場面3
その日は休日だった。私は起きて朝食をとって、後はずっと借りた本を読んでいた。高校に入ってから土日はずっとそんな感じだ。それは夏が土日はずっと家にいないからかもしれない。誘導尋問をして空手を習いに行っているらしい事は判明したけれど、それがどこなのかはわからない。勉強も今は教えることもなくなった。まあ、それは私に悩みがあるということも・・・関係しているということにしておこう。
少々目が疲れたので、寝返りをうって天井を見上げた。本は途中を開いたままお腹の上に置く。どこか、集中していない感じがする。本の内容は面白いと頭で判断しているのに、感情がそれについてきていない。
ここではないどこか・・・やっぱり私は逃げているのだろうか?
いや、決着をつけると決めたから、私は試してみようと思ったのだ。
彼と会うことがなくても、私は最初からそうする気だったのだ。
・・・そうか、気持ちが宙ぶらりんなままだから、楽しめないんだ。
ようやくそのことに気づいて、私は本を閉じて枕元に置いた。
すべてが終わったら、また本を読もう。
その時は・・・私が私であると言える。そんな自分で居たいと思った。
ほんの少しだけ欠けていた月が満ちた。今宵は満月。照らされた光に映る影はスカートをなびかせる私を切り取っていた。
「一時まで後十秒」
カウントをして、私は階段に足を掛けた。
景色から音が消える一瞬、私は自分の名を呼ばれた気がした。
振り返っても人影は見えない。そうだ、ここはもう、日常の空間ではない。例えすぐ側にいたとしても見えるはずが無いのだ。
私は彼の元へと向った。
「よく来たね、待っていたよ」
彼の出迎えに、私は微笑みを返せなかった。
覚悟はしていたけれど、しているつもりだったけれど、未来に対峙するのは・・・やはり、恐い。
「くそ、目の前から消えるなんて見間違いだと思ったのに」
唯の夜の散歩に付き合い始めて一ヶ月になるが、最初の驚きからようやく落ち着いてきたところだったのに、二日連続で驚かされることになるなんて・・・。
とにかく、歩道橋で消えたのだから、そこに鍵があるのは間違いない。
私は歩道橋に足を掛けた。
不意に音が消えて、感覚が遠くなった。
「なんだ?」
辺りを見回すと、今までそこには居なかったはずの唯と、もう一人の人物の姿があった。
そこに駆け寄ろうとするが、なぜか、階段を上ってもそこへ近づくことが出来なかった。
「さて、君がここへ来たということは、未来を見たいということでいいんだよね?」
私はその言葉に静かに頷いた。前も同じように尋ねられたのを思い出す。これは多分儀式の一種なのだろう。
「でも、君は未来を見る必要はないと思うんだけれどね?」
それにも私は頷いた。そう、どんな未来が待っているかはある程度予想がついている。
だけど、確認したいと思ったのだ。足掻くかどうかを決めるために。
「わかった。君に見せられる未来を見せよう」
私は病院のベッドで寝ていた。色んな機器に繋がれて、そこに存在するためだけのモノになっていた。夏はそんな私に優しく声を掛けていた。
私の息が止まった時、夏はその病院の屋上から飛び下りた。
私は祖母の家で療養をしていた。もう長くないことは自覚していた。だから、夏を遠ざけた。私の死に、夏が縛られるのは嫌だったのだ。でも、その日、夏は私に会いにやってきた。起き上がることの出来ない私は視線だけを動かして夏を見ていた。夏は寝ている私を見るなり謝った。そして、私の胸を刺した後、自分の胸も貫いた。血が辺りを染めて、重なり合って私たちは死んだ。夏は私を忘れてしまうかもしれないこと、そしてなによりも置いていかれることに耐え切れなかったのだ。
・・・それからも、見せられる未来で私が死ぬたびに、夏も死んだ。
「・・・これは、見せられる未来って言ったわよね?」
見終わった後、私は彼に尋ねた。そこには死の未来しかなかった。確かに生きている限り、死が待っているだから、未来とは死ぬ瞬間のことなのかもしれない。でも、予想通りの私の死に、夏まで巻き込むのは嫌だ。どうして、夏は私の死に引きずられるのだろう。
「ああ、未来は走る路線が決まっていないものだし、だからこそ、まだ存在しない路線も少なからずある。人はその存在しない路線を希望と呼んだりするね」
希望はまだ存在しないから、見せることは出来ないということなのか。
「私が死んでも、夏が生きる未来は?」
それがあるなら、私は喜んで選ぶ。
「現時点で君の未来の中には存在しないよ」
だから、見せることは出来なかった。つまり、そういうことだ。
「じゃあ、二人とも生きる未来は?」
もっと確率の低い希望だ。でも、問わずにはいられなかった。
「それも、まだ存在していないね、とても残念だけれど」
