68.閑話 あの時歴史は動いたのかもしれない 4
呆けていた。
思考が追いつかないのか、それとも考えたくないのか。
いや、そもそもを言うならば。
「自分」はなんなんだ?
考えれば考えるほど、「自分」はとても矮小で、何もできず何も持たない何者でもないただの人だ。
ただの人だった。
それが許される立場ではないのに。
許される立場ではない、はずなのに。
この世界に戻って以来、アクロディリアは考えることが多くなった。
その八割は過去の自分の所業に対する後悔と懺悔だ。
残りの二割は、自分のことを考えている。
自分の身体を我が物のように使いこなす、「偽者の自分」を見ていると、嫌でも考えてしまう。
あれは本当に、かつては自分の身体だったのか、と。
あんな多種多様な、多くは愚かと断じられるのに、しかし時々生粋の貴族すら持たない魅力を放つ行動を取れるのか、と。
色々考えたいことはあるが、しかし今は――
さっき見たものが、少々刺激が強かったのだ。
そして、心の底から、嫉妬してしまった。
果たして自分は、本物は、想い人のために誰かと殴り合うことができるだろうか?
思考だけで迷い躊躇うのに、それを実際にやってのけた「偽者の自分」。
嫉妬すると同時に、理解もしてしまった。
そんな彼だから、ラインラック王子の心に触れられるのだろう、と。
「――ただいま」
「偽者の自分」が帰ってきたのは、割と早かった。
アクロディリアが寮部屋に戻ってきて放心している間……恐らく一時間も隔てていない。
「…………」
「…………」
アクロディリアは、歓迎する気はさらさらなかったので、何も言わない。
「偽者の自分」も、椅子に座ってぼんやりしているアクロディリアを見て、何も言わない。
何も言わず向かいの椅子に座り、置いてある水差しから水出しのお茶を注ぐ。
「……悪かったよ。身体を粗末に扱って」
どうやら「偽者の自分」は、アクロディリアが腹を立てていると勘違いしたらしい。いや勘違いではないのだが。確かに怒ってはいるから。でも本題はそこじゃない。
「どうせなら勝てばよかったのに」
嫉妬している。
たった数ヶ月で想い人の傍に行けた貴方に嫉妬している。
――そんなこと女のプライドに掛けて言えやしない。男相手に。すでに修復できるか怪しいくらいボロボロにされてはいるが、意地でも表に出してたまるか。
「うーん……俺は本気で勝つ気でやったんだけどな。アルカが強すぎたんだよ」
さっきまで血まみれだった肉体は、今はもういつもの顔に治っている。服装もあやしげな黒尽くめではなく、最近は見慣れた制服姿だ。
闘技大会の後、ざっと風呂に入ってきたので、知らなければ誰も殴り合いをした直後だなんて思わないだろう。
ちなみにとアルカと一緒に入ってきた。アルカは水着着用だったが。
「それよりアクロディリア、レンにバレてないよな? なあ?」
「知らないわよ。少なくともわたくしは把握してない。ただあれだけ目立ったんだもの、どこかで見ている可能性は高いんじゃない?」
「マジか。……あそこまでやれば逆にバレないと踏んだんだが、甘かったか……」
まあそもそもを言えば、メイドのレンは「偽者」の剣の師匠だ。いくらトリッキーな戦法を取ったとしても、呼吸や踏み込みなどの基本の動きを見れば一目瞭然だろう。それくらいは自身も考えていた。
――偶然スケジュールを空けたメイドの不在こそ、今回の事件の発端でもあった。
もしレンが学園祭の間もメイド仕事をしていたら、「偽者」は闘技大会への出場は考えなかったかもしれない。
ラインラックのこともあったが、それに加えて、ここらで今の自分の戦闘力をきちんと把握しておきたかったのもある。
例の「照明」を駆使した戦い方など、訓練はしていたが、実際に使用してみたのは今日が初めてだった。
的の視界を潰す戦法だけに、有用なのはわかっていたが、ここまで優位に立てるものかと自分でも驚いたものだ。
「そんなにバレたくないの?」
「だって怒られるじゃん。怒ったレンとか超怖いんだぞ」
「惚れた弱み?」
「惚れ……なのかね? 恋愛感情はないつもりだけど、もう自分でもわかんねーわ」
傍目には、「偽者」の自己申告通りだと思う。露骨な好意と下心はあるが、恋愛的な感情はあまり感じない。
「殿下のことはどうするの?」
「優勝できなかったからなぁ……本人に決めてもらうしかねえわな」
本人に。
「できると思う?」
「ん? 何が?」
「殿下が、身分を捨てて、庶民として生きていくこと」
若干責めるような声色で、アクロディリアは問う。
あの時の「偽者」は、ラインラックが背負っている重さを理解して物申したとは、思えなかった。
個人的に気に入らないが、ヴァーサスが怒ったのに同意している。生まれつき身分を持っているだけに、ラインラックが決断できない理由も事情もわかる。
しかし「偽者」は、いつもと同じ軽い調子で、お茶を飲みながら平然と言うのだった。
