ペンだこのある代王の指が、地図上の航路をなぞる。
(おおよそ、矛盾はない。が、このルートでは濤竜の縄張りを掠めるな)
海人王と濤竜との勢力抗争で、今の海は大荒れだ。西大陸、南大陸、東大陸の交易路も被害が大きい。
この青年は、そこを通り抜けてきた時の何か、を隠している。
(とすれば、判断は早い。手の内を見せてもらうまで、追い詰められてもらおう)
親戚だからと言ってなにくれとなく世話を焼いてやる気はない。手札を隠している相手ならば猶の事である。
「これは難儀な航路を選びましたな。その辺りは竜と海人王の争いの真っ只中で、我が国の船も何そうか行方知れずとなっているのです」
「…そうでしたか。それは危うい所を運よく切り抜けたのでしょう。ツキがあったようです」
言葉に詰まった一瞬の間に、表情に焦りが出た。
(頭の回転が速いな。しかし、もう遅い)
「こちらにはどれほど滞在する予定ですか?」
「ひと月ほどでしょうか」
「ひと月」
挨拶程度しかする気はないか。
「では、急いで支度をなされるとよい。陛下へ御目通りを願うことすら時間がかかります」
「あの、一筆書いていただくことは可能ですか?」
「構いません。しかし、それだけでは上手くいきませんよ」
「はい。お願いします」
卓上においてある鈴を鳴らす。
「お呼びでしょうか」
「陛下に一筆紹介状を書く。紙とペンを」
「はい」
私が子供の頃から変わらない姿形の執事が、音もなく現れて、下がってゆく。
(ふう。用向きは片付いたか?)
薬湯を啜る。
代王もつられたように椀を持った。
「これは何気なしの質問なのだが―」
「はい?」
椀から立ち上がる湯気の向こうに、怪訝な顔が見える。
「代王になった感想を聞いても?」
代王ウォーディガーンが、薬湯を啜った。
何と答えるのか、興味がある。王位を継ぐ望の乏しい立場だった青年が、家族を全て失うという道を辿り、玉座に就いた。
魔獣への恨みか。
家族への弔いか。
望外の幸運か。
はたまた他の感情か。
「本を読み時間が減ったので、毎日辛いです」
「は」
これはまた率直な言葉を聞くものだ。
「あははははは!!」
ウォーディガーン代王が苦笑する。
「いや、失礼した」
「一応本気でした」
「うむうむ。私に本心を打ち明けてくれたことは嬉しく思うよ」
目の前の青年の心の内が少しずつ分かってくる。
「ただ、そういう言葉を聞くと、こう思う。もし、自分よりもふさわしい資質を持つ者が目の前に会わられた時、あなたは代王の位を譲るのか、と」
ウォーディガーン代王の瞳孔が収縮した。黒目が消え去った。違う。白目まで黑に染まった。異様な気配が漂う。
一瞬の事で、代王が瞬きをするとそれは元に戻った。それでも、気配は色濃く残っている。
(この青年の身体には、何かがある)
確認に近い勘である。
(私には計り知れない何か、魔術的な事象に、このウォーディガーン代王は深く触れている)
茶器がひとりでに浮き、ウォーディガーンの器にお代わりの薬湯を注いだ。
なみなみと注がれた、湯気を上げる液体。息を飲んだ。表情に出そうになるのを堪えた。
これほど、呼吸をするよりも容易く魔術を用いる者を、私は見たことが無い。
(西の魔術師。異形の者達。魔力というものは、本当に厄介だ)
「恐らく、私は譲らないでしょう」
「ん? ああ、話の途中だったな」
薬湯で温まった器を両手で持ち、ウォーディガーンは静かに語りだす。
「私が代王になろうと思ったのは、ある人にそう望まれたからです。その時は私のすべきことが分からず、ただ与えられた目的に向かって歩き出しました。ですが」
そこでウォーディガーンは薬湯で口を湿らせる。
「ですが、私に代王の存在を求める者が数人になり、数十人になっていくと、だんだん、私の中に光が灯っていきました。その光は、私の前を照らしています。今もです」
また一口。ウォーディガーンは薬湯を飲んだ。
「時に、光は弱まります。そうなった時、周りにいる者達の望みが、私の心に入り込んでくるのです。金が欲しい。権力を握りたい。死にたくない。その声を聞くと、私の光は輝きます」
器が空になる。
「私は、全ての欲望を支えます。だから、たとえ誰かが、私よりも王にふさわしいと言い出しても、私は、私に望みを託す者がいる限り、王にしがみつくでしょう。それが、全てを失った者の最後の光なので」
素直な人柄だ。
