Ⅰ――君の性春は輝いているか
親譲りのフェイスで子供の頃から損ばかりしている。
寸鉄人を刺す――という言葉の通り、分別の付かないガキのネーミングセンスというヤツは単純明快な分、ルール無用の残虐ファイト的な直截さで、人の心の奥底を抉るものがある。
小学校での俺の二つ名は本名の田村をもじった《ブタ村》という、シンプルイズワーストなものだった。もしタイムマシンであの頃に戻れるのなら、クラス内での扱いに心が折れて登校拒否児へとジョブチェンジすることもなく、無遅刻無欠席で六年間登校し続けた当時の己の忍耐力に対して、満腔の敬意と共に表彰状を進呈してやりたいと思っている。
六年生の時の長野の林間学校――燃え盛るキャンプファイヤーを囲んでクラスの皆が楽しげにフォークダンスを踊り、月並みだがかけがえのない幼年時代の思い出を心のアルバムに刻み込んでいる最中、俺だけは「先生、お腹が痛いです」と仮病を使って埃臭い寮へと早々に引っ込むと、外から流れてくるオクラホマ・ミキサーの陽気な調べに胸を潰されながら、頭まですっぽりと布団を被った。切ないことこの上なかったが、クラスの女子に嫌々手を繋がれるよりは精神的にいくらかマシだった。
中学校に入ると――第二次性徴を迎えた俺は人並みに恋に落ち、同じクラスの意中の子を校舎裏に呼び出すと、自分の持てる勇気を総動員して、昨日の晩から百遍くらい脳内リハーサルを繰り返していた告白の言葉を口にしたが、当然「お友達でいましょう」という定番の断り文句を頂戴した。
後日、その娘が放課後の教室で友人に、「あんなのと友達だなんてマジ勘弁、豚のくせに図々しいったらありゃしね~よ」と、侮蔑を露わにした表情で明けすけに話している現場に偶然通りがかってしまい、涙目で帰宅した俺は夜の日課を行う際に、妄想の中でそいつをボロ雑巾のようにズタボロに汚してやった。しかし、日課が終了して賢者タイムに移行した途端、自己嫌悪の念がタイダルウェイブのように押し寄せてきて、悶々としながら一睡もせずに朝を迎えた挙げ句、翌日の体育の跳び箱の授業で転倒して救急車で搬送され、左側頭部に四針も縫う羽目になってしまった。この傷は今も季節の変わり目になるとズキズキうずくので、いささか弱っている。
高校では――もう思い出したくもないので、これ以上は勘弁して欲しい。
当たって砕けろ。俺もかつてはその教えに従って何回も玉砕を繰り返したものだったが、ある時ふと思った。――俺の行動って、旧日本軍の戦術的に何ら意味ない《特攻》とどう違うんだ? と。
それから、バンザイアタック的に三次元に恋をするのは一切止めにした。途端に悟りが開けた。これまでの悲惨な前半生はこうして悟りを開くための前振りに過ぎなかったんじゃないかと思えるくらい、心に余裕が持てるようになった。今じゃ脳内で多くの可愛い嫁たちと、嬉し恥ずかしな新婚生活を毎晩送っている。二次元万歳。二次元最高。二次元に栄光あれ――。
「――呑むかい、これはボクの奢り」
こいつ以外とじゃ絶対に行かないような、キモさを煮しめた風体の俺とは相容れない業界系のきらびやかな人種で賑わう、渋谷・百軒店商店街の中ほどにある、オサレな佇まいのバー。
ユーロスペースで一緒に寺山修司の『書を捨てよ町に出よう』を観た後に入ったその店のカウンター席で、それまで大きな天然石のぶら下がったイヤリングをいじりながら、聞くともなしに俺の話を聞いていた実友あぐりが、俺の大演説もいよいよ佳境に入ろうというところで水を差した。
「ちぇっ」
「ちぇっ、じゃないよ」
あぐりは露骨に嘆息する。
「キミはだいぶアルコール回っててぜ~んぜん気付かなかったぽいけど、さっきまで隣の席にいたカップルが一分ほど前にテーブル席に避難してったよ。女の子の方、めっちゃボクのタイプだったのにさ」
「ざまあ」
「キミは何でそゆこと言うかなぁ……」
今度は呆れ顔をされた。
「いや、カップルは人類共通の敵ですから。ストップバカップル」
「最低野郎だね、キミ」
形のいい唇を軽く歪めて辛辣な台詞を吐くあぐりだったが、言葉とは裏腹に俺を責める様子は毛ほども見せない。莫逆の友の貴重さを改めて実感する。
「まぁ、これでも呑んで少しクールダウンしたまへ」
