第1話
「一度だけ…」それが彼女の口癖で、何かとこの「一度だけ…」を強調して話す、いや、交渉すると言った方が正しいかもしれない。
この他にも「試しに…」や「…してみないと」と言った具合に様々な口癖があり、これほど約束性や信頼性が薄いものは無い。
もしかしたら、彼と付き合えた事に味を占めてるのかもしれないし、そうして自分を良いように正当化させているのかもしれない。
ただ今は、この扉の向こうから聞こえてくる「一度だけ……一度だけ」という彼女の甘美な声に耳を傾けてはならないし従ってもいけないのだ。
「あの…告白の返事、考えてくれました?」
昼休みが始まるや否や彼の前に彼女はわざわざ隣のクラスから尋ねに来たのだ。告白から一週間、暇さえあれば昼休みや放課後は勿論、HR前や休み時間にも来ては僕の返事を待つ光景にクラスメイトも次第に興味を失い、ああ、また来たなと位にしか思わなくなっていった。
特に彼女に不満があるわけではないし彼女が欲しくないわけでもないがこうも朝から夕方まで催促されると何か裏があるのではと勘繰ってしまい今だに考えあぐねているところである。
「ごめん。まだ考えてる。」
お決まりのこの答えに横にいる友人も呆れ顔で正面にいる彼女は悲しそうで、僕自身申し訳なく思っているのだが内心、何て優柔不断な男なのだと失望して諦めてくれないかとも願ってもいるが口が裂けても言いたくない。
「そっか。じゃあ、また放課後来ますね。」
そうかと思えば彼女は暖かい笑みで言うものだから益々女心は分からないものだと感じた。後腐れもなく去る彼女、橘 百草は男女分け隔てなく接するせいか人望を集め、人気もあるらしい。
彼の友人も勿体ないだの早く付き合えだのと小煩く、それもまた、その彼女の性質がそう言わせているのだろうなぁとしみじみ思う。
「ねぇ菅野君……一度一緒に帰りませんか?」
放課後になると予告通り百草は来たが彼女の頬は少しばかり赤く、髪も梳かしたようで艶っぽかった。
「今日は友達と帰らないの?」
返事はせず、質問を質問で返してしまったが彼女は気にせずに答えてくれる。
「うん。今日は菅野君と歩きたくて……菅野君、峰方面だよね?」
うんと頷くと彼女は「私も」とはにかむ。
この時になると頼りの友人は姿を消し、逃げの手はなく、否応なく頷くしか無かった。
帰り道、百草はやれ好物は何、やれ趣味は何としきりに話しかけてくるものだから答えない訳にもいかない。答える度に彼女は嬉しそうに笑い、自分のことを知ってもらおうと答え返す。
「一度付き合ってみませんか?」
あまりに唐突だった。向かい合い、両手を握られ出た言葉はお願いに近いもの。
僕に発言する余地を与えずつらつらと自分との交際がいかにメリットに富んだ行為であるかを説いているがそれでも反応が悪いと感じるや逃げ道をきちんと用意するのだから抜け目がない。
「一度付き合ってみて駄目だったら別れればいいんですよ。そうすれば、お互いに利害は五分五分ですし。」
そうしましょ。彼女は1人納得し有無を言わさず促していくと満面の笑みが「いつでも別れられるのだから大丈夫」とでも言っているようでいて気がつけば指を絡められた手からは「もう逃がさない」という意志が感じられた。このアンビバレントな百草から漂う妖艶でただひたすらに甘い香りに当てられて…。
思えばあの時から彼女は狂っていたのかもしれない。それでも、いやだからこそ彼女の言葉には不思議な魅力が帯びていて、少なからず僕はその言葉を信じてみようと、駄目なら別れればいいのだと納得して頷いた。
百草は嬉しいと大粒の涙を流し、直人に抱き着くと泣きながらも笑いだしていた。「夢が叶った。」「好きになって良かった。」と表情だけではなく言葉でもこの幸せを吐き出していた。
「ねぇ、ナオ君。試しにちょこっと開けてみてよ。何もしないから。ね?ちょこっと……ね!ナオ君の顔、見たいから。一度だけで良いから。一度だけ。」
扉の前まで行くと無意識にドアノブを回していた。それと同時に向こう側から扉を引っ張られたがガチッとチェーンが音をたて少しばかり開く。すかさず、その隙間に足を挟め、彼女は身を乗り出し直人を見つめた。
「ナオ君、久しぶり。あのさ、イキナリであれなんだけど手繋ぎたいな。大丈夫。何もしないから、ね?一度だけ。一度だけだから。」
