35話 戦争
西大陸、代王国。その首都代王都、四の都。城壁に囲まれた都は、外周にいくつか防衛用の塔を擁していた。
そのうちの一つ。その地下。崩れかけた地下室の中。
一人の男が、魔獣と戦い続けている。
「糞が! どんだけ、しぶといんだよ!」
「こちらのセリフです! なんですかその体は!」
タチマチという黄金の鎧の魔獣。
黒鉄の肉体を持つ傭兵オドアケル。
互いの間合いは、無いに等しい。
互いの吐息が分かる距離。互いの得物が振るわれれば、間違いなく当たる。
「オウァァア!」
「はあっ!」
俺の破骨棍が、魔力を食ってしなる。腕を目いっぱいに広げ、返しのような棘で、鎧を削ぐように破骨棍を思いっきり薙ぐ。
シンゲツの巨剣、月虹が分裂する。当たると切り裂かれるのは一本。その他は幻覚だが、触れれば激痛が走る。
お互いに攻撃を避けなかった。
「くう!」
「ゲハッ」
シンゲツの左わき腹から右肩にかけての鎧が吹き飛ぶ。
俺の全身に、痛みが走る。本物の月虹は弾かれた。
「ふう」
「はー、はー、はー」
俺の息は既に荒い。全身がくまなく痛む。痛みのせいで、息が上手く吸えない。腕も重い。
「ご自慢の剣技はどうしたんだよ、でかいの。俺に傷一つつけられてねえぞ」
「やかましい。そちらこそ、私の鎧を弾き飛ばすだけではありませんか」
吹き飛ばした鎧は、相棒のアラリックが追いかけている。隔離して元に戻らないようにするためだ。
しかし、鎧の部品は幻影を出し、どれが本物なのか分からない。おかげで、九割がたタチマチの身体に戻ってきてしまっている。
「少しづつ部品が減ってんじゃねえか。強がるなよ」
「あなたの体力の方が減りが速そうではないですか?」
「うるせー。この後、海峡横断するのも余裕だっつーの」
「ならばお望み通り、海の向こうまで吹き飛ばして上げましょう!」
「かかってこいや! コラ!!」
何度目かも分からない打ち合いをするため、互いの得物を振り被り、俺の破骨棍は床に大きなひびを作った。
敵がいない。そんな馬鹿な。そう思ったが、目の前にあった大きな魔力と敵意が消えるや否や、俺の身体は戦闘態勢を解いてしまった。
「オド!」
アラリックの声が遠く聞こえる。地面に大きな影を見たような気がした。何が起きているのかは分からないが、殺気が消えたことだけに反応して、体が勝手に倒れていく。
俺の視界が黒くなった。
一方、不意に上空へと躍り上がった身体に戸惑ったタチマチは、我に返ると自身を掴んで飛び続けている正体を見て、目を瞠った。
見張るような眼球はもちろんないが。
そんな彼女に、巻竜の背から竜騎士が近づいた。
「お前は、颯竜の眷属、巻竜だな。離せ!」
巻竜の足に切りつけた剣を、私の槍が弾く。
踏ん張りの利かない空中だったが、手に伝わった衝撃は、気を抜けば槍を取り落としかねない。
「巻竜、貴様、背に人を乗せるか!?」
相棒が足をは離し、タチマチというらしい魔獣が落下する。相棒の巻竜はそのまま塔の外に飛び去ってゆく。
タチマチは甲冑の姿であるにも関わらず、音もたてずに着地する。
「見事な身のこなし。お見事」
「何者か」
ずいぶんと冷静になっている。先ほどまで、あの若者と叫びながら戦っていたのが嘘のようだ。
「お初に御眼にかかります。フリティゲルンというしがない騎士と申します」
「騎士、フリティゲルン? 聞いたことが無い名だな。あの小僧の騎士か?」
目の前のタチマチ。いでたちが騎士のそれであるように、立ち振る舞いもまた、騎士のそれである。剣を抜き放ち、隙の無い構えでこちらを窺っている。
その姿黄金の甲冑姿は、一片の絵画の如し。
「若者の未来を守るため、そのお命、頂戴いたします」
槍を構えた。静止する。答える。
張り詰めた糸が震えもしない。場に、心地よい静寂の緊張が満ちる。
「ああああああぁぁぁぁぁーーーー!!」
そこに魔獣が落ちてくる。
「相棒。ご苦労さまです」
「コモチ!」
コモチが不意を突いた巻竜に運ばれてきた。
「フリティゲルン。外にいた大物は連れてきたぜ」
スティリコが相棒の背から飛び降りた。巻竜がまた外へ飛んで行く。