あぐりが俺の前に少し気取った手つきで差し出したのは、水面にライムの薄切りが揺蕩う、オレンジ系の甘い香りがするカクテルだった。
「何だよ、これ」
「キミのルサンチマンたっぷりの熱っ苦しい演説を嫌々聞いてるうちに不意に思い出したから、ちょいとオーダーしてみたのさ」
瞳の奥を悪戯っぽく光らせたあぐりは、カウンターの向こうで一心にグラスを磨いている、七三分けの髪とちょび髭を綺麗に撫で付けた店のマスターらしき男性に向けて手をひらひら振ると、
「すいませ~ん、このカクテルの名前彼に教えてやって下さい」
マスターはにこりともせず、腹の底から響いてくるような重低音で言葉少なに教えてくれた。
「《カミカゼ》でございます」
……俺に喧嘩売ってんですか、あ~た。
「その眉間の皺は引っ込めてさ、まあいいから早く呑んでみたまへ」
こいつ妙に急かしやがるな、と訝りながらもグラスに口を付け……ぐあっ。胸郭が一気に燃え上がるような感覚。盛大にむせてしまった。
「……何だよこれ」
俺が涙目で尋ねると、あぐりは――このカクテルはね、第二次大戦中にアメリカでウンタラカンタラ――と、こちらが訊いてもいない蘊蓄をひとくさり垂れた上で、
「本来ウォッカベースなんだけどね、マスターにお願いしてスピリタスで作ってもらったさ」
と、世にも恐ろしいことを平然とのたまった。
「あぐり、テメエ……」
俺の腸内を善玉菌ごと殺菌でもする気ですか。
***
俺は高校卒業後、一年浪人した末に某有名私大に合格。東海地方の草深い田舎から上京して三年が経ち、大バビロンもかくやという首都圏での堕落しきった生活に、いい塩梅で身も心も馴染んできたところである。
周りの学生は幼稚舎からのエスカレーター組が大半を占めており、俺みたいな外部からの人間は肩身が狭いことこの上ない。浪人生時代、母親からは「あそこは金持ちが行く大学だから別のところにしたら」と、再三に渡り忠告されてはいた。俺は、それは所謂というヤツで実際はそんなことはないだろう――程度にタカをくくっていたのだが、現に入学してみると母親の言は俺個人に限っては見事に的を射ていたのである。
俺はこの世に生を受けて初めて、母親を心の底から尊敬した。小学生の時「もっとましな顔に産んでくれりゃよかったんだ」とか酷いこと言って、本当にごめんなさい。
こんな俺も去年――二回生の時に一度だけ、一緒にドイツ語を取っている高城という男から合コンなるもののお誘いを受けたことがあった。
裏原だかセクハラだかのファッションに身を固め、講義が始まる前の雑談ではいつも、己が入り浸っているクラブでのナンパ成功談を周囲に吹聴していたそいつとは、普段は別に親しくしている訳でも何でもなかったから、そいつが俺に声を掛けてきたのは単なる人数合わせ――否、男女の惚れた腫れたに関する一切を寄せ付けない、冬場の学校のプールのように淀みきった非モテのオーラを常時全身にまとっているこの俺にせめてもの施しを与えることで、自分は何て慈悲深い人間なんだろう、というささやかな自己満足に浸りたかっただけなのかも知れない。
そして、合コン当日――セッティング場所である菊名駅前の居酒屋で、俺と俺以外の全メンバーの間には果たしてマジノライン以上に強固な絶対障壁が展開されていた。
最新の携帯だのファッション雑誌に載っていた流行りのブランドだの高校時代の甘酸っぱい恋バナだの、テーブル上を行き交うきらびやかな会話の数々を、別次元での出来事のように遠い気持ちで聞きながら、俺は生中のジョッキを黙々と傾け、かつ皆が食べ残した料理を胃の中に収めていた。
腹が膨れたところで「バイトが入ってるから」と適当に言い訳して退散することにしたが、俺が帰り支度をしているのに気を留める奴は誰一人としていなかった。以後、合コンなるものに誘われることは絶えて幾久しい。
――さて、そんな母親以外の異性とは没交渉な俺ではあるが、百パーセントそういう訳でもない。
今しもカウンター席で酒を酌み交しているあぐりとは、水魚の交わりと言っても過言ではないくらいの仲だ。まぁ、《仲》といっても世間一般的な通念である男女のそれとは全く異なる、同性同士で培われる友情と何ら変わりないものだが。
「……長いよな」
