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第十六章

 僕は望と居酒屋を出ると、彼女を家まで送ろうと駅前の通りを二人でとぼとぼと歩き出した。望のマンションはここから二十分ほど歩いたところにある。いつもは彼女と笑いながらいろんな話をしてこの通りを歩くのに、今日は二人とも一言も喋らず、ただ黙々と歩いていた。あんな話をした後なのだから、当たり前といえば当たり前である。


 十分程まっすぐ歩き、スクランブル交差点になっている四つ角に建つ雑居ビルの前まで行くと、急に僕たちの行く手を三十人くらいの人だかりが遮った。ざわざわしながら、みんながみんなビルの上を見上げている。中には「やめろー」と大声を張り上げている人もいた。何事かと思って上を見たら、ビルの屋上に男が一人いた。しかもその男は、柵を乗り越え、屋上の端に立っていた、今にもそこから飛び降りそうな体勢で。近くの人に訊ねると、もう一時間以上ずっとこの状態らしい。暗くて男の顔はよく見えなかったが、髪の毛も髭もぼうぼうに生えているのに、服装はしっかりスーツを着てネクタイを締めているという奇妙な恰好だった。僕にはそのスーツとネクタイに見覚えがあった。僕は胸騒ぎを覚え、望に「ここで、待ってて」と言うと、ビルの屋上を目指して非常階段を上り始めた。幸い、ビルは八階建てなので、すぐに屋上に辿り着いた。


 男は、下にいる野次馬に向かって、何やらわけの分からないことをぶつぶつ呟いていた。僕は男の後ろからそっと近付き、男に声をかけた。

「坂口さん?」

 僕が声を掛けると、それまで朦朧としてフラフラしていた身体の動きがピタリと止まった。そして、僕のほうを振り返って、僕の顔をじっと凝視した。

「は、は、葉山君?」

とその男が僕に言った。やはり、あの坂口さんだった。


「坂口さん、こんなところで何をしているんですか?」

「何をって……」

「まさか、今から飛び降りようとしているんじゃないですよね?」

「……」

「坂口さん、僕、坂口さんがお店に来てくれるのをずっと待ってたんですよ」

「……もう、髪を切る必要がなくなったんだよ」

「どういう意味ですか?」

「会社を首になったんだ」

「……」


 僕は言葉を失った。事態はどうしようもないほど深刻なのに、坂口さんはあろうことか口元に笑みを浮かべていた。僕は彼が気が変になってしまっているのではないかと思い、不安に押し潰されそうになった。しかし、なんとしてでも彼を止めなければならない。


「葉山君、君までそんな顔をしないでくれよ」

「……」

「僕はね、君みたいにそんなに深刻じゃないよ」

「……どういう意味ですか?」

「だって、こんな最悪な世界とオサラバ出来ると思うと嬉しくて……」

「ご家族は? 奥さんや息子さんは喜びませんよ!」

「今、息子の話なんかやめてくれよ。あいつはしっかりしてるよ。僕がいなくても生きていける」

「……ぼ、僕は、嬉しくなんかないですよ!」

「……」

「僕が嬉しいわけないでしょう?」

「……どうして?」

「どうしてって、僕にとって、坂口さんが喜ぶ顔が生き甲斐だったんです!」

「そんなの嘘だろ。客の喜ぶ顔が生き甲斐なんて大げさだよ!」

「違う! お客さんの笑顔が僕にとって生き甲斐なんです。そうじゃなきゃ、こんなキツイ仕事、やってられるか!」

「……」

 僕の凄い剣幕に、坂口さんは気圧されていた。


「坂口さん、これきり坂口さんに会えなくなったら、僕は悲しいです! そんなの絶対嫌です! だから、こんなこと、やめてください!」

「……」

 坂口さんと僕はそのまま十分くらい睨み合っていた。


「そこから飛び降りたって無駄ですよ。下には大勢、人がいるんですから」

「……」

 野次馬の中の一人が呼んだレスキュー隊と思われる人たちが、いつの間にか下で待機していて、大きな救護マットも敷かれていた。坂口さんは救護マットが敷かれていない方角へ向かおうしていた。

「そっちも駄目ですよ。そこから飛び降りたって死ねませんよ。下にいる誰かを犠牲にするだけです。他人を犠牲にするなんて、坂口さんに出来るわけないでしょう?」


 坂口さんは、僕の顔をじっと見ていたが、諦めがついたのか、ふうっとため息を吐くと、その場にへなへなと座り込んでしまった。僕は坂口さんに近寄ると、そっと彼の肩を抱いた。地上でその様子を見ていた人々の間で、歓声が沸きあがり拍手が起こった。

「坂口さん、下を見てください。見ず知らずの大勢の人が喜んでくれていますよ」

「……」

「世の中、そんなに捨てたもんじゃないですよ」

「……本当に」


 それから、僕たちは望が待っている階下に降りていき、お辞儀しながら人ごみを掻き分け、レスキューの人たちに詫びた。

 警察で散々絞られたが、警察の人も坂口さんが無事だったことが何よりも嬉しかったらしく、口では「今後、こんなことは絶対やめてくださいよ」と言いながらも、笑顔で僕たちを帰してくれた。

 その後、僕たちは、望のマンションではなく、僕の家に三人で向かった。今晩だけは坂口さんに、僕の家に泊まって貰おうと思っていた。



第十七章に続く

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