「余裕だろ。あいつなんでもできるし。頭いいからどっかの文官もできるし、剣も使えるから冒険者でも成功するだろ。料理じゃなくてもどの道でも成功するだろうよ」
俺と違ってスペックたけーからな、けっ、と要らない言葉も付け加えて。
「唯一、王族の道だけ難しいんじゃねえの? 第一王子から継承権をブン取る、くらい決心を固めないと、あいつは国に帰ったらたぶん死ぬ。……今迷ってるだろ? それも国に帰るか逃げるかで。今のあいつが国に帰ると最悪のケースしかないと俺は思う」
貴族としてはだいぶまずい発言が盛り込まれているが、まあプライベートな空間なので大目に見るとして。
「偽者」の意見にアクロディリアは頷いた。
「でも、それでも帰らないといけない理由がある。だから迷っているのよ」
「貴族は大変だよな。わざわざ死にに行くなんて、俺にはわかんねーわ」
貴族としての責務。責任。
そんなものを微塵も持っていない、背負っていないくせに、この「偽者」は時折り貴族のような輝きを放つのだ。
「まあそれより、おまえはどうなんだ?」
「どうって?」
「もしラインラックが全てを捨てて逃げるって言ったら、おまえはどうする?」
それはもちろん――
「……わからないわ」
付いて行きたい。どこまでも。
色々と自分の内面に問題があるのは認める。認めるしかない。後悔で胸がいっぱいだ。
でも、後悔で満ちた心の中心だけは、今も揺らいでいない。
ラインラックが好きだ。愛している。
だからこそ「付いて行く」と答えられない。
「わたくしは何もできない。何もないわ。一緒にいても足手まといになるだけよ。逃げるというなら尚の事、わたくしは邪魔にしかならない」
「偽者」と違って、とは、思っても付け加えない。
この「偽者」ならきっとラインラックと一緒に歩けるだろうけれど、自分では無理だ。
いろんな想いに自責の念を積み重ねてきて、心や記憶を整理してきた。
その結果、自分は本当に何もできないのだと、アクロディリアは自分を判断していた。
「偽者」が、自在に自分の肉体を使いこなしているのを見て、自分よりも上手く肉体を使えているとさえ思い、なんとも言えない気持ちになった。
それに、ラインラックと心を通わせたりもして……
率直に言うと、腹が立つ。
普通に腹が立つ。
女に負けるよりはまだマシか、と考えようとしたが、男に負けるのもそれはそれで普通に嫌だった。
「足手まといか。じゃあ足手まといにならないようにすればいいだろ」
「は?」
「もう少しだけ時間がある。その間に、自分に必要なものがなんなのか考えて、努力して身につければいい」
「無理よ」
彼のために殴り合うなんて、たぶん、きっと、できないから。
あそこまでストレートに、自分の気持ちを形で表した「偽者」とは違う。
しょせん自分は傲慢な貴族女。
今更、意識から何から変えるなんて不可能だ。
「まあ無理にとは言わないけどな。結局ラインラックがどうするかもわかってねえし」
そう、そこだ。
結局逃げるのかどうか決めてもいないのに、勇み足で方向性の違う努力だなんて意味の無いことはしたくない。
もしラインラックが決めたら、その時はもしかしたら――
そんな風に考えた、その時だった。
「――アクロ、いるかい?」
ノックの音から少し遅れて、アクロディリアの心を弾ませる声が聞こえた。
ラインラックが、部屋を訪ねてきた。
はじめてのことだった。
前触れもなかったから驚いたし、自分の耳がおかしいのかとも思ったが、この声を間違えるなんてありえない。
何年も焦がれた人の声だ。間違えようがない。
――いや、まずい。
「噂をすればってやつだな。ちょっと待ってくださーい」
メイドが不在なので、立ち上がってラインラックを迎えようとする「偽者」を、アクロディリアは慌てて止めた。
「ヨウ! ちょっと待ちなさい!」
「あ? 何?」
偽者――弓原ヨウは、きょとんとした顔で振り返る。
「あの、わたくし、邪魔よね?」
このタイミングで来るということは、今話していた逃げる逃げないの話や、さっき行われた闘技大会での賭けの履行の話だろうとは察しがつく。
内容的に、非常に込み入った話になる。
場合によっては直接「ちょっと席を外してくれるかな?」と、もし言われたら死にたくなるようなことを言われてしまうかもしれない。
そんなの前の自分ならともかく、今の自分には耐えられそうにない。
「まあ、ちょっと込み入った話をするかもな」
「そうよね? そうよね? じゃあわたくしは向こうにいるから」
と、アクロディリアは隣の使用人部屋――今は不在のレンの部屋にすばやく駆け込んだ。
「悪いな。すぐ済ますからよ」
ドア越しに小さく声を掛けて、弓原ヨウはラインラックを迎え入れた。
「急にすまなかったね」
果たしてもしかしたらなんというか密室に若い男女が二人きりだからもしかしたらもしかして――なんてドキドキしながら聞き耳を立てる。
もちろん嫉妬に駆られているので、嫌な意味でドキドキしている。もう男だ女だなんてどうでもいいのだ。
