Ⅲ――文化会館まで何マイル?
【作者註】物語の都合上未成年の飲酒シーンが出てきますが、作者自身は未成年の飲酒行為を推奨ないしは容認するものではないことを申し添えておきます。
都市経済論の講義二回目。
教室で講義が始まるのを待つ俺は、昨夕あぐりと痛飲したのを引きずっていて微妙にグロッキー状態だった。
「……う~、まだ頭痛ぇ」
スポーツバッグから出したペットボトルのお茶をぐいと飲み干し、頭を軽くシェイクしてこめかみの辺りを霞のようにぼんやり覆っているアルコールの名残を払う。本来ならダメ学生の本領を発揮してこの場から速やかに戦術的撤退し、アパートで布団を引っ被ってバイトが始まるまで体力を温存しているところだが、この講義だけは撃ちして止まん、不退転の覚悟で臨まなくてはならない明確な理由があった。
「――おはよう、田村君」
そう、何を隠そう古閑さんである。
今日の装いは白の提灯袖のブラウスに焦茶色の二枚重ねのプリーツスカートという相変わらず清楚なもので、スカートの裾の先からは輝くように白い足首が理想的な曲線を描いていた。パラソルを片手に避暑地の草原にでも佇んでいたら、そのままで印象派の一枚の絵になりそうな雰囲気である。
彼女はごく自然な挙措で、俺の隣の席に腰を下ろす。うっわ、距離近いぞ。
「お、おはよう」
スマートに挨拶したつもりが思いっ切り噛んでしまった。
「はいこれ、先週のノートのコピー」
古閑さんは、パステルブルーの可愛らしいクリップに留めたA4用紙を三枚俺の前に差し出した。
「わざわざありがとう、助かったよ……三十円でいいかな?」
俺はジーンズのポケットから財布を出してコピー代を払おうとしたが、
「そのくらいいいよ、テキスト見せてくれた礼ってことで」
と、嫣然と笑って受け取ろうとはしない。まあ、《歩く身代金》を地でいくような数百万の高級携帯を持っている彼女のことだから、三十円なんて端金はサハラ砂漠の中の一粒の砂程度の重みしかないのだろうが、女性に奢ってもらうのを諒としないだけのプライドはこの俺だって持ち合わせている。あぐりには何回もコーヒー代くらいは奢ってもらってるが、それとこれとは別の話である。
俺は無理に古閑さんの手に十円玉三枚を置いた。指先がふと、少しひんやりした古閑さんの掌に触れる。
「っ……」
古閑さんは喉の奥で微かな声を上げた。そしてしばらく、掌の上の小さい青銅の塊を未知の物質のようにじっと見ていたが、つと俺の方に視線を戻して薄くルージュを引いた口元に微苦笑を浮かべた。
その表情には若干の含羞が交じっているように、俺には思われてならなかった――いや、単なる希望的観測かも知れないが。
昼休みのカフェテラスで、俺はあぐりから昨日聞いたことを古閑さんに話した。
「――うん、そのあぐりさんが会ったのは間違いなく私の父よ」
古閑さんは頷いた。少し投げやりな態度に思えたのは、俺の気のせいだろうか?
「それにしてもそういうお友達がいるなんて凄いのね、田村君」
「いや、あいつが凄いだけであって俺なんてただの一般ピープルだし……それを言ったら古閑さんの方が全然そうじゃないか」
「私だって……」
全面的に肯定するのはさすがに倨傲な感じがして、さりとて無理に否定するのも謙遜が過ぎて嫌らしい感じがするからだろうか――古閑さんは曖昧な態度で、そして周囲から無駄な反感を買わない社交術の一つとしてそんな態度の自然な取り方をとうに心得ている、といった風に語尾を濁した。
実家の話をされるのはあまり好きじゃないようだ、と看取した俺は、
「そのあぐりってのがまた、顔に似合わず破天荒というか無茶苦茶な奴でさ」
と、意図的に話を変えることにした。
「去年の十月だったかな――今は閉館した新宿歌舞伎町のコマ劇場で一緒に舞台観てから近くの鳥料理屋で呑んだんだけどさ、あいつすっかり酔っ払っちゃってコマの前でいきなり歌いながら踊り出してさ。周りに人は大勢集まってくるわ、あいつは調子乗って服脱ごうとするわで大変だった。警察沙汰にならなくてホントよかったよ」
俺は言った――観た舞台が水樹奈々座長公演『水樹奈々 大いに唄う』なのと、あぐりが歌ったのが『DISCOTHEQUE』なのは、当然伏せた上で。
