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九王記  作者: 荒木小吾
一章 西の大陸で
36/68

35話 戦争

 西大陸、代王国。その首都代王都、四の都。城壁に囲まれた都は、外周にいくつか防衛用の塔を擁していた。

 そのうちの一つ。その地下。崩れかけた地下室の中。

 一人の男が、魔獣と戦い続けている。

「糞が! どんだけ、しぶといんだよ!」

「こちらのセリフです! なんですかその体は!」

 タチマチという黄金の鎧の魔獣。

 黒鉄の肉体を持つ傭兵オドアケル。

 互いの間合いは、無いに等しい。

 互いの吐息が分かる距離。互いの得物が振るわれれば、間違いなく当たる。

「オウァァア!」

「はあっ!」

 俺の破骨棍が、魔力を食ってしなる。腕を目いっぱいに広げ、返しのような棘で、鎧を削ぐように破骨棍を思いっきり薙ぐ。

 シンゲツの巨剣、月虹が分裂する。当たると切り裂かれるのは一本。その他は幻覚だが、触れれば激痛が走る。

 お互いに攻撃を避けなかった。

「くう!」

「ゲハッ」

 シンゲツの左わき腹から右肩にかけての鎧が吹き飛ぶ。

 俺の全身に、痛みが走る。本物の月虹は弾かれた。

「ふう」

「はー、はー、はー」

 俺の息は既に荒い。全身がくまなく痛む。痛みのせいで、息が上手く吸えない。腕も重い。

「ご自慢の剣技はどうしたんだよ、でかいの。俺に傷一つつけられてねえぞ」

「やかましい。そちらこそ、私の鎧を弾き飛ばすだけではありませんか」

 吹き飛ばした鎧は、相棒のアラリックが追いかけている。隔離して元に戻らないようにするためだ。

 しかし、鎧の部品は幻影を出し、どれが本物なのか分からない。おかげで、九割がたタチマチの身体に戻ってきてしまっている。

「少しづつ部品が減ってんじゃねえか。強がるなよ」

「あなたの体力の方が減りが速そうではないですか?」

「うるせー。この後、海峡横断するのも余裕だっつーの」

「ならばお望み通り、海の向こうまで吹き飛ばして上げましょう!」

「かかってこいや! コラ!!」

 何度目かも分からない打ち合いをするため、互いの得物を振り被り、俺の破骨棍は床に大きなひびを作った。

 敵がいない。そんな馬鹿な。そう思ったが、目の前にあった大きな魔力と敵意が消えるや否や、俺の身体は戦闘態勢を解いてしまった。

「オド!」

 アラリックの声が遠く聞こえる。地面に大きな影を見たような気がした。何が起きているのかは分からないが、殺気が消えたことだけに反応して、体が勝手に倒れていく。

 俺の視界が黒くなった。

 一方、不意に上空へと躍り上がった身体に戸惑ったタチマチは、我に返ると自身を掴んで飛び続けている正体を見て、目を瞠った。

 見張るような眼球はもちろんないが。

 そんな彼女に、巻竜の背から竜騎士が近づいた。

「お前は、颯竜の眷属、巻竜だな。離せ!」

 巻竜の足に切りつけた剣を、私の槍が弾く。

 踏ん張りの利かない空中だったが、手に伝わった衝撃は、気を抜けば槍を取り落としかねない。

「巻竜、貴様、背に人を乗せるか!?」

 相棒が足をは離し、タチマチというらしい魔獣が落下する。相棒の巻竜はそのまま塔の外に飛び去ってゆく。

 タチマチは甲冑の姿であるにも関わらず、音もたてずに着地する。

「見事な身のこなし。お見事」

「何者か」

 ずいぶんと冷静になっている。先ほどまで、あの若者と叫びながら戦っていたのが嘘のようだ。

「お初に御眼にかかります。フリティゲルンというしがない騎士と申します」

「騎士、フリティゲルン? 聞いたことが無い名だな。あの小僧の騎士か?」

 目の前のタチマチ。いでたちが騎士のそれであるように、立ち振る舞いもまた、騎士のそれである。剣を抜き放ち、隙の無い構えでこちらを窺っている。

 その姿黄金の甲冑姿は、一片の絵画の如し。

「若者の未来を守るため、そのお命、頂戴いたします」

 槍を構えた。静止する。答える。

 張り詰めた糸が震えもしない。場に、心地よい静寂の緊張が満ちる。

