戦慄の単細胞生物
「お兄ちゃん、ごめんなさい」
「さっきはごめん響、やりすぎた」
風呂上りにリビングに入ってきた俺は謝罪の言葉を聞いて動揺した。
二人して俺を殺そうとしている算段が整ったとか、何かはめようとしているのではないか。そんな警戒心が俺を身構えさせる。
「人が真面目に謝っているのに。何よ、その目つき」
「逆さに振ったとしても金なんか無いぞ」
「はあ? 何でアンタから金を盗らないといけないの。ウチは貧乏じゃないって」
「ほら両親にも言えない金が必要になる場合もあるだろ。気をつけていたのに出来ちゃったんです。みたいな」
「何言ってんだ。色々な意味で失礼だろそれ。そもそも経験無いアタシにできるはずがない。ちゃんとした謝罪を要求するぞ」
「真里菜こそ何を言っているんだ? 単細胞生物は単体生殖するだろ? 昆虫だってナナフシとかは雄を拒否して単体生殖するらしい。カタツムリは刺し違えるように交尾するらしいし。そうそう蜘蛛は生殖後に雄が雌に食べられることもあるらしい。まさに真里菜に相応しい世界系じゃないか?」
言い切った瞬間にコークスクリューパンチが飛んできた。
えぐりこむように打ちこんできやがった……。
俺はフローリングの床に倒れこむ。
「だ、誰がミトコンドームリアだって?」
いやいや、誰もミトコンドームリアだなんて言ってないから。
それ以前にミトコンドームリアって何?
生物学会に謎かけするようなことするなって。ミトコンドリアのことだろ。だったらミトコンドリアは単細胞生物ではなくて細胞小器官ですから、残念。
俺は平然と立ち上がる。
「何で立ち上がってくるの。響の癖に生意気だ」
アンタはジャイアンですか。
俺は真里菜の攻撃に身構える。
「お兄ちゃん回復力すごーい」
エレーネが誉めてくれたので微笑み返す。
しかし目の前の天敵に油断はしない。何と言っても、その女、凶暴につき、だからな。
すぐにでも殴りかかってくるのではと思っていたが、真里菜はボクシングスタイルに構えていた両腕をおもむろに下げた。
まさか、ヒットマンスタイルに変更するとか? 一瞬慌てたが、両手を腰に当てて小さい胸を偉そうに突き出している。
どういう心境の変化だろうかと観察すると深く溜息をついた。
「あのさ、私たちが争そって何の意味があるの? もうちょっと考えて行動しないと。そう思わない?」
その通りだと思うけど、自転車で轢き殺しかけたり気絶するほど殴ったり風呂を覗いたりする人間の言う台詞ではないと思うぞ。つい数十秒前だって殺人コークスクリューパンチで襲い掛かってきたじゃないか。
「ソファーに座ってくださいね」
真里菜の母が氷の浮かんだカルピスらしき白い液体が入った飲み物が入ったコップをお盆に乗せて持ってきてくれた。ある意味、どうやったらこの母からこの娘が発生したのかミトコンドームリアに質問したい。
「今からアタシの部屋で重要な話があるからママは入ってこないでね」
真里菜は俺に持ってきたはずの飲み物を一気飲みしてお盆に乗せる。
「真里菜、一条君を殴ったりカルピスを勝手に飲んだら駄目でしょ。ちゃんと謝りなさい」
真里菜が母の言葉を無視して階段を上がっていくと、エレーネも着いていく。
「ゴメンね、一条君。後でお菓子と一緒に持っていくから先に真里菜の部屋に行っててくださいね」
「いえ、いつものことですから気にしないでください。最近は慣れてきましたから、殴られることに」
真里菜の母は笑みを浮かべながら近づいてくる。
「あの子がああいう態度を取る時は照れているのよ」
「そうですか?」
「そうなのよ」
と言いながら俺の耳元に顔を近づける。
「避妊の道具が必要だったらちゃんと言ってくださいね」
囁くように言うと恥ずかしそうに逃げていく。
こら、待ってください。絶対に何かを勘違いしていますって。そもそも下手に手を出したりしたら真里菜に殺されますって。それに最強、いや最凶のボディーガードのエレーネがいるから、手を出すなんて絶対に無理ですって。
俺が言い訳をする前にキッチンの奥に引っ込まれてしまった。天然の真里菜の母は変に誤解しそうだから、キッチンの中まで追いかける気にもなれない。これで追いかけた日には逆に母親に対して発情したかと大騒ぎをされかねない。
うーん。と両手で頭を抱え込んでいると二階から呼ぶ声が聞こえてくる。呼ぶと言うか呼びつける声。
俺に安らぎは与えられないのか。腕組みをしながら階段を昇る。
部屋に入ると白いコタツを囲んで二人は座っていた。
俺は何も言わないで入り口側に正座する。これっていきなり説教されそうな雰囲気じゃない?
