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九王記  作者: 荒木小吾
一章 西の大陸で
37/68

36話 勝負

 遠く、咆哮と剣戟の音が聞こえていた。数体の魔獣が、遠くから見つめている。

 勝つのは王か、兄か。

 小手調べで軽く魔術をやり合う。シンゲツの生み出した半人半馬の使い魔が、私の放った宙に浮く底なし沼に飲み込まれていく。

「魔力といい、術の威力といい、初めて会った時とはまるで別人だな」

「それでも、お前にはまだ届かない。私は確かに成長したが、お前と会ってから十日も経っていない」

 全力で私を潰しに来るシンゲツの魔力が、押し寄せてくる。

 長くは持たないのが分かり切っていた。

「そうだ。私の魔力を取り込んだとはいえ、所詮ごく一部に過ぎない」

 私の背後にシンゲツの魔力が集まり、使い魔を生み出す。

 防御が間に合わず、両手両足に四つの口で噛みつかれた。牙が食い込む。傷が熱い。焼けるようだ。

「格としては同じ、母上とあの馬鹿を同列にするのは非常に忌々しいが、とにかく同じ九王の眷属といえど、数えきれないほど世代を重ね、九王の力は劣化している。それが貴様らだ」

 見る間に、両手両足が紫に代わっていく。毒だ。

「我々は、偉大なる夜の母の力を、色濃く受け継いでいる」

 立っていられなくなり、顔から地面に落ちた。

「その力を、己の物にしただと? 汚らわしい貪欲さだ」

 目が霞む。何も見えなくなってくる。

 ただ、正面にある莫大な漆黒の魔力だけが感じられる。しかし、負ける気はさらさらない。

「土塊から生まれたものは、土に帰れ」

「うぁああああぁ!! シンゲツ!!」

 小さな魔力が突っ込んでくる。ギルダスか。

 ぼんやりとした感覚を呼び起こす。

「行け。あの小僧の相手をしろ」

 無数の、比喩ではなく、本当に数えきれないほどの魔力が命の形を成す。シンゲツの使い魔が、群れとなってギルダスに群がっていく。

「チチチ、ギルダス。危ねエ! 一旦下がレ、俺タチも一緒にやるからよゥ!」

 聞き覚えのあるような魔術師の声がして、ギルダスの魔力が遠ざかる。

「ふん。勇気だけはかっておこう」

「くそぉおおおぉ! ウォーディガーン、死ぬなんて許さないぞ! 絶対助けに―」

 来る。と声が遠ざかる。

「まあ、実力は伴っていないが―」

「オオオオオァ!」

 ベーダの声だろうか。

「キシャシャシャ!」

 使い魔の鳴き声と共に、鈍い振動が頭に響く。

 意識を途切れさせまいとしても、声がよく聞こえなくなってきていた。

「不意打ちは失敗のようだな。お前も我が同胞と遊んでいるといい」

 更にシンゲツが使い魔を出す気配がある。

「ベーダ様! お助けします!」

 声がして。

「よせ、来るな!?」

 甲高い悲鳴がいくつか上がった。

「シーファ! ナルア! アン!」

「遠くの方で始末しろ。私はこの男に用がある」

「キシャ!」

「くそ、離せ! 離せええええええっ!!」

 ベーダの魔力が、遠ざかる。

 静かになった。

「さて、邪魔が居なくなったところでお前に止めを刺さねばならないのだが―」

 ひた。

 ひたひた。

 ひたひたひた。

 ぞっとするほど冷たい魔力が、全身を包んでくる。

「―お前から、母上にいただいた魔力を返してもらわねばならない」

 きっと、あのギルダスの館でのように、黒い魔力が私の内へと入ってくるのだろう。

「―を、―って、―だ」

「ほう。まだ口が動くか、大した器だ。母上の魔力を取り込める頑丈さは折り紙付きだな」

 ぼろぼろの身体を難なく通過して、私の魔力のささやかな反発を撥ね退けて、シンゲツの魔力が、私の魂へと侵入してくる。

 あと少し。

 ほんの数秒。

 今だ。

「シンゲツ。私はこれを待っていたんだ」

「―!!??」

 私にとっては見覚えのある。真っ白な世界。

