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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

遠い約束

作者: 隠居 彼方



「これで終わり……か」


 空になった書棚。

 何も置かれない机。

 人の痕跡が一切消されつつある、王城の一室で。


 ぎっしりと書物を詰めた箱に封をし終えた彼女(・・)は、机に凭れ、煙管を手にした。

 煙管に詰められているのは、魔力を活性化させるための葉を彼女が調合したもので、緑の爽やかな香りが広がる。

 慣れた香りを吸い込みながら、彼女は遠くの歓声に耳をすませた。


 今日は、この国にとってまことにめでたい日である。

 新しい王の即位式が行われているのだ。


 先王アレクシス・カルヴァートが突然に退位を表明したのは、半年程前のこと。

 手腕家の若き王を惜しむ声は多かった。

 しかしアレクシスはまるで意に介さず、甥に王位を譲り、自分は一臣下に下ると、その意思を揺らがすことはなかったのである。


 もともと、アレクシスはその前の王の次男であった。アレクシスが誕生した時には彼の兄が既に王太子の位にあり、彼は王弟として国を支えるはずだったのだ。

 だが、王太子であった兄は、幼い息子を遺し、若くして亡くなってしまった。

 そのため、アレクシスが王位を継ぐこととなったのである。


 その経緯故に、即位当初から、アレクシスは自らをただの「つなぎ」である、と考えていたようだ。正当な後継は兄の息子であり、彼が王として立つまで国を支えるのが己の役目である、と。


 アレクシスの根底からその考えが消えることはなく、彼は王太子である兄の息子、自身の甥への配慮を怠らなかったし、妃を娶ることもなかった。王である時に後継をつくってしまえば、争いの火種になることが分かりきっていたからだ。


 かといって、彼の政治が遠慮や無責任の上にあったわけではない。

 むしろその逆で、彼は王としての器を備え、その統率力と決断力を以て国を導き、臣下と民衆からの支持は厚かった。


 その彼が、退位の意思を示したのだ。

 当時の国中の嘆きは、言葉に表せないほどに大きかった。


 だがそのアレクシスが太鼓判を押した、新たなる王である。

 アレクシスの退位に落胆を隠せなかった国民たちだが、今では新たなる王への期待で目を輝かせるようになっていた。


 それがこの、歓声だ。


 遥かに広がる空に響くようなその声を窓の外に見ていた彼女だが、そろそろ休憩は終わりだと、煙管の灰を落とした。


 彼女の隣には既に大量の箱が積まれており、その一番上に、最後に封をした箱を乗せる。いくつもの箱が積まれているその床には、赤い塗料で魔術陣が描かれていた。


「――――」


 淡々と、彼女は(まじな)いの言葉を詠唱する。


 次の瞬間には、箱は全て消え失せていた。

 魔術により、彼女の自宅に転送(・・)されたのだ。


 彼女――セイディ・オールディスは、近衛師団に所属する、第七階級魔術師である。


 国が認める魔術師には第一階級から第十階級までの序列があり、若干二十七歳にして第七階級である彼女は、魔術師の中でも相当に優秀だと言えた。

 この部屋は、そんな彼女の所属と階級に基づき魔術研究のため与えられた一室だ。


 けれど、今日この日、彼女はここを去る。


 実験器具や書物で乱雑だった先日までと打って変わってがらんとした室内を見渡し、セイディは感慨に浸った。


 昇級し、この部屋を賜ったのは何年前のことだったか。

 あの方に少しでも近付けたと、そのことが嬉しく、誇らしかった。

 それを、思い出す。


 あの時と今とで、気持ちは少しも変わりない。

 セイディはあの方に尽くしたいと思っている。

 

 それ故、あの方がいないここに、長く留まる意味はない。

 だから、彼女はここを去る。


 そして行くのだ。

 あの方のもとへ。


 アレクシス・カルヴァートのもとへ。








『よく耐えた。よく頑張ったな。セイディ・エクランドよ――』


 低く太い声を、忘れたことはない。

 頭に乗せられた、大きくて温かい手を。

 セイディは永遠に、忘れないだろう。


 それが、彼女に初めて与えられた温もりだった。

 彼女を認める、言葉だった。

 