付き合いだしてからは彼女はみるみる変わっていった。二人とも一人暮らしで住まいも近所である理由から百草はわざわざ彼の部屋に訪れては朝食を作るようになるが、それだけでは飽きたらず昼食は勿論、夕食も一緒に食べるようになった。その時の言い訳も「一度一緒にご飯を食べてみたかった」からと「夫婦生活を送りたかった」らしいが「一人分作るのも二人分作るのも一緒だから」や「二人分作る方が食費とか光熱費とかが安くなるから」と変化した。
そうして機会から責任に、責任から義務へと変わり、義務から必然に変わる。
直人自身、一緒に食事することに抵抗がなくなり、何時しか楽しみになっていった。それは百草にとってどんなに喜ばしいことか、彼が料理を口に入れる度に彼女の中で次第に渦巻いていく欲情と恋情は遂に理性を飲み込み始める。
「そろそろさ、次の段階に進んで良いんじゃないかな?」
直人の部屋には百草の私物が散在して同棲していると言っても過言ではない状況で百草が冷静でいられるはずはないが、それでも二ヶ月は我慢したのだから頑張った方ではないだろうか。
しかし百草の言葉で直人は目を醒ます。友達の少ない彼にとって彼女の存在は大きく、一緒に居て、確かに楽しかったのだがそれより先に進みたいとは思わなかった。
彼女にこれ以上頼ってはいけない、近しい関係になってしまえば別れにくくなってしまう、それに未だに彼女を好きになれなかったのが一番の理由だった。
彼女を失望させては失礼だから。
「その事なんだけどさ、僕たち、そろそろ別れた方が良いんじゃないか…な……。」
別れ、その言葉が出た途端彼女の笑顔は崩れ、今にも泣きそうな位に唇を噛み締め目に涙を浮かべ、わなわなと体全体が震え出して、「何で?」と身をのりだし尋ねてきた。
「私と居て楽しくなかった!?」
両肩を掴まれ揺さぶられ、遂には涙は川の様に流れだし、それでも彼の目から視線は外さない。直人は嘘をつくつもりが彼女の涙で動揺してしまい「楽しいよ。」と言ってしまった。それが彼女を高ぶらせ、僕自身の逃げ場を無くしてしまう。
「じゃあ、しようよ!?…………あ!それじゃあ一回だけ。一回だけキスしてみようよ。それから考えよ?ね?」
「落ち着いてね。落ち着いて。」と彼にも自分にも言い聞かせるように呟き、泣き腫らした目には既にギラギラとした性欲が見えて息も荒く、顔の赤みは更に増す。逃げようにも両肩を爪が食い込む位に掴まれて逃げられず、段々と近付く口にただただ顔を背けるしかなく最後には彼女と唇を重ねてしまう。
歯を食いしばり、唇を頑なに閉じていても百草の舌は唇と歯の間へと侵入し歯を愛撫し始める。
鼻息を荒くして、舌は歯の壁の先、彼の舌との重なりを求め蠢いていたが、ふと左肩の痛みが消えたものだから彼女の右手の行き先を探すと右手にはハンディカメラを持ち、二人の行為を一部始終映していた。
唇を無理矢理離し、注意しようとしたのが間違いだった。それを狙ってか、左手で顔を掴み無理矢理近付け口づけしてきた。突然のことで歯を食いしばるのを忘れ、百草に舌の侵入を許してしまうと先ほどよりも愛撫は激しく、直人の口内を、舌を、唾液を貪り、彼女の唾液を流し込む。 艶かしい感触は新鮮でお菓子とは違う甘みに満ちた舌に頭の中の固い芯が解されどろどろと溶けていくと身体中に痺れが巡り肩の痛みどころか抵抗する気すらも薄れていった。
そうしてどちらがどちらの舌か唾液か分からなくなるくらいに蕩けた頃にようやく唇を離すと百草と直人の間には幾つものねとついた糸が出来、ひとつひとつと切れて最後の糸がぷつりと切れた時、百草は唾液にまみれた笑みで「気持ち良かったね。」と悪気も無く囁く。
ようやく僕から離れるとカメラを弄りだし、録画された内容を確認しだす。途中、うわぁとか唸り声をあげ生唾を飲む。
確認し終わると呆然とした直人に微笑み、カメラを向ける。
「別れるなら、コレみんなに見せて自慢していいよね?」
「ナオ君の手気持ちいいね。………ゴメンね。あんなことするつもりじゃ無かったの。でも、ああでもしないと振り向いてくれないんじゃないかって不安で不安で…でも、こうして触れて触れられて嬉しい。だからね……。」
一度だけ……そう言うと、視線をチェーンに落とす。彼女のその短い髪が濡れていて、嗚呼、雨でも降りだしたのかなと思いながらチェーンを外してしまった。
彼女が寒そうだったから?可哀相だから?
