湖底の謎
恐怖は人類の最も古い感情である――H・P・ラヴクラフト
「武沢邦哉より、七尾由紀夫に宛てたる手記」
針園湖と呼ばれる湖が、この大南市には存在している。いつから存在するのかも定かではなく、貯水のための湖ではないともいう。周りには人家どころか、畑ひとつない、立ち枯れた竹が乱立する竹藪があるばかりである。そのため、人目にも気にも留められず、近づく者もいないため、ゴミの一つも浮かばない荒涼とした場所だ。だが、昨年の7月14日に起こったあの事件を、そして今年、僕に降りかかるであろう恐怖とを思い起こすと、一刻も早くこの大南の地から離れたい衝動に駆られる。だが《奴》からは――湖の底に巣食う《奴》から逃げられる方法などありはしないのだ。僕自身、奴の餌食になるつもりは毛頭ない。それは本当のことなのだ。だがいくら抗おうとも、僕の足は今にもあの針園湖に向かおうとするのだ。
もはや時間はない。今の僕にできるのは、この手記を信頼に足る人物に託し、この慄然たる事実を白日の下に曝してもらうことしか無いのだ。
◇
針園湖の話を友人、福山智樹から聞いたのは、彼が針園湖に赴き、二度と帰って来なくなる日の朝のことだった。彼の部屋に集合した我々――僕と、もう一人の友人に、彼は我々が住まう岩田の隣町である箱造にある湖、針園湖に現れるという女の幽霊について語った。
我々三人は大南市の岩田を拠点として、大阪、和歌山を中心に、いわゆる「怪奇スポット」を巡ったり、奇怪な伝承を調べ三人で考証する仲間であった。
「そんな湖があるのか。知らなかった……しかし、そんな話は聞いたことがないな」
福山の話に驚きながらも、冷静に疑問を呈したのは、もう一人の友人、七尾由紀夫であった。
「つい一昨日見つけたんだ。それで、昨日調べてみたら、女の幽霊が出るって噂の湖だった。立ち入り禁止の縄も昨日のうちに取っ払ってきたから、明日三人で行こうぜ」
「しかし、そんな水場に計画もなしに行くのは、危険すぎやしないかね。大体、箱造まで行くのは、七面倒だし……」
七尾はいかにも嫌そうな顔をしていたが、彼のこの言動が、元来の臆病さ――すなわち肉体的危険と、社会的体面とを重視する危険を冒すもので、僕たちへの説得というよりも、自身への危険を減らしたいがためのものでしかないことは、僕も福山もこの時点で分かり切っていた―――今から考えれば、彼は生来の鋭い直感から、この陰惨たる結末を予知していたのかも知れないが。
「それじゃあ、お前だけ留守番してりゃいいよ……おい武沢、行こうぜ」
そういうと、福山は僕を連れ出し、針園湖に向かう準備を始めた。カメラをポケットに入れ、いかにも丈夫そうなロープを巻いてリュックに放り込み、ミネラルウォーターも二本つめた。
「勝手にするがいい。私は知らん」
そう憮然たる様子で言うと、七尾は立ち上がって部屋から出て行った。
「気にするな、いつもみたいに短気を起こしただけだ。明日になったら機嫌を直すさ」
彼を追いかけようとする僕を制しながら、福山が言った。たしかに七尾が短気を起こすのはこれが初めてではなかったが、今回はいつもと様子が違っていたのが気になったのだ。
いつもならば、立ち入り禁止とあっても彼は僕たち二人に同行し内部を探検したりしたし、何より彼からの発案もいくつかあった。しかし、今回の針園湖行きに関しては俄然拒否したのが妙に引っかかったのだ。彼は臆病ではあったが、人目につかないところとあっては、遠慮なく羽目を外すような男なのだ。
そんな僕の心配をよそに、福山は準備を済ませていた。
「そんじゃあ、そろそろ解散するか。武沢、お前は準備とかしなくていいのか?」
「ああ、そうしよう。それより行くのは22時くらいでいいか? 箱造は街灯が少ないから帰りは危険だが、夜の方が雰囲気が出るだろ」
「そうだな」
そういってにやりと笑うと福山は言った。
「まあ、幽霊より事故のほうが怖いくらいだけどな」
◇
