9話
日が中天に差し掛かる頃、獣人王の親征軍十万弱、そのうちのほぼ半数がぐるりと四人の獣人を取り囲んでいる。
闘いの熱気は、じわり、じわりと急ごしらえの闘技場を満たしていっている。
獣人ならばこの状況で血が騒がぬはずはない、だが、アタシは旅支度に身を包み、西王国宛の親書を懐に抱えて暗く獣人王ウィスタをののしっている。
「あの爺にいつか必ず泣きを見せてやる」
「獣人王に対して、爺呼ばわりはやめておいた方がよろしいかと」
声高に愚痴をぶつけた猿人族のギヨームも、小奇麗に身なりを整えている。
「お前もそんな丁寧な話し方はやめた方がいいぞ、馬鹿にされる」
「海の向こうの商人同士ならば、この話し方が普通なのですよ」
尻のかゆくなる話し方しかできないこの猿人族と、アタシと、もう一人樹人の商人ボルテでこれから旅に出る。
行先は西大陸と東大陸だが、アタシとボルテは西へ、ギヨームは東へ行く。まずは南大陸の東海岸にある猿人族の港へ向かい、ボルテの船に乗り込み、大陸を渡るのだとギヨームから説明を受けた後で、それぞれ港までの旅支度を整えてきた。
ワクワクするような獣人王候補たちの決闘が間もなく始まるというのに、アタシは言葉も通じぬ海の向こうへ行かなくてはならない。それもこれも獣人王の爺のせいだ。
「やれやれ、すみません。少し準備に手間取りました」
呪いの言葉を吐くアタシをボルテが遮った。
「それでは時間が惜しい、早速ですが出発いたしましょう」
「え、もう行くのか!?」
ちょっとくらいホリクの奴を応援しようかと思っていたのに、それすらできないとはなんてことだ。
「はい、ではいきましょうか」
ギヨームもボルテに続いてそう言う。こいつ、目の前で手練れ同士が全力で戦うというのにそれを見ないつもりなのか。
「いや、少しぐらい決闘を見て行かないか?」
「残念ですが、すぐに出発しなくてはならないのです」
「はい、お願いします、アスラヴグさん」
二人の商人は揃って頭を下げる。訳ありって事か。
そうするとこの決闘騒ぎもこいつらと獣人王の仕込みなのかもしれんな。
「まあ、いい、分かった、行こう」
どうやらアタシは、もうすでに底の見えない流れに乗ってしまっているらしい。こうなれば、流されるところまで流されてやる。
腹をくくり、ボルテの先導でアタシたち三人は歩き出す。
それにしても、やっぱり決闘は見たかったなあ、南大陸でも屈指の実力者たちがお互いに全力で戦うなんて滅多にない機会なんだよなあ。
「あーあ、ついていない」
ぼそりと口からこぼれたぼやきは、風にかき消されていった。
南大陸は風が強く、山もほとんどない。日差しは強く、一面に草原が広がっていて、空気はからりと乾燥して気分がいい。しかし、どれも獣人にとっては、という但し書きがつく。
「申し訳ありません、こんなお見苦しい所をお見せしてしまって」
歩き始めてはや三日、ボルテがぱったりと倒れた。
乾燥した南大陸の気候のためか、しょっちゅう水を飲んでいたボルテは、皮袋に持ってきた水を全て飲んでしまっていた。
しかし、まずい事に近くに水辺は無く、水の補給は絶望的な環境だった。
かさかさにしなびていく、ボルテのつるりと白い木の皮みたいな皮膚を前に、二人で頭を抱えていたところで、目の前を兎が一匹通りかかる。
その時、ギヨームとアタシは同時に閃いた。
「水が無いなら、生血でいいんじゃないか」
「い、生血!?」
不穏な言葉に一瞬元気を取り戻したボルテにかまわず、アタシは兎を素早くつかみ取り、ギヨームは逃げようとしたボルテを長い腕で羽交い締めにして、口を開かせた。
兎の頭をもいで、首なしになった体をボルテの口に突っ込んだ。
初めは唸り声をあげていたものの、喉の渇きには勝てなかったようですぐに喉を鳴らして飲み始める。そうして、生臭さにむせ返りつつも兎一匹分の血を飲み干すと、ボルテは見違えるほどに元気になった。
そんなことがあったので、獲物を見つける度に血抜きをしてボルテに飲ませている。
