3区 走れない私と女子駅伝部(仮) その3
湯川麻子は私を屋上に連れて来ると、間を置くことなくしゃべり出した。
「昨日、あたしたちのこと見てたでしょ」
何も知らない人がこの状況を見たら、私が絡まれていると思うだろう。
いや、ある意味では間違っても無い気がするが。
「あなた、あの時言ってたよね。もう走れないって。なに? 故障してるの?」
「いや、別にそう言うわけじゃないんだけど」
「じゃぁ何?」
口を濁す私に湯川麻子はあきらかにイライラしている。
「故障はしてないけど、走れないのは本当。正確に言うと、父から『高校生になったら部活をするな』と言われているの。だから高校の陸上推薦も断って、この高校に来たのよ。本音を言うと走りたいって気持ちはあるんだけどね。でも、父は頑固だから。もうあきらめた」
自分で言いながら段々と寂しくなってきた。
そう言えば、こうやって私の置かれた環境を話すのは、幼馴染の晴美以外では初めてだと言うことに気付く。
どうしてこうもあっさりと、目の前にいる湯川麻子に話したのだろうか。
私自身が誰かに聞いて欲しかったのか、それとも目の前にいる彼女にはそうさせるだけの不思議な魅力があるのだろうか。
そんなことを考えていたから、湯川麻子が言った一言を聞きのがした。
「え? ごめん今なんて言った」
慌てて私は聞きなおす。その一言が彼女の怒りを買ってしまった。
「馬鹿じゃないのって言ったの!」
怒鳴り声が返って来た。
「親がダメって言ったから走らない? だから高校の推薦も断った? 何それ。確かにあなたみたいな人が、この高校にいるのは変だと思った。あたしだって中3の時にあなたに勝ったのは奇跡だって分かってる。あの後で陸上部の先生から、あなたがどれだけすごい人か聞いたもの。あなた今の生き方に納得しているの。まぁ、今のあなたの顔を見ると、とても納得している様には見えないけど」
湯川麻子のまくし立てに、私は何も言えなかった。
そんな私をみて彼女は「もういい。じゃあね」と私を1人置いて屋上から去って行く。
1人残され私に、強い春風が吹き付けて来た。
それは走る時に受ける風に似ていた。
体の体温を奪って行きながらも、気持ちを落ち着かせくれる、どことない優しさがそっくりだった。
その風に当たると走っている気分がして来た。
今ならはっきりと分かる。
やっぱり私は走るのが好きだ。
走りたい。この気持ちをもっともっと味わいたい。
そんな思いが私の中から湧き上がって来る。
いや、ずっと前から湧き上がっているのに必死で押さえつけていたのだ。
そして、それとは別の感情が湧き上がって来るのも確かに感じていた。
ふと空を見上げる。
入学式の日と同じように遥か彼方まで青空が続いていた。
ただあの時と違い、空は澄んで見えた。
「どうだ、高校生活は楽しいか」
その日の夕食時、私の真正面に座る父が、トンカツを箸でつまみながら私に聞いてきた。
昼休みに私の覚悟は決まっていた。
「あのね。桂水高校に女子駅伝部があったの。私、やっぱり走りたい。だから入部したいんだけど」
その一言に食卓の空気が変わった。
父は箸を止め、母は気まずそうに私を見る。
今までの私ならこの空気だけでひるんでいたかもしれない。
「何を言いだすんだ。そんな暇があったら勉強しろと何度も言っただろう。中学の時は全員が部活に入らないといけなかったから、やらせていただけだ。今の時代、女性でも勉強が出来ないと生き残れないぞ。つまらないことを考えるな。話にならん」
あからさまに父の声が低くなり、不機嫌になっているのが分かる。
普段ならここで何も言えなくなっている。
でも今日は違う。
「つまらないことじゃない」
本当は膝が震えそうになっているのを、必死で我慢しながら声を絞り出す。
「私にとって走ることは大切なことなの。楽しいし、やりがいがあるし。そりゃ苦しいことだっていっぱいあるけど、それ以上にうれいしこともいっぱいある。だから私はもっと走りたい」
