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Ⅴ――魔法使い予備軍の夜

「――もしもし、俺だよ俺。ちょっと車で事故っちゃってさあ、何とか示談になったんだけど相手の車の修理費に三百万即金で払わないといけないから、今から言う口座にちょっと振り込んでくれないかな。頼むよ、金は必ず後で返すからさ」

《……はぁ》

「何ですか、そのため息は」

《キミの口にするジョークはいつもボクの心胆を氷点下まで寒からしめるけど、今日のは特段だな――という意味を込めてのため息さ。昔、小学校の図書室に置いてあった学習漫画で読んだ、南極点を目指したスコット探検隊の最期を彷彿とさせるよ》

「無駄に詳細な比喩で俺をズタボロにけなしてんじゃね~よ……って、もしかして寝てたか。だったら済まん」

《うん、絶賛睡眠中だった。汚れを知らない天使のような寝顔でね」

「よく言うぜ、目隠しプレイ大好きで恋人に強要する天使がどこにいるよ」

《話はそれだけかい。じゃあ切るよ、グッナイ――》

「――わあっ、切るな切るなっ」

《人にものを頼むのに命令形かい?》

「どうか電話を切らないで下さい、お願いします」

《で、キミの用ってのはおおかた今日の――ああ、もう昨日だっけか、古閑さんとのデートの件でボクに相談したいことがある、ってとこでしょ》

「ああ」

《で、結局のところボクのメールでのアドバイスは役に立ったのかな?》

「……いや、お互い何ごともなく終電で帰りました」

《だろうね、だったらこんな時間にボクに電話なんかしてこないだろうし》

「実は今、何つ~かすっげえモヤモヤしててさ」

《モヤモヤ? ムラムラじゃなくて》

「違げ~よ。お前ね、人がこれからシリアスな話しようとしてる時にシモに走ろうとするのやめてくれる? そういう性的な意味じゃなくてだな……とにかく、古閑さんとデートした中で色々思うところがあって、それが俺の中でぐちゃぐちゃにこんがらがってさ、全然心の整理が出来てない状態なんだ。だから、お前に話を聞いてほしくてさ」

《ふうん、取り敢えず今のキミが相当テンパってるのは判ったよ。明日の夜遅くでよければ時間作ってあげる。十時に浜松町で仕事終わるから、それからなら》

「済まん、恩に着る」




 翌日の夜、俺はポータブルラジオを聴きながら浜松町駅で電車を降りた。

 アルコール臭を撒き散らしながら陸続とホームに向かう、慌ただしい勤め人の流れに逆らって改札を抜け、駅の北口のオフィス街に出ると、あぐりが現在どこかのフロアで仕事をしているであろう、FMラジオ局の本社ビルが見えた。そういえば今、俺が聴いているこの番組もこの建物の中のどこかで生放送中なんだよな――そう考えると妙におかしいようなくすぐったいような気分になる。だからどうした、という話だが。

 ビルの各フロアは――二十四時間休みのない職場だから当然のだが、無機質な真っ白い照明が明々(あかあか)としていて、ビル全体を灰色の闇の中からぼうっと浮き上がらせていた。

 今日は大学では古閑さんとは会わなかった。少し寂しかったが、こちらの心の整理が全然付いていない今の状態ではその方がベターだったに違いない。

 俺は心の中で昨日の夜からずっと、この上なく不快にわだかまっている感情から少しでも逃避しようと、ことさらに意識してイヤホンから流れる電波に耳を澄ませる。

 ラジオでは女性パーソナリティーが自分の乳輪のサイズはシングルCDと同じだと発言、相方の男性パーソナリティーが爆笑していた。自分も思わず噴き出してしまったが、ふと楽しい夢を見ているさなかを起こされた風に我に返り、こんな風にしか現実逃避しか出来ない自分に言い知れぬ虚しさを覚えた。そして、覚えたところでどうしようもないのが更に虚しい。


 こないだの帝国ホテルでの見合いの件――前向きに考えてくれとるかね?