ただ、獲物が見つかるかは確証が持てないので、ボルテにはなるべく体力を使わせないように、アタシとギヨームの二人でかわるがわる背負い体力を使わせないようにする。
初めの予定では一気にボルテの船まで行くつもりだったが、進む速度が落ちたので肉を飯にしながら進む事にした。
植物のようなボルテも肉を食べるのは驚きだったが、本人が言うには、植物にも虫や腐った肉を基に成長するので、植物が魔力を得て進化した樹人が肉を食べるのはおかしなことではないと言う。
「まあ、魔力が豊富なら、食事は必要ないんですけどね」
「へー」
「それよりも、君たち獣人が獣を殺すことが驚きですよ」
ざっと樹人についてボルテが解説し終えて、そう言葉を繋げる。
「特に、アスラヴグさんが、兎を殺したのは驚愕しました」
「そうなのかねえ」
狩りをしなくては肉は手に入らない。当たり前過ぎて考えたこともなかったが、確かにそこらにいる野兎はアタシたち兎人族のご先祖様にあたるのかもしれない。
まあ、どうでもいいことだ。
「まあ、それはそれとして、そろそろボルテさんの船がある港が見えてくるころでは?」
「ええ、大分近づいてきていますね」
ボルテがちょっと遠くを眺めるようなしぐさをする。それに倣ってギヨームとアタシも遠くを眺めるが、地平線が見えるだけだ。
「良く見えるなボルテ、樹人ってのはよほど目が良いんだな」
すごいもんだと感心すると、ボルテはそうではないんです、と首を振る。
「いえいえ、獣人の方々よりも遠くを見ることができるわけではありませんよ」
「おや、それではなぜ船の位置が分かるのですか?」
一瞬、瞳の光を強くぎらつかせたギヨームの問いにボルテは謎めいた微笑みで応じる。
「それは秘密です」
「おやおや、つれない答えですね」
うふふ、あはは、と笑い合う二人の間には殺伐とした空気が流れる。なんだこれ、笑ってるのに殺気に似た気配を二人から感じる。
この二人、おっかねえな。
ぶにぶにした膜の下に、底なし沼が広がっていて、その上を慎重に歩くようなやり取りを商人二人が続けている間も北東の地平線を目指して歩く。
夕暮れ時になると、ようやく港が見えた。
猿人族が管理するその港には、同じ形の船が幾艘も連なっていて、夕日の光線が船の形に長い影を地面に映し出している。
「よっこいせ」
港の草をきれいに刈って突き固められた地面に背負っていたボルテを下ろす。身体を思い切り伸ばすとぽきぽきと凄い音がした。
「ありがとうございました。アスラヴグさん」
グリムも背負われっぱなしで疲れたのだろう、伸びをすると皮膚のこすれるかさかさとした音がする。
「では私はまずここの管理者に話を通してきますので、アスラヴグさんとボルテさんは、少し待っていてください」
時間が惜しい様子を隠さず、ギヨームは管理者がいるであろう小ぶりな家に向かっていった。
「おう、早めに頼む」
「お手数をおかけします、ギヨームさん」
手持無沙汰になったな。
港を見渡してみる。大きな建物がいくつか並んでいるが、人通りも少なく、夕日も相まって、がらんとした港は物悲しい顔をしている。
「なんか寂しい感じだな」
「魚人族の攻勢が始まってから、猿人族の交易は深刻な被害を受けたそうです」
「ふうん」
「海の道を断たれ、船も財産も一族の者も失ったギヨームさんは、それ故に魚人族に対して並々ならぬ敵意を持っているそうですが」
「へー」
カニがいる。海が近いからだな。
「あら? ご興味ありませんか?」
「人の戦う理由なんてそれぞれだろ、一々知りたいとも思わねえ、そういうのは黙って一人で抱えるもんだ」
「なるほど」
納得したとばかりに頷くボルテだが、アタシには戦う理由など何もない。強いて言うなら、血が騒ぐ、ということだろうか。
だから、心の底では王座などどうでもいいと思っているし、それに情熱を燃やしているホリク達を見ても、格別の感情を抱くことは無かった。