「ありがとうございます。スティリコ」
「こいつ弱そうだな。俺は他の奴を相手するぞ」
相変わらずわがままを言う。百年前と何も変わらないのが、なぜか嬉しかった。
「今現れるのは、強敵ですよ」
きしきしとボルテがやって来る。
空間に黒い扉が現れて、魔獣が現れた。こいつがシンゲツ。
莫大な魔力を持つ魔獣が三体。もう一体は、繭とも卵ともつかぬものの傍で作業をしている。
これで、陛下ひとまず安全だろう。
「ほう。良い。腕が鳴る。これだけ戦いがいのある敵は、ひょっとすると百年ぶりかもしれん」
嬉しそうに、スティリコの水晶の身体が輝いた。
「ボルテ。陛下達はうまく逃がしていただけましたね?」
「ええ。今頃、アルフォンソと合流して、雑兵を食い止めていますよ」
「それは重畳。では―」
会話の途中で、不意打ち気味に使い魔が現れた。
スティリコの水晶の拳が、魔力で作られている使い魔を突き伏せる。
「解放。焔」
スティリコの拳が紅蓮に染まる。使い魔に突き立てられた拳を形作っている水晶が、焔の魔術を解き放つ。
「会話をする暇もなく攻撃とは、中々面白い相手のようだ」
スティリコの滾りに応じて、水晶の体中が、様々な色に輝きだす。
「…気にくわないな。あの若造がこれほどの手駒を用意していたとは」
「手駒だと? 俺たちが? 誰の?」
「よしなさいスティリコ。その話は終わっています」
「ふん。―封印」
スティリコが、黒焦げになったシンゲツの使い魔の魔力を、使い魔を生み出して動かしていた魔術ごと腕の水晶に封じ込める。
「変わった身体をしているな。鎮門の眷属か?」
「けんぞく? 知らない話だな。いいからかかってくるといい。俺は昔馴染みと暴れるためにここに来てるんだ。―解放。獣」
スティリコの腕が黒く輝き、六つ足の獣のような魔獣がシンゲツへ飛び掛かる。
「しばらくぶりで、少しは大人しくなったかと思っていたのに…」
「陛下の命で各地を回っていた際に再開したのですが、大量に出現した魔獣を相手に、一人で野山を駆け回っていましたよ。いい鍛錬の相手が現れたと言っていました」
野山を駆け回り、相当の魔術をため込んだであろうスティリコが、次々に魔術を開放して最も古き魔獣達を相手にしている。
炎、雹、酸、獣、響。魔術の嵐で息もつけない。一旦距離を取る。
暴れるスティリコを見て、
「そう…。相変わらずなのね」
ボルテが昔の口調に戻ってため息をついた。
「百年では、あまり人柄は変わらないということのようですね」
「そうみたいね」
「ボルテはずいぶんと丁寧な口調になっていましたね。私の真似ですか?」
「知ってるでしょ? 手広く商売をやっているの。商売上の礼儀よ」
「金銭にがめついのは相変わらずですね」
「違いない」
スティリコが戦いながら相槌を打つ。
「うるさいわよ。鍛錬とか、自給自足を始めるとか言う、あんたたち引きこもりよりはまともでしょ」
「ボルテ、中々厳しいですね」
「当り前よ。あんなことがあったから二人とも傷ついたのは理解できるけれど、何も百年も引きこもらなくても」
ボルテの愚痴を聞くのも百年ぶりだった。つき合う気はないが。
強酸で溶けた使い魔の胴体が飛んできた。槍の穂先で逸らす。
「相棒が外の援護に回っています。敵を逃げられないようにできますか?」
「もうやってるわ。もう少し時間がかかるけど」
「ふむ。そろそろスティリコ一人では厳しくなってくる頃合いです。護衛をそこのお嬢さんに任せても?」
「気づかれてた」
呼びかけに答えて、瓦礫の陰から異形の少女が現れる。
「アラリック、居たの?」
「アラリックというのですか。私はフリティゲルンと申します。しばしボルテの護衛を頼めますか?」
「彼女の気配に気づくなんて、流石竜騎士様ね」
「それほどでも」
アラリックが先ほど叫んでいた若者を引っ張ってくる。
「これが、オドアケル」
「初めまして、オドアケル」
「あんたら気絶してる人間に何やってんの…?」
それはともかく。
「アラリック。ボルテを頼みますよ」
「うん」
「オドアケルも」
「…」