「ああああああぁぁぁぁぁーーーー!!」

 そこに魔獣が落ちてくる。

「相棒。ご苦労さまです」

「コモチ!」

 コモチが不意を突いた巻竜に運ばれてきた。

「フリティゲルン。外にいた大物は連れてきたぜ」

 スティリコが相棒の背から飛び降りた。巻竜がまた外へ飛んで行く。

「ありがとうございます。スティリコ」

「こいつ弱そうだな。俺は他の奴を相手するぞ」

 相変わらずわがままを言う。百年前と何も変わらないのが、なぜか嬉しかった。

「今現れるのは、強敵ですよ」

 きしきしとボルテがやって来る。

 空間に黒い扉が現れて、魔獣が現れた。こいつがシンゲツ。

 莫大な魔力を持つ魔獣が三体。もう一体は、繭とも卵ともつかぬものの傍で作業をしている。

 これで、陛下ひとまず安全だろう。

「ほう。良い。腕が鳴る。これだけ戦いがいのある敵は、ひょっとすると百年ぶりかもしれん」

 嬉しそうに、スティリコの水晶の身体が輝いた。

「ボルテ。陛下達はうまく逃がしていただけましたね?」

「ええ。今頃、アルフォンソと合流して、雑兵を食い止めていますよ」

「それは重畳。では―」

 会話の途中で、不意打ち気味に使い魔が現れた。

 スティリコの水晶の拳が、魔力で作られている使い魔を突き伏せる。

「解放。焔」

 スティリコの拳が紅蓮に染まる。使い魔に突き立てられた拳を形作っている水晶が、焔の魔術を解き放つ。

「会話をする暇もなく攻撃とは、中々面白い相手のようだ」

 スティリコの滾りに応じて、水晶の体中が、様々な色に輝きだす。

「…気にくわないな。あの若造がこれほどの手駒を用意していたとは」

「手駒だと? 俺たちが? 誰の?」

「よしなさいスティリコ。その話は終わっています」

「ふん。―封印」

 スティリコが、黒焦げになったシンゲツの使い魔の魔力を、使い魔を生み出して動かしていた魔術ごと腕の水晶に封じ込める。

「変わった身体をしているな。鎮門の眷属か?」

「けんぞく? 知らない話だな。いいからかかってくるといい。俺は昔馴染みと暴れるためにここに来てるんだ。―解放。獣」

 スティリコの腕が黒く輝き、六つ足の獣のような魔獣がシンゲツへ飛び掛かる。

「しばらくぶりで、少しは大人しくなったかと思っていたのに…」

「陛下の命で各地を回っていた際に再開したのですが、大量に出現した魔獣を相手に、一人で野山を駆け回っていましたよ。いい鍛錬の相手が現れたと言っていました」

 野山を駆け回り、相当の魔術をため込んだであろうスティリコが、次々に魔術を開放して最も古き魔獣達を相手にしている。

 炎、雹、酸、獣、響。魔術の嵐で息もつけない。一旦距離を取る。

 暴れるスティリコを見て、

「そう…。相変わらずなのね」

 ボルテが昔の口調に戻ってため息をついた。

「百年では、あまり人柄は変わらないということのようですね」

「そうみたいね」

「ボルテはずいぶんと丁寧な口調になっていましたね。私の真似ですか?」

「知ってるでしょ? 手広く商売をやっているの。商売上の礼儀よ」

「金銭にがめついのは相変わらずですね」

「違いない」

 スティリコが戦いながら相槌を打つ。

「うるさいわよ。鍛錬とか、自給自足を始めるとか言う、あんたたち引きこもりよりはまともでしょ」

「ボルテ、中々厳しいですね」

「当り前よ。あんなことがあったから二人とも傷ついたのは理解できるけれど、何も百年も引きこもらなくても」

 ボルテの愚痴を聞くのも百年ぶりだった。つき合う気はないが。

 強酸で溶けた使い魔の胴体が飛んできた。槍の穂先で逸らす。

「相棒が外の援護に回っています。敵を逃げられないようにできますか?」

「もうやってるわ。もう少し時間がかかるけど」

「ふむ。そろそろスティリコ一人では厳しくなってくる頃合いです。護衛をそこのお嬢さんに任せても?」

「気づかれてた」

 呼びかけに答えて、瓦礫の陰から異形の少女が現れる。

「アラリック、居たの?」

「アラリックというのですか。私はフリティゲルンと申します。しばしボルテの護衛を頼めますか?」