弟のアズラは、そんな心情を知ってか知らずか、しつこく王座に就くように勧めてくる。
そんな折に魚人の攻撃があり、被害は大きかったとはいえ撃退することができた。弟はここぞとばかりに手柄を言い立て、兎人族の存在を印象付けようとするだろう。
その場にいれば、アタシはどんな英雄にされていたか分からなかった。だからこの任務、もとい面倒ごとはうるさい弟から逃げる格好の口実になっている。
海を見ながら考え事をしていると、駐屯地の見張り台を思い出す。爽やかな海風があって、酒があって、生意気だが気のいい仲間がいた。
真っ先に攻撃を受けたから、あそこに残っているのは残骸ばかりになってしまっただろう。
「おや? 何やらしんみりとした雰囲気ですが、どうかされましたか?」
ギヨームは戻ってくるなりこちらを見透かしたようなことを言う。
「退屈でうとうとしてただけだ」
「何でもありませんよ」
ボルテもちらりとこちらを見てから何でもないと言った。なんだ、この二人、もしかしてアタシを気遣ってるのか。
大きなお世話だ。
「それよりも、私の船はどこに? ここからは見当たらないようなのですが」
「それが、その」
言いよどむギヨームにボルテは表情を強張らせる。
「何か、あったのですね?」
「ええ、まあ、はい」
さらに歯切れが悪くなっていく猿人に、樹人が詰め寄る。
「何があったのですか?」
「実は、船を奪われまして」
蚊の鳴くような声でギヨームが白状した。
「大変、申し訳ありません。つい先日、魚人の襲撃があり、外洋航海に耐えられる船は全て焼かれてしまいまして」
ここにも魚人が来ていたのか。陸上で魚人を追い込んでいると言っても、海辺はまだまだ奴らの鼻息が荒いようだ。
いや、まて、今こいつは何といった。
「焼かれた?」
「私の船は奪われたと、先ほどおっしゃったように思いましたが」
「それがですね、海中から船を攻撃され、我が一族の者が捕らえられました。色々と情報を吐いたようで、海の外から商人が来ていることも魚人に話したらしく、それを聞いた連中がボルテさんの船を奪ってしまったのです」
猿人族は海の外に出向く暮らしが長く、いくつかの言語を操る者がほとんどだ。以前は魚人族とも交易をしていたため魚人語を話すことができる者もいる。
アタシにとっては水が泡立つ音にしか聞こえないが、魚人語を覚えられるなんて同じ獣人とは思えない。
それはともかく、魚人の狙いは何なのだろうか。
「なんでわざわざ一隻だけ奪ったんだ?」
他の猿人族の船は焼いてしまったのに。
「さあ、そこまでは分かりません。ボルテさんの船がなにか、特別ということはありませんか?」
ギヨームがボルテに問う。
うわ、また変な空気になりそうな予感がしてきた。
「いえ、西大陸ではいたって普通の大型船です」
すまして答えるボルテにさらに問いかけようとしたギヨームをとどめる。また商人同士の腹の探り合いにつきあわされては堪らない。
「獣人王から頼まれたことはどうすんだよ、船が無きゃどうにもならねえだろ」
無言になる二人。
戻るのが気まずいアタシとしては、どうにか船を調達して獣人王の親書を渡しに行きたい。
だが、こいつら相手に望みを言うと何を代わりに要求されるか分からず、どうにも怖くて言い出せない。
二人もそれぞれ真っ黒な腹の中で色々と考えている様子で、しばらく波の音だけが聞こえていた。
そこで非常に間抜けな音が鳴った。
「腹減ったし、今日はもう飯食って寝ないか?」
「そう、ですね。今日はひとまず休息を取りましょうか」
「分かりました、ではこちらへどうぞ」
旅の疲れは全員に共通だった。ギヨームの手配で港の管理者棟を借り、食事と、睡眠、それに加えてアタシは久々の酒を手に入れた。
「っあー! うまい!」
口に含むととろりと甘味が広がり、飲み干せば舌の根が程よく苦味で締まる。
ついつい飲みすぎてしまったのか、朝起きた時は空になった酒樽の内側が見えた。
