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Ⅱ――それは舞い散るティッシュのように

 あぐりと渋谷で呑んだ翌週の月曜。

 成績的には地平すれすれの超低空飛行ながらも、どうにかこうにか平穏無事に三年生を迎えることが出来た俺は、選択で取った《都市経済論》初回の講義を受けるべく、感覚的にも物理的にもヘビーな己の身体をおかの上のゾウアザラシよろしく引きずって、講義のある第三校舎に向かっていた。

 眠い、非常に眠い。

 こんなにもうららかな陽気の日に、なぜわざわざ未来の社畜、資本主義の犬を量産するだけのクソ面白くもない講義を受けなくてはならないのか――何とも忌々しい思いが込み上げてくる。まぁ、睡眠不足の原因は先週の金曜に秋葉原で予約特典込みでゲットした新作のエロゲーを夜っぴてプレイしていたからで、完全に自業自得以外の何物でもないのだが。そして、他者のせいに出来ないところが更に忌々しい。

 第三校舎の前に延びた桜並木に差しかかると、ピンクの花弁を散らした木々は八割方が若草色へと移ろっていた。

 ふと、木漏れ日を受けて銀色に光るビール缶が手前の木の根元に転がっているのが視界に入り、新入生諸君にとっては薔薇色のキャンパスライフへの扉を開く前奏曲となったであろう――俺自身は演奏前の音合わせの時点で「お前舞台立たなくていいから」と降板させられたが――様々なサークルが開いた新歓コンパの小憎らしい賑わいを、否が応でも俺に想起させた。

 嘘か真か知らないが、人がお花見をするのは桜の花に人の精神を高揚させる成分が含まれているから、という説があるのをものの本で読んだ記憶がある。が、そのトンデモな説は俺には当てはまらない。俺は桜の開花シーズンになると決まって、暗雲が垂れ込めたように気持ちがどよんと沈むのだ――。




 話は変わるが、俺は女性の横顔がたまらなく好きだ。フェティシズムすら感じているといっても過言ではない。

 顎のラインはいささかも(たる)むことなくすっきりと、鼻梁は高すぎず低すぎず滑らかかつ均一に通り、こめかみの辺りには数本の髪がはらりと切なげに落ち、絶妙な塩梅でうなじが艶めかしく覗いている――これが俺の考えるあらまほしき横顔である。

 中学三年の時、そんな理想的な横顔を有する女の子が隣の席になったことがあった。既に彼氏持ちと聞いていたので告白こそしなかったが、ダルな授業の合間、俺は一服の清涼剤を味わうように彼女のパーフェクトな横顔を堪能した。

 そして、卒業式の日――式次第が終わって教室に戻り、クラスメイトが互いに卒業アルバムの余白に寄せ書きしているのを、まるで透明のサナトリウムに隔離された結核持ちのような気分で見ていると、それまで言葉を交わしたこともなかった隣の彼女が「田村君、寄せ書き書いてもいいかな?」と話しかけてきたのだった。

 最初は信じられないという思い、次いで歓喜の思いで胸の内が満たされていくのを感じながら俺が何度も頷くと、彼女は満面の笑みを(たた)えてアルバムに赤マジックで何やら書き込むと、「恥ずかしいから家帰ってから読んで」と言い残して、教室の入口近くで待っている友達グループの方に駆けて行った。

 俺はこの上なく大事な宝物を抱えているような心境で帰路に就いたが、国道を突っ切って俺の家が面している川べりの土手――その年は記録的な暖冬だったらしく、早咲きの桜が道の両側に咲き誇っていた――まで差しかかったところで、ギリシア神話のパンドラよろしく遂に辛抱堪らなくなってアルバムを開いた。そう、開いてしまった。

 瞬時、アルバムの中から絶望が飛び出してきた。


 ――授業中いつもジロジロ見やがってキモいんだよ、ストーカー野郎!