「いえ。ただ、メイドが不在ですの。すみませんが紅茶が用意できないのです」
「ああ、すぐ出て行くから気にしないでくれ」
椅子に座る音がした。二人して並んで座れるソファーではなく、テーブル席だ。向かい合っているのかもしれない。ひとまずほっとする。
「ヴァーサスもすぐそこで待っているから」
「あら。一緒に来ればよかったのに」
「私が遠慮してもらった」
遠慮してもらった。
つまり内密なお話がしたかった。偽者と。中身が違うアクロディリアと。
嫉妬するしかないっ。
「怪我は、もういいのかい?」
「ええ。残念ながら優勝はできませんでした。アルカさん強すぎでしたわ」
「いや、君も充分強かったと思うよ。なんというか……相手が悪かったね。アルカは在校生の中でトップクラスの冒険者だから」
アルカ。
アルカロール。
アクロディリアに次いで、この学校で二人目の光属性を持つ少女。一方的に敵視していて嫌がらせもしてきたが、今は後悔しかない。機会があれば謝りたいとさえ思う。
だが今は彼女のことはいい。
「で?」
「ん?」
「楽しんでいただけました?」
「フフッ……ああ、とても楽しかったよ。大したダークホースぶりだったね」
自分としてはハラハラしただけだったが…………いや、アクロディリアも少しだけ楽しんだ。華麗な戦いぶりだったとも思う。
「髪はどうしたんだい? あの時は真っ黒だったが」
「あれも一つのテクニックなので、秘密ということでお願いします」
「へえ? 光属性とは色々できるものなんだね」
そんな当たり障りない話が少し続き、いよいよラインラックの口調が改まった。
「アクロ、頼みがある」
「はい?」
「料理を教えてくれ。私は君が持っている全てを継ぐ」
言った。決心した。ついにラインラックは腹を決めたようだ。
料理を学ぶ。
学べばそれは未練になる。
料理人としていろんな料理を味わい、食材を味わい、新しい料理を考え、そしてそれを誰かに食べてもらいたいと思うようになる。
国に帰らない可能性が高くなる。
「それは構いませんが、結局国に帰るのですか?」
「そこまでは考えていない。そう簡単にできることでもないから、安易に決行はできない。協力者も必要になるだろうしね。
しかし、確実に傾いてはいるのだと思う」
「そうですか。わたしの意志はすでに伝えてありますし、もう聞かないことにします。何か協力できることがあればその時はおっしゃってくださいね」
「ありがとう。……本当に、ありがとう。君の勇姿を見て私は可能性を感じた。やればできると。逃げる覚悟をし、それに対する準備も、やれるかもしれないと思えた」
可能性。
アクロディリアも、感じた。
弓原ヨウが、アクロディリアの身体を使って、証明して見せたのだ。
おまえの身体でこんなことができるんだ、と。実際に見せたのだ。
それを可能性と言わずなんだというのだ。
「国に帰ったら遠くない先に死ぬ。
逃げても追っ手が来て殺される。
どうせ殺されるなら、どこまでも逃げて、逃げながら好きなことをするのも、悪くないかもしれない」
ラインラックは、決めた。
自分の新たな可能性を見出し、違う道に進むかもしれないと、認めた。
権威を、権力を、身分を捨てて、逃げると。
じゃあ自分は?
自分はいいのか?
――ラインラックのために殴り合うことができるのか?
遠くに行くかもしれない、と言い出したラインラックの言葉に胸が詰まり。
自重も含めて、押さえ込み溜めていた気持ちが、爆発した。
自分でも予想外だったが、止まらなかった。
「――わたくしも習います!」
バーンとドアを開け放ち、言い放った。
ぎょっとしているラインラックと弓原ヨウに。
「――貴方の隣にいるのはその女じゃなくて、わたくしが相応しいの! わたくしが! このアクロディリアが!」
「あ、おまそれ――いてっ」
我が物顔で自分の身体を使っている弓原ヨウの顔をバチーンと叩き、押して床に転がし、その椅子に相応しいアクロディリア自身が座る。
殴り合い? 今ならなんでもできる気がする。実際殴ってやったし。自分の手で。人を使って色々やってきたが、自分の手でやってやったし。
ラインラックと会話ができるこの椅子を、譲れない。譲りたくない。
「殿下、わたくしが本物のアクロディリアです! わたくしも料理を学びます! そしてずっと貴方の傍にいたい!」
突然の乱入、突然の告白、そして突然の秘密の暴露。
小さな女の子の傍若無人かつ人を押しのけてでも前に出る気性に、ラインラックは優しく微笑んだ。
「ああ、やっぱり君はアクロだったんだね。初めて見た時からそうじゃないかと思っていた」
「マジで?」
と、弓原ヨウ。床に倒れたままだ。
「うん。見た目はともかく、雰囲気や佇まいがやっぱり違うんだよ」
ラインラックは微笑んだまま席を立った。
「アクロ、競争だよ。
私は君を待たない。
でももし追いついたら、その時は――」