「アスラヴグさん、酒樽を被って何をしているのですか?」
「彼女は大の酒好きなので、泥酔するとよくこの状態で朝を迎えるのです」
「しかし、樽を被るとは、一晩で一樽を飲み干したということですか。底なしですね」
二人の声がしてはっきりと目が覚めた。頭を樽から引っこ抜き、水が欲しいと二人に言う。
「飲みすぎた」
「見ればわかりますよ、全く、うちの酒を全部飲み干すつもりですか?」
ギヨームが文句を言いつつ差し出した器から水を飲み、昨日の話の続きを切り出す。
吐き気が酷い。
「船の件はどうする?」
「私の船が沈められていないとして、何とか探し出すしかないでしょう」
「そうなりますよね」
一晩時間を置いてお互い考えがまとまったのか、昨日のように読めない腹の探り合いが始まること無く、今後の行動の段取りを決めることができそうだ。
「じゃあまず捜索からだな」
「港にいる一族の者に探させましょう」
「では捜索はお願いします。ギヨームさん、私とアスラウグさんは船旅の準備をしておきますので」
すんなり決まった方針そのままに、ギヨームは港で無聊をかこっている猿人を、海上と陸上それぞれに振り分けて捜索隊を組織し始める。
「海上捜索隊は、船の入り込めそうな入り江を中心に探していけ、陸上捜索隊は魚人の痕跡を見つけるんだ、分かったな」
「はい!!」
気合の入った掛け声を合図に、人の動きが活発になっていく。
「それでは、私たちも取り掛かるとしましょう」
「おう」
とはいっても、アタシは船旅どころか船に乗るのも初めてだ。
「まず何をすればいい?」
「まずは人手を確保しましょう」
「アタシ一人じゃ足りないのか?」
「ええ、ですが猿人の皆様は手の空いている方がいらっしゃらないようなので、一工夫しましょう」
「一工夫?」
聞いてみたが、ボルテはそれに答えず荷物から皮袋を一つ取り出した。口を開くと中には小枝がぎっしりと詰まっている。
「これと、これと、あとはこの辺でしょうかね」
一掴み小枝を握り、ボルテは腹部にその小枝を突き立てた。
「なっ!? おい!? どうしたんだ!?」
いきなりおかしくなったのか、やっぱり生血を飲ませたのがつらかったのか。
しかし、ボルテは涼しい顔で見ていてくださいと言う。
「むっ」
ボルテが力を込める素振りをすると、ただ突き立っているだけだった小枝の先端から葉が伸びてきた。
「おお!?」
するりするりと葉は伸びてゆき、枝がめきめきと大きくなる。アタシの腕ほどに太くなり、いくつかに枝分かれしていった。
そうして終いには、数本の枝で支えられた巨大な樹木の触手が目の前に現れた。
「おおー、すごいな。もしかしてこれが魔術ってやつか」
「いえ、魔術ほど難しい事ではありません。樹人ならば子供でもできることです」
樹人ってのは面白い連中らしい。ボルテは腹から伸びた木の枝を自在に操り、食料と水に、南大陸で仕入れたという商品も次々に船着き場へ運んでいく。アタシは専ら建物の中から物資を出してくる役だ。
所詮木の枝と、そのうち折れると思っていたが、力強くしなやかにうねうね動き、日が真上に来る頃には船出の準備は船を待つのみとなっていた。
「昼飯貰ってきたぞ」
「ありがとうございます、どうもこの状態では身動きがとり辛いものでして」
「さっき、アタシの頭に枝をぶつけそうになってたぞ」
「申し訳ありませんでした」
海と荷物を見ながら昼飯を食い、心地よい風と日差しに少しうとうととしていた時、キーキーうるさい声で落ちかかっていた瞼が開いてしまった。
「アスラヴグ様、ボルテ様、ギヨーム様より伝令です!」
小舟が一艘沖からこちらにやってくるのが見える。
「伝令?何?」
「さては、私の船が見つかりましたか!」
一番気持ちのいい瞬間を邪魔されて不機嫌になるアタシと、吉報を期待して喜色を浮かべるボルテの対比に少し戸惑う伝令だが、こう続けた。
「沖合の小島にてボルテ様の船を発見、しかし魚人にもこちらを発見され、只今戦闘中です」
