『逢える日まで、笑っていて』
『逢える日まで、笑っていて』
葬儀の前夜は、音が少なかった。
時計の針の音だけが、部屋の隅で薄く鳴っている。
男は畳の上に座り、祭壇へ視線を向けた。
遺影の中の妻は、笑っていた。
彼はそれを、残酷だと思った。
「……笑えるわけがないだろ」
声にした途端、喉が焼けるように痛んだ。
泣けない。
泣き尽くしたはずなのに、涙はもう出ない。
ただ、体の奥の何かが壊れていく感覚だけが残っている。
呼吸をするのが、作業になっていた。
生きるという行為が、意味を失っていた。
布団に入っても眠れず、目を閉じても何も訪れない。
闇の中に沈むほど、彼女がいない現実が輪郭を強める。
「……おいで」
誰に向けた言葉か、自分でも分からないまま、男は呟いた。
それは祈りにも似ていたし、子どものような駄々にも似ていた。
その瞬間、ふっと部屋の空気が変わった。
香りがした。
柔らかい、少し甘い――彼女の髪の匂い。
男が顔を上げると、そこに妻が立っていた。
生きていた頃と同じように、少し照れたように笑っている。
男は息を呑んだ。
声が出ない。
「……夢か」
妻は首を傾げて、いつもの癖で前髪を指で払った。
「夢でも、真でも。どっちでもいいでしょう?」
男の胸が震えた。
言い返そうとして、喉の奥が詰まる。
妻は一歩だけ近づいた。
距離はあるのに、温度が戻ってくる錯覚があった。
「これは、永遠の別れじゃないよ。私は先に行っただけ。あなたが“あちら”に来たら、ちゃんと会える」
男は握りしめた拳をほどけなかった。
この幻が消えるのが怖かった。
信じたくなかった。
信じたいのに、信じることが怖かった。
妻は、男のその矛盾を知っているように微笑んだ。
「僕がそちらに行った時にまた君と会えるだろうか?」
男の唇が、勝手に動いた。
病室で言えなかった言葉が、今、溢れてしまう。
妻は、ゆっくり頷いた。
「はい…あちらでは貴方が望む私の姿で、貴方が望む場所に私は現れますから」
その言い方は、優しかった。
甘すぎる約束に聞こえるのに、どこか現実の手触りがある。
彼女が、彼を生かすために選んだ言葉だと分かる。
妻は続けた。
泣かせないように、いつもの明るさで。
「この別れは永遠ではありませんよ!」
男の目の奥が熱くなった。
でも、涙はまだ落ちない。
妻は、最後にまっすぐ男を見た。
「だから貴方は悲しみの中で過ごさず、この先もその朗らかな笑顔を絶やさず過ごして下さいね」
男は首を横に振りかけた。
そんなの無理だ、と。
笑えない、と。
しかし、妻はその否定を遮るように、そっと言った。
「笑えない日があってもいい。
でもね、“笑わないまま生きる”って決めないで」
それだけが、胸の芯に落ちた。
妻はもう何も言わず、ただ微笑んだまま、夜の静けさに溶けていった。
気づけば部屋には、時計の針の音だけが残っていた。
男は息を吐き、額を床につけた。
「……約束、だな」
初七日を過ぎても、家は静かだった。
人が来たあとの埃の匂いだけが、まだ残っている。
男は遺影の前に座り、何度目かの封筒を手に取った。
妻が残した最後の手紙。
彼は何度も読み返してきた。
読むたびに胸が痛むのに、それでも読みたくなる。
便箋の端は、もう少し波打っている。
涙で滲ませないようにしてきたのに、結局、ここまで来た。
男は声に出して読んだ。
自分の耳で聞けば、彼女がここに戻ってくる気がしたから。
――泣いてもいいですよ。
――でも、泣き終えたら窓を開けてください。
――あなたが息を吸う音が、私は好きでした。
――ごはんを食べて。眠って。
――私のいない時間も、あなたの時間だから。
読み終えた瞬間、男は便箋を胸に当てた。
そこに穴が空いたような喪失は消えない。
それでも――彼女の言葉は、穴の縁に板を渡してくれる。
男は立ち上がり、窓を開けた。
冬の空気が入ってくる。冷たいのに、生きている匂いがした。
「……生きろ、って言うんだな。最後まで」
ふと、台所へ向かう。
マグカップを一つ出し、湯を沸かした。
いつも通りにコーヒーを淹れる。
二つ出しかけて、手が止まった。
胸がきゅっと痛む。
それでも男は、もう一つのマグカップも棚から降ろした。
そこに注ぐものはない。
けれど、並べた。
「……いってくる」
誰も答えない。
でも、遺影の妻は笑っている。
男は、鏡の前で口角を少し上げた。
上手くはできない。歪む。
それでも、やった。
「……誓うよ」
声が震えた。
「お前に会う日まで。
生きる。
俺の人生を、悲しみだけに渡さない」
転 ـ 時は経ち
季節が何度も巡った。
痛みは消えないまま、形を変えた。
ふとした瞬間に、胸が締めつけられる。
スーパーで彼女が好きだった菓子パンを見つけた時。
初雪の朝、窓の外が白かった時。
街で、彼女に似た後ろ姿を見た時。
そのたび男は、立ち止まり、息を吸った。
そして心の中で言う。
――逢える日まで。
彼は笑った。
最初はぎこちなく。
やがて、少しずつ。
笑顔は、裏切りではない。
彼女が残した“許可”だった。
遺影の前には、花が絶えなかった。
彼は、彼女に今日の出来事を話す癖がついた。
「今日な、空が綺麗だった」
「近所の子がさ、転んでも笑ってた」
「俺も……笑えたよ」
答えはない。
でも、それでよかった。
彼女が言ったから。
永遠の別れじゃない、と。
男が最後の時を迎えたのは、よく晴れた日の夕方だった。
窓の外は茜色で、空の端がやさしく燃えている。
病室は静かで、看護師が足音を忍ばせて出入りした。
男は酸素の匂いの中で、目を閉じた。
息を吸う。
吐く。
胸の奥に、あの夜の香りが戻ってきた。
柔らかい甘さ。
髪の匂い。
男は薄く笑った。
今度は歪まない。
自然に、上がった。
「……おいで」
声はかすれていた。
でも、確かに言えた。
目を開けると、部屋の隅に妻が立っていた。
若いままの姿で。
あの日の微笑みで。
男は泣かなかった。
泣く必要がなかった。
胸の奥が、静かに満ちていく。
妻が近づき、手を差し出す。
「遅かったね」
「……生きてた」
男はそう答えた。
誇るようにでもなく、言い訳でもなく。
ただ、約束を果たした者の声で。
妻は嬉しそうに笑う。
「うん。知ってた。だって、あなたは約束を守る人だもの」
男は息を吸った。
最後の息だと、分かった。
「……会えるって、言ったな」
妻は頷いた。
「あなたが望む私の姿で、あなたが望む場所に。ね」
男はゆっくりと目を閉じた。
そして、心の中で言った。
――ただいま。
次の瞬間、彼の世界は静かにほどけて、
茜色の空の向こうへ続いていった。