これまたあぐりが頼んだ、コンクラーベとかいう珍妙な名前のノンアルコールカクテルで灼けた喉を鎮めながら、俺はポツリと呟く。
「ん、長いって?」
一昔前の少女漫画のように存在感のある睫毛をこちらに向ける、あぐり。
「いや、俺とお前の腐れ縁さ」
中学の時からだから、かれこれ十年になんなんとするだろうか。
「あぁ、そういう意味」
得心がいったあぐりは大きく頷くと、白いプレートに盛られて運ばれてきたシーザーサラダを平らげ始めた。相変わらずの健啖ぶりだ。
「ん~、んまいっ」
「おいおい、身体が売り物なのにそんなにバクバク食って大丈夫かよ。チーズとクルトン乗ってるから結構カロリー高めだろ、それって。もし無駄な脂肪が付いてプロポーションが崩れでもしたら、お前の数少ないファンが身も世もなく嘆き哀しむんじゃないのか」
俺は親切ごかしにそう言いつつフォークを伸ばそうとしたが、そんな俺の思惑をとうに見透かしていたあぐりは、皿をサッと手前に引き寄せた。
「ふふん、クルトンはあげないよ」
「……ちっ」
俺がクルトンのカリカリした食感が大好きなのを承知しているのだ。さすがに腐れ縁は伊達ではない。
「それにボクはいくら食べても全然太らない体質だからいいんだよ~だ。キミこそ少しはダイエットに励んで、世の女性を振り向かせる努力をした方がいいんじゃないかい」
ニヤリと八重歯を覗かせて、あぐりが反撃に転じてきた。
「まっ、デブが痩せても女にモテるわきゃないんだけど」
「……随分と酷い言いようだな、おい」
とはいえ否定出来ないのが悔しい。もし、体重に反比例してモテ度が上昇するという法則があるならば、俺も全身全霊を挙げてダイエットするにやぶさかではないのだが――って、いかんいかんっ。まるで三次元にまだまだ未練があるような言い方じゃないか。
「まっ、本気で痩せるつもりならダイエットの達人であるこのボクが、いつでも相談に乗ってあげるけどさ――それはともかくこないだメールした、漫画雑誌の表面を飾ったボクのグラビア、ちゃんと見てくれたよね?」
ザクッと軽快な音を立てて、白いドレッシングの絡んだレタスにフォークを刺しながら、あぐりが上目遣いで訊いてきた。
彼女は高校卒業後、上京してアパレル業界で働いていたところを中堅どころの芸能プロダクションにスカウトされ、現在は駆け出しのグラビアアイドルをやっているのだ。
「ああ、あのクソつまらん連載しかなくて廃刊フラグ立ってるやつな。去年の夏クールで連載が一本アニメ化したけど、一話目から盛大に作画崩壊しててシナリオはグダグダの近来まれに見る酷い作品だった」
俺は自分でも意識しないうちに乱暴な言い方をしていた。実際は最終回までちゃんと観てそれなりに楽しめもしたのだが、なぜそんな言い方になったのかは自分でもちと量りかねた。
「そんな調子で、ボクはよく判んないけどネットのアンチスレとかいうのにも顔真っ赤にして書き込んでんでしょ。暗いね~、これだからオタクは嫌なんだ」
「言ってろ」
俺はフンと鼻を鳴らして、
「それより、わざわざお前のグラビアを確認するためだけに六百五十円もの大金をドブに捨ててやったんだ。少しは感謝の意を表してもらいたいもんだな」
「恩着せがましい言い方が引っかかるけど、一応サンキュ。そうそうっ、あれサイパンで撮ってきたんだよ。一泊二日で全然ゆっくり出来なかったけど、海の色がそれこそ限りなく透明に近いブルーって感じでさ。砂浜もわあって声を上げちゃうくらい綺麗だったんだ。いや~、《白砂青松》ってのはこういうのを言うんだろうね」
サイパンのビーチに松はないだろ――と、ベタなツッコみを入れる気も起きなかったので、
「ふ~ん」
極めておざなりな相づちを打つにとどめた。どうせサイパンなんざ、俺には一生縁もゆかりもない場所だろうし。
「どう、ヌいた?」
ダイレクトな質問だな、おい。
「もしそうだとしても、俺がイエスと答えられると思うか」
そもそも、俺は顔見知りの人間を何の躊躇いもなくオナペットに出来るほどタフな人間ではない。
「そんなのはお前のファンをやってる奇特な連中にでも訊け――てゆ~か、お前は野郎にいくらモテても嬉しくも何ともないだろうに」
「そりゃ、個人的にはそうなんだけどさ……」
