白すぎるへなが。
白すぎる背中。
ストガさんの言葉が咀嚼できずに、いつまでも脳の舌の上に残っていた。
ざらざらしていて、鉄の味がする言葉。
……トマト君、行きますよ。
ストガさんの手が、俺の腕を掴んで離さない。
待ってよ。俺、まだ理解できてないよ。嫌だって。行がねって。離してよ。
……現実から逃げないでください。
嫌だ、見たくない。知りたくない。俺は、俺は、あっちの世界で普通の中学生に戻る。嘘でもいい。居心地がよければ、それでいいから。
……それでは、ソフィストと同じですよ。
離して。ソフィストって何。なんで良川を捜してるの? わかんない。おっがない。
……この世界で現実から逃げたら、あっちの世界の良川五月も助けられません。
「ここで現実から目を背けたら、あなたは良川五月を2回とも守れなかったことになります」
その言葉で、ハッと我に返ることができた。
「いいですか、これから逃げたら、トマト君はあっちの世界で良川五月が命を落とす瞬間まで指を咥えて見ている他ないんですよ。
自分の現実を受け止めることすらできないで、大事な人を守るなんてことはできません。
してはいけません。
それから一度逃げても、逃げ果せることはできません。
現実はあの手この手で、あなたの足元を掬う。
逃げては駄目。
逆に現実の足元を掬うくらいの気概でいてくれなくては」
そのとき、真剣なストガさんの瞳の中に、良川の顔が浮かんだ。
だって、だって今の言葉は。
「良川に教えられたこと……」
「オマージュです。
さぁ、この言葉を思い出したらもう逃げないですよね」
俺は大きく頷いた。
そして、錆びたフェンスを越え、湿った土の臭いを吸い込んだ。
「ホントだ……良川五月、だって」
良川五月と名の刻まれた、曇天を映した墓石は、奥の方でひっそり息を潜めていた。
まるで、生きていてごめんなさいとでも言うかのように、蹲っていた。
もう死んでる筈なのに、そう形容してしまったのは、実感がないせいだ。
「さっきの桜の木の下で、世界の交換は起こりました」
不意に、ストガさんはそう話し始めた。
「世界の交換とは、そのままパラレルワールド同士の入れ替わりを意味します。
そして、五年前にそれを行ったのが、ソフィスト一味だった訳です」
「どうして、そんなこと? 」
「世界を混乱させて、その隙に合体変形でもして世界侵略でもする予定だったんじゃないですか」
「んなアホな」
ストガさんは咳払いをした。
「冗談です。
ソフィストの目的は世界の交換などではなく、世界の干渉であった可能性が高いです」
「干渉……パラレルワールドを混ぜるってこと? 」
「勘がいいですね。平たく言えば、そういうことです」
「んなことして、大丈夫だん? 」
「十中八九、世界の終わりです。
そもそも、パラレルワールド同士は決して交わってはいけないんですよ。
同じ出来事が同じ時間におこったり、特性の全く同じ人間が同じ世界で出会うことは、絶対にあってはならない。
その歯車が一度狂えば、この私でも予測できない事態が発生します」
あのー……と、おずおず手を挙げてみた。
「なんですか」
「俺と、この世界の俺が入れ替わった時点で、歯車狂ってね? 」
「狂いました」
「んだよね! 」
てことは、既に世界ヤベェ?