彼が言っていることは本当だろう。これは私自身が感じていることでもあるのだから。私は、死の運命を強く背負っている。今まで生きて来れたのが不思議なくらいだ。夏と出会わなければ、あの六畳間がすべてでその人生を終わらせていたはずだと、私は思っている。
「僕が知っている方法はひとつだけだ。ここではないどこかへ、君を誘うこと。そうすれば、二人とも死なないで済むし、もしかしたらもうひとつの問題も解決するかもしれない」
彼は胡散臭い笑顔をを止めて、真剣な表情で言った。
「ここではないどこか・・・?」
確かに私はそれを望んでいたが、はたしてそれは私が見てみたいと思った未来なのだろうか。
「そこでは、そう、例えば君の性別が入れ替わる。死の運命を変えるにはそれくらいのことをするしかないからね。さあ、どうする?」
彼は私に手を差し伸べた。
私は目を閉じて、思案する。
魅力的な提案だと思う。二人とも生きていて・・・性別の問題も解決するのだ。私はずっと女性になりたかった。男である自分に違和感を覚えていた。
でも、それは自身を否定することだ。そんな自分が夏を好きでも意味がない。
だから、私は一歩・・・後ろに下がった。
「答えは出たようだね。もっとも最初からわかっていた気はするけれどね」
幾分か、彼は寂しそうだった。表情は胡散臭い笑顔に戻っていたが。
「違う世界で幸せになるのは何か違う気がしたから、ここで精一杯足掻いてみるわ」
それは、多分初めから決めていた覚悟。死ぬ覚悟の方ではなく、自分でも気づかなかった未来へ向かう意志、それを持っていることに私は気づけた。それはなんだかおかしなことだったが、彼のような存在がいるのだ。別に普通のことなのだろう。
「まだ見ぬ路線を作り出すことを選んだというわけだね」
彼はなにか眩しいものでも見るようにその目を細めた。
「ええ、希望に縋ってみっともなくても這いずってでも前へ進むわ」
そう言うと、彼は笑った。あの表情ではなく、子供のような純粋な笑みだった。
「なんだか、そんな人間ばかりがここへ来る。ここではないどこかへ行きたいと願う人にしか僕は見えないっていうのにね」
おどけた仕草だけれど、彼は多分悲しんでいた。でも、仕方ない。ここではないどこかというのは、きっと・・・。
「唯!」
大声で私の名を呼んで、夏が私の前に立った。いつの間にここへ来たのだろう?
「おや、騎士の登場か・・・でも、遅かったようだね」
彼の言葉を聞いて、そうだと思った。やっぱり、夏は凄い。騎士はどこへいても、姫のもとに駆けつけられるのだ。
「なんだと!」
必死な夏に私は後ろから抱きついた。
「確かに遅かったかも。だって、もう、話は終わったし」
私は素のままの自分で夏に語りかけた。
「へ?え?一体、どういうことだ?」
状況と、私の態度に夏は困惑したようだ。
「つまり、邪魔者は退散するってことだよ。唯くん、それじゃ、もう二度と会わないことを祈ってるよ」
彼は大仰な仕草で一礼してふわりと浮き上がった。そこで気づいた。私は彼の名を問いかけたのに、私自身は名乗っていなかったことに。もっとも、それも彼の狙いだったのかもしれない。
「じゃあ、私はまた会えることを約束しておくわ」
手を振って、宙に溶けていく彼を見送った。夏は事態が飲み込めなくて、ただ呆然としていた。
それから、私は夏に事情を説明した。歩道橋はまだ魔法が掛かっているようで、周りは静まりかえっていた。もっとも、解けていたとしても時間が時間だ。静かなのは普通のことだったのかもしれない。だけどその時、私たちは世界で二人っきりだったのだ。それはとても贅沢なことだと私は感じていた。
「それにしても・・・私って情熱的だったんだなぁ」
夏はなんだか他人事のように言っているけれど、私が未来を見たときに知った事実、そして、今夏がここにいる理由。少なくとも情熱的であるかどうかは別にして、私はかなり大切にされている。なぜか過去を見たときにはわからなかったのだけど、夏は私の姉に頼まれて、私の深夜の散歩をずっと護衛していたのだ。深夜の散歩は私の趣味・・・ではなくて、答を出すため、というか今思えば先延ばしにしていたのだけど、一月くらい前からしていたことだ。悩みに決着をつけようと空の星を眺めながら。
「夏の側で死を受け入れるか、夏を遠ざけて死ぬかしか最初は思いつかなかった。だけど、死を前にして、自分がずっとなりたかった姿をしてみようと思って、そうしたら・・・」
「足掻く決心がついたんだ?」
夏は私の話を素直に聞いてくれた。そして、未来の話をしたとき、自分だったら確かにそうするかもしれないと肯定した。それは、よく考えれば愛の告白と一緒なんだけど、夏はそれに気づいているのだろうか?
「うん、私は女性にずっとなりたかった。そして、恋人として夏とずっと一緒に居たいんだって、はっきり気づいたから」
夏はなんだか困っているようだった。
「愛の告白は、迷惑だった?」
その可能性はかなり低いと思ったけど、私の願望だったかな?