 何度も繰り返し思い出す、あの日のことを、セイディはまた反芻する。


 長年使ってきた部屋に別れを告げ、城の階段を下るその足取りに迷いはない。


 最低限の人員を残し、誰もが即位式が行われている広場へ向かっているのだろう、城は静寂に包まれていた。


 人気のない石の城を行くセイディは、黒いローブを羽織り、さらに深くフードを被っている。

 魔術師といえども不審者と咎められて仕方のない格好であるが、これには事情があった。


 セイディの身体には、鋭い傷跡が無数にある。

 それは全身に及んでおり、足先から頭に至るまで、傷のない場所はない。

 傷跡をみせびらかすような趣味は彼女にはないし、周囲の者たちを無暗に不快にすることもない。

 そう考え、セイディはこれまでずっと肌を晒さず過ごしてきた。

 この格好は最早、彼女のトレードマークと言っても間違いではない。

 見張りの者も見慣れたものとして、誰何の声も上がらず、セイディは城を出た。


 愛馬の背に乗り、彼女が向かうのは、自宅である。

 馬ごと転移できれば良いのだが、彼女の実力はまだそこまでには及んでいない。

 急ぐことはないので、のんびりと歩かせ始めた。


 彼女が家とするのは、王都の端にこぢんまりと佇む、オールディス家の邸の一つ。

 そこに彼女の両親が暮らしていて、城の一室をもらうまではそこからこの王城へと通っていた。

 最近は役職に研究に忙しく、月に一度帰れれば良い方だったが、そこが今でも彼女の本当の家だ。


 彼女に家を、親をくれたのも、アレクシスだった。

 彼は、セイディに、かけがえのないものばかりを、くれる。


 彼女が、セイディ・エクランドであった時は、望むべくもなかったものを――。








 魔術の名門、エクランド家。

 セイディは、その当主の第一子として生まれた。

 だが生家であるエクランド家は、セイディにとって帰りたいと思えるような家ではなかった。

 当主の最初の子として生まれついたはずの彼女を、家人たちは蔑み、冷たく扱ったのだ。


 それは、セイディが、持って生まれた魔力が少ない――と判定されたからだった。

 強力な魔術師を輩出してきた家柄であるエクランド家は、そんなセイディを認めなかったのだ。


 誰もが彼女を軽んじ、才がないと嗤った。

 父当主は、嘲笑の的となるセイディを知っていても何も言わず、無関心を貫いた。

 セイディの両親は政略結婚で、強い魔力を宿す子を成すためだけに結ばれた二人であり、父にとって、才なき子どもは関心を向ける価値も何もなかったのだ。


 生きていれば唯一セイディを愛してくれたかもしれない母親も、産後の肥立ちが悪く、セイディを産み落として数ヶ月後には亡くなってしまった。


 セイディは、ひとりだった。


 それでも彼女は努力した。

 教師に鼻で嗤われながらも、何とか立派な魔術師になろうと奮闘した。


 父の再婚相手、継母に何度悪意をぶつけられても。

 父と継母の間に優秀な弟が生まれ、彼にどんなにプライドをずたずたにされても。


 父に一度でも振り向いてほしくて。

 冷笑してきた彼らを、見返したくて。


 しかし努力は報われないまま、彼女は十の誕生日を迎えた。

 その年に――さらなる悲劇が彼女を呑み込む。


 名声高いエクランド家――そう呼ばれる裏に、数多の憎悪が巣食っていたのだ。


 その頃、セイディは周囲からの嘲笑や悪意に耐えるのに、魔術を学ぶのに精一杯で、生まれた家がどれだけ非情な振る舞いを繰り返してきたか知らなかった。

 それを、知ることとなる厄災だった。


 エクランド家に恨みを持つ者によって、セイディと弟は攫われた。

 エクランド家の裏をかく腕前を持ち、準備を整えてきた相手に、なすすべもなく。

 彼女の弟は、いたぶられ嬲られ、殺された。


 セイディは。

 多くの男に辱しめられ、エクランド家に恨みを持つ本人に、身体中を切りつけられた。

 彼女の身体に残る傷跡は、彼の呪詛の痕であった。


 ――こんなところで、死んでたまるものか。


 自ら舌を噛み切ってもおかしくない、凄惨とも呼べるような状況で、しかし、彼女の意思は強かった。


 冷たい鎖に手足を拘束されていても。

 傷つけられ、血を流しても。

 どんな屈辱的な仕打ちを受けても。


 今まで自分を見下してきた彼らのせいで死んでいくなど、そんなことがあってたまるものかと。

 彼女は懸命に、助かる方法を模索した。


 助けが来ることは、端から期待していなかった。

 エクランド家の誰が、彼女を救おうなどと考えるだろう。

 血縁である彼らがセイディを救おうとしないのに、他の誰が彼女を助けになどと考える?