 私とシンゲツが二人で立っている。もちろん奴に足が生えているのではない。相変わらずの四角い箱状で浮かんでいる。一種の比喩的な表現というやつだ。

「なん、だ。ここは?」

「私の、そうだな―。適当な言葉を持ち合わせていないのだが―、魂の中、とでも言おうか」

「…どんな術を使った」

 流石に、慌てふためくようなそぶりは見せないか。ここで動揺してくれるようなら、話が早かったのだがな。

「私は何もしていない。そっちが勝手に入ってきたんだ」

「なるほど。実に分かりやすい説明だ」

「お褒め頂きどうも」

 くるりと、シンゲツが一回転する。

「それで? 私をここへ連れてきてどうするというのだ?」

 出方を窺う余裕すら見せている。

 一発逆転の方法を考えたはいいが、上手く行くのか不安になってきた。

「こうするんだ」

 俺を取り込んだ時の感覚を思い出す。

「なに? なんだこれは?」

 シンゲツと私の間に、透明な道ができる。

「ふー」

 大きく息を吐いた。

「まさか!?」

 道を辿って、シンゲツの魔力が私に流れ込んでくる。

 道が、黒く染まった。

「こうやって、お前の魂を全部取ってやる」

 重い。

 シンゲツの魔力は、物理的にも、精神的にも、重すぎる。腹の中心に、粘土があるように感じる。シンゲツの魔力が僅かに流れ込んできただけで、体に異常が起き始めた。

 実際に体が重くなっているわけではない。この場にあるのは魂だけだ。私とシンゲツの身体、つまり肉体は今も治療所の近くにあって、動きを止めている。

 ただし、魂は体と同じ形をしている。魂の腕が千切れれば、肉体の腕も同じようになる。

 ギルダスに教わった通りのことだ。魔力の形が、物質の性質を決める。正常な腕を現す魔力の形が崩れれば、腕は正常な形を保つことができなくなる。

「なんと…。何を考えているのかと思えば、こんなことか」

 魔力を吸われながら、シンゲツは可笑しそうに表面を波打たせた。

「魔力の操作で、私と張り合うことができると?」

 笑っている。

「思い知らせてやろう」

 静かにシンゲツが呟くと、奴は分身を創り出した。

 魔力を、魂を二つに分けたのだ。魔力の保有量は半分ずつになる。

「自らの戦法で打ち負かされる、己よりも格上の存在への恐怖を」

 新しく生み出されたシンゲツの分身が、魔力の道を作る。

 本体から魔力を吸い込むので手いっぱいの私。僅かでも気を抜けば、取り込んでいない魔力は、私の魂を汚染しつくすだろう。

 もう一本の魔力の道が私に繋がる。えも言えぬ怖気に襲われた。

 次の瞬間に分かった。

 シンゲツが余裕を見せて、魔力を食われるままにしていた理由を。自分そのものである魔力を吸われて、平然と口を開いていたわけを。

 あっという間に、私が、消えてなくなる。

 魔力。

 シンゲツの本体から、私の魂へ、そして、シンゲツの分身へと流れていく。

 何も、考えられなくなって、消える。

 意識。

 手放した。

 真っ白の世界。真っ黒な立方体と、それに瓜二つだが僅かに小さい黒い箱が浮いている。

 シンゲツは、たった今までそこにいた哀れな日輪の眷属のことを思っていた。

 血統に縛られていた。

 周囲の望みを叶えるために、己の望みを捨てて立ち上がった。

 歴然たる戦力差の中、哀れにも最後まで戦うしかなかった。

 そして、消えてなくなった。

 王という存在についてはよく分からない。日輪の眷属達は群れの中で順位を付けて暮らしている。よく分からない。皆が同じではいけないのだろうか。

 しかし、ウォーディガーンの気持ちは少し分かる。

 彼も私も、兄か王かの違いこそあれ、何かの役割のために自分を殺して働かなければならない。

 母上の言いつけを守らず、敵の息吹を感じながら戦った。結果、共感できた相手を、消し去る羽目になった。

 後悔はない。後味も悪くなかった。

 心の内に、敵として、ウォーディガーンはずっと残る。