 アルバムにはそう殴り書きされていた。

 心臓が急速冷凍されたような感じがした。俺は日本語を超越した奇声を発しながらアルバムを思いっきり河原に放り投げると、涙がこぼれ落ちないように全速力で帰宅した。家に着くと式に来て先に戻っていた母親が何やら話しかけてきたが、それを無視して階段を駆け上がって自室に逃げ込むとベッドに身を投げ出し、拳を叩き付けてひたすらに涙と声が枯れるまで泣いた。




 彼女に刻み込まれた呪いは今に至るまで俺の中でひっそりと、だが確固として息づいている。だから、俺は桜の花を見るとどうしようもなく憂鬱な気分になるのだ――。






          ***


 二階の教室に入り、後ろから三列目の隅の席に腰を下ろす。

 去年は概論を受け持っていたので顔は見知っている初老の教授を待ちながら、話し相手もいないので無為にテキストをめくっていると、

「……あのっ」

 遠慮がちな女性の声がした。反射的に顔を上げてしまったが――俺には関係ないよなとすぐに思い返し、唇の端を軽く持ち上げて苦笑しながら視線をテキストに戻すと、

「あ、あのっ」

 また同じ声がした。

 女性の美しい声を形容するのに《玉を転がすような》というクラシカルな表現があるが、今聞こえてきた声はまさしくその形容に相応しい、内なる気品を感じさせる明澄な響きだった。ああ、昨日やったエロゲーのメインヒロインの声にどことなく似ているなあ。きっと、寝不足で疲れきった俺の脳内だけに聞こえる幻聴に違いない。帰ったらさっさと寝よう……。

「田村君、だよね」

 幻聴幻聴……って、あれ? 再度顔を上げると、目の前で萌黄色のチュニックワンピースにライトグレーのカットソーを着た細身の女の子が微笑んでいた。

 胸元まで伸ばした明るい栗色の髪はふんわりした巻き髪で、滑らかな肌は透き通るように白く、必要最小限の化粧で最大の効果を上げていた。一番印象なのは黒真珠のような輝きを放つ円らな瞳で、あぐりの切れ長の目とは対照的だった。

 有り体に言うともろに俺の好みのタイプだった。夢じゃないだろうか。

「隣いいかな」

「う、うん」

 心臓がアップテンポでビートを刻みだすのを感じながら頷くと、その女の子は綺麗な所作で席に就いた。女性特有のバニラみたいに蠱惑(こわく)的な身体の香りが、俺の鼻先を優しく刺激する。

「お久しぶりです。私、古閑愛(こがめぐみ)ですけど……覚えてます?」

 女の子は探るような目をこちらに向けた。

「……いえ、どこかで会いましたっけ?」

 俺が正直に申告すると、古閑さんの口元に微苦笑が浮かんだ。

「ショックだなぁ、高城たかぎ君がセッティングした一年前の合コンで一緒の席だったんだけど」

 高城? 俺の脳味噌はたっぷり十秒ほど時間をかけて、それが俺を一回だけ合コンに誘ったナンパ野郎の名前だという情報を読み出したが、目の前の彼女――古閑さんに関しては少しも思い出せないままだった。

「ごめん、全然記憶にない」

「う~ん、あの時田村君と会話したの二言三言だから無理もないかしら」

「じゃあ――」

 ――何で今更俺なんかに声をかけたんだ? そう言いさして、慌てて向こうに気取られないように語尾を濁した。

 いかんいかんっ、そんな言い方は古閑さんに喧嘩売ってるみたいじゃないか。異性からは路傍の石扱いが当然の俺に、理想が服を着て歩いているような美女が向こうから声をかけてくるなんて盲亀浮木(もうきふぼく)レベルの奇跡、この先地球が何億回回ってもあり得ない。

 俺は乱れがちな呼吸を整えつつ、自分に言い聞かせる。このチャンスをフイにしたらきっと一生後悔し続けるぞ。フラグ立ては慎重に慎重に……。

「――ト、見せてもらえるかな」

「え、えっ、何を?」

 しまった、すっかり自分の世界に入ってしまっていた。

「テキスト。今日バッグに入れるの忘れちゃって」

「あ、あぁテキストね」

 うわ、思いきりキョドッてしまった。変なヤツと思われてないだろうか。

「助かった~、田村君の他に知ってる人全然いなくてさ」

「あ、そうだったんだ」

 ……俺、ひょっとして体よく利用されてるだけですか?