 自らの道は自ら切り開かねばならない。

 誰に諭されたわけでもなく、セイディはそれを知っていた。

 彼女が生まれ持った孤独故に。


 だが――。


『よく耐えた。よく頑張ったな。セイディ・エクランドよ――』


 初めて、だった。


 差し伸べられた、温かな手。

 セイディを認める言葉。

 汚れるのも気にせず、傷だらけの剥き出しの肩にかけられた赤い豪奢なマント。


 全てが信じられなくて。

 涙を、抑えきれなかった。


 初めてとも言える優しさをくれた人に、全てを委ねるようにセイディは意識を途切れさせ……。






 目が覚めれば、ふかふかとした白いベッドの上だった。


 全てが夢かと思ったセイディだが、治療を施されてはいるものの身体中に残った傷が、惨たらしい時間が現実だったことを教えていた。


 目覚めた彼女がいる部屋はそれなりの広さで、ベッドを含め室内の物は全て上質なもので揃えられている。

 エクランド家に戻ってきたのか、と考えたセイディだが、あそことは何かが決定的に違っていた。


『――あらあら、起きたのね』


 目覚めてすぐ、部屋に入ってきたのは柔和な印象の女性。

 それでもセイディは、つい身体を強張らせてしまった。

 彼女はセイディの警戒に気付いていただろうが、ほっとしたようにおっとりと笑うと、医者を呼び、食事を運んでくれた。


 疑問符でいっぱいのセイディだったが、質問が許されたのは食事の後である。

 無理はしないこと、と何度も念を押してから、女性は落ち着いた柔らかな声で、セイディの疑問にひとつひとつ答えてくれた。


 ここが王城の一室であること。

 セイディを救い出したのは王太子の弟であるアレクシスであり、彼女がここにいるのは彼の采配であること。


 エクランド家については話すことを躊躇う様子だったが、セイディが引かなかったので、女性の方が折れてくれた。


 まず、セイディと共に攫われた弟の遺体は、貧民街で酷い状態で見つかった、という。継母はそれに、半狂乱となっているらしい。


 姉弟の拉致が発覚した当初、エクランド家は単独でこの件を解決するつもりだった。

 事態を察知したアレクシスの協力の申し出も断ったという。

 今回は被害者側であるとはいえ、王家に痛い腹を探られるようなことを避けたかったのだろう。

 しかし、攫われた弟が遺体で見つかったことによって、事態はさらに深刻化してしまった。


 一方で協力を拒まれたアレクシスだが、だからといって引く気は全くなく、彼は彼で解決にあたった。

 結果、エクランド家よりも余程的確で迅速であったアレクシスの行動により、セイディは助け出され、犯人たちは全て捕縛されたのである。


 そして――、エクランド家の膿が明るみに出ることとなった。

 繁栄の裏に隠されていた、悍ましい真実が。


 当主であるセイディの父親は捕らえられ尋問中であり、当主として彼がエクランド家に戻ることは最早ないだろう、と女性は淡々と告げた。

 エクランド家の他の主だった者に対しても、追及の手は甘くない、と。


 エクランド家は最早、名門と呼べるものではなくなってしまったのだ。


 あっけないものだな、とセイディは思った。


 悲しみ嘆く気持ちは浮かんでこない。

 ただただ、虚しかった。


 認めてもらいたい、などと。

 望むような相手ではなかったのだ。


 けれど、弟のことだけは、哀れだった。

 セイディを姉とも思わぬ態度であったが、セイディよりも小さな少年は、まだ何の罪を犯したわけではなかったのに……。


『それでは私は、これからどうなるのでしょう』

『それは――』


 女性が答えようとした時だ。

 部屋のドアがノックされた。


『ああ、ちょうどいらしたみたい。あの方に直接、その答えは聞いた方が良いでしょうね』


 彼女は言って、ドアを開けた。

 そのドアから威風堂々と現れたのが、アレクシス・カルヴァートだった。




 あの時のアレクシスは、二十になったばかり。

 当時から彼の体躯は見事なもので、巨躯と形容して全く間違いないものだった。

 彼が現れると途端に部屋が狭くなったものである。

 燃えるような見事な赤毛が、獅子のようだった。

 その髪と同じ瞳があまりに力強く優しく、それでいて獰猛で見透かすようで、セイディはアレクシスを畏ろしいと思ったのだ。


 けれど部屋に入って最初に彼は屈託なく笑い、セイディの無事を喜んでくれたので、セイディの中の怯える気持ちは萎んでいった。


 そして次には真面目な顔で、セイディに深々と頭を下げたのだ。


 アレクシスはエクランド家の隠された罪業を調査していたらしい。

 もっと早く動いていればセイディがこんな目に合うこともなかったと、アレクシスは謝罪したのである。


 それに、セイディは全く平静でいられなかった。

 謝らないでほしいとむしろ懇願した。

