第八章
それから、その日の客は、カットだけのお客さんが三人あっただけなので、久しぶりに早めに店を閉め、午後七時が最終上映になっている洋画を見に行くことにした。
映画館「スバル座」は、商店街の端にあってここから百メートルと離れていない。駅からも近いし、結構便利なところにあると思うが、最近は郊外にある大型ショッピングセンターに併設されているシネマコンプレックスに押されているらしい。スクリーンが一つしかなく、客席も三百しかないこの小さな映画館でも、五年前までは流行の洋画が上演されていたのに、最近では昔の映画ばかり再演されていた。僕はゲイリー・クーパーやジュリアーノ・ジェンマが見られて嬉しかったが、一ヶ月前にここに来たときは客席に二人しか客がおらず、さすがの僕も人ごとながら心配してしまった。
館主の島田さんとは顔見知りで、僕を見かけるたびにいろいろ話しかけてくれる。島田さんは七十代のおじいさんなので、自分の代が終わったらここをたたんで、息子が賃貸マンションでも建てるだろうと言っていた。「淋しい限りですね」と僕が言うと、島田さんは「仕方ないさ」と一言言った。若い僕よりも老齢の島田さんのほうが、サバサバしているのが妙に悲しかった。
今、上映されている映画は珍しく最近のもので、イタリアの新人監督が撮ったドキュメンタリー形式の映画だった。題名は「シチリアの猫」である。イタリアのシチリア島にはかなりの数の猫がいて、決まった飼い主がいるわけでもなく、誰かしらその辺の人間が面倒を見ていて、その猫社会の様子や猫を取り巻く人間たちの様子が描かれていた。
主人公は、片目のトラ猫である。その猫はオスで名前をサンシャインという。毛並みが黄金色だからという理由で人間界のみんながそう呼んでいる。
名前がサンシャインだなんて奇遇である。自然と僕の好奇心が胸の奥からふつふつと湧き上がって来るのが分かった。サンシャインは一風変わっていて、オス猫のくせに妙に面倒見が良く、よく子猫たちとじゃれている。たぶん、腹が空くこともない安穏とした環境にいるせいだろう。一日一回奇特な人間が猫広場に餌を持って現れるのだが、それを目当てに大半の猫たちは日がな一日、日向ぼっこをして待っている。しかし、サンシャインは他の猫たちと違い、半日はいろいろなところを精力的に動き回っていた。距離にすると約三キロほどである。この映画を撮影した監督は、ご丁寧にも一日中サンシャインを追い掛け回し、彼が歩いた距離をちゃんと計測していた。
サンシャインはよく人の家に勝手に侵入しては、あちこちでいろんな人たちから餌を貰っていた。
彼が訪れた家の人たちの中で特に印象深かったのは、ソフィアとソニアという九十歳と八十五歳の高齢の姉妹だった。姉のソフィアは二年前、足を骨折して以来車椅子の生活を余儀なくされ、たまに生活保護員が家を訪れるものの、ソフィアの面倒はほとんどが妹のソニアに任されていた。サンシャインは一日のうち、この老齢の姉妹の家に一番長く滞在する。車椅子のソフィアの膝の上で、一時間は昼寝するというのが彼の日課だった。
ソニアは言った。
「この二人は時々会話しているの。二人があまりにも長い間楽しそうに会話していることがあって、ソフィアに『何を話してたの?』って訊くんだけど、いつも覚えてないのよ。それなのに、たまにソフィアは、その会話の内容を思い出すことがあって、私に話して聞かせてくれるの。静かに本を読んでいたと思ったら、突然顔を上げて私のほうに向き直って言うのよ。『そういえば、サンシャインが、パン屋さんの白猫に子猫が七匹生まれたよって言ってわ』っていう具合にね。本当かどうか、私、調べたことがあったんだけど、それが本当だったのよ! 本当に子猫が七匹生まれていたの! ソフィアは私が車椅子を押してあげないと外出なんか出来ないから、他の誰かから聞いたわけじゃないのよ。だって私達、四六時中一緒にいるんだもの。ソフィアが知っていて、私が知らないなんてあり得ないことなのよ。ね、不思議でしょ?」。
その二ヵ月後、二人の家を訪れると、ソニアは笑顔でドアを開けてくれたが、どこか淋しげな表情を漂わせていた。カメラマンは、ソフィアがいつも座っていた車椅子に彼女がいないことに気付いた。その様子を見ていたソニアは「ソフィアは三週間前に亡くなったのよ」とぽつりと言った。そしてソニアは、ソフィアが亡くなったときのことを話し始めた。
「ソフィアは眠るようにして亡くなったの。だからちっとも苦しまなかったと思うわ。ソフィアが亡くなって、私は三日三晩泣き続けたの。でも、彼女が苦しまなかったってことだけは私の救いね。亡くなったソフィアの顔は、安らかな表情をしていたもの。天国へ召されるってことは、きっと幸せなことなのよ。でも、やっぱり、残されたほうは悲しいものよ。だから、私、情けないくらい泣いていたの。そしたら、サンシャインが慰めてくれてね。彼は、いつもは昼間にうちを訪ねてくれて、夜になると自分の塒に帰っていたのに、このごろはその逆なの。昼間、うちから外に出掛けていって、夜にはここに帰ってきて二人で私のベッドで寝ているの。サンシャインは野良猫なんかじゃなくて、私にとって家族そのものだわ。いつからサンシャインがうちで寝るようになったかって? ソフィアが亡くなる前の晩からよ。そういえば、その晩、サンシャインが自分の塒に帰っていかないのを『ちょっと変ね』って思っていたのを、今、思い出したわ!」
きっと、サンシャインには、これから起こるだろうことが、何もかも分かっていたんだろうな。おそらく、彼は、ソニアにも最後まで寄り添うつもりなのだろう。
優しいサンシャイン、君は素晴らしい猫だよ。
第九章に続く