 嫌な考えが頭をよぎった時、いきなり机の上に置かれた古閑さんのバックから今流行りのJ‐POP(何ともスカした嫌な言い方だが便宜上こう呼ぶ)の着メロが流れだし、教室内に安い愛を振りまいた。

「いけない、バイブにするの忘れてた」

《バイブ》という単語に俺の胸はいささかのときめきを覚えたのだが――それはさておき、古閑さんは照れ笑いを浮かべながらバックから銀色に光る携帯を取り出し、ボタンを長押ししてマナーモードにした。

 まるでロレックスの時計のような、やけに高級感を誇示する光沢を放つ携帯で、表面には《ヴェル何とか》とロゴが入っていた。五文字だからボーダフォンではないな……とにかく聞いたことがないメーカーだった。

 古閑さんが携帯をバックに再びしまうと同時に講義室のドアが威勢よく開いて、

「いや~、初回から遅れて申し訳ない。中央線がずっとストップしててね、しまいには線路の上を歩かされたよ」

 波打つ天然パーマの胡麻塩頭を掻き掻き姿を現した教授に、別に来なくてもよかったのに心の裡で応えて、俺はのろのろと正面に向き直ってルーズリーフを開いた。

 講義の間、俺はずっとうわの空だった。教壇の上では教授が振り子よろしくせかせかと左右を往復しながら、高めの声でガルブレイスがどうとかリチャード・フロリダがどうとか熱弁を振るっていたのだが。

 教授に当てられなかったのは幸いという他ない。もしそうなったら、自分がダメ学生であるという事実を衆目に(さら)さざるを得なくなっていたことだろう。

 そして、隣の古閑さんはそれこそ白魚のように繊細な手に握ったシャープペンを動かしてこまめにノートを取り、テキストに真剣な眼差しで向き合い、教授の話を一言も聞き漏らすまいという勢いで聴いている。しまいまでノートが真っさらなままな俺とはえらい差だ。

 そのよく整った横顔に、俺の五感は吸い込まれるように集約されていった。






          ***


 皆目身にならなかった都市経済論が終わった後の昼休み――俺はキャンパス内の鬱蒼たる木立に囲繞いにょうされたカフェテラスで、古閑さんとテーブルを挟んで向かい合っていた。

 信じられないことだが、古閑さんの方から「田村君、カフェテラス行こっか」と積極的に誘ってきたのだ。あまりに都合が良すぎる展開。俺の脳内では高揚感と警戒心が絶妙の割合で撹拌され、軽い混乱状態に陥っていた。もしかしたら、俺を取り巻くこの全宇宙自体が実は壮大なドッキリなのではないか――そんなSFチックな誇大妄想すら浮かんできたが、バカバカしいとすぐに思い返す。

 本来なら古閑さんに頬をギュッとつねってもらいたいし、健全な男子として嗜む程度にはMっ気を有している自分としてはむしろ望むところなのだが、それを申し出るとアブナいヒト認定されるのは明々白々なので、丸いテーブルに隠れた自分の右膝をそっとつねってみる。

 ……うん、やっぱ痛い。

「俺、カフェテラスなんて初めて来たよ」

 俺は落ち着きない子供のように辺りをきょろきょろ見渡した。

 カフェテラスは白を基調とした六角形の建物で、太陽光を多く取り入れられるようフランス窓を多用した設計になっている。俺たちの隣のテーブルには男女織り交ぜた五、六人のグループが陣取り、いかにも良家のボンボン然とした一座の中心人物とおぼしき茶髪の男が、新しく買い換えたボルボの乗り心地について滔々(とうとう)と弁じていたが、どうせ買ったのは親の金だろう。ブルジョアジーは死ねばいい、と切に思った。