「響はどうしてそう小さいの」
「いや、そんなこと言われても生まれつきというか遺伝的なものもあるから仕方が無いじゃないか」
「過去の偉人たちは苦労して自分に打ち勝って大きくなったというのに、響も少しくらいそういう姿勢を学ぼうという気はないの?」
「ああ、だから指輪への次の願いはもっと大きくしてくれとか、そんな願いにしようかと思っている」
「ちょっと待った。話がかみ合っていないような」
「んん? マンモスさんの話だろ」
「はあ? いつまで引っ張ってるのこの変態が。エレーネ腕十字!」
エレーネが飛び掛ってきて俺を畳の上に倒して右腕を取る。そのまま腕を伸ばす。
「ギッ、ギブ。ヘルプ! 死ぬって!」
「大丈夫、腕の一本折れたくらいじゃ死なないから」
あまりの激痛で考えることが出来ない。真里菜の言葉が頭の表層を流れていく。
テレビで見た格闘家は平然としていたが、こんな強烈な痛みを耐えていたのか。って、ふと気がつくと痛みはない。
さすが俺。超適応能力で腕十字に一瞬で耐えれるような体になっていたとは。
「思ったより痛くないな」
と余計なことを言ってしまった。
言わなければ良かった。
「じゃあ、もう一度エレーネお願い」
エレーネは俺の腕を絞る。ああっ、さっきは緩めていただけだったのか……。
「の、脳、NO! 助けてください。何が悪いか理解できませんが、全面的に俺が悪かったと思います!」
「まだ余裕がありそう。エレーネ本気でやっちゃって」
「ううっ、ぐあぁぁぁぁ!」
気がついたらエレーネはいなかった。
俺はゆっくりと起き上がる。
「大丈夫?」
「腕が1.5倍に伸びた感じがする」
「んなわけないって」
俺は放り投げられた哺乳瓶を左手で受け取り飲む。一噛みで痛みは修正されていく。
「ちょっと酷くない?」
「酷いも何も命がかかっているから仕方ないって」
「命?」
「既にバトルはバトル空間だとか高校生バトルとかそんなの全然関係なくなってる。事実、エレーネは殺されかけたわけだし、響だってでかいのに子分になれとか迫られていたし、ヤクザとかマフィアの抗争に巻き込まれたも同然だろ。ならばそれなりの戦闘術をマスターしておかないと」
「あのさ。何だか真っ当そうな理由をつけているけど、ただ単に俺を攻撃したかっただけじゃない?」
「そういう細かいことに拘るから小さいんだって」
「だから、それは次の願いでマンモスさんに……」
「もう、いい加減にそこから離れろってば」
「確かに。そもそも今日集った目的は?」
「今後の方針とか考えようと思って」
「で、その考えとやらは?」
「だから、それを考えようという集まりじゃない」
要するに何も考えていないと言うわけか。疲れるよなあ。
けど俺にアイディアがあるわけじゃないから他人を批判できる筋合いでは無いか。
「まず、判っていることから纏めようか」
俺は提案した。
まずは味方を確認する。
勿論、俺。俺自身。言うまでも無い。俺が実は敵。推理小説でありそうなトリックだが、その場合でも俺にとっては俺は絶対に味方。
次に真里菜。ある意味天敵だがとりあえず味方。未だに何かを隠しているのが気になるところ。近いうちに隠しているところを全部吐き出させないとな。
智ちゃんも当然の如く味方だ。何度も助けてもらっているし。眼鏡野郎には智ちゃんがいなかったら撃たれていたかもしれない。
さらにエレーネ。知り合って間もないが、大男を倒そうとしてくれた。日本での生活と引き換えに首輪も奪わなかったし。
とすると味方は現状ではこの四人か。言わずもがなだが戦闘に関係ない家族とかは除外する。