 アレクシスはセイディの命を救ってくれた。だから謝る必要はないのだと。


 セイディは動転していて言葉もまともに紡げなかったけれど、そんな彼女に呆れたりするような顔も見せず、アレクシスは続けた。


『それに何より、おれはおぬしの家を没落させた張本人でもあるわけだが――。それでもおぬしはおれを責めぬと?』

『それは彼らの自業自得です。殿下が気になさることではありません』


 きっぱりと瞳を見つめて返せば、何故か笑顔を返された。


『――おぬし、やはり、いいのう』

『え……、』


 そして――、気付けば、アレクシスの顔が間近にあった。

 額に、柔らかい感触。


 茫然とするセイディに、アレクシスは熱のこもった瞳でこう告げた。


『あの時の目も、極上であった。おれはおぬしを気に入ったぞ、セイディ。いつかおぬしを迎えに行く。それまでおれを待っておれ。おぬしは将来、おれの妻となるのだ』


 一方的な物言いだったが、セイディはそれを不快とは思わなかった。

 その時は茫然自失としていたため、他に何かを感じる余裕がなかったということもある。

 それより何より、アレクシスには、全てを手に入れることが許されるような、そんな威厳があったのだ。




『おれが迎えに行くまで、この者のもとで過ごすと良い』


 セイディが返答できずにいる間に、アレクシスは彼女のこれからについて、そう言い置いた。


 彼が指し示したのは、目覚めた時からセイディを世話してくれている女性だ。

 その女性の名は、セアラ・オールディス。

 オールディス家の魔術師、クライド・オールディスの妻である人だった。


 セイディは、クライド・セアラ夫婦のもとへ引き取られることとなったのである。


 その時、セイディ・エクランドは死んだ。

 書類の上でも、セイディの中でも。


 そして、セイディ・オールディスの生が始まった。








 オールディス家の生活は、エクランド家とは全く異なっていた。


 オールディス家は、かつてのエクランドと比較すれば小さいが、魔術の家柄としては有数のものである。

 しかし、セイディの養父母となった二人はそれを鼻にかけることなく、慎ましやかな生活を送っていた。


 養父となったクライドは寡黙だが優しかったし、養母となったセアラは初対面からの印象と変わらず柔和で穏やかな人だった。

 仲睦まじい夫婦だったが、子宝に恵まれなかったらしい。

 喜んでセイディを迎え入れてくれた。


 これまで能無しと罵られ、見るも耐え難い容姿となった、セイディを。


 二人のもとで、初めてセイディは幸せな日常を知った。

 クライドのもとで魔術を学び、以前とは比較できない実力を身につけた。


 魔力が少ない、とされていたセイディだったが、彼女の魔力がほとんど封印されていると判明した、ということもある。

 それに気付き、クライドが魔力の封印を解いてくれたのだ。


 真実は分からない――けれど魔力の封印は、セイディの母によるものだろう、というのがクライドの考えだ。

 封印はセイディに害をなすものでなく、セイディを守るように施されていたのだという。

 おそらく、多量の魔力に赤子が潰されぬようにしたのだろう、と義父は優しい声で語った。


 ――エクランド家の思惑通りになるのを拒んだ、というのも理由かもしれないけれど……。


 それでも母の想いが感じられたようで、セイディは少しだけ泣いた。




 やがて彼女は、十五という若さで、近衛師団に志願したいと両親に告げる。


 この幸せをくれたアレクシスの役に立ちたくて。

 少しでも彼に近付きたいと、そう思って。






 だが、アレクシスはそれを一体どう思っただろうか。


 優しい両親が待つ家まで、特に急ぐわけでもないのでゆったりと馬に揺られながら、セイディは思う。


 普段はもう少し賑やかな道も、即位式のため人も見かけず静かなものだ。

 人目を気にせず考えごとをするにはちょうど良かった。


『いつかおぬしを迎えに行く。それまでおれを待っておれ。おぬしは将来、おれの妻となるのだ』


 あの言葉は、もう十七年も前のものだ。

 待っていろ、と言われ、セイディはずっと待ち続けている。


 だが、本当のところ、あれは自分のつくりあげた夢、幻覚、その類なのではないか、とセイディは疑っていた。


 あの時のセイディは、まだ十の、貧相でちっぽけな子どもでしかなく。

 身体中に傷を負っていて。

 とても気に入る要素があったとは思えない。


 大体、二回しか顔を合わせていないのに、妻、という単語が出てくるというのも、あまりにも唐突だ。

 やはり、自分が勝手に作り上げた幻だったのかもしれない、と彼女は思う。


 そうだとすれば、なんと不敬なことだろうか。


 額への柔らかな口付けの感触を思い出し、セイディはひとり顔を赤く染めた。

 あれも、夢だったのだろうか?


