31.騎士の意志
ふわりとした白い毛に覆われたモノが、足に縋りつき、命乞いする。伏せた長い耳が震え、ナイヴィスを見上げる円らな瞳に、涙が滲む。
……あっ、可哀想……
魔剣を振り降ろそうとした手が、思わず止まる。
〈サフィール・ジュバル・カランテ・ディスコロール、私を振り降ろしなさい〉
……えッ? ちょっと待って……!
魔剣の命令に逆らえず、ナイヴィスの手が動いた。
光の刃に触れた瞬間、兎に似た雑妖が跡形もなく消える。
それは、夕闇に紛れ、薮から迷い出た雑妖だった。
上半身は、兎に似ていたが、下半身はバッタに似て、腹には泡のような形の定かでない何かが蠢いていた。
そんなモノでも、目が合った途端に斬れなくなってしまう。身が竦み、手が止まる。
ついに痺れを切らした魔剣に真名を呼ばれ、攻撃を強制されたのだ。
ナイヴィスの力ではどう足掻いても、四百年の時を生きた正騎士の「命令の力」には、抗えなかった。
そもそも、ナイヴィスには戦意がない。
自分に「この世の掃除だ」と言い聞かせ、なけなしの勇気を振り絞っても、穢れのついでに雑妖を消去することで精いっぱい。
意志を持たない穢れなら、幾らでも魔剣で掃い、祓えるが、意志を持つ何者かの存在を消し去ることには抵抗があった。
トリアラームルスに見守られ、初めて自分の手で倒したあの雑妖は、発生直後で、まだ明確な意思を持たない存在だった。
あれですら、トリアラームルスが居なければ、ポリリーザ・リンデニーの強制なしでは倒せなかっただろう。
誰かの過剰で理不尽な怒り、何者かの妬み嫉み、行き場のない恨みなどが、夜闇の中で穢れを生む。
朝を迎えれば、消えてなくなるものが殆どだが、日の当たらない場所で消え残ることもある。それが、雑妖の温床になるのだ。
また、雑妖は自然の気の澱みなどからも生じる為、人の居ない場所でも油断はできなかった。
〈いい加減、慣れてくれないと困るわぁ〉
……そんなこと、言われても……大体、困るんなら何故、私なんかを選んだんですか。
〈しつこい。何度も言わせないで〉
心底、煩わしげに拒絶され、ナイヴィスの心が萎縮する。
道中、強い魔物には遭遇しなかった。
ナイヴィスは、ソール隊長と赤い盾小隊のトリアラームルス副隊長の命令に従い、何度か魔剣を振るって雑妖を祓った。
これまで、なるべく視ないように過ごしてきたモノを、直視しなければならない。
ナイヴィスは「顔」を判別できるモノが、人間のように恐怖の色を浮かべることを知った。ある程度の穢れを喰らい、知恵と力をつけた雑妖は、剣から逃れようと足掻いた。
おぞましいモノと正面から向き合うだけで、ナイヴィスの心がすり減る。
王都に帰りたかった。
住み慣れた家で寝起きし、朝は城に出仕し日暮れに帰宅。家では本を読んで、のんびり過ごす。
恐ろしいのは嵐や雹などの激しい気象だけだった。
単調な毎日が恋しく懐かしい。
ワレンティナは、どちらかと言えば、烈霜騎士団のお世話になる側の子だった。幼い頃から喧嘩っ早く、年上の男の子と取っ組み合いもしていた。
従妹が自ら進んで勉強して修めた術は、少ない魔力で効率よく魔物を倒す【飛翔する鷹】学派だ。
幼い頃は両親が心配し、術で対魔物用の武器や防具を作り、町の自警団に提供するだけに留めていた。
十二歳からの二年間は、本人も自分で作った魔法の武具を携え、魔物退治の現場へ出ていた。大人に交じって生き残り、それなりの戦果を収めている。
烈霜騎士団は、人間による犯罪の捜査や、罪人の捕縛などを主な任務とする騎士団だ。魔物と直接対峙する機会は、他の騎士団よりも少ない。
ワレンティナの修めた学派、性格や実績は、誰が見ても適性に合わない。
誰も何も言わないが、ワレンティナがここへ配属された理由は明白だ。
ナイヴィスの身内だから……だ。
気弱で人見知りの激しいナイヴィスが、心細くないように……と言う配慮の他に、どんな理由も思いつかない。
ナイヴィスは、対魔物に於いて、有望な戦力になり得る若い騎士の将来を潰してまで、騎士団に居ることが心苦しかった。