「これ以上、何か起こると……間違いなく世界は滅亡します」
「ええ……どうすーの?」
ストガさんは待ってましたと言わんばかりに、瞳を輝かせた。
どうやら、饒舌プログラムが作動したらしい。
「まず、ソフィストは人類最高の脳みそを持つ良川五月を一生懸命捜しています。
ソフィストの技術力はまだまだ世界の干渉を引き起こせる水準をクリアしてないからです。
他力本願も良いとこですが、実際、良川五月を拉致して洗脳でも催眠術を掛けでもして手中に収めてしまった方が早いです。
そして、国家の中は霊長類最高の頭脳を持つ良川五月を、生かすか、殺すかで揺れています」
「殺す⁈ なんで、だって、良川がいねがったらアオモリの発展も……」
「確かに、良川五月は社会に大きく貢献しました。
ですが、果たして本当に彼がソフィストに寝返らないのでしょうか? 」
「寝返らないよ。良川は、そんな奴じゃない」
「でもね、トマト君。
上層部は良川五月を危険物として処理することを決定したんです」
「……あ? 」
すると、ストガさんはすっと立ち上がってセーラー服のスカーフをぞんざいに外し、上着を脱ぎ捨てた。白いブラウスが暗い雲に覆われた空に眩しかった。
「ちょっと……」
彼女のしなやかな、雪の様な指がブラウスの釦をひとつずつ外していく。
長く青白い首筋の全貌が、すべらかな鎖骨が、淡い色の下着が徐々に露わになった。
「トマト君、受け止めるべき現実は、いつでも残酷です」
彼女はそう良い、皮膚の薄そうな柔い背中を剥いて見せた。
“A-01”
その背中にあった朱色のナンバリングは、直にナイフで肉を抉りとったかの様に生々しく、それを施した者の残虐性を滲ませていた。
「トマト君もお気付きの通り、私は人間ではありません。
人間に造られた人形です。
でも、ただのお友達人形ではありません」
「ストガさ……」
俺の呼び声は、雷鳴に掻き消されてしまった。
空からは、大粒の雨が槍のように降り注いだ。
その槍が、頬に当たると痛くて。
ストガさんの剥き出しの背中の上に刺さるのを見るだけで、頬じゃない所が痛かった。
「私は国家の狗。
国家は、良川五月の暗殺をご所望のようです」
雨音にも、稲妻にも負けずに、彼女の言葉は悲壮に耳朶にふれる。
「私の任務は、良川五月の抹殺。
どうやら、彼を殺すことは、人間には不可能みたいですね」
俺は暗い世界の中でひたすらに白い背中に、にじり寄った。
もう、その声も聞きたくなかった。
もう、その背中の朱色を覆い隠してしまいたかった。
自分で着ていたカーディガンを脱ぎ、ストガさんの肩に掛けようとしたときだった。
彼女は水を含んで重くなった髪を振り乱し、俺の方を向いた。
その飛沫が、どうしてこんなに痛いのか。
「世界の交換が終わった後、それに気付かなかったもう一人のトマト君は、この良川五月の腹部をナイフで刺して……殺したそうです」
彼女の長い人差し指が、彼の墓石を示した。
もう一人の俺が殺した、彼の。
「どうです、トマト君。
今、私を殺してくれませんか」
「……は」
「パラレルワールドとはいえ、貴方は人間で初めて良川五月を殺すことが出来たんです。
それは、皮肉な事に彼に信頼されていたから。
彼のそばに居た貴方だからこそ、彼の懐に潜り込むことができたんです」
何を。
何を言われているんだろうか?
「良川五月を殺したのは、俺じゃない」
「でも、貴方です」
「俺は、小山内美玲は、俺だけだ」
ストガさんは何も言わなかった。
長い前髪で顔を隠す様に俯き、湿って張り付くブラウスをゆっくり直し始めた。
俺はそんな彼女の肩に自分のカーディガンを掛け、ナンバリングが透けて見えないようにした。
涙川の上で咲く花の様な、セーラー服とスカーフを取り上げ、ぐっしょり濡れた前髪をかき上げた。
「ストガさん、戻ろう。
風呂さ、入りてぇ」
ストガさんは静かに頷いて、俺の手を取った。
そして、
「もしも、私が良川五月を殺したら……。
そのときは、トマト君が私を……」
……こわして。
そう囁いた彼女の、握り合ったときだけ血の通っていそうに温かくなる手が、俺には少し悲しかった。
耳元にいつまでも残る、淡雪のような彼女の囁きを反芻したけれど、脳の舌の上には何も残らなかった。
津軽弁が無理矢理じゃないかって?
英語圏の人がマイネームイズと自己紹介する訳じゃないのと同じですよ。
方言は方言なりに合理化されるんです。
あんまり伝わらなさすぎると、困るでしょ。
だから、美玲のセリフのところは適宜濁点を入れて、イントネーションは下がり気味で読んでみてください。
そうやって書いちゃうと、津軽弁はシリアスに対応できないことが分かりますから。