 これで何度目だろう。昨日文化会館でエンカウントした本屋敷とかいう議員先生の言葉が、ズキンという疼きを伴って脳裏で再生される。こないだの、ということは近い過去に古閑さんは《誰か》と既にお見合いをしたということだろう。

 政略結婚、いくら察しの悪い俺でもそのくらいは容易に想像が付く。国会議員が仲人を務めるほどの縁談だから、古閑さんが引き合わされた相手は――自分でこう言うのも気が引けるが、一流大学に在学中ということくらいしかセールスポイントのない俺なんか比較にならないくらい毛並みのいい男性に違いない。

 道路に出来る水たまりの油膜のように、嫌な予感が俺の中に浮かび上がってきた。古閑さんが俺に対して妙に積極的な態度を取っているのは、見合いの件と何か繋がりがあるのではないか……。

「寒っ」

 不意に巻き起こった一陣のビル風が、俺の横っ面を激しくスパンクした。急に肌寒くなってきた。上着を羽織ってくればよかったと思ったが、後悔しても始まらない。身を縮めてビルの一階に入っているローソンに避難し、その旨をあぐりにメールして雑誌棚のエロ本をしばらく観賞していると、いきなり延髄に重い衝撃が走った。

「――うわああああああっ」

 不覚にも漫画のような悲鳴を上げてしまった。近くでかったるそうに床清掃をしていた店員が不審そうな目でこちらを見てくる。

「だ~れだっ?」

 誰だもクソもない、こんなことをする奴はあぐりくらいのものだ。

「あぐりっ、てめっ脅かすんじゃね~よ」

 振り向きざまに抗議すると、映画の『ロリータ』みたいな赤縁のサングラスをかけたあぐりの顔に、軽い狼狽の色が差した。

「シッ、声がデカいよ」

「何だよ派手なグラサンなんかかけて、芸能人にでもなった気か」

 はあっ、と聞こえよがしなため息を吐き出すあぐり。

「……こりゃ重症だね」

 失敬な奴である。

「じゃあ近くのファミレスにでも入ろっか、もちろんキミのおごりでね」

 俺の都合で夜遅くに時間を割いてくれるのだから、それくらいは当然だろう。読みかけのエロ本を棚に戻そうとすると、あぐりの生温かい視線をひしひしと感じた。

「何だよ」

「デリカシーの欠片かけらもないね、キミは」

「ほっとけ、古閑さんならともかくお前相手に紳士ぶっても意味ないだろ」

 あぐりは得心したようにふんと鼻を鳴らした。

「ボクお腹空いちゃったからさっさと行こっ――ほら、その粗末なモノ早くしまって」

 脱いでね~よ。






          ***


 ファミレスに着き、禁煙席に通されてしばらく待たされてからウェイトレスが気の抜けた炭酸のような声でオーダーを取りに来る。

 あぐりの注文を聞いた俺は思わず目を丸くした。何ですか、その運動部の部活帰りの男子中学生と充分タメを張れるような品数は。

「――苦学生の財布をそんなに軽くしたいのか、お前は」

「えっ、苦学生? どこどこ」

 あぐりは棒読みでそう言ってわざとらしく辺りをきょろきょろ見渡すと、おどけるような笑顔でこちらに向き直って、

「だってさ~、今日はギッチギチの過密スケジュールでお昼食べる暇全然なかったからお腹ペコペコなんだもん。もう少しで即身仏になるところだったよ」

「嘘つけこの野郎」

「それにボク、人の奢りと聞くと急に胃袋が拡張するタチなもんで」

「嫌なタチだな、んなもん犬にでも食わせちまえっての」

 テーブルの上のお冷やを一気にあおると、グラスの中の氷がぶつかり合う無機質な音と共にツンとしたカルキ臭が鼻腔の奥に立ち込めた。上京して三年になんなんとするが、未だに東京の水の不味さには辟易する。

「ボクもボクも。まっ、富士山の伏流水で育ったグルメなウチらの口には合わないよね」

「逆を言うと、それぐらいしか取り柄ないんだけどなウチらの故郷いなか……ところで今日は何してたのよ、お前」

 注文が来るまで間を持たすくらいの軽い気持ちで水を向けてみたのだが、あぐりはよく訊いてくれましたと言わんばかりに目を輝かせて、

「午前中は上野のスタジオで雑誌のグラビア撮影してたんだけどね、なかなか思うようなショットが撮れなかったり機材に不具合があったりで時間すっごい押しちゃってさ~。撮影終わってちゃっちゃっとインタビュー済ましたら、テレビのバラエティ番組にゲスト出演するからその収録でお台場まで。新人が初っぱなから遅刻して業界の大先輩たちを待たせる訳いかないじゃん、だからマネージャーと二人で大汗かいて移動しちゃった。いや~、あんな本気で走ったのは高校の体育祭の百メートル走以来だったね。で、何とか遅刻しないで収録終わったら、最後にラジオ番組のゲスト出演でここまで来たって訳」