最初は野次馬に交じってニヤニヤしながら見ていたのだが、突如えいっと上着を勢いよく脱ぎ捨てた辺りから、さすがにこれ以上放置プレイはヤバいと感じ、危うく黒のブラジャーのフロントホックに手がかかる寸前に止めに入ると右手であいつの腕をつかみ、左手であいつの荷物を持って脱兎の如くその場から離脱したのである。歌舞伎町のメインストリートを真っ青な顔で全力疾走するデブと、上半身ブラだけで水樹奈々を歌う美女――通行人の目にはさだめし奇矯な光景に映ったことだろう。
「今となっては笑い話なんだけど、あの時はマジで冷や汗ものだったよ」
「ユニークな人なのね、そのあぐりさんって」
古閑さんはクスクスと小鳥のように微笑んだ。
「うん、俺なんか始終振り回されっぱなしさ。あいつは他にもまだまだ面白いというか俺にとっては傍迷惑な話がいっぱいあってさ――」
その後、会話のキャッチボールが存外上手くいっていることに気をよくした俺は、取って置きの《あぐり伝説》をいくつか話した。古閑さんは笑って聞いていた。
チャイムが鳴って昼休みが終わり、二人してカフェテラスを出たところで、
「――そうだ、突然で悪いんだけど今度の金曜日の夜って時間ある?」
古閑さんが言った。
「うん」
俺は即座に頷いた、本当はバイトが入っているが。
「実は文化会館でハンガリーから来日した弦楽カルテットの演奏会があるんだけど、一緒に行く予定だった母が急遽外せない用事が出来て招待券一枚余っちゃったんだ。だから、よかったら代わりに一緒にどうかなと思って」
「い、行かせて頂きまふっ」
……興奮のあまり噛んでしまった。
ひょっとしてこれは、俗に言う《デートのお誘い》というヤツではないだろうか。心臓が急激にブレイクダンスを踊りだし、身体中を巡る血が沸騰するのを俺は自覚していた。バイト先には悪いが、親戚が死んだと言い訳しよう。
「じゃあ、開演が七時だから上野駅の公園口に六時半に待ち合わせでいいかしら。念のため携帯のメアドと番号交換したいんだけど、赤外線通信出来るよね?」
「う、うん」
……落ち着け、落ち着け俺っ。俺はアル中よろしく震える手で携帯を操作して赤外線通信モードにして、古閑さんの高級携帯に近付けた。ああ、ようやく俺の携帯の電話帳に母親とあぐり以外の女性のデータが入る日が来たのか。俺が望外の幸せを心の奥で噛み締めていると、
「ねえ田村君、このメアドの《nanoha》って何の意味?」
と、至って天真爛漫な様子で古閑さんが尋ねてきた。
「……好きなアーティストの名前なんだ、インディーズだけど」
俺は大嘘をついて、額の冷や汗を手で拭いた。
***
《――ほとほと呆れたね。キミ、クラシックなんて全然興味ないだろ》
電話の向こうで、あぐりは露骨にため息をついた。
「黙れ小僧、俺はこれからクラシック好きに生まれ変わるんだよ」
演奏会のプログラムは、ドホナーニとバルトークの室内楽曲だと古閑さんは言っていた。当然どちらも知らないのでググったところ、何でも二人ともハンガリーの生んだ偉大な作曲家らしい。
《ふん。大学の図書館で慌ててクラシックのCD借りてきた程度の付け焼き刃で、果たしてどこまで古閑さんを騙しおおせるもんかね》
……お前はエスパーか。
《いやいや、キミの行動パターン考えればそんなのエスパーじゃなくても一目瞭然ですから》
「そんなに俺は判りやすい男かよ」
《いえす、おふこ~す。今のキミはさかり付きたての中二男子以外の何者でもないね》
「うるさい、俺は失われた青春を今取り返してるところなんだよっ」
俺はつい声を荒らげてしまった。
「そりゃお前はいいさ、顔がいいからレズ相手でもとっかえひっかえ出来るからな。高校生の時だって俺には恋人なんか薬にしたくてもなかったのに、お前ときたら入学して早速同じ学校で一学年上の恋人を作ったんだしな」
確か、その先輩とあぐりは二年生の夏休みに別れたはずだった。
何十号目かの台風が東海地方を直撃した夜、俺は「自棄酒に付き合え」とあぐりの住んでいる団地に呼び出された。あぐりは小さい頃に両親が離婚して母方に引き取られた母子家庭、お母さんは市立病院に看護師として務めていてその日は夜勤だったので、部屋の中は俺とあぐりの二人きりだった。
車軸を流すような豪雨が窓ガラスに激しく叩き付けられるのをBGMに、俺たちは互いに愚痴を言い合いながらしたたかに呑んだ。
《……ボク、酔ってる》
不意に、真顔に戻ったあぐりがぽつんと言った。
《んなこと知っとるわい》
《酔ってるからカミングアウトするね、ボクは同性愛者……レズビアンだよ。付き合ってた一個上の先輩ってのも実は女の子》