 攫われ嬲られたあの時以来、セイディはそういう意味で男性と触れあったことなどない。

 あの時のことも、防衛機能というものが働いているのか、思い出せることはほとんどない。

 だからそれは、知らない感触のはずなのに――。


 顔に集まった熱を逃がすように、セイディは息を吐いた。


 それに、近衛師団に勤めて十二年、アレクシスと言葉を交わせたことはろくにないのだ。

 国の防衛に関すること、魔術に関すること、仕事の上では何度か話をした。

 セイディが昇級した時も、祝いの言葉をくれた。

 けれどそれは、他の臣下に向けるものと同じであって、それ以上ではなかったのだ。

 正直なところ、少しばかり落胆したが、当然のことと思い直した。

 特別を望む方が、間違っているのだと。


 あれは甘い夢の話。


 たとえ本当に起きたことであっても、何年も前のことだ。

 王として密度の高い多忙な日々を過ごしたアレクシスが、口約束を忘れても仕方がない。

 覚えていたとしても、気まぐれだったと捨ておく方が当然というものだろう、とセイディは考えていた。


 それでも良かった。


 こんな身体になって、セイディを娶ろうなどという物好きは現れないだろう、と最初から諦めていたから。

 この心に、アレクシス以外の人間をすまわせるのは、十七年前のあの時から、不可能だったから。


 魔術師として認められ、たとえ気まぐれであっても、一瞬でも、女として認められた。

 セイディが生きていくのに、それだけあれば十分だった。


 後は、この生をくれたアレクシスに、全て返したい。


 明日、お目通りを願おう、とセイディはほんのわずか、口の端を上げた。

 どんな反応が返ってくるかは分からない。

 いらないと言われるかもしれない。

 けれど、雑用でも何でもいい。

 彼の役に、少しでも立ちたいのだ。


 ――それが迷惑となるならば、その時は……。


 だが、彼はそんな君主ではない。

 自分を慕う者を快く受け入れる、度量の広い君主だ。

 そんな彼だからこそ、役に立ちたいと、そう思う。


 明日、と考え、セイディはフードの中でアレクシスに会うことの喜びを噛みしめる。


 その時だった。

 もう少しで邸に至るところ、少し道を曲がって、彼女は気付く。

 その、人影に。


 大きな、人だった。


 セイディは馬に乗っているのに、その高い位置に届くかという長身。

 たくましい胸板に、太い腕。

 獅子のような、赤い髪。

 太陽の光を集めたような、瞳。

 真紅のマントが、風にたなびいて……。




 アレクシス・カルヴァート。




 セイディの王が、そこに、いた。






「セイディ・オールディス!」


 低く太い声に、大気が震える。

 その余波を受けるように、セイディの胸にも震えが走った。


 急におぼつかなくなった足で、セイディは大地に降り立つ。

 王の目上にあるなど、許されることではない。


 半ば茫然と見つめるセイディの前で、アレクシスは愛敬のある笑顔を浮かべた。


「約束通り、迎えに来たぞ!」

「……」


 動揺を通り越し、逆にセイディの頭は努めて冷静に目の前の出来事に対処しようとした。


 真剣に魔術を行使して、目の前の彼が本物かどうか探る。

 だが魔術を使うまでもなく、その圧倒的な存在感は偽物ではありえない。

 誰かがセイディを陥れようとしてつくりあげたものでも、彼女自身の願望が幻覚症状として現れているのでもなさそうだ。


 それではやはり――夢か。

 夢であっても、この存在感。

 さすがは、王。


 現実という選択肢を全く挙げずに、セイディは心の中で頷いた。


 その間に、アレクシスは彼女との距離を詰めている。

 その近さにセイディは胸を高鳴らせたが、それではいけないと我に返り、跪こうとした。