自転車をこぎ三十分ほどかけて僕たちは、針園湖にたどり着いた。
そこは見るからに寂しい場所だった。今まで走ってきた道は、アスファルトの整備が整っていないヒビにまみれた、寂しい道だったが、針園湖はそれに輪をかけて寂しいところであった。
かなりの広さを誇りながらも水は泥で濁り底が見えず、魚どころか虫一匹見えない。湖の周りは立ち枯れた竹が乱立する竹藪だけで、見渡す限りそればかりだった。民家も畑も、一切目視できない、人間の手が届かない場所であった。
空にはただ大きく欠けた月だけが僕たちを見下ろしていた。そしてその月の光が湖に反射し、針園湖は一種神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「いかにもって場所だな」
ポケットからカメラを取り出しながら、福山は水辺の方へ入っていこうとした。
「おい、危険だぞ」
「大丈夫だって、竹にロープを結んどけば引っ張って上がれるさ。七尾の心配性が移ったか?」
そういってもっと奥の、水辺と竹が近い方へ福山は向かっていった。福山を尻目に僕は濁り切った針園湖の水底を眺めていた――この湖底にその女の思念が眠っているとでもいうのか。そもそも、本当にこの湖で人が死んだりしたのか……こんな人の寄り付かないところで?
そんな疑問を頭の中で繰り返しながら福山の居た方を見ると、さらに奥に行ってしまったようで、竹藪に隠れてしまいこちらからは見えなくなっていた。いささか心配になった僕はそちらへ歩みを進めた。だが、歩みを進めるごとに僕はなにか――筆舌尽くしがたい不安に駆られた。福山の足音も、カメラの音もしないのだ。
竹藪を抜け水辺に目をやると、そこに福山が倒れていた。腰から下は湖につかり、ロープは引きちぎれていた。
急いで福山を助け起こそうとすると、水面が揺れた。福山は全く動いていないにもかかわらず、福山の足元だけがゆっくりと、何かがいるように揺れていたのだ。
その時の僕は、何が起こったのかわからず、呆然と揺れる水面を見つめていた。そして、ついに気づいてしまったのだ。何かが、福山の背中をつかんでいることを。
その手は、人間のそれではなかった。人間の手におぞましいほど似てはいたが、その手には灰色の鱗のようなものがびっしりと生え、鋭い爪のようなものがちらりと確認できた。何より、その手は人間のそれとは思えないほどに長かった。
僕はその手が、福山の体をゆっくりと水中に引きずり込むのをただ眺めていることしかできなかった。ゆっくりと、腹、肩、頭が濁った水中に消え、だらりと伸びた両腕が水中に消え、水面はやがて静かになった。
そのあとのことは、思い出したくもないが、こうして僕の命に危機が迫り、そして僕のような愚かな探究者が出るのを防ぐために、こうして書き残すことにする。――もっとも、その愚かな探究者がこの手記を読んだにもかかわらず、自らの意志で、針園湖に赴くというのなら話は別だが。
福山が水中に没して、無限とも思える時間が流れたのではないかと思われた後、唖然として湖を眺めていた僕は、再び水面が揺れるのを見て取った。
水中から黒い髪がゆっくりと姿を現した――もっとも、果たしてそれが髪かどうかは疑問ではあるが――そして、水中から現れた《奴》の双眸が僕の姿を捉えたとき、僕は今まで探究してきた恐怖というものが、子供騙しの偽物でしかないということを思い知ったのだ。
それは、決して幽霊などではなかった。もっとおぞましいものだったのだ。その目は、《奴》の腕と同じように人間に冒涜的なほどに似通っていた。ただ、唯一人間と違っていたのは、その目に白目がほとんどなく、魚のように濁った黒目ばかりがあったことだ。
そして、顔全体が上がった――その鼻や口――この悍ましさたるや、いくら僕とはいえ、書き残すことができないほどだ。だがなにより一番恐ろしかったのは、腕と同じように、顔全体に灰色の鱗がびっしりと生え、水が流れ落ちて、ぬめりのあるその鱗に月明かりが鈍く照っていたことだ。
