74.広がる世界
末弟のサフィール・ジュバルは、次兄の言い分を尤もだと思い、次の訪問日には、中庭で過ごした。
天気が良く、風が心地よい日だった。
降り注ぐ初夏の陽光に、アーモンドが若葉を輝かせていた。
サフィール・ジュバルは風を読み、天の様子をじっくり観察した。今日も一日、晴天になる。
アーモンドの梢で、風の精が戯れていた。
ふと視線を感じ、気配の方を見る。
中庭へ出る戸口に、長兄と婚約者が立っていた。
婚約者がやわらかな微笑を浮かべ、会釈する。サフィール・ジュバルも、小さく会釈を返した。
長兄と婚約者の顔が、花開いたかのように明るくなった。
サフィール・ジュバルは、さっきのは作り笑いだったのか、と少し落ち込んだが、まぁそんなものだろう、とすぐに気を取り直した。
「何してるんだ?」
「天気を見てるよ」
兄の問いに即答する。
「あいつは【飛翔する燕】だから、天気のことはなんでもわかるんだ」
「まぁ、すごい」
兄の説明に、婚約者が感心する。
「今日の天気は何だ?」
「一日中晴れ。夜は少し冷えるよ」
「そうか。じゃ、あったかくして寝なきゃな」
「教えてくれて、ありがとう」
「……うん」
サフィール・ジュバルは、何とか小さな声で答え、二人には聞こえないかもしれないと思い、頷いた。
「じゃあ、また……」
二人は中庭へは降りず、そのまま家の奥へ戻った。
足音が遠ざかり、サフィール・ジュバルはホッした。
動悸が治まると、何がそんなに怖かったのか、わからなくなった。
次の訪問では、廊下で会った兄嫁の母に「こんにちは」と挨拶された。
声は緊張で掠れて震えたが、辛うじて「こんにちは」と返すことができた。
当たり前のことだが、サフィール・ジュバルにとって、大きな勇気を要する一言だった。
兄嫁の母は、驚いた顔で、時が止まったように娘の義弟を見詰めた。
それはほんの束の間のことで、すぐに顔を綻ばせ、「お邪魔してますよ」と会釈して通り過ぎた。
その後、兄嫁やその家族と会うたびに、交わせる言葉が少しずつ増えた。
近所の人とも、声に出して挨拶できるようになり、話せる相手が増え、ナイヴィスの世界は広がった。
その一人に、官吏登用試験を勧められたのだ。ナイヴィスは官吏を目指すことも、どの試験を受けるかも、自分の意思で決めた。
人間にはなんとか慣れることができたが、まだ、虫は怖い。
魔剣使いナイヴィスの記憶を読み、魔剣となった女騎士は、小さく溜め息をついた。
ナイヴィスには、自分の何を見られたのか、知ることができない。それどころか、見られたこと自体がわからない。
〈まぁ、気長に慣らして行きましょ〉