 それにしても……尻が絶えず椅子から数ミリ浮いてるような心持ちがして、落ち着かないことこの上ない。それは、昼休みの俺の居場所は専らロウワークラスのむさ苦しい男子学生がわらわらと集結する学食であり、アッパークラスの鼻持ちならない連中が幅を利かすこのオサレ空間など、今の今まで生涯訪れる予定がなかったからである。

 それにしてもここは想像以上にストレスがたまる場所だ。いっそのこと、テーブルの下に爆弾でも仕掛けて帰ってやろうかしらん――ふと、古閑さんの視線に気付く。その清らかな瞳は、俺の中に渦巻いているどす黒い感情まで見透かしているような気がした。

 ギョッとした俺は、深く息をしてどろどろした法界悋気ほうかいりんきを振り払い、

「古閑さんはよく来るの?」

 取り敢えず無難な会話を試みることにした。

「うん、私はお昼は大概ここかな。売店でパンと飲み物買って」

「お昼はパンなの?」

「うん、私ん()朝食はいつもご飯なのよ。お父さんが朝は米じゃないと力が出ないって言うから。でも、私はパン大好きだからお昼はいっつもパンに」

「ふうん」

 ということは、古閑さんは毎朝規則正しく起きて家族みんなで囲んだ朝食をきちんと食べてから大学に来ている――ということになる。昼夜逆転しがちで不健康、バイオリズム乱れまくりな俺とは比べるのもおこがましい。きっと厚生労働省辺りから表彰されてもいい理想的な生活習慣が、彼女には幼少の頃から実装されているのだろう。

「偉いなあ、古閑さんは。俺なんか宵っ張りの朝寝坊だからさ、朝飯なんて抜いてギリギリまで惰眠を貪ってるよ」

 自嘲的な物言いをして俺が笑うと、古閑さんも小首を傾げてくすりと笑う。一つ一つの何気ない動作がいちいち可愛らしい。

「今日も実は寝不足でさ、講義の内容も右から左だった」

「あらら、じゃあ後で私のノートコピーしてあげよっか。あの先生の試験って難しいじゃない」

 はい、去年概論の単位落としました……って、えっ。

 思いがけない申し出に俺の胸は一際大きく脈打ち、古閑さんとの関係が会話をし始めたばかりにもかかわらず、単なる顔見知りから親しい友人へと深化したように思えた。これはもしかして、次なるステージ――二十歳を過ぎた今でも俺的には神秘のヴェールに覆われている、桃色の未体験ゾーンを期待しちゃってもいいのだろうか?

「そんな夜遅くまでいつも何してるの?」

 いきなり冷や水を浴びせられ、俺は「うっ」と言葉につまった。

「……え~と、テレビ観たりパソコンしたりかな」

 俺は国会で答弁する官僚もかくやという曖昧な表現で返答した。まさかに「深夜アニメ観たりエロゲーやってま~す、それとオナニー」なんて、あぐりの奴以外にカミングアウト出来る訳もない。

「古閑さんは家で何してるの?」

「だいたい本読みながらCD聴いてるかな。最近はクラシックの室内楽曲系がマイブームでよく聴いてるの。超メジャーで恥ずかしいんだけどブラームスが好き」

「はあ」

 俺は気の抜けた相づちを打った。アニソン系しか聴かない俺にとっては、ブラームスの室内楽曲とやらを超メジャーと言われても、フェルマーの最終定理の解を聞かされるのと同じくらいピンとこなかった。

「ブラームスって『ハンガリー舞曲』の?」

「よく知ってるね、田村君」

 古閑さんの顔がぱっと明るくなったが、済みません……実はその曲しか知りません。

 そして、なぜ俺が『ハンガリー舞曲』がパッと出てきたかというと――小学校高学年の時の芸術鑑賞教室でクラシックを聴かされた時、うとうとしていた俺はちょうど『ハンガリー舞曲第5番』を演奏中に豚のようないびきをかいてしまい、それから半月ばかり周囲の連中に《ハンガリーブー曲》とからかわれた黒歴史があるからに他ならなかった。