ふ~っ、とゴム鞠の空気を抜くように長い長い吐息をつくと右膝を立てて、糸の切れた操り人形のようにガクンとうなだれるあぐり。
《……判ってたよ、俺は》
俺はそれだけ言って、ぐいっとチューハイの缶をあおったのだった。
もしかしたら俺はこの時、蛮勇を奮ってそれまでの《親友》という一線を踏み越えて、何が何でもあぐりを口説くべきだったのかも知れないし、向こうも翌朝、――ああいうシチュエーションでは、嘘でもいいから口説くのが女の子に対する礼儀ってもんだよ。だからキミは駄目なんだなあ――と、冗談交じりに苦笑していた。
――駄目、か。
確かに今まではそうだったかも知れない。でも、俺は自分の殻を打ち破りたい。古閑さんをモノにして人並みの恋愛というヤツをこの手に掴み取りたいのだ。
「とにかく、俺が誰に恋しようが今更お前にとやかく言われる筋合いはないだろ」
俺は無意識のうちに、内心からせり上がってくる焦りというか苛立ちを電話の向こうに叩き付けていた。
《…………》
あぐりの押し黙ったリアクションと掌にじっとりにじんだ汗で、自分が存外興奮していたことに気付いた俺は、後悔の念が胸中に浸透していくのを感じながら、
「……済まん、言い過ぎた」
電話の向こうに詫びる。
《ううん、ボクこそごめん。そうだよね、キミは恋人が必要なんだよね……》
そう応えるあぐりは、どことなく寂しそうな声音だった。
そこはかとなく気まずくなった俺たちは、おざなりな「おやすみ」の言葉を交わすとどちらからともなく通話をオフにした。ごろんと万年床に転がって枕元のCDコンポを付けると、図書館から借りてきたバルトークのピアノ曲が流れる。難解なメロディーとリズムで、相変わらずちっとも面白くなかった。
***
金曜日。
大学の講義は昼過ぎに終わったので秋葉原で暇を潰してから、六時十五分頃に上野駅の公園口に着いた。改札前の道路を挟んですぐ向かい側には、文化会館がその偉容を上野の森を背景にして夜の帳の中に浮かび上がらせている。
到着した旨をメールすると《今御徒町です》と返信があり、更に数分後、
「お待たせ~、田村君」
淡い水色のカクテルドレスに身を包んだ古閑さんが、ひらひらと手を振ってこちらに足早にやって来た。普段より一層大人びて見えるのは化粧のせいだろうか。
「待った?」
「いや、全然」
おおっ、夢にまで見たテンプレ通りの初デートのやり取り。俺は思わず心の中でガッツポーズをしたが――刹那、古閑さんの瞳が当惑を帯びているのに気付いた。
はて、と首をひねってすぐ原因に思い当たる。原因はきっと、くたびれたジーンズに縞のポロシャツという俺のラフな格好だ。ギャグ漫画じゃあるまいし、まさかに初デートでタキシードでもあるまいと思って気合いを入れ過ぎない格好で来たのだが――もしかしてクラシックの演奏会って、会社の面接ばりにスーツにネクタイで来なきゃいけないのか?
「こ、この格好じゃ変かな?」
「ううん、そんなことないと思う」
室内楽曲っていうのは本来、貴族たちがサロンに集まって思い思いにくつろぎながら聴くための気軽な音楽だから、ラフな格好で全然構わないと思うよ――古閑さんは優しくフォローしてくれたのだが、いざ演奏会が行われる小ホール前のロビーに来てみると、平均年齢六十代くらいだろうか、いかにも上流階級でございという装いをした年配の男女ばかりが屯っていて、俺の心は早くもマジでくじける五秒前だった。まさしく、『王子と乞食』ならぬ王女と乞食状態。
「――やあ、愛ちゃん。君も来てたか」
俺の後ろから、ロビー中に響くような張りのあるバリトンの声がした。
見ると、俺の親父の愛用しているドブネズミ色のスーツが軽く一万着は買えそうなくらい上等な仕立ての紺の三つ揃えに臙脂色のネクタイを締めた、還暦前後とおぼしき恰幅のいい男性が、辺りを払うような威圧感と共に近付いてきた。
「本屋敷先生、今晩は」
先生? 男性の胸元を見ると、そこには言わずと知れた議員バッジが光っている。俺のポロシャツがみるみる脇汗を吸っていくのが判った。
「帝国ホテル以来だね、今日はお母様は来ておられないようだが?」
「ええ、急に用事が出来たので」
「そりゃ残念だなあ。国内でドホナーニの、それも弦楽四重奏が生で聴ける数少ない貴重な機会だってのに――ところで、こちらの男性は?」
本屋敷とかいう議員先生は、美しい花園に迷い込んだ汚い野良犬を見るような無遠慮な視線を俺に向けた。