 日輪の眷属については、かつての大戦での、哀れで愚かで凶暴で、九王の日輪に絶対服従の、残虐な眷属の記憶しかなかった。

 ウォーディガーン。覚えておくぞ。処理すべき存在としてではなく、微かに共感できた敵として。

「戻れ」

 浮きっぱなしになっていた分身が、私の意志に反応して近づいてくる。

 ぴたりと動きが止まった。

 それは、突然流星が空で動きを止めたかのような、全く意外な反応で、

「ひっく」

 驚いてしゃっくりが出てしまった。

「ふん」

 ぐっと力を込める。重い物を持ち上げるように。

「ひっく。ヒック。くひっ」

 しゃっくりは止まらないし、分身も動かない。

 いや。僅かに震えている。

「ふっくっ」

 見て、分からないほどだ。

「ひっく」

 見て、分かるようになってきた。

「くっ」

 どんどん、震えは大きなくなる。

「んくっ」

 分身とつながっている感覚から、嫌な感じがした。とても嫌な感じだ。

 純粋と疑わなかった水の中に、一滴、濃く固まった血が混じっていたような。

「くふー」

 それにしてもしゃっくりがとまらない。というかしゃっくりってどうやって止めるんだったか。

 めりっ。

 黒い箱の表面が、波打って、固い湖面にひびが入る。

 まさか。やはり。

 驚き。喜び。

 交錯した。

 しゃっくりも止まる。

「出てこられるならば、出てこい」

 使い魔を呼び出す。首の無い、胴体に一つ目の巨人を模した者だ。

 使い魔が、屋根より大きな両掌で、私の分身を叩き潰した。

「出てこられるのならば、な」

 静まり帰った真っ白な世界。

 魂の世界。

 魔力の次元。

 意識を手放した後で、どうにも額がかゆくて目が覚めた。

 なんども、なんども、眠りにつく間際のように意識が消えかかったのだが、どうにも我慢ができず、目が覚めた。

 真っ暗な場所にいる。

 にもかかわらず、目が見えるのは、額から微かな光が放たれているからだ。

「なんだこれは」

 こすっても消えない。目が覚めたからか、かゆみは消えている。

 呟きに反応したのか、ある記憶がよみがえった。

 代王都に迫る魔獣の大群に、五万の軍勢で迎撃をかけようと出陣する矢先。母がやってきて、別れを告げた。確かそのとき、額に接吻を受けたはずだ。

 何かの役に立つ儀式ではない。挨拶のようなものだ。戦場で命を落とすかもしれない息子に対する、ささやかな祈り。

「母さん」

 そっと額に手を当てた。微かな明かりは、手のひらで覆えるほどしかない。

「ちゃんと、墓を作るよ。陛下の、いいや、父さんの墓も。兄さんたちの墓も。家族全員、違う。民全員をきちんと弔う」

 微かな明かりが暗闇を照らす。

「そして、もうこんな凄惨な状況は起こさせない。そのために―」

 そのために、シンゲツ。

 お前を必ず倒す。

「はぐ。むぐ。あむ。むしゃ。むむむ、んぐ」

 魔術で魔力を取り込む。足りなかった。

 もっと取り込まなくては。

 手あたり次第、魔術で魔力を取り込んでいく。

 手あたり次第、闇を掴んで咀嚼した。口いっぱいに詰め込んで、吐き気がするような黒い塊を飲み込む。

 一口ごとに、力がついた。

 一飲みごとに、力がついた。

「ぷう」

 分身のシンゲツを食い尽くしてやる。脂っこい骨の塊に噛みついているようだった。しかし、途中であきらめる気はなかった。

「ふー」

 取り込んだシンゲツの魔力が、あっという間に体、魂に馴染んでいく。

 力を込めた。

 私はまだやれる。やることがある。やらなければならないことがある。

 硬い壁が、魔力をつかみ取ろうとしていた掌にあたった。

 壁に噛みついた。

 白い世界が見える。頭から、シンゲツの分身の外へ飛び出した。目は眩んだが、閉じなかった。二つの足で、しっかりと地面を踏みしめる。

 背後にシンゲツの使い魔がいる。両手を食い破られて怯んでいたが、大木のような右足で蹴りを放つ。