異形の二人を見ると、嫌でも百年前を思い出す。
彼女と彼には、ぜひこの戦いを生き残ってもらいたい。話したいことがある。
陛下と、彼女たち。百年前の悲願を、ようやく一歩進められるかもしれなかった。
「解放! 閃光弾!」
スティリコが、右手に封じていた眩い光の魔術を解き放つ。どこかで手に入れた、どんな効果があるか分からない魔術だ。
「月虹! 惑わせ!」
金の鎧のタチマチが、剣に刻まれた魔術を発動し、狙いを逸らそうとする。
「封印。幻」
スティリコが一歩も動かず、その魔術を右手に封じる。
「くっ。またか」
「タチマチ、屈め」
シンゲツの使い魔が襲い掛かる。寸胴体形で手足が短い。空中で力を溜めて、バネのように体を縮めた。
「解放。豪焔」
使い魔が焦げて丸くなった。
「シンゲツ兄さん。避けて! 結界で封じ込める!」
コモチの声でシンゲツが下がった。魔道具が周囲を飛び回り、スティリコを取り囲む。展開速度は速い。魔道具も強力だ。
しかし、どんな術式にも、要の部分はある。
「それ」
結界の弱い部分に槍先を突き入れた。
魔力の流れが阻害され、魔術の発現が止まる。コモチの魔道具が力を失い、持ち主の元へ帰った。
「槍の一突きで魔術を妨害した…!?」
「ならば、私が!」
タチマチが月虹剣を振り被る。
「幻影剣。乱舞!」
剣を振り被ったタチマチの姿が、あちらこちらに増えていく。
「封印。幻」
スティリコが一つ一つ幻を生み出す魔術を封じていくが、次から次へと幻は現れる。
「ちっ。なら全部まとめて消し飛ばす!」
「待ってください、スティリコ。そう熱くならずとも―」
足に力を込めて、跳ぶ。
「―この通り」
槍一閃。タチマチが受け止める。
「お見事」
「幻影を見抜き、結界の要を突き通すか。良い目をしているな」
一閃。
二閃。
三閃。
二十四閃。
息つく間もなく、全て急所に連撃を加える。
「流石!」
衝撃で土煙が立つが、タチマチは全て捌き切った。槍と剣が弾き合い、星空のように火花が散る。
しかし、魔力を身体能力の強化に回したために、幻覚の魔術は消えていた。
「返すぜ。解放。幻」
スティリコが、先ほど封じた魔術を開放し、自らの幻を生み出す。
「さらに解放。雷鳴陣」
幻影のスティリコ達の、重層で聞こえる声と同時に、三体の魔獣を雷の魔術が取り囲む。
青白い稲妻が走る。
「ぐ、この」
うめき声をあげる魔獣。
「動きを止めたぞ!」
私は、轟く雷鳴の陣へ飛び込んだ。鎧は脱ぎ捨てている。
体中の眼球が、瞼を開けた。
ぎょろり。
この魔術は領域内を無差別に襲う雷の魔術のようだ。こちらへ稲妻が飛来する。普通ならば、飛ぶよりも早い稲妻を避けるすべなどはない。
しかし、それは私にとっては容易い事だ。
体中の瞼を全て開けば、どんなものでも見える。
魔力を練り上げ、形作る。
肉体強化の魔術。
力が漲る。頭が冴える。あらゆる角度からの情報を統合すれば、道が見える。
そうして、道を全力で走るのだ。
動きを封じられた魔獣たちの、苦し紛れの攻撃も、無差別に襲い掛かるスティリコの魔術も、私の身体には掠りすらしない。
シンゲツを貫いた。
タチマチを串刺しにする。
コモチを三つに裂く。
陣の内を縦横無尽に走り回り、槍の穂先が舞い踊る。稲光を反射して、私の軌跡が輝いた。
「ふう」
雷鳴陣を抜けて、一息ついた。
体力に支障はないが、弱点ともいえる体中の目をむき出しにしているのは、精神的に堪える。
稲光が止む。
同時に、背後にシンゲツの使い魔が立った。蹄の付いた四つ足に、人種の上半身がくっついている。背中の眼でよく見える。
戦斧の一撃。半身を引いた。斧の軌道すら、よく見える。
私の右肩へ風を起こし、塔の床へ特大のひび割れを作る。右肩の眼が、瞬きをした。
「来い!」
使い魔の頭が呼びかける。また背後に、同じような使い魔が仁王立ちした。戦斧を振り被り、地面と平行に薙ぐ。
戦斧と戦斧がかみ合い、固い響きを出した。
「まだまだ!」
暴風。吹き荒れる双斧。
流石に安易な一撃を放つことができない。手を借りたいが、背中の目で確認すると、スティリコは竜人とよく似た使い魔を相手にしている。