「彼女の気配に気づくなんて、流石竜騎士様ね」

「それほどでも」

 アラリックが先ほど叫んでいた若者を引っ張ってくる。

「これが、オドアケル」

「初めまして、オドアケル」

「あんたら気絶してる人間に何やってんの…?」

 それはともかく。

「アラリック。ボルテを頼みますよ」

「うん」

「オドアケルも」

「…」

 異形の二人を見ると、嫌でも百年前を思い出す。

 彼女と彼には、ぜひこの戦いを生き残ってもらいたい。話したいことがある。

 陛下と、彼女たち。百年前の悲願を、ようやく一歩進められるかもしれなかった。

「解放! 閃光弾!」

 スティリコが、右手に封じていた眩い光の魔術を解き放つ。どこかで手に入れた、どんな効果があるか分からない魔術だ。

「月虹! 惑わせ!」

 金の鎧のタチマチが、剣に刻まれた魔術を発動し、狙いを逸らそうとする。

「封印。幻」

 スティリコが一歩も動かず、その魔術を右手に封じる。

「くっ。またか」

「タチマチ、屈め」

 シンゲツの使い魔が襲い掛かる。寸胴体形で手足が短い。空中で力を溜めて、バネのように体を縮めた。

「解放。豪焔」

 使い魔が焦げて丸くなった。

「シンゲツ兄さん。避けて! 結界で封じ込める!」

 コモチの声でシンゲツが下がった。魔道具が周囲を飛び回り、スティリコを取り囲む。展開速度は速い。魔道具も強力だ。

 しかし、どんな術式にも、要の部分はある。

「それ」

 結界の弱い部分に槍先を突き入れた。

 魔力の流れが阻害され、魔術の発現が止まる。コモチの魔道具が力を失い、持ち主の元へ帰った。

「槍の一突きで魔術を妨害した…!?」

「ならば、私が!」

 タチマチが月虹剣を振り被る。

「幻影剣。乱舞!」

 剣を振り被ったタチマチの姿が、あちらこちらに増えていく。

「封印。幻」

 スティリコが一つ一つ幻を生み出す魔術を封じていくが、次から次へと幻は現れる。

「ちっ。なら全部まとめて消し飛ばす!」

「待ってください、スティリコ。そう熱くならずとも―」

 足に力を込めて、跳ぶ。

「―この通り」

 槍一閃。タチマチが受け止める。

「お見事」

「幻影を見抜き、結界の要を突き通すか。良い目をしているな」

 一閃。

 二閃。

 三閃。

 二十四閃。

 息つく間もなく、全て急所に連撃を加える。

「流石!」

 衝撃で土煙が立つが、タチマチは全て捌き切った。槍と剣が弾き合い、星空のように火花が散る。

 しかし、魔力を身体能力の強化に回したために、幻覚の魔術は消えていた。

「返すぜ。解放。幻」

 スティリコが、先ほど封じた魔術を開放し、自らの幻を生み出す。

「さらに解放。雷鳴陣」

 幻影のスティリコ達の、重層で聞こえる声と同時に、三体の魔獣を雷の魔術が取り囲む。

 青白い稲妻が走る。

「ぐ、この」

 うめき声をあげる魔獣。

「動きを止めたぞ!」

 私は、轟く雷鳴の陣へ飛び込んだ。鎧は脱ぎ捨てている。

 体中の眼球が、瞼を開けた。

 ぎょろり。

 この魔術は領域内を無差別に襲う雷の魔術のようだ。こちらへ稲妻が飛来する。普通ならば、飛ぶよりも早い稲妻を避けるすべなどはない。

 しかし、それは私にとっては容易い事だ。

 体中の瞼を全て開けば、どんなものでも見える。

 魔力を練り上げ、形作る。

 肉体強化の魔術。

 力が漲る。頭が冴える。あらゆる角度からの情報を統合すれば、道が見える。

 そうして、道を全力で走るのだ。

 動きを封じられた魔獣たちの、苦し紛れの攻撃も、無差別に襲い掛かるスティリコの魔術も、私の身体には掠りすらしない。

 シンゲツを貫いた。

 タチマチを串刺しにする。

 コモチを三つに裂く。

 陣の内を縦横無尽に走り回り、槍の穂先が舞い踊る。稲光を反射して、私の軌跡が輝いた。

「ふう」

 雷鳴陣を抜けて、一息ついた。

 体力に支障はないが、弱点ともいえる体中の目をむき出しにしているのは、精神的に堪える。

 稲光が止む。

 同時に、背後にシンゲツの使い魔が立った。蹄の付いた四つ足に、人種の上半身がくっついている。背中の眼でよく見える。

