12話
拝啓、母上。いかがお過ごしでしょうか。
魔術師の館に来てひと月が立ちました。相変わらず先生は厳しく、魔術で不意打ちしてくる中での修業が続いています。
ただ、自分で言うのも恥ずかしいのですが、厳しい環境に身を置いているおかげか、魔術の上達は目を見張る程です。
機会があれば一度お目に掛けたいと思っています。
最近友人が三人できました。
一人目は魔術の師匠でもあるギルダス。
最近ではすっかり打ち解けて、修業の際に容赦のない罵倒を浴びせてくるようになりました。ですが、王族の客人ではなく、弟子として扱ってくれている気がするので、思ったより悪くありません。
二人目は裏路地の薬屋で出会ったヘンギスト。
年上だとは思うのですが、年齢の見当がつきませんし、職業も不明で怪しさ満点なのですが、荒っぽくて威勢がよく、仁義を通す男の中の男といったふるまいをしていて、どこか父上にも似ているようにも思えるのです。
彼との出会いは、ギルダスと魔術薬に使う材料を買いに王都の闇市へ行った時でした。
行きつけだという老婆の薬屋へ行くと、右目に眼帯をした繊細そうな男がいて、オイスクと名乗りました。彼は、彼の主が私に用があると言うのです。
無論、私の素性は伏せていたのですが、どこからか私が王子だという情報を入手したようなのです。一度王宮の人間を調べなおす必要があるかと思われます。
そして、承諾の意を伝えると、オイスクは配下らしき男を走らせ、しばらくも待たないうちにヘンギストが飛び込んできました。
どうせ王族に取り入ろうとする輩の一人でしょうが、他愛のない世間話をしただけで去っていった振る舞いは、他の者との器の違いを感じさせます。
たびたびギルダスの館にも遊びに来るようになって、私は剣の稽古をつけてもらっています。ギルダスはあまりいい顔をしませんが、何も言いません。
ヘンギストはかなり力のある人物のようですが、ギルダスがそうと知りながら私に何も言ってこないあたりが、少々きな臭く感じる所です。
三人目は、これまた裏路地で出会ったベーダという男です。
代王都の裏路地には面白い人物がたくさんいてたいそう愉快ですね。
この男は貧民街で病人や怪我人の手当てをしていました。なんとも爽やかな性格と神秘的な風貌の美男のため、老婆から娼婦、幼い娘に至るまで絶大な人気があるようです。
やっかみも僅かにありますが、そんなことよりも、彼が無償で、先の短い病人や、大けがをした人間を治療して回っているのが驚嘆の念を禁じえませんでした。
一度、どうやって生活しているのかを訊ねてみましたが、爽やかな笑顔で、皆さんの御助力で日々生かされています、と言ってそれ以上は答えてくれませんでした。
ただ、彼もまたギルダスの館へしばしば遊びに来るようになり、ヘンギストと顔を合わせることがあります。
私はそこで、どうもこの二人は初対面ではないような印象を受けました。
あと、ギルダスはベーダをあまり好きではないようです。
それが顕在化したのは、ベーダがギルダスの前で治癒の魔術を使った時でした。
けがをした子猫をベーダが魔術で治療したのを見たギルダスは、物陰にベーダを引っ張っていくとしばらく話し込み、激高を態度の端々に示しながら戻ってきました。
何を話したのか、私にはまったく教えてくれませんが、それ以来、魔術師と治療師は滅多に口を利きません。
ヘンギストと二人の仲を取り持とうとしましたが、うまくいかなかったので、相性の悪い人間はどこにでもいるものだと思っておくことにしています。
名残惜しいですが、今回はこのへんにしておきましょう。
では、お元気で。召使たちにもよろしくお伝えください。敬具。
「よし、こんなところかな」
午前はギルダスと魔術の修業、その後、昼食を済ませ、食休みの最中に手紙の返事を書き終えた。
「おい、終わったか?」
「ああ、終わった、だが少し待ってくれ」
午後の剣術の稽古へ呼びに来たヘンギストを制し、丁寧に封をした。
「じゃあ、ギルダス、これを王宮の門番に渡しておいてくれ。王家の印を押してあるから、受け取ってくれるはずだ」
「いいでしょう、どうせ買い物のついでに王宮を通りがかりますから」
ギルダスはそう言って長いローブの中に手紙を仕舞い込む。
