第三十五章
明け方まで眠れず起きていたが、それでも一、二時間ほど寝たと思ったら、目覚まし時計が鳴り、僕は鉛のような身体をベッドから無理矢理起こした。僕は、店を開けようかそれとも休みにしようか迷っていた。昨日のことはまるで夢を見ているかのようだった。けれども、以前と違いその記憶はしっかり僕の頭に刻まれている。忘れたいけれど、決して忘れてはならない記憶だった。
希は、僕が起きると起きてきて「おはよう」と言ったが、すぐに「さよならも言わなくちゃ」と言った。僕は驚いて希のほうを振り返った。
「どういうこと?」
「私の目的は果たされたから、っていうより、タイムリミットが来たからかな」
「ここから出て行くってこと?」
「うん、そう」
「……そうなんだ」
「あ、でも勘違いしないで。望に身体を返すってだけのことだから」
「……」
「ねえ、聞いてくれる?」
「……」
「ねえ、ってば」
「……うん」
「康平君が偶然、望と知り合って惹かれはじめたとき、私、本当に驚いたの。こんな偶然ってあるんだと思った。でも同時に凄く嬉しかった。嬉しくて嬉しくて涙が出たくらい……。だから、私、いろいろ悪戯しちゃったの」
「あ、……もしかして本のこととか?」
「そう」
「何だ、そうだったのか……」
「でも、実際、二人とも趣味はよく似てるのよ。私はただ、時間を操作しただけ」
「こいつ!」
僕は希のおでこを人差し指でつついた。
「漸く笑ったね。良かった」
「サンシャインも? サンシャインは君の友達なの?」
「ええ、友達よ。だから少し手伝って貰ったの」
「サンシャインは今もイタリアで元気なのかい?」
希は悲しそうに首を振った。
「映画を撮ったのは二年前で、一年後にソニアを見送った後、彼もソニアの後を追うように亡くなったの」
「……そうなんだ。残念だね。でも、彼らしいね。きちんとソニアを見送ってから亡くなるなんて」
「そうね、彼らしい……」
希はキッチンから店に下りていくと、鏡の前の椅子に座り、椅子をくるくると回し始めた。そして、椅子の回転を急に止めると、横で店を開く準備をしている僕に向き直り、僕の顔を見据えて言った。
「ねえ、康平君、昔、私とした約束を覚えてる?」
「え、何を?」
「私をお嫁さんにしてくれるって約束したでしょう?」
「……そうだったね」
「私が望の身体を借りた本当の理由はね、康平君に会いたかったからなの。夢の中だけじゃなく、この目で康平君の顔を見たかったの。ずっとずっと、会いたかった。優しかったあなたにずっと会いたかったの。望のおかげで願いが叶ったわ。望には本当に感謝してるの。彼女は何もかも分かって、私に身体を貸してくれたのよ。生きていれば、私は今の望のようになっていたはず。あなたに私の成長した姿を見せられて良かった。本当は、出来ればここを去りたくないの。でも、そんなことしたら望が二度と出て来られなくなるわ。私は望に幸せになって欲しいの。だって妹なんだもの。お願い、必ず二人で幸せになって……」
「……」
僕は複雑に絡まった自分の感情の糸を解くことが出来ず、ただ黙っているしかなかった。それでも僕は頷いた。希はそんな僕を見て笑顔を見せた。
「君は本当に行ってしまうんだね」
「ええ」
そう希は言った後、「望の私との記憶は消していくから、それだけは気遣ってあげて」と言った。僕はただ頷いた。
「じゃあ、行くね」
「……」
「じゃ、また」
「また?」
「ええ、また」
「……うん」
そう言って希は僕の前から姿を消してしまった。僕は希を、いや望を力一杯抱きしめていた。希が行ってしまうのと同時に戻ってきた望は、何故僕が自分を力一杯抱きしめて泣いているのか分からず、困惑していた。望は「どうしたの? 悲しいことがあったの?」と言い、僕はといえば、ただ、「うん、うん」と頷いているだけだった。
あれから一度も希から電話はかかってこない。サンシャインにもそれきり会えなくなってしまった。けれども島田さんに貰ったサンシャインのフィルムを時々回しては、望と二人で見ていたりして、サンシャインには会おうと思えばいつでも会える。だから、サンシャインが今はこの世にいないということも、僕は実際には理解していない。でも、それでいいと思っている。
希は僕に「さようなら」と言わなかった。「じゃ、また」と言った。いつか僕が歳を取り、あの世とやら、いや「向こうの国」に行ったとき、また希に会えるのだろうか? 父や母や洋平にも……。それまで、僕は望と精一杯生きるだけだ。僕が望と幸せに暮らすことが、彼らの願いに違いないだろうから。
最終章に続く




