禊ぞ秋の想いなりけり
秋の風が児童公園に吹いていた。二十度を切った涼しげな空気は、バトルを終了した俺にとっては心地よい。アドレナリンで味付けされた勝利の余韻を味わいながら、家に帰るつもりだった。
はずなのに、何故か、オブザーバー気取りの暴力女である真里菜にハートブレイクパンチをぶち込まれて、うずくまっていた。
「人間を成長させるのは、ストレスだって知っていた?」
どや顔した真里菜が偉そうにほざく。
いや、ほざくのは構わないんだ。それより、
「それと俺を殴ることとどう関係があるんだ?」
「ストレスってのは、痛みよ。だから、痛みがあってこそ人間は成長する。とも言えるわね」
でた。お得意の詭弁。ホント勘弁。まったく何遍聞いてもあきれちゃうね。こういう人間と付き合って朝まで討論大会する気分ではない。今日は、一人で二人を倒すという偉業を成し遂げたのだから、ゆっくりと風呂にでも入って眠りたい。勿論、勉強をする気分ではない。
俺は汚れを払いながら立ち上がる。
「響きって最近、復活速くなってきてない? 薬も飲んでいないってのに」
何だその言いぐさは。人のことゾンビだか化け物みたいな言い方をして。
「兎に角だ。今日は疲れたから帰る。それ以上でもそれ以下でもない」
「あのさ、あんた解ってんの?」
「何を!」
苛立っていた。疲れていた。ここ数日、心が休まる時間がない。だから、どうしてもつっけんどんになってしまう。
「十人、倒す必要があるんだって。期日までにできなければ予選で失格になってしまうんだから、もっと真剣にやらないと。だから……」
「別に構わねぇ。俺はあいつらの野望を犯罪を止めた。それだけで十分だ。もう、こんなバカげたバトルとやらになんか付き合ってられねぇ」
真里菜とエレーネを置いて歩き出そうとした。
家に帰ろうとしたその時に、真里菜が横から殴り掛かってきた。
今までは見えていなかったパンチ。
それがとても遅く見えた。
スウェーバックの動作で上体を逸らしてパンチを躱す。体が泳いだところを逃さずに背中を押した。すると、バランスを崩していた真里菜は、二、三歩たたらを踏みながら、半回転して尻餅をつく。
「そんじゃ、帰るわ」
二人に向かって軽く手を振る。言葉は発しないが別れの挨拶だ。
「エレーネ止めてっ!」
流れるような動きで近づいてくるエレーネに向かって俺は腰を落として構える。少しずつ左に回り込み正面に立たないように角度をつくっていく。
「お兄ちゃん……」
エレーネがナイフを突き出してきた。だが、明らかに本気ではない。
躊躇した散漫な攻撃を俺は避けない。空手の構えから左拳をハンマーのように振り下ろして彼女の手首を叩き付ける。
――ッ!
エレーネはナイフを落とすと、バックジャンプして俺と距離を取る。猛獣の視線で俺を睨みつけながら懐から新たなナイフを出す。
「止めろ。俺は別にエレーネと闘いたいわけじゃないし、ペチャパイ真理奈のことだって傷つけたいわけじゃない。だって俺たち仲間だろ?」
軽口を叩きながら説得するとエレーネの眸から険が失われていく。
心の中でホッと息を吐き出しながら、構えを解いて真理奈の方に体を向けた。
「あのさ、一つだけ確認したいことがあるんだけど」
真理奈はスカートの埃を払いながら顎をしゃくる。その場で小さくジャンプしてからタイミングを計っていたかの様に回し蹴りを放ってきた。
腰が入っている。
威力はそこそこありそうだ。
だが、致命的に遅い。
体が勝手に反応して左腕、アームブロックで受け止めようとする。
その瞬間、真理奈のキックは膝から角度が変わる。中段、腹部への攻撃に見せかけていた蹴りは、上段、頭部を狙っているものだった。
もしかしたら、俺の動きに反応して角度を変化させたのかもしれない。
どちらにせよ、アームブロックの上を攻撃してくる……。
理解したら体が反応していた。
お辞儀をするように体を前面に折り曲げると、空振りした真理奈の蹴りが背中の上を通過していくのが感じられる。
戦闘中で一番危険な状態とは何だろうか?