あぐりは煮え切らない口調でごちるようにそう言うと、カウンターに視線を落として何やらじっと考えていたが、やがて吹っ切れたように顔を上げて、
「でも、サイン会とか握手会ではいっつも元気をもらってる、仕事的にはボクのすっごい大事なお客様だよ」
俺に、というよりは自分に向けた言葉のように俺には感じられた。
「お前でもそこら辺は割り切れるもんなんだな」
「まぁね、仕事だもん割り切らなきゃ」
ふと、あぐりの瞳に陰りが生じたが、俺はそれに気付かないふりをして突き出しのバターピーナッツを口に放り込んだ。
あぐりは同性愛者である。
本人からカミングアウトされたのは高校の時だった。今はすっかり克服したみたいだが、出会った頃は超が付くほどの男性恐怖症で、クラスの男子に近付かれるだけで小動物のように脅えていたのを覚えている。そうなった原因については、俺はよく知らないし知ろうとも思わない。カミングアウトされた夜に「昔、よく遊んでくれた近所のお兄さんに――」という話を断片的に聞いただけだ。
そんな筋金入りの男嫌いだった彼女と俺が、一体どういう魔法をかけられてかくも近しい関係になったのか――縁は異なもの味なもの、とはよく言ったもので、その契機はほんの些細な、そして現在に至るまで解かれていない多少の誤解を含んだものだった。
***
あれは中一の時。
テレビの天気予報が入梅を報じて数日経った、ある日の放課後――風紀委員会のミーティングが終わった俺が忘れ物を取りに教室に戻ると、あまりガラのよろしくない数人の男子が、他人の席の机の上に傍若無人に腰掛けて雑談に興じていた。
話の内容は一言で言うと、クラスの女子の品定めだった。誰が可愛くて誰がブスか――机の中をまさぐりながらそれを聞いているうちに、俺は耳朶を強い酸に侵されたような感覚がした。
が、その感覚は口汚い言葉でブスの烙印を押された女子への同情に端を発する義憤などでは決してなかった。それは、もっと卑近な私憤――ただ単に、己自身が陰でさんざん《ブタ村》呼ばわりされてきた苦い記憶がフラッシュバックした代物に過ぎなかった。
俺はわざとガタンと音を立てて自分の机の椅子を元に戻し、芝居じみた乱暴な足取りで教室を後にした。そして入口を出てすぐ、それまで中の様子を窺っていたあぐりと鉢合わせたのだ。
「あ……」
俺は間の抜けた声を上げていた。
同じクラスの彼女とはそれまで一回も言葉を交わしたことはなかった。入学式の後のホームルームで行われた自己紹介で、彼女を初めて知った時の第一印象は《可愛いけど取っ付きにくそうな子だな》というもので、彼女は周囲の男子に対して完全に心を閉ざしているように見受けられた。
実際、入学してしばらく経った日の休み時間――クラスの女子と一緒に談笑しながら昼食を摂っていたあぐりが机から箸を落とし、それを現場に通りかかった俺が拾ってやったことがあったのだが、彼女は俺が差し出した箸をまるでストリートチルドレンが店先の商品をかっぱらうような手付きで、一言も礼を言わずに受け取ったのである。
あまりのことにすっかり毒気を抜かれてしまい、無視された怒りよりも純粋な驚きの感情が沸々と沸き上がってきたのを覚えている。
それ以来、彼女のことが何となく気になる存在になっていたのだが、過日の箸の一件があるだけに、こうして面と向かうと気まずいことおびただしい。が、今日の彼女は俺を路傍の石ころのように無視することもなく、切れ長の双眸を俺の呆けた顔に結んできた。
一体何なんだ? 俺の頭の中を疑問が駆け巡り、胸が万力で締め付けられたように苦しくなる。
「じゃ、じゃあ」
すっかりしどろもどろ状態の俺が逃げるように立ち去ろうとすると、
「待って」
と、強い調子で呼び止められた。
「田村君……だよね、一緒に帰ろっ」
「は?」
まるで異国の響きを聞いた風で、俺の脳が言葉の意味を理解するまで優に五、六秒はかかった。
「田村君、家は?」
問われるままに町名を言う。
「ふ~ん。ボクん家その先の団地だから、ほとんど帰り道一緒だね」
「い、いや実友さん、教室に用があるんじゃ――」
「いいのっ」