「いきなり始まったな」
「それで、他には何か?」
「武装を整えた魚人に対して、こちらは捜索を考えた軽装のため押されています、御二方の御助力をお願いいたします、とのことでございます」
お願い致しますときたか。まあ、腹ごなしの運動にはちょうどいい。二日酔いも、幾分落ち着いてきた。
「アタシは行く、ボルテはどうする? 戦いが終わってから迎えに来ればいいか?」
「私はここで荷物を纏めてから向かいます、魚人がこちらに流れてくるかもしれませんし、荷物を奪われてはいけませんから」
何か言い返そうとした伝令をアタシは遮る。
「じゃあ、さっさと行くぞ、どっちだ?」
「いえ、あの、ボルテ様の乗る船が必要なのでは?」
「いいからいいから」
うだうだ抜かす伝令の首根っこをひっつかみ、小舟に飛び乗る。
「さあ! 船を出せ!」
いいのだろうかと顔を見合わせる猿人達。
「私の船はいりませんよ、水に浮きますからね」
ボルテが腹部の枝を器用に蠢かして荷物をまとめながら言うと、やっと猿人の奴らは船を漕ぎだした。
港を離れ、沖合に見える小島に向かう。
「しっかし、どうしてこんな近くに船を隠したのかね?」
水面を時折横切る影を眺めつつ、伝令の猿人に訊ねてみた。一隻だけ外洋に出ることができる船を残したり、それをすぐ見つかるところに隠したり、魚人は何がしたいのかよくわからない。
「さあ、それは分かりません」
「ギヨームは何か言ってなかったのか?」
「私には何も」
「そうかい、じゃあ何人かとっ捕まえて吐かせるかな」
そこで突然あることを思い出した。
そういえば、ホリクと一緒に捕虜にした連中のことを忘れていた。ホリクのことだから手抜かりは無いと思うが、確認ぐらいはしておくべきだったかもしれない。
ともかく今はギヨームの助っ人だ。そう意識を切り替える。
「あの旗を掲げた船にギヨーム様がいます」
伝令の指す先に、十数艘の船が波間に漂っているのが見えて、その向こうに巨大な白い船が見えた。
「あの白い奴は?」
「あれはボルテ様の船ですが、今は魚人達が操っています」
「船を盾にされて手出しができないってとこだな」
よく見ると、白い船の周りには炎を上げる小舟が数艘漂っているのが分かった。たぶんあれは猿人側の船で魚人達に焼かれたのだろう。
「おい! ギヨーム! 今どんな状況だ!」
旗を掲げた船に近寄り、呼びかける。海の上は風と波の音が声をかき消してしまうため、誰もが自然と大声になる。
「アスラヴグさん! 少し待っていてください! 交渉中です!」
「交渉!? どういうことだ!?」
「とにかく少し待ってください!」
待てと言うなら仕方がないと、しばらく波に揺られる。
「どうやら戦闘はもう一区切りついているらしいですね!」
後方からボルテの声がした。
「おう! どうやらアタシの出番はないらしい!」
振り返り、叫び返すと腹部から伸ばした枝で即席の筏を作ったボルテがいた。
「すげえなそれ!」
「穏やかな海ならば、これで問題なく浮かんでいられます!」
樹人が自前で筏まで用意できるとは恐れ入った。まだ見ぬおもしろ能力もあるに違いない。
白い船に動きがあった。ギヨームと話していた魚人が船室へ引っ込む。
「お、交渉がまとまったか」
白い船の船首に、ぶよぶよの濃い紫のものが出てきた。
「何だあれ?」
手足も二本ずつあり、しっかりとした足取りで歩いてはいるが、遠目にもわかるぬめりと体中の突起はそいつの風貌をすっかり人間離れさせている。
そいつは、口のような穴を開いた。
「我々を濤竜の縄張りへ送り届けることと、航海中の安全の保障、この二つの条件を飲むのならば、我々は降伏する!」
降伏。どういうわけで降伏することになったのかは分からない。
「あれは、トルボール氏です!」
「トルボール!? 誰だよ!?」
「魚人王に仕える重臣の一人です!」
ボルテが木の枝を上手く使って水をかき、ギヨームの船に近づいていった。
「アタシたちも行くぞ!」