「私と同じ大学の友達で田村君です、母の代わりに私がお誘いしたの」
「ど、どうも」
古閑さんに紹介された俺がぎこちなく頭を下げると、議員先生は俺のような若造に下げる頭などなあるものかよ、といった風に「ん」と傲岸を絵に描いた態度で胸を反らした。
「ふん、この若さでクラシックの――しかもクラシック愛好家でも敬遠することが多い室内楽曲を聴くなんて、なかなかいい趣味しとるじゃないか。こういう文化的な若者がいれば我が国の未来も安泰というものだ、わはははっ」
議員先生は豪快な笑いをヤニ臭い口中から弾けさせたが、その贅肉で落ち窪んだ目だけは全然笑っておらず、そこはかとなく陰険な光を湛えていた。
「ところで、君はクラシックでは何が好きかね?」
議員先生が俺に訊いてきた。
「……はあ、ブラームスの『ハンガリー舞曲第5番』なんかが」
「随分素人臭いのが好きなんだなあ」
あからさまにバカにした口調である。大きなお世話だ、てゆ~か、初対面の人間からどうしてかくも理不尽に蔑まれなきゃならんのだ。
温厚な俺もさすがに気色ばみかけたその時、ロビー中央の柱の周りにいた年配の婦人の一団が議員先生を呼んだ。短い会話のやり取りから察するに後援会の人たちらしい。
「じゃ、ひとまず失敬。家の方々によろしく」
議員先生は微妙に媚びるような口調で古閑さんにそう言って、呼ばれた一団の方に踵を返していった。ロビーのきらめきの中に小さくなっていくその背中に、今度の選挙でこのジジイどうか落選しますように――と、ありったけの念を送っていると、
「……ごめんなさい」
古閑さんが耳元でささやいてきた。
「母の従兄で与党の代議士なの、私も昔っから苦手で」
「ううん、俺は別に気にしてない」
俺は内心とは逆のことを言って、古閑さんの気まずさを払拭してやった。
「やっぱ政治家ってのは、選挙活動でペコペコしてる時以外は威張りくさってるもんだって判ったのは、実に貴重な体験だったかも知れない。今度の総選挙では、俺は謹んで野党に投票させてもらうことにするよ」
俺の皮肉に、古閑さんは困ったような笑みを浮かべていた。
演奏会はアンコールも含めて九時ちょっと過ぎには終演した。受付でもらったパンフレットには二楽曲ともプロでも苦戦するくらいの難度だと書かれていたし、実際ハイレベルな演奏だということは素人耳にも漠然と判ったが、楽しい一時だったかと問われれば首を横に振るしかない。早い話、豚に真珠以外の何物でもなかった。
古閑さんもそんな俺の様子を薄々察したのか、他の観客が口々に饒舌気味な感想を言い合いながら小ホールから吐き出される中、一言も感想を口にしなかった。
「愛ちゃん」
ロビーに出たところで声がかかる。件の議員先生だ。
「そういえば、こないだの帝国ホテルでの見合いの件――考えてくれとるかね」
見合い? 耳慣れない単語に、俺の脳内が軽く混乱しかける。
「先方が愛ちゃんをいたく気に入ってくれてね。このまま二人ゴールインしてくれれば私も仲人として鼻が高いし、お母様への申し訳も立つってもんだ。愛ちゃんはまだ学生だが、取り敢えず籍だけ入れとっくて手もある」
古閑さんは俺の顔色をチラッと窺うと、曖昧な表情で議員先生に向き直って、
「はあ……」
吐息交じりに応えた。
「ま、あんな前途有為な青年と結ばれる機会などそうそうない。愛ちゃん自身の将来のためにも是非とも前向きに検討してほしいものだね」
議員先生は、人に命令するのに慣れた人間特有の押し付けがましい態度でそうまくし立てると、古閑さんには「じゃあ」とにこやかに手を振り、俺には見下すような視線をくれると、後援会の一団と連れ立って人混みに紛れていった。
虚ろな顔で棒立ちになっている古閑さんはすっかり一個の彫像と化していて、横顔は大理石のように白くなっている。俺は彼女にかける言葉を見いだせなかった。さんざめくロビーの中で俺たちの周りだけが特殊な力場に覆われ、流れる時が凍り付いてしまったかのようだった。
つと、ポケットに突っ込んでいた携帯が震える。取り出して液晶表示を確認すると、あぐりからのメールだった。
《デート楽しんでる? これから初体験のキミに忠告。AVでよくあるみたいに顔にかけちゃダメ、ゼッタイ(>_<) 女の子ドン引きするから! じゃあ童貞喪失ガンバレ( ^o^)ノ》
俺は液晶表示にアンビバレントな視線を落とし、携帯を再びしまった。