 その後、話題は自然とクラシックの方に流れていった。といっても話し手は専ら古閑さんで、俺はタイミングタイミングに昭和こいる師匠ばりに適当な相づちを入れるだけだったが。

 昼休みが終わり、古閑さんは図書館に用があるからと席を立った。

「じゃまたね、田村君」

 彼女が去り際に皓い歯をこぼして残していった、艶やかな笑顔――それは俺の心の真ん中を見事に射抜いた。俺はすっかり熱に浮かされた体で、口を半開きにして古閑さんの後ろ姿を見送っていた。

 そして、その笑顔は講義が終わってレンタル屋に寄ってから帰宅し、エロゲーのルートを二つほどクリアして感動覚めやらぬうちにシナリオの感想をネット掲示板に書き込み、レンタルした女子校生ものをたっぷり堪能して果ててから眠りに就くまで、俺の脳内でサブリミナルのように間歇かんけつ的に再生され続けていた。

 それは久しく忘れていた――いや、忘れようと努力していた感情の再来だった。






          ***


 週末。暇なんで買い物に付き合え――と、あぐりにまたぞろ渋谷まで呼び出された。

 東急ハンズで落ち合って、あぐりが立派なケース付きのバーテンダーセットやらカクテルグラスやらを買った(当然荷物は俺が持たされた)後に入った喫茶店で、俺が先日の一件を宝くじが当たったようなテンションで話すと、あぐりはしばらく子細ありげな表情をテーブルの上のカプチーノに落としていたが、つと面を上げて、

「――で、キミはいくらで宝石を売りつけられたんだい?」

「テメエ、グーで殴んぞ」

 デート商法じゃねえよ。

「あ、違った。じゃあ怪しい宗教関係の勧誘かな。お願いだから、いきなり古代マヤ文明は人類滅亡を予言していたとか言い出したりしないでよね。ボク、怪力乱神をマジ語りする人とは付き合いたくないんで」

「全体重で圧し潰すぞ、コラ」

「ま、冗談はともかく……キミが美人さんに声をかけられるなんて異常事態、こりゃ裏に何かあるなって勘繰りたくなるのが人情ってもんでしょ」

 ……に、人情かい。俺は下唇を突き出して無言の異議申し立てをしたが、あぐりは苦笑いを浮かべながらかぶりを振って、

「いいかい。冷静に考えてもみなよ、キミのどこに女性を惹き付ける要素があるってんだい」

「それは……自分で言って虚しくならんこともないが、世の中には太った男性がタイプって女性も皆無ではないだろうよ」

「いや~、いくらデブ専でも性格の悪いデブは願い下げだと思うよ」

「……いい加減お前を名誉毀損で訴えてもいいよな、俺」

 が、あぐりの言うことにも一理ある。古閑さんがデブ専だという希望的観測はこの際抜きにしてつらつら考えるに、デブで不細工という自分の身体的欠陥、社交性と協調性はおざなり程度という社会的欠陥を補ってなお余りある自分の美点というのは、我ながら情けないことだが数えるほどしか見当たらないし、その美点自体――アニメや洋画吹替でエンドクレジットが流れる前に大半の声優を当てられる、ハウス・オブ・ザ・デッドをノーコンティニューでクリア出来る、西又葵の描いたキャラクターを目だけ見て判別出来る――と、自分の来し方行く末に内省的な思いを致さざるを得ないものばかり、しかも世の一般的な女子的にはどれもマイナスポイントでしかない。

 実は、古閑さんは実家の教育方針が鬼のように厳しくて自分の本性を露わにすることが出来ない隠れオタクで、俺に同族の臭いを嗅ぎ取って接近してきた――という可能性も考慮してみたものの、その考えはすぐさま放棄した。そんな御都合主義的な展開はライトノベルの中だけの絵空事に過ぎない。