ボルテの魔術はまだかかりそうだ。そちらへ向かった使い魔をアラリックが相手取っている。
「よそ見しながら、この二人を手玉に取るとは。これはまた手強そうな相手だ」
「マンゲツ様!」
黒い繭の傍に控えていた魔獣、マンゲツが来る。
強者の気配が見える。
「スティリコではありませんが、これは腕が鳴りますね」
槍をしごき、構えた。
竜騎士フリティゲルンが最も古き魔獣の一人、マンゲツと戦い始めてから、少し時は遡る。
塔の外。
アルフォンソの設置した仮の治療所。
呪いの雨でぐずつく足元に気を使いながら、ベーダが治療を行っている。
「陛下。簡単に死なれては困ります。私の目的のためにも、生きていただかなければ困ります…!」
ありったけの魔力を用いて、滞ったウォーディガーンの魔力の流れを戻し、ひしゃげた体を直していく。
「ベーダ様。あまり治療の術を使われては、お身体が持ちません」
ベーダの取り巻きの女性治療師が兵士の治療の合間を縫って、ベーダの身体を気に掛ける。
「ありがとう。でも、私はせいぜい気を失って倒れるくらいだから大丈夫。今は、陛下の命を保てるかの瀬戸際なんだ」
治療所の外。
ウォーディガーンの魔力に惹かれたのか、時折治療所の近くに、前線をくぐり抜けた小型の魔獣が現れる。
「…」
黙々と、ギルダスが魔獣を排除していた。
私は、それをどこか白けた気持ちで眺めている。不思議なことに、私は、何もない空中に魔術も使わず宙ぶらりんに浮いていた。
「早く体に戻らないと、取り返しがつかなくなるぞ」
黒い靄のような人影が脇に立っていた。
「別にいいだろう。どうなっても」
投げやりに答える。
「まあ、死んでしまえば、その後のことは俺たちにとって関係ない事だな」
「だろ? だからこのままでいいんだ」
目を閉じて、耳を塞いだ。
もう何も感じたくなかった。凶暴な魔獣と命のやり取りをするのは怖い。母の身体を利用するような敵とは関わりたくない。何を考えているか分からない連中と共闘するのは疲れた。竜騎士との約束も今となっては重く感じる。
何より、勢いで王座を狙ったことに後悔していた。これほど大変だとは思わなかった。
今はただ、自分のことを誰も知らない所へ行って、静かに過ごしたかった。
「覚悟を決めたんじゃなかったのか、ウォーディガーン」
耳を塞いでいるのに、声が聞こえる。
「放っておいてくれ。お願いだから」
「断る。俺はまだ諦めたくない」
強い語調に、思わずもう一人の自分を見た。
驚いた。
黒い靄でしかなかった人影に、凹凸がつき、おぼろげにだが顔の起伏が分かるようになってきている。
「おい。私。どうしたんだ?」
「俺が覚悟を決められないなら、俺が覚悟を決める。体の主導権は貰う。そんで、母さんはきちんと始末する、代王位も継承する、一生掛けて魔獣と戦って生き抜く」
ぞっとした。魔獣に生きたまま食われるような気分になった。
嫌悪感で一杯になる。自分の身体が、自分ではなくなって、自分として生きていく。そして、私はただそれを、見ているだけ。
ふと気が付いた。
「そうか―」
私の中の俺は、
「―見ているだけだったのか」
元々シンゲツの一部だった俺が、こうも容易く味方になってくれていたのは、もどかしかったからだ。見ているだけの自分が、何を成すとも知れずに時間を浪費する自分が、何よりも、狭い世界に閉じこもっている自分が。
だから、私が力を求めた時、魔力を与えた。
「分かったよ。ようやく分かった」
腹の底に重い物がすとんと落ちる。
これが、覚悟なのだろうか。まだ分からない。ただ、立ち上がることができた。
「何が分かった?」
「私に、まだできることがあるということが分かったのさ」
「やりたくないんだろ?」
「そうだ。だが、やる」
私は、まっすぐに俺を見た。
俺が、まっすぐに私を見る。違うか、俺はいつでも私から目を逸らさなかった。
「はあ。せっかく好き放題動けると思ったんだがな」
不穏なことを言う。
「何するつもりだったんだよ…」
「そうだな―。綺麗な姉ちゃんを口説くだろ、宝物庫の金で豪遊するだろ、あとは―」
