マイ・スイート・スイート・アキハバラ
朝から篠つく雨だった。
月曜の一限はどうでもいい中国語の講義が入っている。同じ漢字文化圏だから他の外国語よりはマシだろうという浅はかな考えで選択したのだが、ピンインはともかく四声の段階で早くも心が折れてしまった。ボソボソ喋りがデフォルトの《君はトゥー・シャイ》な俺にはあんな電車の急カーブみたいに大仰な節回しが付いた発音はとても無理だ――うん、ただ単に《君はトゥー・シャイ》って言ってみたかっただけなんだ、済まない。ちなみにあぐりのカラオケの十八番である。カジャグーグー。
眠い目をしばたいてビニール傘越しに鉛色の空を見上げ、はあっと嘆息する。こんなに心が重いのは本当に久しぶりだった。電車の中は出勤途中のサラリーマンの濡れた背広特有のむわっとした嫌な臭いが充満していて、吐き気のメーターが胸元まで上昇した。
朝雨に傘要らずの言葉通り、二限目の都市経済論の始まる頃には雲の切れ間から青空が覗いていた。折り畳み傘にしときゃよかった――生乾きのビニール傘を持て余しながら第三校舎に向かっていると、古閑さんの背中に行き合う。
「おはよう、古閑さん」
「あっ、田村君おはよう」
古閑さんは微笑んだが、その瞳は幾分生彩を欠いているように感じられた。
「あ~、あの後さ無事に帰れた?」
会話のきっかけを作る意味でぎこちなく口にした言葉だったが、言った後で我ながら何とも間の抜けた台詞だと思った。
「……ほ、本当だったら送っていきたかったけどさすがに俺の終電なくなっちゃうし、成城から武蔵小杉までのタクシー代払ったら一文なしになっちゃうし。ははっ」
何言ってんだ俺は。言い繕ったつもりがドツボじゃねえかよ。
「ふふっ、その時はウチに泊まってく?」
古閑さんの口元に悪戯めいた笑みが浮かび、
「えっ」
それに引き寄せられて俺の心臓がビクンと跳ね上がった。
「何てね……冗談よ冗談。そんなことしたらきっと田村君、日本刀持って顔真っ赤にした父に叩き出されるわ」
「嫌だなぁ、あんまり脅かさないでよ」
てゆ~か、ヤクザ屋さんでもあるまいになぜ日本刀?
「私の亡くなったひいおじい様が趣味で居合い抜きをしてたんだけどね、日曜は離れの縁側でよく刀を手入れしたり藁の束を斬ったりしてたの。そういう時は絶対に誰も近寄らせないから離れたところで遠巻きに見てたんだけど、子ども心に《あれで私の首なんてスパンと斬れちゃうんだな》って凄く怖かったの。ひいおじい様が亡くなった後は、物騒だからって金庫の奥にしまっちゃったけどね。何でも、明治時代にウチの先祖が出入りしてた侯爵家だか伯爵家だかから拝領したらしいわ」
古閑さんはいつになく饒舌である。もしかしたら彼女自身、俺と同じようになるべく無難な会話を重ねていきたいと思っているのかも知れないが――俺のような一般庶民には一生縁のないであろうハイソな単語がナチュラルに頻出する辺り、俺と古閑さんの間に横たわる身分差という名の壁の大きさを痛感せざるを得ない。