 蹴りが届く前に、私の魔力が使い魔を形作る術式をほどいていく。巨大な体が、魔力の束になって、私の身体の内に消えていった。

「ウォーディガーン。しぶといな。だが、嬉しいぞ」

 シンゲツ。

「どんな心境の変化だ、シンゲツ? 私は倒すべき敵なのだろう?」

「そうだ。しかし、先ほどまでの戦いはいささか味気なかった。これから、全力をぶつけられると思うと、嬉しくなってくるのだ」

 さわさわ。シンゲツの身体から、真っ黒な魔力の霧があふれ出す。二本の手足の形となり、胴体には使い魔を呼び出してきた扉が収まった。

「日輪の眷属の姿を真似るというのは初めてだが、こんなものか」

「軽蔑しているのではないのか? 私たちを」

「しているさ。しかし、お前とは同じ条件で戦ってみたい」

「私の腹には扉など無いぞ」

「―細かい男だ。別にいいだろう、そのくらい」

 互いに歩み寄って、間合いに入った。

 シンゲツは、魔術を使わない。私も使わない。向き合って立っているだけだが、お互い、水面下で魔力の取り合いをしていた。

 相手の魔力の乱れに付け込んで、自分の側に取り込む。魔術を使えば、流れに変化が生まれる。変化が生まれれば、そこに付け込まれる。

 透き通るような心境だった。静かな湖面を覗き込んでいるかのようだった。

 魔力をからめとろうとして、互いに魔力を触手のように伸ばしている。魔力の触手同士がぶつかり合って、視界の端で、ちらちらと世界にひびが入っている。

「むん!」

「ふっ!」

 お互いに踏み込む。

 硬く握りしめた私の拳がシンゲツの顔面に突き刺さり、黒い塊になったシンゲツの拳が私の鼻の骨を粉砕した。

 痛み。めまい。

 一瞬の空隙の後、もう一撃。

「オォ!」

「ズァ!」

 胸に一撃ずつ。

 肋骨が折れて肺に刺さる。血を噴き出した。

 扉が砕けて、破片が飛び散った。

 魔力の触手で、攻撃を加えるごとに散っていくシンゲツの魔力を取り込む。

「うぷっ」

 シンゲツも、私の血や魔力を触手のようにした魔力の腕で体に取り込んだ。

「おえっ」

 不味い。胃袋がせりあがってくるのを抑える。

 シンゲツの身体が、一瞬黄色くなり、赤くなり、体の一部に色を残したまま、黒くなる。

「まだまだ―」

「この―」

 一撃一撃。一発一発。

 殴っては弾かれて、踏み込んでは弾き飛ばされる。

 食って食われて。食われて食って。

「ウアアアアアア!!!」

「ダアアアアアア!!!」

 何か考えようとするたびに、攻撃が来て、頭が白くなる。

 気が付くと、相手が吹き飛んでいて、ふと何か思い出しそうになる。

 何度拳を振るったことか。

 何度拳を振るわれたことか。

 気がつけば、目の前のシンゲツとは別に、私に語り掛けるシンゲツが見えた。

「いずれお前の友はお前を裏切る。血の結束の無いお前たちは、絶対にそうなる! 私は知っているぞ、ウォーディガーン! お前が、魔術の師にも、病人を治療する男にも、薄汚い男にも、全ての者達を契約で縛っているのを!!」

 シンゲツは、私の中に分身を入れていた。記憶も思い出も、自在に覗いたのだろう。私の行動を見てきたように、何もかも分かっているように叫ぶ。

 私もまた、シンゲツの一部を取り込んでいるので、彼の心の内を読み取ることができている。

「シンゲツ。お前の言う通りだ。だが、解釈が違う」

 血の結束だけが、この世のすべてではない。

 戦場での従者たち。騎士たち。友。師。

 そしてこれから出会う、顔も名前も知らない者達。

「私たちは、いつだって、裏切られる恐怖と戦っている。それでも、血肉を躍らせて戦うよりも、私たちは裏切られる恐怖と戦うことを選んでいくのだ。それが、契約。私が心に刻んだ誓いだ」

「違う。契約を交わすのは、互いに信じられないからだ。お前たちは、見ず知らずの他人を信じることができない! だから争う、だから醜い、だから、我々月影の眷属を傷つける!!」