今のギルダスは物語の中に出てくる怪しい魔術師そのものだ。出かける時はこの格好がいいと言って譲らないが、どう考えても周囲から浮いているので私はあまり隣を歩きたいとは思わない。
「では、行ってきます。夕食までには戻りますので」
そうして怪しげな魔術師は足取りも軽く館を出て行った。
「あのガキは何あんなに浮かれてやがるんだ?」
ヘンギストが傍らに控えていたオイスクに問うた。
「何でも、大手の商会のトップが南大陸から帰ってきたのだとか」
この独眼の男は、いつでも打てば響くように答える。
「へーえ、それで何か珍しいもんでも売ってねえか見に行ったって事か」
何が面白いのか分からない、とヘンギストは鼻の穴をほじって特大の鼻くそを取り出した。
「そのようです」
すかさずオイスクが懐紙を取り出し、ヘンギストに差し出す。その後に私にも稽古に使う木剣を渡してくれた。
礼を言って受け取り、体を伸ばしながら立ち上がる。
「私も気になるし、稽古を終えたら少し覗いてみないか?」
稽古用の木剣を軽く振る。ヘンギストにもオイスクが木剣を差し出した。
「興味無いな。それより、さっさと始めるぞ」
「いくぞ!」
稽古と言っても、王宮で本ばかり読んでいた私と、おそらく何人か殺めたことすらあるであろうヘンギストではまともにやり合えない。
しばらくすると、一方的に打ちのめされ、息も絶え絶えの私が地べたに転がることになる。
「立て」
それでもヘンギストは稽古を止めず、私は日が落ちるまで激しく体を動かした。
「ま、今日はこんなとこだな。体洗って飯と酒にしよう」
ヘンギストが汗だくになると剣の稽古は終わりだ。
「わかっ、わかった、かへっ」
私は、まともに声が出ないほど消耗している。
ぼろぼろの身体を引きずり、井戸へ向かう。そこで土埃と汗を流すと随分すっきりした。
「おや、今日もずいぶん手ひどくやられましたね。明日に持ち越さないようにしてくださいよ」
「無用な心配だ、ギルダス殿」
同じタイミングで仲の悪い二人が館の門をくぐってきた。
「ベーダ、来てくれたのか」
「はい、今日は剣術の稽古があると伺ったので、お役に立てるかと思いまして」
露骨に舌打ちをしてギルダスは館へ入り、ベーダは稽古をし終え、井戸で水浴びする私のところへ来た。
ギルダスとベーダは目も合わせなかった。
「ふむふむ、ほうほう」
治療師はしゃがんで私の身体を丹念に眺め、あざをいくつか治療してくれる。
「ありがとうベーダ」
ベーダが白い歯を見せて微笑んだ。爽やかだ。
「大分怪我もしなくなってきましたね」
そういえば、稽古を始めたばかりの時は全身あざまみれで、顔までひどく腫れていた。
しかし、今では二つ三つ打ち身をこしらえるものの、何とか最後まで体を動かしていられるようになってきた。
「ああ、初めに比べれば大分、身のこなしが良くなってきた。体力はまだ今一つだが、稽古を続ければじきに何とかなる」
「おお、ヘンギストに褒められたのは初めてだな」
「そうだったか?」
「そうだとも」
服を着て館に入り、皆で食事の用意をする。
この間、ギルダスはベーダの料理に、庭で育てている奇怪な見た目の植物を丸ごといれた。
以来、自分の食事に変なものを入れられないように、ギルダス任せにしておいた食事の支度は、皆で分担するようにしている。
私とヘンギストはさっぱり料理ができないので食器の用意が専らだが、その不手際を補って余りある働きをするオイスクと、何でもできるベーダに、料理すら魔術でできるギルダスが居ればそこらの露店で売っている食料が絶品に早変わりだ。
腹の空いた私は思い切り飯をかきこみ、ヘンギストはオイスクを相手に酒を飲み、ベーダは警戒しつつゆっくりと食事を進め、ギルダスは父親と何か話し込んでいる。
いつの間にかギルダスの父が現れるのにも、ずいぶん慣れた。
温かな食事が、稽古で疲れ切った体に染み渡ってゆく。
「ふー」
腹が一杯になると、思わずため息が漏れる。
母上に知られると怒られそうで手紙には書かなかったが、こうしてマナーを気にせず、思い切り飯を食える環境も気に入っている。
始めの頃は匙が一つしかない食卓に戸惑ったりしたものだったが。
「食料品が値上がりしてるんですから、もっと味わって食べてくださいよ」