それは、そろそろコントロールできるようにならなくてはいけないものだ。全ての欲望を肯定すると言い放った目の前の青年が、魔物に見えた。
(これは、私の生涯でも指折りの出会いやもしれない)
我が王。我が妻。それに続く、第三の出会いだ。
意味もなく、そう信じることができた。
(しかし、未熟だ)
十分な資質はあるだろう。
過酷な戦いを生き抜いた運と実力もある。ただ、まだ何か足りない。
(成長を促すには、負荷が必要だ)
それは与えることができるものだ。
「お話いただき、ありがとうございました。代王陛下」
手元にいつの間にか紙とペンがある。執事が背後に戻ってきていた。
軽く一筆したためると、執事が蝋と印を持ってくる。
紹介状を認め、巻物にして代王へ手渡した。
「紹介状です」
「ありがとうございます」
大事そうに受け取る彼に、つい余計なことを言ってしまう。
「あくまでそれはただの紙切れに過ぎません。価値を認めない者も多くいるでしょうから、使いどころには気を使った方がよいでしょう」
怪訝な気配を漂わせたが、代王はひとまず頷いた。要件は済んだ。
「さあ、車を用意しましょう。強行軍になりますが、急げば三日で王都に着けるでしょう」
「献上品ですが―」
「それについては、一旦私が預かっておきます。王には目録を渡されるとよい。後でしっかりと送り届けます」
しばし準備に時間がかかるということで、準備で慌ただしくなる館の中を軽く案内することにした。
妻。父。母。息子。
生憎、娘はここにいない。
「メアリーというのですが、今は王都に居ります。何かお困りのことがあれば、訊ねてみるとよいでしょう」
代王が今二十一歳。メアリーは今年で三十になる。少し歳は離れているが、この二人の組み合わせは見てみたい。
我が娘とは言え、彼女の頭脳には底がしれない所がある。
(いやいや。気が早かったな。メアリーはこの青年の事を知らぬというのに。どうも年を取ると気が急いていけない)
館の中でくつろぐ代王の護衛達とも顔合わせをした。
「話には聞いていたが、本当にあのような姿形の人がいるとは…」
情報としては知っていた。しかし、見るからに異形の者達に仮面と外套をとって挨拶をされると、その生々しさ。思わずたじろぐ。
笑いながら握手をして、「慣れているから気にするな」と言う彼らの表情すら、読み取ることができなかった。
そうして、準備が整う。
「私は強行軍にはつき合うことができない。ここで吉報を待ちましょう。私を待つことなく、王に謁見を願うとよい」
「はい。手厚いご支援、ありがとうございます。ジェームズ殿」
特別あつらえの騎獣車に、替えの騎獣を惜しみなく付けた。貢物が王都へ着くのは、十日程掛かるだろう。
「では、お先に失礼いたします」
「ええ。王都にいるメアリーによろしく」
武骨な騎獣車に飛び乗ると、代王は激しく車輪の音を響かせていった。
私の脇にはいつの間にか執事がいた。
「ジェームズ様。騎獣の手配には半日ほどかかる見通しです」
付き合いのある貴族から騎獣を借りる手配を始めていた。
「…付き添いの身元保証人もいない、海外の使者がどのような扱いを受けるか、御存じのはずです」
「そう非難するような眼差しを向けないでくれ」
「失礼しました。しかし、何故?」
「ずいぶんと君は彼に優しいね」
「そのようなことは。ただ、主の不審な行動に説明を付けられないのです」
「なあに、ただの試練だよ」
「試練ですか。ずいぶんと期待されておられるのですね」
「そうだな。何となく、彼はこの国の未来に大きな変化をもたらすような気がするんだよ」
屋形の中には、代王の気配が色濃く残っている。
暗雲のようであり、しかして夜明け前の薄明りのようでもあった。
「妙な貴族だったなあ」
代王は騎獣車の中で独り言を吐いた。
港からレムス公爵領まで乗ってきた車とは異なり、ごつごつとしているが余分な飾りなどは無く、いかにも頑丈で早そうだった。
その代わり、座り心地は最悪だった。
爆走する騎獣。それに伴って揺れる騎獣車。がつがつと当たる硬い騎獣車の台。
(こんなことなら、私も走ればよかったか)
王都へ向かう道中。一日に何度か休憩を挟みつつ、それ以外は走り続けた。
日程に余裕がない。
(ざっと計算してみると、東大陸への船旅で一月くらい。港町への滞在と、レムス公爵領への移動を合わせて五日。レムス公爵領から全体の日程としては三月を予定していた。帰りの船旅の日程はどうしても縮められないから、レムス公爵領から王都までの道のりを往復で六日とすれば、おおよそ十日で謁見を済ませてしまわなければ)