 戦斧の一撃。半身を引いた。斧の軌道すら、よく見える。

 私の右肩へ風を起こし、塔の床へ特大のひび割れを作る。右肩の眼が、瞬きをした。

「来い!」

 使い魔の頭が呼びかける。また背後に、同じような使い魔が仁王立ちした。戦斧を振り被り、地面と平行に薙ぐ。

 戦斧と戦斧がかみ合い、固い響きを出した。

「まだまだ!」

 暴風。吹き荒れる双斧。

 流石に安易な一撃を放つことができない。手を借りたいが、背中の目で確認すると、スティリコは竜人とよく似た使い魔を相手にしている。

 ボルテの魔術はまだかかりそうだ。そちらへ向かった使い魔をアラリックが相手取っている。

「よそ見しながら、この二人を手玉に取るとは。これはまた手強そうな相手だ」

「マンゲツ様!」

 黒い繭の傍に控えていた魔獣、マンゲツが来る。

 強者の気配が見える。

「スティリコではありませんが、これは腕が鳴りますね」

 槍をしごき、構えた。

 竜騎士フリティゲルンが最も古き魔獣の一人、マンゲツと戦い始めてから、少し時は遡る。

 塔の外。

 アルフォンソの設置した仮の治療所。

 呪いの雨でぐずつく足元に気を使いながら、ベーダが治療を行っている。

「陛下。簡単に死なれては困ります。私の目的のためにも、生きていただかなければ困ります…!」

 ありったけの魔力を用いて、滞ったウォーディガーンの魔力の流れを戻し、ひしゃげた体を直していく。

「ベーダ様。あまり治療の術を使われては、お身体が持ちません」

 ベーダの取り巻きの女性治療師が兵士の治療の合間を縫って、ベーダの身体を気に掛ける。

「ありがとう。でも、私はせいぜい気を失って倒れるくらいだから大丈夫。今は、陛下の命を保てるかの瀬戸際なんだ」

 治療所の外。

 ウォーディガーンの魔力に惹かれたのか、時折治療所の近くに、前線をくぐり抜けた小型の魔獣が現れる。

「…」

 黙々と、ギルダスが魔獣を排除していた。

 私は、それをどこか白けた気持ちで眺めている。不思議なことに、私は、何もない空中に魔術も使わず宙ぶらりんに浮いていた。

「早く体に戻らないと、取り返しがつかなくなるぞ」

 黒い靄のような人影が脇に立っていた。

「別にいいだろう。どうなっても」

 投げやりに答える。

「まあ、死んでしまえば、その後のことは俺たちにとって関係ない事だな」

「だろ? だからこのままでいいんだ」

 目を閉じて、耳を塞いだ。

 もう何も感じたくなかった。凶暴な魔獣と命のやり取りをするのは怖い。母の身体を利用するような敵とは関わりたくない。何を考えているか分からない連中と共闘するのは疲れた。竜騎士との約束も今となっては重く感じる。

 何より、勢いで王座を狙ったことに後悔していた。これほど大変だとは思わなかった。

 今はただ、自分のことを誰も知らない所へ行って、静かに過ごしたかった。

「覚悟を決めたんじゃなかったのか、ウォーディガーン」

 耳を塞いでいるのに、声が聞こえる。

「放っておいてくれ。お願いだから」

「断る。俺はまだ諦めたくない」

 強い語調に、思わずもう一人の自分を見た。

 驚いた。

 黒い靄でしかなかった人影に、凹凸がつき、おぼろげにだが顔の起伏が分かるようになってきている。

「おい。私。どうしたんだ?」

「俺が覚悟を決められないなら、俺が覚悟を決める。体の主導権は貰う。そんで、母さんはきちんと始末する、代王位も継承する、一生掛けて魔獣と戦って生き抜く」

 ぞっとした。魔獣に生きたまま食われるような気分になった。

 嫌悪感で一杯になる。自分の身体が、自分ではなくなって、自分として生きていく。そして、私はただそれを、見ているだけ。

 ふと気が付いた。

「そうか―」

 私の中の俺は、

「―見ているだけだったのか」

 元々シンゲツの一部だった俺が、こうも容易く味方になってくれていたのは、もどかしかったからだ。見ているだけの自分が、何を成すとも知れずに時間を浪費する自分が、何よりも、狭い世界に閉じこもっている自分が。