父親と話していると思ったギルダスが小言を言ってくる。
「代王の都に館を構える魔術師様が、金に困っているとも思えないがな」
しかしそれに反応したのはベーダだった。ギルダスのことになると、普段の爽やかさはどこかに散歩に行ってしまう。
「なんだと」
呟きに近い嫌味にギルダスが食いついた。ギルダスも、ベーダが相手だといつもの冷静さがどこかにしまわれてしまう。このままでは喧嘩になる、
私は急いで自分の分の食事を腹に詰め込むことにした。
「北で魔獣の大発生が起きて食糧難なんだと。餓死者も出てるらしく、買い付けに来る連中が増えてるから、値上がりはそのせいだろ。喧嘩すんなよ」
「加えて、魔獣から逃れてきた避難民がここに流れ込んでいるのも、価格の高騰を引き起こす要因かと。せめて食事を片付けてからになさっては?」
耳寄りな情報に加え、それとない仲裁に喧嘩腰の二人は食事に戻った。
酒飲み二人が話しの流れを変えるきっかけを作ってくれたので、ありがたく私は使わせてもらった。
「北で魔獣の大発生か、被害はどのくらい出ているんだ?」
そう聞くと、ヘンギストが驚いた。
「おいおい、あんた一応王子だろうが。そんなことも知らないのか!?」
「すまん。末の息子にはそれほど情報は回ってこないのだ。王宮を出てからは特に」
こうあからさまに驚かれると、多少申し訳ない気分になってしまう。
「そういうものか」
「そういうものなんだ」
ふうん、と一応納得してくれたヘンギストは新しく酒を注いだ。
「軍があっちこっちで魔獣狩りだとさ。全然手が足りてないようだがな」
「いくつかの場所では傭兵すら動員しているとか」
やけに北の情勢に詳しいな、この二人は。
「お前たち、どうしてそこまで詳しく知っているんだ?」
「北に知り合いが居んのさ」
ヘンギストは盃を干す。
「その知り合いも大変そうだな。ついでにいくつか聞いてもいいか?」
あとで王宮に確認を取ろう、ひょっとすると増援を派遣するのに王子を一人北へ送ることになるやもしれない。
その一人が私ではない、とも言いきれない。
臣籍に降下した王子の使い道は、だいたいそんなところだからな。
「何なりと、殿下」
おどけて頭を下る主の袖をオイスクが咎めるように引いたが、私とヘンギストはもう冗談の通じない仲ではない。
「軍の派遣された場所と、魔獣が襲撃している場所は分かるか?」
「ああ、もちろん。ギルダス、この家に地図あるか?」
「私の部屋に趣味で作った西大陸植物分布図ならあるが」
「随分妙なもん作ったな。ま、それでいい、持ってこい」
蚊帳の外に置かれていたギルダスへ指図するが、当然気位の高い少年魔術師は動かず、ベーダがまた嫌味を言って喧嘩になりかけたので、結局オイスクが場所を聞いて持ってきた。
文句の一つも言わないが、オイスクは大変だと思う。
食事の片づけを終えてからでないと汚れるから嫌だとギルダスが駄々をこねたので、皆で食堂のテーブルを綺麗にして、ようやく地図を拝むことができた。
「それでだな、魔獣が暴れたのが、今器を置いたとこだ」
ヘンギストが三つの器を置いた。
「天山の近くから、徐々に代王都へ近づいてきているのか」
恐らく、鬼人との激戦が起こった天山の東側で魔獣が増殖、大きな群れが発生し、食料を求めてゆっくりと途中の村や町を襲いながら東へ向かっているのだろう。
次々と押し出されるように、人々は魔獣から逃げて代王都へたどり着いたわけか。
「んで、軍はこの辺りを掃討中だ」
ごつごつした指が、天山から代王都までを流れるアムル川をなぞる。
「こうも簡単に侵入を許すとは、いったい軍は何をやっているのですか」
正義感の強いベーダは苦しむ人々の姿を思い描いたのだろう、ヘンギストを問い詰める。ただ、それについてはヘンギストよりも私が説明するべきだ。
「この状況、鬼人に手ひどくやられた後では新たに大規模な遠征軍は出せない。それに鬼人との関係が悪化したからある程度の軍を国境に張り付けておかねばならない。兵糧も武具も兵士も将も、全て足りていない」
「しかし、指を咥えて見ているだけとは」
不甲斐ない、とまでは言わなかった。王子の私に気を使ったのだろう。