「傷つける。傷つけてきた。それだけではない! 私には、魔獣の友がいる。戦友だ! 私の騎士は、竜と契約を結び、背中を預け合っている!!」

「契約はどこまで行っても契約に過ぎない! ただの利害の一致から生まれる一時的なつながりだ! そんなものがあるから、裏切りが生まれる! 子々孫々と受け継がれる契約などは無い! 血の、いや、血がつながっておらずとも、魂の結びつきで生まれた家族こそが! それこそが!」

 一言。一拳。

 言葉で殴っているのか。拳で語っているのか。

 分からない。

 今は、ただ、意思をぶつけあっている。

「ここで、負けられない。負けられないんだ」

 シンゲツの記憶が流れてくる。

 初めて見た母、賑やかな家族、いうことを聞かない幼子、成長して感謝の気持ちを伝えてくれた弟妹達、家族全員で楽しく囲んだ宴の席。

「負ければ、お前たちに体をいじくられた、哀れな同胞を開放することができない。一生背に重い荷を括り付けられて生きる彼らを、一生狭い部屋の内側で肉と乳を差し出すために生きる彼女らを、救うことができるのは、私たち兄弟姉妹の務めだ」

 私の記憶も流れていく。

 何を考えているか分からない父親、つらく当たる父の正妻、邪魔者扱いしてきた兄、都合よく使おうとしてきた兄、巡視で見た争いの絶えない村と町、戦って死んだ者達。

「シンゲツ。私は、この大陸に渡ってきて、魔獣や自然の驚異によって地に伏した者達を背負っている」

 どちらが重いという話ではない。勝ち残ったほうが、これからもその重みを耐えていくだけの事。

「私だって。私だって、負けるわけにはいかないんだ。負ければ、百年間築いてきたこの国はどうなる。泥と血にまみれて開拓してきた先祖の意志はどうなる。ぬくぬくと肥えている東の連中に絞りつくされてしまう。勝ち取ったものを、私が守り抜かなければならない」