いや、既に彼女の魅力に囚われてるからか、また、味わいたいと感じているからか、そして、それが無意識であるからか。
彼には分からない。
「ねぇ、あと一度だけ……ね?」
話というのは瞬く間に広まるものだ、恋愛物に関しては特にだ。そう実感したのは百草と付き合うことになった翌日には既にクラス中にその話題は蔓延していた。
百草に至ってはこの事は心地好く思っているらしく、自らのろけ話をする始末で、校内で平気に手を繋いでみたり、寄り添ってみたり、あまつさえ唇を重ねようとまでした。
その時もやはり「一度だけ、学校でしてみたかったんだ。」なんて言いながら無邪気に抱き着き緩んだ笑顔で直人を見つめると予鈴が鳴るまで離してくれなくなる。
そうして、1人になることを酷く嫌がり何処に行くにしても彼を連れて歩いた。トイレも移動教室の時も登下校も、クラスが違うにも関わらず直人の性格のせいか嫌々ながらもそれに従い、彼女のワガママに付き合った。
片鱗はあったものの次第に百草の依存は深刻なものになっていく。授業中にも関わらずメールをしたり、始終手を繋いでいたり、直人の部屋でよく寝泊まりするようにもなった。
寝るときは勿論、食事中でも入浴時すらもベタベタとくっついてくるようになると流石の直人も疲弊するようになり注意もするが百草は生返事ばかりで改善することさえしない。
休日は更に酷いもので外出はせず、一日中家の中で直人にベッタリで友人との用事があれば必ず付いてきた。キスが解禁されてからはずーっと唇を合わせてるような印象しかない。拒否したところでお決まりの「一度だけだから」と宣うもそれが成されることはなかった。
「ナオ。今日の放課後、委員会あるから。」
彼の前で無愛想に話し、終えると有無を聞かず自分の席へと戻っていった。直人は彼女が苦手だった。小学校からの同級の彼女はいつも中心人物の一人で彼に対してはいつも高圧的か先程のように全くの無愛想に振る舞い、接点も多いとは言えず接しづらく話しづらいもので。
それに百草とは友達関係らしく、余計にどう接したらよいのか分からなかった。
「もう、大丈夫なんだ。」と百草と付き合いはじめた頃に前置きもなく吐いた言葉にはあらゆる意図が見てとれた。安心、呆れ、嫉妬、失望、後悔、表情と声量と言葉から滲み出たものがのし掛かり、ただ頷くしかなかった。
中学生に体験した恋というものは甘酸っぱい試行錯誤の塊を期待したものだが上手くいくわけがない、無惨に散って、無意味に想いは空虚に消えて、無慈悲に傷付き、苦い思い出だけが残る。
それを吐き出す術も分からずに持て余した情熱が余計に自分を滑稽であると思わせ、次第に好奇心は薄れ全てが懐疑心に包まれると孤独になるのは時間の問題であった。