「各地に防衛のための駐屯軍は居る、そこまで心配するほどでもないだろう」
興味のなさそうにギルダスが言うと、ベーダは我慢ができなくなったらしい。猛然と反論し始めた。
「ヘンギスト殿がおっしゃったことを忘れたようですね、餓死者が出ているのですよ」
「お前こそ忘れたようだな、買い付けのために商人が来ているのだから物流は生きているということだろ」
二人が睨みあう。
ヘンギストがオイスクへ目配せをした。オイスクが静かに食堂を出ていくが、頭に血が上った二人は気づかない。
「どうやら、いくら言っても分かりそうにありませんね」
「初めて意見が一致したな、私も同感だ」
ベーダが肉体強化の魔術を使う。心臓の鼓動と共に体中を魔力が駆け巡る。
ギルダスが杖を取り出し、魔力を練り上げた。巨鳥の姿をした雷が羽ばたく。
「いきなり魔術を使って喧嘩を始めるな!」
「あなたは少々痛い目を見たほうがよろしいかと」
「お前はもっと現実を見るべきだな」
「一応、止めたからな」
私の静止など耳にも入っていない二人。
ベーダの白い治療着と端正な容貌、ギルダスの黒い実験着とねじくれた杖、二人の対比は昔話の日輪と月影の対決を思わせる。
しかし、眺める私とヘンギストには、もう結末が見えている。
「またお二方が喧嘩です」
オイスクがギルダスの父を連れてきた。
ギルダスの父は、よくもまあ毎日喧嘩ができるな、と言わんばかりに二人を見やり、人差し指で柱を撫でた。
「いつ見てもすごいな、この光景は」
二人で感嘆の声を挙げた。
床、壁、天井と複雑な文様が仄かに白く浮かび上がる。
魔力を制御する文字だ。
私はまだ勉強中だが、使いこなせれば複雑な魔術を一瞬で発動できる革新的な技術で、伝説では原初の神々の一柱、樹人の祖たる虚樹が生み出したという。
稠密に描かれた文字は魔力拡散の魔術を発動する。
そして、雷の巨鳥は空中に溶け、鼓動を刻む魔力の鎧は搔き消えた。
「ありがとうございました、お手数をおかけしました」
丁寧に一礼すると、ギルダスの父はもごもご口の中で呟きながら自分の部屋に帰っていった。
「まったく、毎度毎度懲りないことだ」
「血の気が余ってるんだろ、一度どこかで暴れればすっきりするさ」
魔力が空になるまで拡散され、気を失った二人をヘンギストとオイスクと私で引きずり、ギルダスの部屋と客間の寝床に放り込んでおいた。
世界を巡る魔力が空になった魂の器にゆっくり入りこんでいき、自然に目が覚める。この間珍しくギルダスの父からそう教えを受けたので、放っておいても大丈夫だろう。
「じゃ、俺らは帰る。二人をよろしくな」
「失礼します」
夜の雑踏に消えていく二人を見送って裏口に鍵をかけ、私も自室に戻って午前中に教えを受けた魔術について復習をする。
炎を示す文様に指で触れ、魔力を流す。
ランプが灯った。
しばらく今日の振り返りをして、眠りにつく。
毎日体と頭を酷使するので、身体を横たえたと思ったら、もう朝が来る。
「くぁっ、痛って!」
あくびをして体を伸ばそうとすると、全身の関節がぽきぽきと一斉に鳴った。
これも毎朝のことなので、もう慣れている。
「あー、ギルダスとベーダの様子を見に行かないと」
目をこすり、半開きの瞼で窓を見ると、ようやく地平線から太陽が顔をのぞかせた所だった。
いつもなら日の出とと共に起きるのはギルダスの方だが、今日に限っては、私の方が早く起きたかもしれない。
身支度を整え、長い廊下を進む。
時折あちこちが仄かに光るのは、ギルダスの父が館に備えた文字の確認をしているのだろうか。
「ギルダス、朝だが、具合はどうだ」
ノックをすると、意外にもすぐに扉が開いた。
「問題ない、一晩もあれば空になった魔力は元に戻る」
「そうか、なら良かった」
「朝食の買い出しに朝市に行ってくる」
「分かった」
眠そうな顔はしていたが、顔色も良かったし、寝ざめも悪くなかったようだ。
次はベーダの様子を見に行くか。
また、長い廊下を進み、客間の扉を叩いた。
「おはよう。私だが、具合はどうだ?」
返事がない。
「おい、ベーダ?」
ここに泊まった時は、決まって早起きして、食堂でギルダスと無言の空間を作っていたのだが。やはり昨日の魔術が体に響いているのかもしれない。
「はい、おはようございます」