「だったら、大人になって走ればいいだろうが。ワシは、お前のためを思って勉強をさせようとしているんだ。今、勉強しておかないと、絶対に将来困るぞ。もっと、先のことを見て生きろ。それが分からんと言うことは、まだまだ子供と言うことだな」
父は、私のことなど相手にしていないかのように淡々喋り、箸を動かしだす。
「先のこと? 将来? じゃぁ、今こうして生きている私の気持ちはどうなるの。今の私がやりたいことを我慢して、将来楽しく生きられるの。私はそうは思わない。大体、私の人生でしょ。心配してくれるのは嬉しいけど、自分の人生くらい、自分で考えて歩きたい。人のいいなりなんて嫌」
私が言い終わるや否や、右耳の横を何かがすっと通り抜ける。
後ろで何かが割れる音が聞こえる。
父の左手にあるはずの御飯茶碗が無くなっていた。
「子供が分かったような口を聞くな」
父の口調がより厳しいものになる。
「そうよ。私は子供よ。でもね、1人の人間なの。親のペットでもなければ、人形でもない。ちゃんとした、1人の人間なの」
私も負けじと、口調を厳しくする。
後は、何を言ったか覚えていない。
こんなにも親と喧嘩をしたのは、生まれて初めてだった。
その後も、父との喧嘩は30分くらい続いた。
結局、話はつかず私は御飯も途中で辞めて、自分の部屋に逃げてしまった。
真っ暗な部屋でベッドにうつ伏せているとドアをノックする音が聞こえた。
「聖香。入るわよ」
私の返事を待たずして、母が部屋に入って来た。
まぁ、今の私は返事をする気もなかったのだが。
「なに」
私はうつ伏せのまま、母の顔も見ずに気だるい声を出す。
一瞬怒られるかと思ったが、もう今日はそんなことはどうでもよかった。
「聖香が、お父さんにあんなこと言うのは初めてね。麻衣は、よく喧嘩していたけど」
母は少し嬉しそうに、まるで独り言のように喋る。
そういえば、姉はよく父と喧嘩をしていた。
姉が大学に行ってからは、すっかりそれも聞かなくなった。
「お父さんがね。走りたいのなら、駅伝部に入っても良いって言ってるわよ」
母のその一言に私は勢いよく身を起こす。
「お父さんも、自分で言えば良いのに。聖香があんなふうに自分の意見を強く言ったの初めてでしょ。お父さんも何か思うことがあったのでしょうね。ほら、後は自分で話をしなさい」
母は早く父の所に行くようにせかす。
マンションの6階にある我が家は、私の部屋からリビングまでドア一枚だ。部屋を出るとすぐ目の前に父の背中があった。
「お父さん」
私の膝はさっき以上に震えそうになっていた。
父は私の方を振り返ろうともせずに話し出しす。
「ワシはお前の将来を思って、勉強をしっかりやらせようと思っていたが、今のお前をまったく見てなかったな。そこは謝る。ただ、部活をやるのには条件がある」
「なに……」
「走ることだけじゃなくて、勉強もきちんとやれ。それから、将来自分がどんな人間になりたいかを高校3年間でしっかりと固めて、大学を選べ。偏差値やネームバリューだけで大学を選ぶな。あの麻衣ですらそこだけはきちんとしていたからな。まぁ、もしもお前が走ることで大学や企業に行くことがあるのだったら、それは別の話だ。ワシから以上。飯が途中だろ、食べろ」
分かった。
その一言だけ言うと私は食卓に戻る。
リビングからは、「そう言うことは目を見てはなしなさいよ」とか「自分の娘に遠慮なんかして」と父をからかう母の声が聞こえていた。
父と大喧嘩した次の日の登校時、私は晴美に、湯川麻子に呼び出されたところからの事の顛末を話した。
晴美に説明しながら、入学時から感じていた絶望にも似た気持ちが消えて行くのを、ひそかに感じていた。
「そっか、そんなことがあったんだね。色々とお疲れさまかな」
晴美は屈託のない笑顔を私に向ける。
「ねぇ、聖香。聖香が駅伝部に入るなら、私もマネージャーで入りたいんだけどダメかな」
「どうしたの急に?」
「いやね。中学生の時、何度か聖香の応援に行ったことあったでしょ。応援に行くたびに思ってたかな。もっと聖香の走りを見たいって」
いきなり告白じみたセリフを言う晴美に、私は「別にいいけど」と照れながら答えるのが精一杯だった。