 俺の心が、みるみるうちに不安の叢雲むらくもに覆われていった。

「あんまり脅かすなよ、あぐり。何か本当に騙されてるような気分になってくるじゃないか」

「あははっ、ちょっと薬が効き過ぎたみたいだね」

 あぐりは大口を開けて心から愉快そうに笑った。

「いや~、ボクの方は失恋したてホヤホヤだってのにキミがあんまり浮ついた調子で惚気てくれるから、少し憎たらしくなっちゃってさ」

 そうだった、確かにその辺の心細かな気配りが俺には足りなかったかも知れない。

「……済まん」

 素直に頭を下げる。

「いや、いいんだよ。実際のところそんな気にしてないし」

 あぐりは面映ゆそうな様子で手をブンブンと振って、この話はおしまいにしようとジェスチャーで示した。

「ただ、その古閑さんって女の子が詐欺とか宗教の勧誘とかが目的で近付いてきたんじゃないことだけはボクが保障してあげてもいいよ」

 いやに断定的な口調である。

「その自信はどこから来るんだ?」

「――キミも経済学部生の端くれなら《コガ製薬工業》ぐらいは知ってるよね」

 あぐりはいきなり話の矛先を変えた。何だか、自分だけが持っている情報をちくちくと小出しにして楽しんでいるような態度だった。

「そりゃ一部上場の老舗企業だから当然知ってるが……まさか」

 俺はハッとした。

「そのまさか、彼女はそこの創業者一族の御令嬢だよ」

 苗字が一緒なだけでどうして言い切れる――俺は抗弁しかけたが、あぐりはそれを手で制してニヤリと八重歯を小悪魔的に閃かせて、

「タネを明かすとね――実は一昨日、コガ製薬工業さんが新発売する健康ドリンクのキャンペーンガールにめでたく選ばれまして、マネージャーさんと一緒に日本橋の本社ビルまで打ち合わせに行ってきたんだけどさ、そこに取締役営業本部長の古閑さんってお偉いさんも同席してたんだよ。で、打ち合わせが終わってしばらく雑談タイムになったんだけど、古閑さんってのが話し上手の面白いおじさんでさ、お互いの持ってる携帯の話でかなり盛り上がったんだよ」

「ああ」

 やきもきしながら相づちを打つ。

「でさ、携帯会社最大手のノキアが今年の春に日本で出した《ヴァーチュ》って一台ウン百万の高級携帯があるじゃん。それを最近大学生の娘に買ってあげたって古閑さんが話してたんだよ。それでキミの話を聞いてるうちにピンときた、という訳さ」

「そういうことだったのか」

 ようやく俺は合点がいった。どうやら思った以上に世間は狭いものらしい……てゆ~か、あの携帯そんなに高価なものだったのか。俺のバイト代何年分だよ、おい。

「……ということは、ひょっとすると逆玉も夢じゃないということか」

 俺は生唾を呑み込みながらそう呟いて、額にじくじくと浮き出た脂を掌で拭った。

「捕らぬ狸の皮算用、という言葉のいい見本だね」

 あぐりは完全に呆れ顔だった。

「まっ、夢見るのはキミの勝手だから好きなだけ見たらいいけど……でも、舞い上がってるところに下から足を引っ張るようでごめんだけど、キミの為人ひととなりを誰よりも知ってる友人としてこれだけは忠告させてもらうよ。よしんば神様の気まぐれでキミと古閑さんが運命の赤い糸で結ばれたとしても、きっとキミは古閑さんの背中にくっ付いてる色んな重圧に結局は圧し潰されちゃって、絶対幸せになれない気がする」

 バカな、と一笑しようとした俺の頬が不意にピクンと引き攣った。というのも、彼女の言葉からはトロイの滅亡を予言したカッサンドラを彷彿とさせる重みと不吉さが、妙な現実味を伴って感じられたからだった。

 そして、あぐりがなぜ俺にこんなネガティブなことを言うのか――その理由を量りかねた。いや、本当のところ一つだけ思い当たる理由がなくもなかったのだが、それを口に出すのはたとえ多摩川がポロロッカ状態になったとしても絶対に出来なかった。あぐりとは今のままの関係をずっと保っていきたいのだから。