扉を開けようか悩んでいると、内側から治療士が出てきた。
「よかった、元気そうだな」
「ご心配をおかけしたようで申し訳ありません、少々早朝の祈りをささげていたものですから身動きが取れなかったのです」
聞きなれない言葉がベーダの口から出てきた。
「祈り?」
「ええ、私の創設した聖光教の教義の一つです」
「創設!?」
口を開く度にするする新事実が出てくる。しかし、寝起きで頭が回らず、それ以上は深く聞かなかった。
朝から難しそうな話は御免こうむる。
「それより、朝食の支度をしに行こうか」
「はい、お腹がすきましたしね」
早起きをすると朝食が美味い。
私がこの館の生活で知ったことの一つだ。
一瞬、空に影が過ぎったと思ったら、ギルダスが籠を持って中庭に着地するところを見た。買出しから帰ってきたようだ。
「また、教えてもらいたいことが増えた」
魔術で空も飛べるのか、いつかやってみたい。
「まだ飛行を教えてもらっていないのですか?」
「ああ、まあ、理由は想像がつくがな」
大方、魔力を制御制御する文字の理解が不十分なことだろう。
「いい加減な理由でだましているのかもしれませんよ?」
「お前ら、本当に仲が悪いな」
どうして、そう悪意に満ちた解釈しかできないのか。
「あれほどの才能が有るのに、彼は困っている人々に手を差し伸べず、自分の興味に従うばかり。自分の才能を役立てようとする意識がないにもほどがあります」
「まあまあ」
なるほど、今のような高説を初対面の時に語ったんだろうな。
ベーダの思想、いいかえれば信念は、いつか聞いたギルダスの考え方と根っこのところで食い違っている。これでは仲良くできるはずもない。
食事の時くらいは静かにしてくれるといいのだがな。
「ベーダ、殿下に妙な思想を吹き込まないでもらおうか」
「あなたこそ殿下を冷血漢に育てるのを止めていただきたいですね」
厨房で食事の支度をしている間、ずっと口喧嘩は鳴りやまなかった。
さすがに朝っぱらから気絶するのは嫌だったのか、魔術を使っての喧嘩はしなかったが。
「ギルダス、パンをもう一枚とってくれ」
「どうぞ」
焼きたてを買ってきたのか、ふかふかと柔らかく暖かいパンに、館の庭で育てている名前も知らない紫の美のジャムを塗ってかぶりつく。
バランスの良い酸味と甘みのあるひんやりとしたジャム、表面は固くて香ばしく、そして中身は軽くしっとりとしたパン。
シンプルだが、素材が良いためかいくらでも食べられる。
「そんな上等のパンを食べるとは、贅沢なことですね」
嫌味をギルダスが鼻で笑う。お前も食べてるじゃないか。
「ふん、小麦を買ってきて製粉から魔術で作ったんだ。お前が考えてるよりずっと安上がりさ」
「これを一から作ったのか、すごいな」
私の誉め言葉にギルダスの鼻が伸びる。
「ふふん」
「ちっ」
ベーダは舌打ちをしてから、湯気を上げるいり卵と、八面鳥の燻製肉を載せて一口ほおばった。
「ちっ」
もう一度舌打ちをした。美味くて文句が付けられないのかもしれない。
食事を取り終えると、私とギルダスは中庭で魔術の訓練を始め、ベーダは貧民街へ帰っていった。
最近は座学も中庭で行う。ギルダス曰く、あまりレベルの低い魔術ばかり考えていると頭が鈍るので、庭の植物の世話をついでにしたいのだそうだ。
なめられた話だが、ここで口答えをしないくらいの忍耐は身に付いたし、習った文字を使って魔術への防御を行えるようになったから集中しやすくなった。
体で覚える、とはこういう事だ。
ギルダスが魔術で操った中庭の植物が、貯えている消化液を霧状に吹き付けてくる。
慌てず、周囲の地面に刻んでおいた防御の文字を見る。
「あ」
もう一度よく見る。
上から順に、動きを止める、鈍くする、燃やす、粉砕する、等々。
どれも範囲の指定が間違っている。
これでは一点だけの防御はできるが、霧状の消化液はその一点を迂回してこちらへ向かってくる。
「失敗した。くそっ!」
何とか自分の周りにはつむじ風を起こして消化液を防いだが、課題の文字の書き取りをしていた紙は溶けて消えてしまった。
「では、初めからやり直し」
「はい」
今のところまで終わらせるのに半日かかったんだが、これは、昼飯は抜きだな。