次は敵を確認する。
敵はこの四人以外の首輪バトラー全員だがそれではあまりに範囲が広すぎる。狭義的に考えれば直接の攻撃を加えてくる可能性がある人間を敵と考えることにする。
まずはあの大男。どうして俺を部下にしようとするのか判らないが、直接の害を加えてきたのはアイツ。俺より強いのは間違いないがエレーネよりは弱い。データ上では知力・知恵のパラメーターはかなり低かったし、それほど恐るべき相手ではない。
次にエレーネを撃った眼鏡野郎。アイツは絶対に許せない。しかし、銃は脅威だ。それに底知れない不気味さがある。大男と比べて侮ることはできないだろう。
さらに奴らを統括している黒幕か。データ不足でよく判らない。きっとランキング上位だろう。あの男らを束ねていてかつ組織を維持、運営しているのだから、そうとうの実力者のはず。
それ以前に良く考えてみると、黒幕が敵とすると組織全体が敵と考えていいことになる。組織の人数も概容も全く判らないじゃないか。これってお手上げ? 考えているだけで頭が痛くなってきた。
ちょっと待った。敵を倒そうっていう発想が安易じゃないか? 腕を組むと秘策のイメージの片鱗が浮かんできた。
「乗り込んでいって全員殺しちゃおうよ」
エレーネの眼は笑っていない。
駄目だって。そういうことを簡単に言ったら。
「あいつらのアジトが判れば乗り込めるんだけどね」
こちらはこちらで大丈夫か?
「冷静になれって。奴らの組織、規模が判らない以上、戦いなんか出来ない。もっともそれ以前に殺し合いなんて絶対に駄目」
「けど向こうは法律なんて関係なく密輸、傷害、殺人、好き放題やってるだろ。それに対抗するためには、こっちだってやり返すしかないって」
「やられたらやり返すっていう発想が良くない。奴らが犯罪が出来なくなるように追い込む。そういう方法を考えればいい」
「そんな都合がいい方法があるわけないだろ。それとも響にアイディアがあるとでも?」
「無いと思ったか? けど、今思いついただけだから細部の詰めが甘い。ちょっと意見をもらえないかな」
俺がアイディアを披露すると真里菜は頷いた。エレーネは若干不満そうな表情を浮かべているが反対する気は無さそうだ。
後は首輪をいくつか手に入れるだけ。
「マンモス化計画は先延ばしにされるが致し方なしか」
俺は溜息をついた。
「何言ってるの。小さくったって別にいいじゃない。困ることがあるわけでもないだろ」
「よく言う。自分だってエレーネより胸が小さいってコンプレックス感じているくせに」
「はぁっ? 誰が小さいって? ほぼ同じ、二アリーイコールだって」
「まあどちらでも構わないさ。世間一般から考えればペチャ……」
「おい、今、絶対に口にしてはいけない言葉を口にしてしまったぞ響。エレーネ押さえて」
逃げ出そうとする俺の体は背後に回ったエレーネに抱きついて押さえこまれた。立っていれば小学生サイズのエレーネに押さえ込まれることはありえないが、座っているだけに完全に自由を奪われた。尋常ではない力で逃げ出すこと適わない。
「さっき首を捻って威力を殺しただろ」
くうっ。ばれていたか。
「さあね」
しらばっくれてみたものの多分顔には出ていると思う。慌てふためいている表情が。
「えぐりこむように打ち込んであげるから頑張ってね」
真里菜は笑顔を見せた。とびっきりの可愛らしい笑顔のまま、コークスクリューパンチを連打してきた……。
助けてミトコンドームリア!
俺は気の遠くなるのを感じながら神様に願っていた。