 記憶が混じり、むき出しの思いがぶつかっていく。

 ぶつかって、砕けて、消えて、生まれて、溶けて、破壊して、残った。

 白い世界。

 立っていた。

 眼下に、傷だらけの黒い箱が転がっていた。

 荒い息を吐いた。小刻みな胸の動きだけを感じている。自分が生きていることだけが、はっきりと分かった。

 黒い箱、もといシンゲツがぴくりと動いた。

「お前の勝ちだ。ウォーディガーン―」

 そう言う彼の輪郭が、ぼやけているのに気が付いた。

 白い世界から消えかけているシンゲツが、とぎれとぎれ、言葉を吐く。

「しかし、私は必ず母上を蘇らせる。必ずだ。決してあきらめることは無い」

「覚えておこう。さらば、シンゲツ。魔獣の兄よ」

「ああ、いずれ、また会おう、ウォーディガーン。生まれたての王よ」

 白い世界から、シンゲツが消えた。現実世界に戻ったのだろう。

 私の身体も、うっすらと輪郭がぼやきてきている。

「勝ったぞ、俺」

 答える声は無い。やはりあの時、シンゲツの魔力から生まれた人格は消えてしまったようだ。調子が良くて、騒々しい、名前すらなかった奴だった。

 けれど、確かに、私の中にいた。そして、私の力になってくれた。

「お前に貰った覚悟は、ちゃんと私の中に―」

 ふっと、視界に瓦礫が映る。

「あるからな」

 太陽。中天を大分過ぎている。

 シンゲツの魂を食った結果、色々とこの世界の成り立ちに関わる情報が手に入った。魔獣との融合を果たしたこの身体のこともある。

 確実にギルダスの実験体になるな。

 それはともかく。

 シンゲツの魔力は塔へと向かっている。私の知らない巨大な魂と一緒だ。恐らく彼の兄弟か姉妹の一人だろう。

 現状、彼の魔力では月影という存在は復活させられない。複雑な魔術を行使できるほど力は残っていない。

 未だに戦線は崩壊していないようだ。ベーダの気配がする治療所の所には魔獣の気配が少ない。

 首から掛けていた笛を吹こうとしたが、上手く笛を持てない。疲労のためか、それとも、魔獣と融合したせいか。

 何とか笛を吹けたが、きちんと音が出たかどうか。

 この笛は、人の耳には聞こえない音がする笛で、騎獣を呼ぶのに使うものだ。

「クエ?」

 来てくれた。共に戦場を駆けた騎獣、ペルシュロンだ。

「私をアルフォンソのところへ運んでくれ」

「クエ?」

 言葉が分からないのか。賢い奴なのだが。

 ペルシュロンは鼻の穴をピスピスさせて、私の匂いを嗅いでいる。態度もどことなくよそよそしい。

「ペルシュロン、あまり時間に余裕はない―」

 硬いざらざらの舌で、思いっきり顔を舐め上げられた。

「ぶっ」

 臭いのきつい涎が口の中に入ってくる。落ち着いたらペルシュロンの口の中を綺麗にしてやろう。

「クエ」

 うん。こいつはウォーディガーンだ、とでも言いそうな具合に、ペルシュロンが納得のいったような顔をする。

「味で判別したのか?」

 まあ、いいか。

「アルフォンソの所へ連れて行ってくれ、なるべく急いでな」

「クエ!」

 乗って乗ってと、騎獣の長い足を折りたたんでしゃがんでくれる。

 普段なら易々と跨れるのだが。今の、笛を吹くのもやっとな状態で跨れるだろうか。

 もたもた。

「クエエ…」

 もたもた。

 のろのろと鞍に覆い被さっている私に、ペルシュロンは我慢できなくなった。

「痛い!」

 急に立ち上がる。私は、鞍の突起や背もたれに肋骨を強打された。

「クエエ!」

「待て待て待て、待ってくれえええええぇぇぇ―」

 さて、ここで問題です。

 体がぼろぼろで、魂も融合直後で安定していない。そのような状態で、咄嗟に魔術で体を固定したらどうなるでしょうか。

 答えは、酔う、でした。

「うぷっ。おぼぼおぼおぼ」

 あと、吐く。

 吐しゃ物をまき散らしつつ爆走するペルシュロン。

 時折すれ違う騎士や戦士達、ついでに魔獣も、何事かと一瞬手を止めた。

「おええっ」

「クエエッ」

「で、殿下?」

 何とかアルフォンソの指揮所に到着できた。正直、シンゲツとの戦いよりもしんどかったかもしれない。途中で何度気を失いかけたことか。

「ア、アルフォンソ…」

 声が掠れてうまく聞き取れなかったようだ。アルフォンソが顔を寄せてきて、反吐の匂いに顔をしかめた。

 かなり傷ついた。私だって吐きたくて吐いたわけじゃないぞ。

「戦況を見渡せる、一番高い所へ、私を運んでくれ…」

「殿下、これほど御いたわしいお姿になられて―」

「そういうの、いいから…」

「かしこまりました」

 情の薄い、話の速い爺さんで助かった。これがお付きのあの老騎士とかだったら、大騒ぎしてにっちもさっちもいかなくなるところだった。

「ふー」

 差し出された水を飲んでみる。吐き気は収まってきていた。

 咄嗟に魔術を使ったおかげで、新しい体の扱い方も分かってきた。怪我の功名だ。

「さてと。この大仕事を終えれば、ひとまず何とかなる」

 アルフォンソが指揮をしていた建物の屋上に、手早く櫓が組まれている。私はそこに担ぎ込まれた。反吐臭いって言ったやつ、顔を覚えたからな。

 覚悟しろよ。

「やりますか」

 シンゲツの魔力と私の魔力。二つの魔力が一つになって生まれ変わった、新たな魂から、太古の九王、月影の力を引き出す。

 魔獣に呼びかけた。

「住処へ、帰れ」

 呼びかけが、代王都に広がる。

「住処無き者は、東の海岸へ向かえ。新たな住処を作れ」

 とある魔獣が、噛み殺そうとしていた咢を止めて、生まれ育った山の方角を向いた。

「人種、魔獣、戦いは終わりだ」

 魔術を放とうとした魔術師が、皺だらけの顔に浮かんだ汗の玉を拭う。

「今、この時を以って、戦いは終わりだ」

 拠点にいた非戦闘員。砦の近くにいる戦士。

 その日、その場にいた人々は、黄昏時の中、散っていく百万の魔獣の群れを見た。

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