アタシも漕ぎ手を急かして旗を掲げた船に乗り込む。ボルテは人型の部分のみをギヨームの船に上げて何か熱心に話し込み始めている。
ここからでは、アタシの耳でも聞き取りにくい。
「ですから―」
「―いえ、そうは言っても―」
ギヨームの船に横付けして、話の内容がようやく聞こえてくる。
「ですから降伏はそのまま受け容れてください! 後のことは私が責任を持ちます!」
「いや、我が一族の船を沈めた落とし前はつけさせなくてはなりません、何人かの身柄をこちらで預かるのが条件です!」
「あれは私の古くからの知人のトルボール氏です、信頼のおける人物ですから、問題ありません」
「トルボール氏なら私も何度か取引したこともあります。が、それとこれとは別でしょう」
もめているらしい。
船内にうっすらと血の匂いがする。足元に怪我人がうずくまっているが、臭いを嗅いだ限りでは死人は出ていない、その上、重傷者もいないかもしれない。
伝令が押されていると言っていたのは嘘ではないだろうが、トルボールとかいう奴らは十分に手加減をしていたと見える。
「落とし前をつけさせるには、こっちは不利だな」
「そんな、アスラヴグさんまで!? 魚人と我々は戦争をしているんですよ!」
ボルテと二人がかりで、ごねるギヨームを説得する。ともかくトルボールとギヨームが直接話をするというところまで話を持って行った。
ものすごく面倒くさかった。アタシ一人ならギヨームは今頃海の中に沈んでただろう。
「ギヨームさんも名の通った商人です、少し頭を冷やせばわかっていただけます」
白い船と旗を掲げた船の中間に、小舟で向かって行くギヨームとボルテを見送りながら、ギヨームの部下はぽつりと呟いた。
ボルテの白い船から、トルボールというらしい紫色のぶよぶよ、もとい、魚人王の重臣が小舟に乗って漕ぎだしてきている。
二艘の小舟がぴったりと寄り添い、しばしの間言葉を交わしていた。ここからでは何を話しているのか聞き取れなかったが、しばらくして小舟を漕いで戻ってきたギヨームはこう言うのだった。
「降伏を受け入れます、急ぎ出航の準備を済ませましょう」
そこから作業は速やかに進んだ。
トルボールの部下たちが自分たちの物資を積み込んでいたので、物資の積み込みはボルテが持ってきた分だけで済み、あっという間に南大陸を離れる時が来た。
「では出航!」
掛け声とともに、船の各箇所から枝が伸び、ボルテの身体に突き立ってゆく。魚人やギヨームと一緒に、私は驚きの声を抑えられなかった。
「そうやって動かすのか!」
ひとりでに帆が上がり、両舷からオールが伸びて水をかく。
アタシたちは奇妙な船で西へ向かう。
目指すのは西大陸、代王都だ。
ぬちゅぬちゅと音がした。
「お初にお目にかかります、アスラウグ殿。お噂は、光の届かぬ深海にまで届いております」
トルボールの足音だった。
「そりゃどうも」
「わたくし、元魚人王臣下、ナマコの魚人、トルボールと申します」
「よろしくな。アタシは兎人族のアスラウグだ」
握手を交わす。指までぶにぶにだった。
「なんか、疲れてんな。あんた」
「ええ、まあ。いろいろありましてね」
表情があるのかないのか。魚人の感情は読み取りにくい。雰囲気が疲れているから言ってみたが、当たるとは驚きだ。
「なまこの魚人とやらに合うのは初めてだ」
「はい。ひっそりと暮らしている部族なもので」
「それでも、魚人王の重臣だったんだろ? 優秀なんだな、あんた」
「さあ、どうなんでしょうね?」
トルボールが、磯臭いため息をついた。
「ま、何にせよ一杯やろうぜ。さっき、ボルテがいい酒を乗せてんのを見たんだ」
「酒、ですか。せっかくのお誘いですが、気分では―」
「うるせー。長い船旅で、いつまでも暗い空気出されたらかなわないんだよ。吐き出すもん吐き出しちまえよ」
背中を押して、船底近くの倉庫へ潜り込む。
これで、ここから代王国南端の港まで、酒の肴と、相手には困らない。