 セイディは女性の中でもかなりの長身の部類に入るが、アレクシスは男性の中でも異例なくらいの長身であって、頭が高すぎるということはないが、王に対する礼儀である。

 セイディは慌てて体勢を移そうとしたが、アレクシスがそれを止めるために彼女の腕を掴む方が早かった。

 ローブ越しにその大きな手のひらを感じ、セイディは硬直する。


「セイディ、」


 優しげであり、窺うようでもある、アレクシスのそんな声を、セイディは初めて聞いたと思った。


「やはり覚えてはおらんか。……あれから、随分と時が経ってしまったからな」


 あの、約束の時から――。

 告げるアレクシスのその瞳には、寂しさが宿っている。

 少なくともセイディはそう感じ、反射的に否と口にしていた。


「いえ! 王、私は……」

「待っていて、くれたのだな?」

「は、はい……」


 どうしてだろうか、素直に頷くことを妙に恥ずかしく感じ、セイディはふいと視線をそらしながら答えた。


 それをアレクシスはどう見たのか――、彼は堪え切れなくなったように、セイディを強く、抱きしめる。

 突然のそれに、セイディの混乱は度を増して復活した。


 ――こんな夢、私は一体、というかそもそも、


 この、温度が、熱が、腕の力強さが、

 本当に、夢なのか?


「夢……、じゃない……?」


 まさか、現実?

 そうであるならば――。


 ますます、どうしていいか分からない。


 ずっと、待ち続けていた。

 けれど、きっと来ないとも思っていた。

 だから……。


「なんだ、夢だと思っておったのか」


 その言葉に、うっかり思ったことを漏らしてしまったと、セイディは小さく呻いた。


「も、申し訳……」

「謝らんでいい。おれが来るのが遅かったのだからな。むしろ謝るべきはおれの方だ。長く待たせて、すまなかった」


 その低く優しい声がしみるようで、セイディは不覚にも目が潤むのを自覚した。


「もっと早く、おぬしが十六になった年に迎えに行こうと、そう思っとったんだが……。兄がうっかり逝ってしまって、計算が狂ったわ。まさか王位につくことになるとはなぁ」


 しみじみと、耳元で呟かれる。


 ああ、とセイディは思った。

 そうか、だから……。


 思い至ったところで、セイディははっと顔を上げた。


「王、即位式は! こんなところにいては……」

「こんなところとはなんだ、馬鹿者」


 馬鹿と言いながら、アレクシスは笑っている。


「おぬしのいる場所はおれにとって何よりの場所なのだぞ、セイディ。だというのに、これまでどれだけ我慢をしてきたか」

「……っ、」

「もう我慢しなくて良いのだから、好きにさせろ。それに、即位式の主役はあの頼もしい甥っ子だ。いつまでも目の上のこぶがいては、邪魔であろう?」


 それはどうだろうか、と逃げるようにセイディは考えた。


 新しい王は、アレクシスのことを慕ってやまないと、王城の誰もが知っている。

 ずっとアレクシスが王をやればいいというのが、新王になる彼の口癖だった。

 アレクシスの臣下であることが、何よりの喜びであると。


 その気持ちは十分すぎるほど理解でき、だからこそアレクシスが今この時ここにいることを後ろめたく感じる。


「王、しかし――」


 新王の若い面影を浮かべ(若いといっても新王とセイディとは三つしか違わないが)、セイディはアレクシスから離れようとしたが、彼の方はセイディを離そうとはしなかった。


「おれはおぬしといたいのだ、セイディ」

「……!」


 そんな風に言われてしまうと、セイディは反論の言葉を紡げなくなる。

 だが……。


「王、」

「なんだ?」

「そ、の……私は、こんな傷だらけの、見目です。女らしさというものもほとんど持ってはおりませんし、何の取り柄があるわけでもありません。王の望まれることは、私の望みでもありますが、私では……あまりにも――」