僕は恐ろしさのあまり叫び、泣きながら、そして訳も分からず笑いながら、針園湖から全力で逃げ帰った。自転車に乗り込み、夢中になってペダルをこいだ。ただ針園湖から離れたい一心で、何度も道路に転んでは自転車に乗り、ふらふらと運転を繰り返し、ただただ自転車を走らせた。友の安否すら全く頭になく、僕をあざ笑うかのように輝く月の光を感じながら、一際大きな笑い声をあげた。
平静を取り戻したのは家に帰りつき、家中の鍵を施錠し布団に潜り込んでからだった。しかし、この手記を書き残している現在まで消えようのない恐怖と、あの湖に招かれているという感じだけは消えなかった。翌日から失踪した友人の話を聞いたり、七尾から、あの日何があったのかを問いただされても、僕の頭の中には《奴》の名状しがたい双眸しか浮かばなかった。
◇
針園湖に巣食っていたあの生物は、一体なんだったのだろうか。僕には《奴》は、明らかに人間的な存在からは逸脱した、得体の知れないものだということしかわからない。その上、僕はそれ以上のことを――あの悍ましき『湖底の謎』のことを知りたいという気力すら、失い果ててしまったのだ。
夏が終わり、秋になるとあの湖に呼ばれているという気持ちはなくなっていった。だが7月に入り、更に、あの事件から一年になる今日になって、その気持ちは明らかに僕の手に負えるものではなくなってしまった。僕の中であの化け物を再び目にするかもしれないという気がしてならない。そして、その時こそあの化け物は僕の友人と同じように、僕をあの湖底に引きずり込むのだろう。
だが、もはや恐怖など感じない。むしろ、その瞬間をこそ待ちわびている気持ちすらある。あの湖こそ、僕が帰るべき場所なのだ、と。……そして、あの湖に再び足を踏み入れて初めて、僕はあの『湖底の謎』を知ることが出来るのだから。
◇
「七尾由紀夫より注記」
この文章は我が友人、武沢邦哉の部屋の机上にて発見された、彼の遺書とみられる文章である。警察での筆跡鑑定の後、彼の遺族に返却され、もともと私に宛てたものであったため、私に託されたものだ。警察や彼の家族でさえこの記述を信じずに、彼の正気を疑ってかかったが、私は彼が正気であったと断言できる。彼は自殺などするような意志の薄弱な人間ではない。だが、彼の遺体が針園湖で上がり、こうして遺書めいた文章を残した彼は、精神的ストレスによる自殺と判断され、この遺書の内容も、ストレスによる被害妄想の類と判断された。現に、福山の死体はどれほど探しても、骨ひとつ見つからなかったのだから。
だがこれだけは言いたい。あの針園湖には、我々の窺い知ることが出来ないような、名状しがたい何か――彼が文中で述べた《奴》が巣食っていることは、まず疑いようがない。
ただ先に言っておくが、私の警告を無視して(文中にもそれと見られる箇所があるだろう)、さらに進入禁止の札を無視した結果、悍ましい死を迎えた彼を擁護するつもりはない。ただ――葬式で遺体すら見せないまま火葬された彼の末期を想像するにつけ、私は一種の哀れさを感じるのである。
だからこそ、最期に彼は「『湖底の謎』を知ることが出来る」と文中に書いているが、それと同じようにこの文章を読み、彼と同じ末路を辿ることを、私は読者諸賢に勧めるわけにはいかないのである。私自身、針園湖に足を踏み入れるつもりは毛頭ない。この世には、知ってはならないものが存在するのだ。
私はこれ以上、この手記について語ることをしたくはない。
――『湖底の謎』は、永遠に謎たらしめられねばならないのだ。
「謎」というものは、解かれるべきものでもあり、また解いてはならない二重存在的なものでありましょう。七尾氏のような探求の徒にとっても、「湖底の謎」は解いてはならない「謎」だったのです。
あなたにとって、「湖底の謎」は解くべき「謎」なのでしょうか。それとも、解いてはならない「謎」なのでしょうか?