 だから、私が力を求めた時、魔力を与えた。

「分かったよ。ようやく分かった」

 腹の底に重い物がすとんと落ちる。

 これが、覚悟なのだろうか。まだ分からない。ただ、立ち上がることができた。

「何が分かった?」

「私に、まだできることがあるということが分かったのさ」

「やりたくないんだろ?」

「そうだ。だが、やる」

 私は、まっすぐに俺を見た。

 俺が、まっすぐに私を見る。違うか、俺はいつでも私から目を逸らさなかった。

「はあ。せっかく好き放題動けると思ったんだがな」

 不穏なことを言う。

「何するつもりだったんだよ…」

「そうだな―。綺麗な姉ちゃんを口説くだろ、宝物庫の金で豪遊するだろ、あとは―」

「もういい。戻ろう」

「おい、聞いておいてその態度は―」

 何か言いかけた俺が消える。真っ白な世界が、私の見知った現実になる。

 体の痛みが戻ってきた。

「あいたたた」

「陛下…」

 ぽかんとしたベーダと目が合った。

 甲斐甲斐しく、汗を拭われたり、飲み物を飲ませてもらったりしながら、私の治療をしていたようだ。

 ありがたいのだが、若干、本当に少しだけ、イラっとする。

「少し休んでいろ、ベーダ」

 本当に余裕がなかったのだろう。多くの仲間に囲まれて、ベーダが力尽きて治療所の床に寝転がった。

「ベーダ様!」

 取り巻きがうるさかった。

 治療所の外へ出る私の周りはとても静かだ。なんだかなあ。

 先ほどから、俺の声が聞こえてこない。私の中も、不思議と静かになっている。

 戦士達が戦う前線の喧騒が聞こえてくる。アルフォンソの指揮は健在だ。

 太陽が照っている。虹がかかっていた。

「もうじき、日が中天に掛かる。これからきつくなってくるか」

 魔獣の大群をどれだけ支えていられるだろう。

 フリティゲルンの急襲が成功した今、目下の心配事は、魔獣の大群に、いかに飲み込まれないようにするかということだった。

 ただ、治療所のあるここには、今のところ静かな時が流れている。

 シンゲツに魔力を入れられてから、今までずっと私の内側に俺が居た。急にいなくなったものだから、久しぶりのはずのこの静かさが奇妙な感じになっている。

「―!」

 近くで、魔力の高まりがある。魔術の爆裂音。

 ギルダスと、他にも魔術師達がいるようだ。

 ズン。

 塔の内から、地響きがする。

 フリティゲルン達が戦っている気配がする。

「私たちを後方へ下げたのなら、フリティゲルン達は手助けを必要としていないのかな?」

 内側から聞こえる調子のいい声が無い。当たり前のことだ。寂しがる方がおかしい。そのはずだ。

「チキッ? チチチ?」

 ぼおっとしていた私を見つけて、前線を抜けた魔獣がやって来る。

 襲い掛かって来ずに、妙な生き物を見るように、私を遠巻きにしている。静かに距離を測っている内に、他の魔獣も寄ってくる。

 しかし、ある一定の距離を保っていた。

 説明を受けずとも、私にはその理由が分かった。

「早く来い。シンゲツ」

 シンゲツにも、理由が分かるはずだ。

 いずれ気が付くことだが、アルフォンソの負担を少しでも減らそうか。

「私はここだぞ」

 俺が居なくなり、私に侵入したシンゲツの魔力は、完全に私の魂と融合した。

 魂が変質した場合、どのような影響があるのかは分からない。

 ギルダスが目を輝かせて研究したがるだろう。きっと、得体のしれない試験に朝から晩まで付き合わされるに違いない。

 うんざりだ。

 まあ、それは置いておくとして。

 月影の眷属であるシンゲツの魔力が、私の魂の奥底を変えた。

「さあ、来い」

 魂が変化して、魔力も変わった。俺から借りていた魔力と、私の持っていた魔力が一つになって、夜の帳のような、黒い魔力となる。

 あちらこちらから、魔獣が現れる。

 襲い掛かってくることは無い。

 ただ、こちらを見ている。何かを見極めるように、何かを見通すように。

 そして、来た。

 深淵の黒が。古き異形が。魔獣の兄が。

「ウォーディガーン」

「シンゲツ」

 シンゲツから、異様な濃度の魔力がにじみ出てきている。魔術師でなければ、浴びれば瞬き一つで魂を壊しかねない、異常な魔力だった。

 私からも、似たような魔力を感じているのだろう。

「貴様…」

「想像の通りだ、シンゲツ。私は、お前の魔力を食いつくした」

「驚いた。本当に驚いた」

「体の表面がうねうねしてるのは、その感情を表現してるのか?」

 シンゲツの黒くて四角い体が、波打っている。ずっと見ていると酔いそうだ。

「そんなことよりも、いよいよ、私はお前を野放しにはできなくなった」

「そうだろう。魔獣どもは、私を王として認めかけている」

「そうだ。お前の僕になる前に、同胞を惑わすお前は排除しなくてはならない」

 黒い魔力と黒い魔力。

 お互い、似て非なる魔力のぶつかり合いが、ひどく静かに始まっていく。

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