「セイディ」


 遮るように、彼女の王は呼んだ。

 呆れを含んだ、優しい声で。

 少しだけ力の緩んだ腕の中で、セイディはアレクシスを見上げる。


「第七階級魔術師の台詞ではないのう、何の取り柄もないとは」

「王や側近の方と比べればまだまだ未熟者です」

「おれの場合は王家の血筋故持って生まれた魔力が多いだけだがな。確かに側近どもが優秀なことは認めるが、おぬしとて何度もおれの暗殺を未然に防いでおるではないか」

「それはあなたの臣下として当然の行いです」

「妙なところで謙虚というか、頑固だのう」


 苦笑しながらも慈しむような眼差し。


「とにかくだ、おれはおぬしの実力を評価しておるし、これからに期待もしておる」

「あ、有難う存じます」


 素直に嬉しく思い、セイディは唇を綻ばせた。

 それを垣間見て、アレクシスはぼやくように漏らす。


「……全く、そうだというのに、おぬしは自己評価が低すぎるのう」

「え、」


 言うと、アレクシスは無造作に、けれど乱暴ではない仕草で、セイディの顔を隠していたフードを取り払ってしまった。


「王、」


 セイディは驚き、見開いた目でアレクシスを見つめる。

 アレクシスは機嫌良く目を細め、セイディを見下ろしていた。


「やはり――、美しい」


 隠されていた艶やかな黒髪が、風に揺れる。

 アレクシスは風に流されるその長い髪に指を通し、その感触を楽しんだ。


 それに、セイディは困惑する。


 普段であれば、フードに他人が触れようとした時点で即刻その相手をしばき倒すくらいのことはしてのけるセイディであるが、相手がアレクシスではそういうわけにもいかない。

 ここでアレクシスが負の感情を表に出したなら、不敬と思ってもこの腕から離れただろうが、彼はひどく上機嫌である。


 このような触れあいに慣れていないセイディはどうしてよいか分からず、その大きな手のひらの温もりを、甘受するしかない。


 しばらくセイディの髪を撫でていたアレクシスだが、やがてその頬にその手を滑らせた。


 太陽の眼差しが、セイディを強く見つめる。


 鼓動を高鳴らせながら、セイディは目を逸らさずに――正確には逸らせずに、その眼差しを受け止めた。


 何と眩く、力強い瞳だろうか!


 アレクシスの瞳は、黄金よりも美しく眩しい輝きを持っていると、セイディは確信する。


「セイディ」

「はい」


 真っ直ぐに見つめられ、名を呼ばれれば、セイディの胸はそれだけで締めつけられるようだった。


「恋に落ちるのに、理由や理屈は必要ないと、思っておるがな……」


 故意、濃い、来い、セイディの頭は「恋」という単語を浮かべるのに結構な時間を要した。


 アレクシスが――恋。


「おれがおぬしに惚れた理由をあえて言うなら、その瞳の強さ故よ」


 セイディに――恋。


 熱が顔に集まっていくのを、セイディは自覚した。


「王……、」

「絶望の中、諦めず、屈することのなかった己の輝きを、おぬし自身は知るまいのう! セイディよ、その瞳におれを映せ。そして、おれと共に、世界を見ようぞ!」

「世界を」

「そうだ。おれはずっと夢見ていたのだ。この広い世界、まだ見ぬものを見ることをな。おぬしの瞳に新たな世界はどう映るか。おれはそれをも見てみたい。きっと美しいぞ――我らが並び立ち見る世界は!」


