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第十章

 次の日の日曜の午後、美容室「サンシャイン」はいつもの様に、客で混雑していた。その混雑に紛れて、ある女性が店に現れた。僕が新しく自分の店を出してから、訪ねて来てくれることを、ずっと密かに待ち望んでいた宮崎さんという女性だった。


 宮崎さんは僕より二つ年下で、大手広告会社の経理部に勤めるOLである。彼女は、物静かな女性で、彼女の髪を切っているとき、何かの話に夢中になって二人で盛り上がっている、なんてことは未だかつて一度もない。彼女が僕の固定客になってくれて、もう三年も経つのに……。だから、宮崎さんの職業以外、私的なことはほとんど何も知らないに等しい。あの無口な坂口さん以上に彼女は無口だった。それなのに僕は、いつの間にか宮崎さんに惹かれている自分に気付き、そんな自分に少し驚いていた。だって、いつも僕が好きになる女優やタレントは、僕とは正反対の雰囲気を持つ、華やかで快活な女性だったからである。だから、僕が宮崎さんのように物静かで落ち着いた雰囲気の女性を好きになるなんて、思いも寄らないことだった。たぶん、彼女と僕に奇妙な一致があるからだろうと思う。奇妙な一致とは、宮崎さんが店に来るたびに持参してきて読んでいる本が、偶然いつも自分も読んでいる最中か読み終えたばかりのものだったり、気になっていて次に読もうとしているものだったりすることだった。


 本屋の平台に乗っている話題作は自然と目に入り、興味をそそられるものだが、僕はそんなに読書家でもないので、ひと月に一冊読めばいいほうだった。もし、その本が面白ければ、同じ作者の本やその本に関連するような資料集のようなものを探し出してきて読んだりするのが僕の本を読むときの癖なのだが、中には古本屋で埃を被っているような随分マニアックな本もあったりして、今この本を読んでいる日本人はそうはいないだろうなと思うのだが、そういうときに限って、宮崎さんはいつも僕が読んでいる本と同じものを手に店にやって来るのである。まるで、彼女には特別な超能力とでもいうか透視能力のようなものがあって、僕の生活を覗いているんじゃないかと思うくらいで、いつも彼女の持っている本にはドキリとさせられてしまう。彼女は、いつも椅子に座った途端、持参の本をぱっと開くと同時にすぐに本を読むことに没頭してしまい、僕のことなんかまるで興味がないみたいだった。しかし、いつも自分と同じ本を読んでいるなんて、きっと僕と宮崎さんは不思議な繋がりがあるというか、気だって合うに違いないと思うのが自然というものじゃないだろうか?


 さっきも言ったように、僕の目を惹く女性はおしゃべりで活発な人が多かったので、最初から宮崎さんに対して特別な感情があったわけじゃない。店には女性向けの雑誌が沢山あるのに、自分の本を持って来て読むなんて、余程読書好きの人なんだなくらいにしか最初は思っていなかった。しかし、それが毎回のこととなると、そのうち宮崎さんの読んでいる本の題名が気になりだして、チラチラ彼女の本の中身を覗き見したりした。さりげなく「何を読んでいるんですか?」と訊けばいいものを、彼女があまりにも一心不乱に本にのめり込んで読んでいるので、訊きづらかったのである。

 宮崎さんの本が、いつも、今自分の読んでいる本と同じなのではと意識し始めたのは、一年前からで、はっきりと自覚したのは、三カ月前だった。最初は偶然かなと思っていたのだが、彼女は昨年は店に四回訪れていて、流石の僕も四回目には「あっ」と小さく叫んでいた。宮崎さんはそんな僕を訝るような様子で見ていたが、彼女に「もしかして、この本に興味がおありになるんですか?」と訊かれたときには「え、ええ……」としか答えられなかった。宮崎さんに惹かれているとはっきりと自覚している今となっては、あのとき、「僕も今、読んでいるんですよ」と答えておけばよかったと後悔するばかりである。


 宮崎さんは今日もいつもどおり無口だったけれど、でも、今日はいつもと少し違っていた。彼女は、僕の店を訪れるなり、五秒ほどまっすぐ僕の瞳を見つめたかと思うと、すぐに目を逸らして恥ずかしそうに小さな声で「開店、おめでとうございます」と言った。

 他の人に言われたとしてもごく普通に受け取るだろうに、僕はその彼女の言葉に仰天した。宮崎さんはどこか超然としていて、他の人と同じようなありきたりな社交辞令なんて一切言わない人だと勝手に決め込んでいたのである。そんな風な具合だったから、僕は彼女の言葉にしばし驚き、「あ、ありがとうございます。来てくださって嬉しいです」と慌てて言葉を返した。その後に続く彼女の言葉を僕は無言で一分ほど待ち続け、彼女も何か言おうと僕の顔を見て口を開こうとするのだが一向に言葉が出ず、彼女は小さなため息を付いた後、仕方なく俯いた。僕は気まずい雰囲気をどうにか取り繕うとして、一生懸命いい話題はないものかと頭を巡らしたが、出てきた言葉は「今日はとてもいい天気ですね」という本当に情けなくつまらないものだった。宮崎さんは「ええ、そうですね」と言ったきり、また黙ってしまった。