 と、熱に浮かれたような口ぶりで一気呵成にまくしたてた。その言葉の端々からは、俺のような日々を惰行運転で生きている人間には決して出せない類の、活き活きとした充実感がほとばしっている。

「――結構なことだ」

 俺は何気なくそう呟いたが、口にした直後に自分の言葉が皮肉めいた響きを帯びているのに気付き、内心舌打ちしながら慌ててあぐりの様子を窺ったが、彼女は隣のテーブルに料理を運んでいる可愛いウェイトレスのたわわな胸にねっとりした視線を向けていて、別段意に介した素振りは見せなかった。気にし損かい。

「そういうキミは何してたのさ」

 俺の方に視線を戻し、あぐりが訊いてくる。

「ど~せまた、講義サボって昨日発売のエロゲでも攻略してたんでしょ。」

 無駄にこちら側の知識に通じている風な口を利く、あぐり――俺が仕込んだのだが。

「お前ね、俺をまるでエロゲしか興味ない廃人みたく扱うのやめてくれよな……今日は普通に大学行きましたよ、今期の土曜は絶対単位落とせない講義があるもんでね。それに、俺の予約してる《らずべりい☆sisterず》の発売は来週だし」

「よくも公共の場でそんな恥ずかしいタイトル口にしてドヤ顔出来るもんだねキミは、ある意味敬服に値するよ」

 あぐりが呆れ顔をしたところで、オーダーが来た。

 テーブルの上に料理がずらりと並べられた途端、あぐりはあたかもフードファイターのように猛然たる勢いで、白いプレート皿に盛られたデミグラスソースのかかったオムライスを口の中にかき込んでいく。

「ファンには見せられない惨状だな」

「惨状ゆ~な」

「べっとりデミグラス付いた口でそう言われましても」

「マジ?」

 慌てて口の周りをナプキンで拭うあぐり。

「取れた?」

「取れた、というかそもそも付いてない」

「……信じらんない、キミのくせにボクを騙すなんて」

「何だその、ジャイアンとスネ夫の《のび太のくせに生意気だぞ》的な物言いは」

 短いため息をついた俺は、しばらく目の前のパスタを機械的にぐるぐるとフォークに絡めていたが、ややあって空咳を一つ挟み、

「それで、昨日の話なんだが――」

 暗闇の中を手探りで歩くような慎重さで、口を開いた。

 俺が昨日のデート――そう呼ぶには若干のためらいがあるが、第三者の目から見たら紛れもないデートなんだろう、あれは――の一部始終を話している間、あぐりはサングラス越しに真剣な眼差しをこちらへと向けていた。

 俺が議員先生との一件を口にした途端、あぐりの眉間にわずかな陰りが生じた。それはまるで、俺の口を通して出た議員先生の言葉が産毛のように微細な針と化して、彼女の身体をチクンとひと刺ししたかのようだった。

 俺の話が進むにつれて、あぐりの表情の陰りはあたかも水面に一滴の墨を点じ入れたかのように、顔全体にじわじわと拡散していった。

「……なるほどね」

 あぐりは妙に疲れたような顔で深々と頷いた。何となくだが、その頷きは俺に向けられたものではなく自分に向けてのもののような気がした。

「今のキミの話を聞いて思い当たったことがあるよ」

 抑揚のない、投げやりで虚ろな調子の呟きが俺の耳に届いた。

「ボクの知り合いのの話なんだけど――その娘のお母さんが、地方では比較的おっきなとある病院で看護婦をしてたんだけど、そこで交通事故で入院してきた若い男性患者と知り合ってさ。その看護婦さんの目にはその男性は魅力的に映ったみたく、それをきっかけにやがて二人は恋人として付き合い始めたんだって。でも、その男性の実家は親戚に県会議員やら社長やら偉いご身分の人がゴロゴロいるような、その地方では五本の指に入る名家の次男坊で、親が勝手に決めた婚約者が既にいたんだ。まっ、典型的な政略結婚ってやつだね」