 未来を見つめ、セイディの王は笑う。

 王者の輝きと、子どもの無邪気な輝きをもって。

 その光を集めたような笑顔は、確かにセイディの目に、これ以上ないものと映った。


「はい。――はい、我が王よ」


 半ば無意識に、けれど確かな意志をもって、セイディはアレクシスの腕の中で応える。


「どこまでも、共に参ります」


 セイディの応じに、アレクシスは笑みを満足げなものへと変えた。


「応。それこそ、我が伴侶にふさわしい返事よ」


 その言葉に、一層セイディは頬を紅潮させる。

 しかし。


「よし。ではまず、未来の両親に挨拶へ行くか」

「は……、え、え?」


 オールディスの邸の方を指し、アレクシスはセイディを解放した。

 頷きかけて、セイディは狼狽える。


 セイディがアレクシスの妻になる。いまだに信じられない気持ちは大きいが、それはいい。それ以上のことはない。

 かといって、果たして、アレクシスに挨拶をさせるなど、させてしまって良いのか。


 セイディは真剣に悩むが、それは手遅れというか、杞憂というものだった。


 実のところ、アレクシスは先に挨拶をしてしまうつもりで、夫妻に予め訪問の旨を伝えてあったのだ。

「それでは即位式には行かずにお待ちしております。娘も帰ってくるということですし」というのが二人からの返事である。


 それらを知らないセイディの挙動不審な様子に、アレクシスは怪訝な顔になった。


「どうした?」

「いえ、あの、王直々に足を運んでいただくというのは……、両親には、その、伝えてありますし」

「そうなのか?」

「結婚……とまでは言っておりませんが」


 セイディは「結婚」という言葉だけ濁して言う。


「その……、私が王のもとへ向かうことは既に」


 歯切れ悪く告げれば、アレクシスは破顔した。


「そうか、そうか」


 と、彼はセイディの肩を叩く。

 その嬉しそうな様子に、セイディは心臓の鼓動を速めた。


「実はのう、おれも不安だったのだが……」


 不安。


 セイディのことで、と思えばそれに、彼女は申し訳なさと――同時に、喜びに近い何かを胸に覚える。

 その感情に罪悪を感じ、セイディはぎゅっと拳を握った。


「だが、おぬしが近衛師団を辞めると聞いた時、おぬしならおれの元へ来てくれるのだろうとも思っておった」

「王……」

「城でのおぬしの視線は、熱烈なものであったしのう」

「そ……、それは!」


 当然と言えば当然かもしれないが、気付かれていたのかと、セイディは顔を真っ赤に染める。


 それならば、セイディの抱える想いも、彼女がずっと待っていたことも、不安に思うことなどなかっただろうに――。

 アレクシスほどの人が、それでも、案じる気持ちを捨てきれなかったのか。

 セイディはますます堪らない気持ちになった。


「全く、我慢できぬかと思ったわ」

「我慢、ですか」


 それは先程も聞いた、とセイディは理解していない頭で思う。


「応。早くおぬしを攫ってしまいたかったわ」

「……!」

「だが、ようやくこの時が来た。これまでおぬしを預かってくれた夫妻には礼も言わねばならぬ。何より、おぬしのことだからこそ、きちんとしておきたいのだ」


 セイディの――ことだからこそ。

 その言葉に、セイディは胸を打たれた。


「おれの伴侶として、共に生きてくれるのだろう、セイディよ」

「――はい」


 声が、震える。

 そんなセイディに、アレクシスは、優しく、熱のある瞳で微笑むと、かがみこみ、彼女に一つ、口付けを贈った。


 遠い約束の日と同じ、口付けを。

 今度は、額ではなく、唇に。


「……では、行こうぞ」

「はい――」


 力強い笑みと、差し出された大きな手のひら。

 セイディは唯一のひとがそこにいる喜びと、未来への希望を胸に、その手に己の手を重ねた。


 ――これからこの方と共に広い世界を歩んでいく……。


 その先で二人の瞳が映す光景はきっと、アレクシスの言う通り、美しいものであるに違いない。

 見慣れた景色でさえ、いつもよりずっと美しくこの目に映るのだから。


 太陽そのもののような己の王が照らす、眩い未来を確信し、セイディは目を細める。


 柔らかい翠の瞳に、アレクシスも満足げに喉の奥で笑った。


 そんな二人の間、固く繋がれた手のひらは、約束が果たされたしるし。


 そしてここから、新しい約束が始まるのだ。

 それは、遠い遠い未来まで続く約束――。










Fin






2016/05/30 加筆修正

2023/07/09 加筆修正

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