 俺は黙々とコーヒーを胃に流し込み、あぐりもそうすることで辛うじて気を紛らわしているという風な仕種で、白い小皿の上のレアチーズケーキをフォークで崩している。俺たちのテーブルの上には、肌を燻されるようなヒリヒリした沈黙がわだかまっていた。今まで意識していなかった周囲の喧騒がいやに大きく、やけに耳障りに響いた。

「――そうだっ、これからゲーセン行こうよ。ボク、すっごい取ってほしい綾波のフィギュアがあるんだよね」

 ついに堪えかねたのか、あぐりはわざとらしい明るい口ぶりで提案してきた。

「しょうがねえな、久々にこの黄金の右腕を振るう時が来たか」

 俺もわざとおどけた調子でそう応えてやると、右腕を結んで開いてしながら椅子を引いて立ち上がる。そして、続いて椅子から腰を浮かしかけたあぐりを見返って、

「封建時代じゃあるまいし、今時身分の差なんて大した恋の障害にはならないさ。日本国憲法だって保障してくれてるしな。お前の大好きな映画の『タイタニック』だって要はそういう話だろ、違うか?」

 精いっぱい大見得を切ったつもりだった。が、

「……最後、ディカプリオ死んじゃうけどね」

「…………」

 ボソッと漏らしたあぐりの言葉を、俺は聞こえないふりをした。




 センター街の行きつけのゲームセンターで水着姿の綾波レイのフィギュアを数体取ってやった後、チェーン店の大衆居酒屋でエヴァ劇場版の話を主な肴にぐだぐだと呑み、十時過ぎに店を出て地下道に潜り、半蔵門線の改札前であぐりと別れた。

 すっかり酔っ払っていたあぐりは、カラオケでは十八番の『残酷な天使のテーゼ』を高歌放吟しながら千鳥足で改札をくぐると、だしぬけにくるっと俺の方を振り返って指差し、神話になれっ、と東急フードショーの方まで響き渡るんじゃないかというくらいの大声で叫んで、それこそエヴァみたいな前傾姿勢でホームへの階段を危なっかしく下りていった。相変わらず酔わせると輪をかけて面白い奴だが、毎度のようにこちらまで側杖を食うのは正直勘弁してほしい。擦れ違う人々の奇異の視線が痛かったので、俺は足早に地上に出て銀色の車体に赤い帯を貼り付けた東横線急行に乗った。

 武蔵小杉のアパートに帰宅するとすぐにデスクトップを立ち上げ、Wikipediaの《コガ製薬工業》の項目を開いてみた。


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【コガ製薬工業】

コガ製薬工業株式会社(こがせいやくこうぎょう 英:Koga Pharmeceutical Co.,Ltd)は、東京都中央区日本橋一丁目に本社を置く日本の製薬会社。


会社概要


江戸時代宝暦年間、肥後国八代やつしろ郡から大坂道修どしょう町に出てきた兵助が薬種仲買人の下で奉公した後に独立して薬種商「肥後屋」を開業したのが始まりで、三代目から古閑姓を称する。1915年(大正5年)には「古閑製薬商会」を設立して法人化すると同時に、現在の東京日本橋に本社を移転する。日本国内の医薬品業界における売上高は第3位、世界の医薬品業界における売上高は第25位である。

2008年(平成20年)3月期決算の連結売上高は9000億超、連結従業員数は約12,000人。医療用医薬品の売上が全体の9割を占め、糖尿病治療剤、免疫抑制剤等を主力商品としている――。


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 盛大にため息をつき、思わずデスクの上に突っ伏してしまった。

 ……あぐりの言う通り、確かに古閑さんは平々凡々な貧乏学生の俺にとっては重過ぎる存在なのかも知れない。が、高嶺の花と諦めることなんて俺には出来ない。据え膳食わぬは男の恥、この言葉だけが今の俺にとっての心の支えだった。

 そうさ、俺は神話になってやるんだ。

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