「…………」

 俺は不意につかえを感じた、まるで喉にエポキシパテでも詰め込まれたかのような。目の前のコーヒーと一緒に流し込もうとしたが、嫌らしいつかえだけは喉の中に残った。

「で、何とも間が悪いことにその看護婦のお父さんの勤めてた会社ってのが次男坊の家の関連会社だったんだよね。当然、その看護婦のお父さんにも陰に陽に上からの圧力がかかってくる訳で、両家とも二人の付き合いに猛反対。俗に言う生木を割くようなやり方で二人を無理矢理別れさせようとしたんだけど、それに反発した二人は手に手を取って東京に駆け落ちしたんだ。その時、看護婦のお腹には既に男の子供が宿っていたのさ」

 これが安っぽい恋愛小説なら、二人は新天地でいつまでも幸せに暮らしました、めでたしめでたしで済むんだけどね――と、あぐりは微苦笑を唇の端に浮かべながら続ける。

「二人は東京で新しい生活を始めたんだけど、そうこうしているうちに男の本性が徐々に表れ始めた。男は甘いマスクだけが取り柄で、看護婦の稼ぎに頼って定職にも就かず毎日ブラブラするだけの、何の生活力もないダメ男だったのさ。まっ、看護婦が生涯を賭けて選んだ物件は、残念ながらどんでもない不良物件だったってことだね。十月十日を迎えて看護婦が出産し、子供の世話にかかりきりになっているうちに、男の生来の浮気性がムクムクと頭をもたげてきた。男は別の複数の女性とヒモ的な関係を持つようになって、やがて大喧嘩の末に看護婦の元から去っていったんだ。

 弱りきった看護婦は地元に戻って実家に詫びを入れ、子供を両親に預けて別の病院で働き始め――親子ほど歳の離れたそこの院長先生と関係を持った。もちろん向こうは妻子持ちだよ。気前のいいパトロンを捕まえてのただれた不倫生活に首までどっぷり浸かった看護婦は、ほどなくして実家に全くと言っていいくらい顔を見せなくなった。看護婦の子供こそいい面の皮だよ。物心付いてしばらくは、看護婦の両親――子供にとっては祖父母だね――を実の父母と勘違いしてたんだってっさ。

 子供が小学生に上がった年、祖父母が不慮の交通事故で亡くなって子供は母親に引き取られることになったんだけど、子供の立場にしてみれば、それまで実家に預けっぱなしで放置プレイしてた母親にいきなり愛情を抱けっていってもそりゃ無理な話じゃん。二人はお互いを疎ましく思いながらも――子供を捨てた母親と周囲に思われたくない看護婦は世間体を取り繕うために、子供は今すぐ性急に実家を飛び出しても他に行くあてもないからという打算的な思いを胸に同じ屋根の下で暮らし、高校卒業と同時に子供の方は実家を飛び出して上京、以来母親とは一切連絡を絶って今に至るって訳さ」

「人生色々、だな」

 陳腐な感想を呟いた俺はその時、あぐりの言っている知り合いのが誰なのかようやく思い当たった。

「それでさ、ボクこう思うんだよね――もしもだよ、そのの父親が一時の恋に迷って看護婦と駆け落ちなんかしなくてさ、大人しく家で決められてた婚約者と結婚してりゃ、誰も彼ももう少しマシな人生を送れたかも知れないってね。まっ、結果論だけど」

「一つ、どうしても判らないことがあるんだが」

 俺は言った。

「そのの父親は何で、それまでの安楽な生活をかなぐり捨てて駆け落ちなんかする気になったんだろうな」

「多分、この先ずっと家の敷いたレールの上を行かなくちゃいけない人生にふと疑問を覚えたからじゃないかな。でも、彼は新しい人生を自分の足で歩み続けるだけの強さを持ち合わせてなかったし、平均的なサラリーマンの家庭に生まれ育った看護婦とはそれまで住んでた世界が違い過ぎたってのもあるんじゃない。ほら、障害の多い恋ほど燃えるってよく言うじゃない。でもさ世の中、その障害にずっと立ち向かえるだけの情熱を持ち続けられるカップルばかりじゃないし、途中で挫折しちゃうカップルの方が圧倒的に多い気がするんだよね、ボクは」

「……そうか」

 俺はようやく判りかけてきた。あぐりが何を言いたいのか、そして自分がこれから何をすべきなのか。

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