攻撃された瞬間?
いや、違う。
攻撃を避けられた瞬間だ。
回し蹴りを躱された真理奈は、百パーセント無防備な状態。こちらからのどのような攻撃だってカウンターで喰らってしまう可能性がある危険な状態。
俺は頭を持ち上げて攻撃をしようとした。
怪我をしない程度、それでもこれからは暴力を躊躇う程度には威力のある痛みを与えようとした……。
与えようとしたし、できるはずだった。
目の前に黒っぽい何かが飛び込んでこなければ――。
湿った。夏っぽい臭いが漂っていた。
別に狙っていたわけでも望んでいたわけでもなかった。
だが、魔法をかけられたように俺の体は停止して動けない。幾ばくかの隙は見逃されることもなく、後頭部に踵を感じさせる強烈な衝撃を受けて前のめりに倒れ込んだ。
「やっぱり、そこは黒かった……」
そう呟いたかどうかは記憶していない。
意識は瞬時に刈り取られ夢のない暗闇の世界を彷徨っていた。
遠くから声が聞こえてきた。
ソプラノの歌声だと理解して盲目の状態で駆け寄ると、途中から泣き声に変わっていった。
俺が走るのを止めると一滴の雨が頬をうった。
再び降ってきた雫が俺の眸を濡らした。
思わず開いていたはずの瞼を開く。
すると、闇の世界ではなくボンヤリとした色でできた世界に仰臥していることに気づいた。
徐々に視力が回復していくと、真理奈の顔が間近にあるのがわかる。息が吹きかかりそうな距離で彼女の湖は溢れ出して俺の額を濡らしていく。
「どうしたんだ気持ち悪い」
悪気があったつもりではない。
ただ、らしくない真理奈に元気を出してもらいたかった。それだけだった。
「誰が気持ち悪いっての!」
とか言われながら殴られる。
それくらいの覚悟をしていたのに、突如、真理奈は抱きついてきた。
「響、響、ひびきーーーー」
状況が理解できない。
俺は真理奈を押しのけて上体を起こす。
「まさか、ここはどこぞのパラレルワールド。夢オチなんてことは無いだろうな」
呟きながら微笑みかけると、真理奈は顔を背ける。
「記憶は?」
「何?」
「覚えていることは?」
「何のこと?」
「なら、一部だけが戻ってきただけか。でもそれでもいっかぁ」
真理奈は俺に背を向けたまま立ち上がった。
「今日、もう一戦いいよな?」
「だから~、帰るって言っただろ」
「お願いだからもう一戦だけ……」
背中を向けたまま踵落としを喰らわせた女子高生のお願いを聞き入れるつもりはなかった。知らねーよ。って言って帰ろうと思っていた。
けれども、寸断される呼吸音が耳について離れない。
ここで帰ったならば最低の男のように思えてきた。
「わかったよ。負けても文句を言うんじゃねーぞ」
「うん。でも、今の響なら絶対に負けない。私が一番知っているから」
真理奈はくるりと体を半回転させた。
ハンカチで目頭を二回ほど押さえてから、ゆっくりと近づいてきて両手を伸ばす。
何事?
両手は俺の頬をしっかりと…………、
スルーして頭に向かう。
「マルコメマルコメ。やっぱこの手触り最高かも」
嬉しそうに俺の頭を撫でている真理奈。横にいるエレーネは呆れた顔で真理奈を見ている。そりゃそうだ。あまりの脈略のなさに外人だけじゃなく日本人の俺だって理解できない。いい加減にしろって文句を言おうとすると真理奈は手を放した。
「やっぱ、味噌だよ。赤味噌が最高だよ! 知っているか響。このまったりとした味を」
「あのさ真理奈」
「何だ? やっぱり白味噌がいい。何て言うなよ」
「つか……、友情パンチ」
とりあえず、意味不明な真理奈を成長させるために俺は頭を思いっきりはたいてみた。