そういう話を休憩や野営の合間にする。
魔人の護衛達は、一日のほとんどを走り詰めなのにも拘らず、元気な顔をして余裕だと言う。
「十日? そんだけあれば観光だってできまさあね」
二人の治療師は、やや不安げな表情を見せる。
「代王様、東の王宮と言えば…」
「肉親相討つ魔窟のような環境だと…」
「何はともあれ、行ってみなければ始まらないさ」
十日。
十日だ。大陸を横断するのと同じくらいの時間がかかると設定した。それだけ、東の王宮は得体がしれない。
十歳の時、僅かに顔見せとして出入りしたが、あそこは容赦のない利害関係の坩堝だった。
戦場で無双の父でさえ、帰りの船の中で安堵のため息をついていたことを覚えている。
(これから先、どうなる事やら)
其の時、騎獣車が止まった。
「あで!」
硬い床に額を打ち付ける。扉が開いて、御者をやってくれていた護衛の一人が顔を見せた。
「すいません。陛下、ちょっと問題が起きてるようです」
「何があった?」
車の外に出るが、何人か欠けていることに気が付いた。
車の後ろに、うずくまる人影が転がっている。
「おい、大丈夫か!?」
駆け寄って問いかけるが、微かな呼吸音だけが聞こえる。
(なんだ。なにが起きている? というか、ここで行動不能者がでるなんて想定外だ。どうする? どうすべきだ?)
焦りは怯えを産む。
ひとまず、深呼吸して頭を空にする。
「一応呼吸はしているのですが、意識がありません」
来た道に転がっていた魔人の護衛を、ベーダの信徒が運んできてくれた。
「原因は分かるか?」
「魔力欠乏による衰弱だと考えられますが、詳しい事は検査をしてみないと分かりません」
「何人倒れた?」
「五人です」
「回復の見込みは?」
「魔力欠乏によるものならば、しばらく休ませて魔力を使わないようにさせれば回復します」
「他に体調の悪化している者がいないか見てくれ」
「分かりました」
図らずも小休止となった。
まだ倒れていない十二人を治療師の二人が見て回る。
「衰弱の傾向がある者は何名かいました」
「魔力の消費が激しいのではなく、回復が遅れているようです」
「そうか。分かった」
(どうすればいい?)
教えてくれる者はいない。私が最高責任者だ。決断を下すのは私だ。
手が震え、膝が笑った。足を殴りつける。
まだ一日も進んでいない。止まってはいられない。帰りを待っている者がいる。なさねばならない使命がある。
(この分では遠からず魔人の魔力は尽きるだろう)
幸い、治療師二人は何ともないらしい。だが、魔力欠乏は治しようがない。薬を飲ませれば治るものではないし、魔力を分け与えるのは限界がある。
頭を回転させていく。必死だ。考えがまとまらなければ、遠い異国の地でばらばらの一団になってしまいかねない。
(レムス公爵が出してくれる一団が追い付いてくるのを期待して置いていくか? しかし、街道の真ん中に仮面と外套の怪しげな者を放置していくのは問題になるだろうし、魔人は行動不能になる可能性があるから、治療師か私が見張りに残らなければならない。それは避けたい)
「よし。決めた」
不安げな皆の顔を見渡した。
「倒れたものは車に乗せる。動ける者も、交代で荷台に乗って休憩をする」
私は、着ている物を脱いで走りやすい格好になった。
「でもよ…」
「なあ…」
「鍛錬はしている。さあ急ぐぞ」
時間がない。
その言葉が口を出そうになって、慌てた。彼らは、代王国で起きている反乱の事を知らない。
違った。知らないのではない。知らせていないのだ。
(ここで話すか? だが…)
確実に混乱が起きる。
迷い。悩んだ。王都までの道を頭に思い描く。しっかりと覚えている。
「分かった。急ぐか」
「オドアケル」
「事情、ある。そうでしょ?」
「アラリックも」
二人が進んで支度を整え始めると、皆何かを察したように準備を整えた。
「行こうぜ陛下。急ぐんだろ?」
「―そうだ。行こう」
魔力を体に巡らせる。
走り出した。
騎獣車と同じ速度で大地を踏みしめる。足跡は深く陥没し、息が上がる。
「陛下。大丈夫か?」
魔力の消費が激しい。もっと、効率よく。もっと、早く。
魂と体の繋がりを組みなおす。無駄なく。滞りなく。
「―。―」
(何か聞こえる?)