 けれども、今日こそは宮崎さんと話をするぞ、と僕は決心をしていた。店を開店したときから、宮崎さんがいつ店を訪れてもいいように、頭の中で彼女と二人で繰り広げられるだろう楽しい会話をシュミレーションしながら、彼女の来店を今か今かとずっと待ち続けていたのである。今日こそが待ちに待ったその日だった。でも、待てよ、今、僕が読んでいる本は何だったっけ? そうだ、ダニエル・キイスだ。ダニエル・キイスといえば、ノンフィクション作品で有名な作家で、多重人格の犯罪者の話など結構深刻で暗い作品が多い人である。彼の本は非常に興味深く面白く読めるのだが、それにしても、犯罪者のことが書かれてあるような本で女性と話が盛り上がるんだろうか、とちょっと暗澹たる気分になった。


 レジカウンターで宮崎さんの持ち物を預かろうとして、彼女が鞄から出す本を息をのんで見守った。僕の、そのいつもと違う異様な様子に宮崎さんも気が付いていて、変な顔をして僕の顔と自分の鞄を交互に見つめた。そして宮崎さんが鞄から出した本は、なんと「アルジャーノンに花束を」だった!

 僕は、背中がぞくっとした。やった、やっぱりダニエル・キイスの本だった! しかもノンフィクションじゃなくてフィクションで、物語の最後に感動的な場面が訪れる不朽の名作「アルジャーノンに花束を」だったのである。なんたる偶然! やっぱり宮崎さんと僕には、何か運命的な繋がりのようなものがあるに違いない。

 そのとき、急に昨日の夜に見た夢のことを思い出した。希が言った「あの子」とは、宮崎さんのことじゃないのだろうか。だって、希は僕の宮崎さんへの思いを知っていて、「きっとうまくいく」と言ったんだと思うのである。ノゾミのその言葉を思い出し、今日こそは、絶対に彼女と本の話で盛り上がろうと決心した。


 またもや一心不乱に本を読んでいる宮崎さんの髪の毛をカットしながら、僕は息を整え、何の本だか分かっているくせに、「何を読まれているんですか?」と彼女に訊いた。宮崎さんは「え?」と驚いて、カットしているのに、わざわざ振り向いて僕の顔をじっと見た。


「い、いえ、宮崎さんは読書家だなぁといつも思ってたものですから……」

「珍しいですね」

「はぁ……」

「葉山さんが話しかけてくださるなんて」

「読書の邪魔をしちゃ悪いかなと思ってたものですから」

「そんなことないですよ」

「そうですか」

「私も人に自分から話しかけるようなタイプではないですけど、話しかけられるのは好きなんです」

「そうなんですか!?」

「そうなんですかって、そんなに驚かれても……」

「……すみません」


 宮崎さんは僕の顔を見てにっこり笑うと、また本を読み始めようとしたが、ふと顔を上げ、「あ、そうでした」と言い、「ダニエル・キイスです」と鏡越しに僕の顔を見て言った。僕は偶然を装い、驚いた顔をして見せ「僕も今、彼の本を読んでいるんですよ」と言った。


「本当ですか? 何を読まれているんですか?」

「24人のビリー・ミリガンです」

「ああ……」

と言ったきり、宮崎さんはため息を吐いて黙り込んでしまった。連続暴行魔「ビリー・ミリガン」はさすがにやめておけば良かった。素直に「アルジャーノン」と言っておけばよかった。僕は慌てて取り繕った。

「でも、昨日までは『アルジャーノンに花束を』を読んでいたんですよ」

「えっ、そうなんですか? ……ああ、分かった! だから、さっき私が本を取り出したとき、驚かれていたんですね」

 宮崎さんはそう言って笑った。

「実はそうなんです」

と僕も笑った。

「すごく、良かったですよ。もう、涙が止まりませんでした」

「そうなんですか? 最初のほうは、なんだか不思議な感じじゃないですか?」

「そうですね。でも、それがねぇ……」

「ええ、それで?」

「やっぱ、やめておきますよ。話したら、読むのが面白くなくなるじゃないですか」

「そうですよね。やめておいてください」

 そう言って宮崎さんは、また笑った。

 宮崎さんの笑顔がこんなに可愛かったなんて今まで気が付かなかった。一年間、僕は一体何をやっていたんだろう? なんでもっと早く、彼女に話しかけなかったのだろう?


 それから、僕はこの間、スバル座で見た映画「シチリアの猫」の話をし、彼女は「いつまでやっているのかしら? 私も見に行きたいな」と言った。

 宮崎さんの髪をカットし、パーマをかけカラーリングをして、最後の仕上げのブローになったとき、僕は意を決して言った。


「今度、一緒に『シチリアの猫』を見に行きませんか?」

「ええっ?」

 宮崎さんは驚いて僕の顔を鏡越しに見つめた。

「でも、葉山さんは二回目でしょう? いいんですか?」

「いいんです。面白かったからもう一度見たいんです」

 僕は、彼女の目を見据えて言った。すると、彼女は少し頬を赤らめた。

「じゃあ、そうしましょう」

 そう宮崎さんは言った。


第十一章に続く

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