「あ、いや、それについてはまったく困ってない。私も唯が好きだし、ずっと一緒に居たいと思ってる。ただ・・・唯って女性の姿だと私より美人で・・・なのにどうして自分がドキドキしてるのかと・・・」
ああ、なるほど、そういうことか。私だって夏を見てドキドキしてるのだからお互い様だと思うのだけど。
「夏みたいに自前の胸はないけどね」
そこは少々羨ましい。今はジャケットで目立たないが、夏の胸は結構大きいのだ。
「それに、好きな人を見てドキドキするのは別に変じゃないでしょう?」
夏が男の子だと勘違いしていた時の気持ちを引きずっているのかもしれないと思うこともあるけど、私は女性の姿を自然だと思い、そして夏という女性を愛しているのだ。
「あ~、まあ、そうか、そうだな」
こんな論理に納得する夏。結構単純だ。まあ、そこも好きな部分ではあるのだけれど。
「それにしても、私が女なのに、唯が女性になりたいってのがなぁ・・・」
ああ、やっぱり変だと思うか、まあ、わかりきっていたことだけど。
「夏は私の騎士でしょ?だから、私はお姫様になりたかったの」
綺麗になる努力もしてきたのだ。まあ、でも、スカートを穿いたのは今日が初めてだ。もっとも、想像の中ではドレスなんかも着ていた。
「う~ん、出来れば私も唯のお姫様になりかったんだけど・・・」
・・・それは初耳だ。しかも、考えたこともなかった。ということは、これがもしかしたら、別の路線なのだろうか?
「じゃあ、たまには交代するってことでどうかしら?」
騎士の代わりが務まるとは思えないから、お姫様に守ってもらうしかないかもしれないけれど、それはそれでありだと思う。夏は私の提案に呆れながらも頷いてくれた。
・・・ここではないどこかへ、行きたいと願ったのは本当。
歩道橋で彼と出会い、自分に素直になると決めた私。
ここではないどこかとは、逃げるための場所だけじゃなく、未来へと続く道のことでもあるのだ。
だから、彼はずっと一人ぼっちだ。そして、そうなるようにあの胡散臭い笑顔を振り撒いているのではないか?
私はそう思った。
なんだかんだで恋人同士になった夏と私。いや、言い方があれだけど、まあ、照れているということにしておこう。そして、今日は休日だ。デートのためにおめかしをして、私は居間へと下りていった。煙草を吸っていた姉が、驚いて口から煙草を落とした。火をつける前で良かった。
「あ、あんた・・・唯?」
いつものようにかっこいい姉を驚かせて、私は会心の笑みを浮かべた。
「そうだよ、ね、これ似合うかな?」
くるりと回ってスカートをなびかせる。さて、感想は?
「あ~、少なくとも弟には見えない。てか、何?私はどう反応すれば良いの?」
ううむ、驚くのが先に立ってまともな意見じゃないなぁ。
「今日はこれから夏とデートなのですが、それについては?」
そう言うと、姉は今度はズボンのポケットを探って財布を取り出した。んん?
「はい、デート資金のカンパ」
渡されたのは二千円。つまり、千円札が二枚。ありがたいけど、どういうことだろう?
「あんたと夏がくっつくかどうか母さんと賭けててね。勝ったからお裾分け。頑張って来なよ」
賭け・・・どういう経緯でそんな話になったのか、今度聞き出さないと。
姉に送り出されて、公園で待っていると、ようやく夏がやってきた。いつもながら、男前だ。言うと怒られそうだけど。お姫様志望の騎士様に私は明るく挨拶をする。そういえば、私は夏を彼女といえばいいのか、彼氏といえばいいのか、どちらなのだろう?
「はあ、それにしても唯、綺麗過ぎ。彼氏が彼女より美人ってどうなのよ」
・・・夏は明確に判断しているようだ。そうか、私が彼氏か。では、彼氏らしく彼女と腕を組もう。押し付ける胸は無いけれど・・・て、あれ?
「で、どこに出かけるつもりなの唯?」
歩き出してすぐにそんな問いかけ。まったく、無粋だなぁ。
「夏と一緒ならどこでもいいわよ。まあ、一応デートコースは決めてきたけど」
私は鞄からメモを取り出して夏に渡した。この日のために色々と準備はしているのだ。
「あ、本当?良かった、いざとなると何も思いつかなくてさ」
夏の少し情けない声を聞きながら、実は私も緊張していた。一応の下調べはしてあるけれど、夏が気に入ってくれるかどうかはわからない。あえて二人で行ったことは無い場所ばかりを選んだからだ。付き合いが長いと新鮮味のある場所というのは中々探しにくいということもあるけれど、行ったことの無い場所へ二人で行く。初デートとしては冒険かもしれないが、それが私なりの覚悟だった。
・・・未来はわからない。それでも、希望を持てるように、願いを込めて、私は二人であることの一歩を踏み出した。




