1区 走れない私と女子駅伝部(仮) その1
幼馴染の佐々木晴美は真新しい制服に身を包み、4月の陽気にも負けない明るい笑顔で待ち合わせ場所にやって来た。
その笑顔を見るだけで、今日から始まる高校生活に大きな希望を抱いているのが分かる。
「やっぱりブレザーって言うのが良いかな。聖香も似合ってるよ」
喋り終わると同時に、晴美が自転車を漕ぎだす。
慌てて私もペダルを踏み、後ろを付いて行く。
それと同時に私達の背中を押すように、暖かい春風が吹いて来た。
学校に向かいながらも「どんなクラスメイトがいるのだろう」「どんな行事があるのだろうか」と、期待感を抑えきれないと言ったふうに、晴美はしゃべり続けていた。
きっとこれが、今日から高校生活をスタートする一般的な生徒の姿なのだろう。
私のように初日から夢も希望も無い人間の方が珍しいはずだ。
そのせいだろか。果てしなく続く青空もどこかくすんで見える。
「部活も一応美術部にしようと思って……」
晴美は、しまったと言うな顔をして言葉を濁す。
「別に私は気にしてないから。晴美は好きな部活に入りなよ」
気まずそうにしている親友に笑顔で言葉をかけながらも、自分の心の中が曇って行くのをはっきりと感じる。
中学3年間、私は陸上部で長距離をやっていた。
特に3年生の時はトラックでその年の県中学ランキング1位で優勝し、駅伝では県大会のエース区間で区間賞を取るまでの走力を付けた。
もちろん高校に入ってからも走り続けるつもりでいたし、走り続けるなら『県内で一番強い城華大付属高校で』と夢を持っていた。
実際に城華大付属高校から推薦が来て、中学校に来られた監督さんとも話をした。
「高校に入学したら部活はするな。勉強に集中しろ」
父にそう言われたのは、そのことを報告した日のことだった。
自分の立っている世界が、一瞬で足元から崩壊した。
何度も父と話し合った。
いや、あれは話し合いと言えるものでは無かったのかもしれない。
私が「高校でも走りたい」と一言言えば、「将来が」「今しっかり勉強しておかなければ」「学歴を持たないと」と一種の決まり文句のような言葉が何倍にもなって返って来る。
その会話のたびに父は段々とヒートアップし、最後には怒鳴るような物言いで私を押さえ付け、自分の意見を正当化する。
何度もそれを繰り返し、最後には私自身、疲れ果ててしまった。
推薦の話が来たのが中3の12月上旬。
年が変わる頃には父と話し合う気力すら消滅していた。
その結果入学したのが、今こうして晴美と向かっている桂水高校だ。
この高校を選んだのには三つの理由があった。
一つは県内でも有数の進学校だと言うこと。
二つ目に家から自転車で20分と比較的近いこと。
そして……陸上部が無いこと。
どう言った理由で桂水高校に陸上部が無いのかは分からない。
でもそれは、私にとってどうでも良いことだった。
走れないのなら、いっそ無い方があきらめもつく。
そう思いながらも、あきらめきれない自分がいると言うのが本音ではあった。
もしもきっぱりとあきらめていれば、今日から始まる新しい生活に夢や希望を持っているはずだから。
入学式の翌日。
クラスでのオリエンテーションも一通り終わり、放課後に体育館で部活紹介が行われる。
体育館には部活ごとに机が並べられ、それぞれに部活のノボリが立っており、先輩方が座っている。
新入生は自分の興味がある部活の場所へ行き、先輩方から話を聞くと言う方式だ。
同じクラスの子は「まるで大学生の就職活動だよね」と笑っていた。
「聖香。私、美術部を見て来て良いかな」
体育館で合流した晴美が遠慮そうに尋ねて来るので「良いわよ。私、入口の側で待っているから」と笑顔で送り出す。
放課後に行われると言うことで、終わればそのまま今日は終了。
各自、帰宅しも良いと言うことになっていた。
ただ、部活に入る予定の無い生徒も強制参加。
30分たったら帰っても良いと言う決まりになっている。
つまり、部活に入る気の無い……。
いや正確に言うと入れない私にとって、今の時間は晴美が帰って来るのを待つ、ただの退屈な時間でしかなかった。
暇つぶしに体育館の壁にすがりながら、何気なく中の様子を見つめる。
山口県東部に位置する桂水市。瀬戸内海に面したこの市は石油コンビナートや鉄鋼業により発展し、今や人口は18万人。
そんな市の中心部にある桂水高校。各学年とも理数科1クラスと普通科が7クラスの、3学年で計24クラス。生徒数は全校で840人近くになり、県内でもかなり大きな学校だ。
生徒数が多いと当然部活の数も多くなる。現に、私の目に映るだけでも多くの部活があった。
バスケット部・バレー部・公式野球部・卓球部・吹奏楽部・茶道部・女子駅伝部(仮)……。
「えっ」
思わず私は声を出してしまう。
女子駅伝部? だってこの学校には陸上部は無かったはずだ。
自分自身、そのことは学校説明会の資料で確認していた。
いや、陸上部と駅伝部は違うのだろうか。
そもそもよく見ると駅伝部の後ろに『(仮)』と付いている。
心の中でとある感情が湧きあがるのを感じる。
その正体は確認するまでも無かった。
自分の中で必死に押し殺そうとしていた、走りたいと言う気持ち。
叶わないと分かっていてもあきらめきれない思い。
私は俯きながら深呼吸をして、理性でそれを押さえつける。
どうせ結果は分かっている。父には逆らえない。思うだけ無駄だ。
そう何度も自分に言い聞かせる。
陸上部そのものが無ければあきらめもつくと思ったのに。
こんな形で一瞬でも心が揺らいでしまうなんて……。
もしかしてこれから3年間、ずっと駅伝部を恨めしそうに見ながら過ごさなければならないのだろうか。
それは非常に寂しいことだ。
そんなことを考えていると視界が薄暗くなった。
自分がそんなにも落ち込んでいるのかと思ったが違ったようだ。
視線を上げると、目の前には私より少しだけ背の低いミディアムヘアの女子生徒が立っている。
胸に付けた校章の色から同じ1年生だとすぐに気付く。
「あなた、澤野聖香よね」
その生徒にいきなり尋ねられ、私は反射的に頷く。
相手は私のことを知っているようだった。
でも……。
「あたしのこと、誰だか分かってないのね……」
どうも私の気持ちは表情に出ていたようだ。
「まぁいいわ。湯川麻子。この名前、聞き覚えある?」
そう言われた瞬間、私は昨年の桂水市内駅伝を思い出した。