意識は、進む道と、己の内側に集中していく。
「――。――」
風の音だろうか。周囲に何か音を出すものがある。
たっ。たっ。たっ。たっ。
一度宙に浮いて、片足が地面に降りる。蹴る。また体が宙に浮く。
周りの景色が見えているようで、実は何も見えていないようだった。
いつの間にか、辺りが暗くなった。一度、瞬きをしたような気がする。目を開けると、辺りは明るくなったような気がする。
(そういえば、何も食べていないな)
不思議と空腹は感じない。
魔力の流れを感じた。体の外から僅かな魔力を取り入れて、魂に入る。魂から、体に流れて、使われる。呼吸のように、魔力が入ってくる。体で使われて、姿を変えて、出ていく。
(こういう仕組みだったのか)
ぼんやり考え事をしている内に、暗くなって、明るくなった。
呼吸の音。車輪の音。背後の息遣い。
足が意思と関係なく前に出る。魔力が巡る。体を一巡りして、外に出る。世界を巡って、体に入る。魂は、一定の拍動で動く魔力の心臓だ。
道。思い出した。レムス公爵の館に入らなければならない。ジェームズ氏に言われた通り、堅牢な城壁が見える。王都だ。
門番に、通行許可証を見せる。
門が開いた。
「―。―!!」
何か、うるさい。
(そうか、紹介状だ)
足を止めて、手紙を出した。ふと、歩き出せるか心配になった。
「―――」
うるさいのが止まる。不思議と何もかもがよく見えた。視界は明朗だが、頭が回らない。
走る。
鼓動を産む。魔力、体力で体を動かす。自分が物言わず走る機械になったような気がする。案外心地よい。何も考えず、全力で前に進み、目的地を目指す。
走って、奔って、はしる。ふと、風を感じて真っ暗になった。
「意識が朦朧としつつも走り続けていたのか…。いったい何なのだ?」
男。まだ若い。片手に、よく使いこんで手入れをしてある剣を、鞘のままぶら下げている。
「咄嗟に気絶させてしまったが、名前くらいは聞いておいた方が良かったかな…?」
街中を爆走する騎獣車を見つけて、咄嗟に飛び出した男は、騎獣車を先導するように駆けていた自分と同い年くらいの青年を見つけ、寸分の狂いなく鳩尾に一撃を入れて気絶させた。
そうすると続けざまに騎獣車が止まり、後続の仮面の者達も全員倒れ伏した。
男はそうして、困り果てているというわけだ。
「急使にしても様子が変だったから止めようとしたが、あまりの勢いについやってしまった…。これは怒られるなあ…」
王都は朝靄のかかる頃である。車の音で起きた物見高い人影が見えたが、事態が落ち着くとどこかへ行ってしまった。
王都の人間は、物見高いが飽きやすい。騒ぎが日常茶飯事の為である。
「おや。ずいぶんと格式高い手紙があるな」
先頭の男がぽろりと落とした手紙を、腰に剣を吊りながら拾い上げる。
「出し所はレムス公爵邸、か」
朝靄が晴れていく。
東大陸。レムス王国。王都。
男は、連れを叩き起こして二十人の人間を運ぶことにした。