「もういい。戻ろう」
「おい、聞いておいてその態度は―」
何か言いかけた俺が消える。真っ白な世界が、私の見知った現実になる。
体の痛みが戻ってきた。
「あいたたた」
「陛下…」
ぽかんとしたベーダと目が合った。
甲斐甲斐しく、汗を拭われたり、飲み物を飲ませてもらったりしながら、私の治療をしていたようだ。
ありがたいのだが、若干、本当に少しだけ、イラっとする。
「少し休んでいろ、ベーダ」
本当に余裕がなかったのだろう。多くの仲間に囲まれて、ベーダが力尽きて治療所の床に寝転がった。
「ベーダ様!」
取り巻きがうるさかった。
治療所の外へ出る私の周りはとても静かだ。なんだかなあ。
先ほどから、俺の声が聞こえてこない。私の中も、不思議と静かになっている。
戦士達が戦う前線の喧騒が聞こえてくる。アルフォンソの指揮は健在だ。
太陽が照っている。虹がかかっていた。
「もうじき、日が中天に掛かる。これからきつくなってくるか」
魔獣の大群をどれだけ支えていられるだろう。
フリティゲルンの急襲が成功した今、目下の心配事は、魔獣の大群に、いかに飲み込まれないようにするかということだった。
ただ、治療所のあるここには、今のところ静かな時が流れている。
シンゲツに魔力を入れられてから、今までずっと私の内側に俺が居た。急にいなくなったものだから、久しぶりのはずのこの静かさが奇妙な感じになっている。
「―!」
近くで、魔力の高まりがある。魔術の爆裂音。
ギルダスと、他にも魔術師達がいるようだ。
ズン。
塔の内から、地響きがする。
フリティゲルン達が戦っている気配がする。
「私たちを後方へ下げたのなら、フリティゲルン達は手助けを必要としていないのかな?」
内側から聞こえる調子のいい声が無い。当たり前のことだ。寂しがる方がおかしい。そのはずだ。
「チキッ? チチチ?」
ぼおっとしていた私を見つけて、前線を抜けた魔獣がやって来る。
襲い掛かって来ずに、妙な生き物を見るように、私を遠巻きにしている。静かに距離を測っている内に、他の魔獣も寄ってくる。
しかし、ある一定の距離を保っていた。
説明を受けずとも、私にはその理由が分かった。
「早く来い。シンゲツ」
シンゲツにも、理由が分かるはずだ。
いずれ気が付くことだが、アルフォンソの負担を少しでも減らそうか。
「私はここだぞ」
俺が居なくなり、私に侵入したシンゲツの魔力は、完全に私の魂と融合した。
魂が変質した場合、どのような影響があるのかは分からない。
ギルダスが目を輝かせて研究したがるだろう。きっと、得体のしれない試験に朝から晩まで付き合わされるに違いない。
うんざりだ。
まあ、それは置いておくとして。
月影の眷属であるシンゲツの魔力が、私の魂の奥底を変えた。
「さあ、来い」
魂が変化して、魔力も変わった。俺から借りていた魔力と、私の持っていた魔力が一つになって、夜の帳のような、黒い魔力となる。
あちらこちらから、魔獣が現れる。
襲い掛かってくることは無い。
ただ、こちらを見ている。何かを見極めるように、何かを見通すように。
そして、来た。
深淵の黒が。古き異形が。魔獣の兄が。
「ウォーディガーン」
「シンゲツ」
シンゲツから、異様な濃度の魔力がにじみ出てきている。魔術師でなければ、浴びれば瞬き一つで魂を壊しかねない、異常な魔力だった。
私からも、似たような魔力を感じているのだろう。
「貴様…」
「想像の通りだ、シンゲツ。私は、お前の魔力を食いつくした」
「驚いた。本当に驚いた」
「体の表面がうねうねしてるのは、その感情を表現してるのか?」
シンゲツの黒くて四角い体が、波打っている。ずっと見ていると酔いそうだ。
「そんなことよりも、いよいよ、私はお前を野放しにはできなくなった」
「そうだろう。魔獣どもは、私を王として認めかけている」
「そうだ。お前の僕になる前に、同胞を惑わすお前は排除しなくてはならない」
黒い魔力と黒い魔力。
お互い、似て非なる魔力のぶつかり合いが、ひどく静かに始まっていく。