彼女はなぜか怒りを露にした顔で吐き捨てると、昇校口の方にくるりと身を翻した。頭の中には雑多な疑問が混線してはいたものの、別段断る理由もないし美人に誘われて正直悪い気はしなかったので、俺は黙って後を付いていった。
黄昏時、夕陽を受けてオレンジに光る校門を出る。
生まれて初めての、女の子と一緒の下校タイム。小学校時代、同級生の女子からの扱いはせいぜい排水溝の下のカマドウマと同レベルがデフォルトだった俺にとっては、この世のどこかに存在する神様なる超自然の存在に全財産を捧げてもいいくらいの嘉すべき瞬間なのだろうが、今までお互いろくすっぽ会話したこともない相手なので気づまりで仕方ない。
何か場の盛り上がる話をしなきゃ、話をしなきゃ――強迫観念めいた考えが頭の中で激しく火花を散らしながらぐるぐる回転しているが、肝心の言葉は舌がもつれて上手く出て来ない。そもそも、女子にどんな話題を振れば盛り上がるのかが皆目判らない。
中学から五百メートルほど離れた県道に差しかかり、二人で押し黙って信号待ちをしている間には、内心後悔ではち切れんばかりになっていた。
ああっ、この場から急いでエスケープしたい。いっそのこと「用事あるから」とでも言ってダッシュで逃げ去ろうか――そこまで思いつめた時、
「ごめん、田村君」
ようやっと息苦しい沈黙が破れた。
「……こないだ箸拾ってくれた時」
彼女は臆病な小動物のように落ち着かない感じで、そう言ってきた。
「あ、ああ」
「悪いなあ悪いなあと思っても、あの時は何も言えなくて。ボク、男の人がすっごい苦手なんだ。近くに寄られるだけで吐き気がして、全身の血がさっと凍り付いちゃうんだ」
血が凍り付く、とは随分と穏やかならざる表現である。
「あ、ああ」
俺は酷く戸惑いを覚えつつ、最前と同じ相づちを壊れたレコーダーみたいに繰り返すしかなかった。
「びっくりだよね、急に声かけちゃってさ」
そりゃまあ。青になった信号を渡りながら頷く。
「でも、嬉しかったんだ」
「嬉しかった?」
俺は思わずオウム返しに訊いていた。そんなことを言われても、俺には全くもって思い当たる節がないのだが……?
「さっき、うちのクラスの女の子の品定めしてた連中に怒ってたでしょ」
「……う、うん」
曖昧に応じる。
「ボクも美化委員会終わって教室戻ろうとしたら、あいつらが話してるのを聞いちゃってさ。あぁ、世の中の男ってやっぱこんな目でしか女の子を見てないんだなと思って腹が立った……てゆ~か、凄く哀しくなっちゃったんだ」
そう語る彼女の口ぶりは、内心から噴き出してくる負の感情をことさらに押し殺したものだった。横目で彼女の様子を窺うと、顔色は紙のように白くなっていて、頬の辺りが強張っていた。視線をやや下の方に移すと、ぎゅっと握り締められた両の手が心なしか震えている。
「でもさ、キミはそんなあいつらにボクみたく腹を立ててくれたじゃん。すごい嬉しくって……だから、思い切って声掛けてみたんだ」
「あ、ああ」
それで急に一緒に帰ろうと誘われたのか――ようやく彼女の言動に合点がいくと同時に、俺は激しく当惑した。
――違うんだよ実枝さん。君は勘違いしてるようだけど、俺は小学校の時の嫌な記憶が蘇ったから不快になっただけで、そういったフェミニズム的な意味で腹を立てた訳じゃ全然ないんだよね――。
本来ならはっきりこう告げるべきだったのかも知れない。が、そうすると彼女との縁が途切れてしまいそうな気がして、結局は言い出せなかった。
エクスキューズめいた言い方だが、先方の勘違いに乗じて彼女をモノにしようと狙っていた訳ではない。そんな振る舞いが平然と出来るほど神経の太い人間ではないし、そもそも俺の好みのタイプは楚々とした、長い黒髪が似合うおしとなかな女性なので、マニッシュな雰囲気の彼女はいくら顔立ちが良かろうと俺のストライクゾーンにはちっとも入ってこない。
気さくに話せる友達を作るせっかくの機会を失いたくなかった――ただ、それだけのことだ。
「俺も実友さんに声掛けてもらって嬉しいよ」
俺は口に出してはこう言うにとどめた。まあ、嘘ではないし。
「今のクラス、小学校で仲のいい奴がいないから」
本当は小学校でも仲のいい奴なんていなかったが。
「ボクも一番仲良かった娘が中学校で別の私立行っちゃってさ、ちょっと寂しかったんだ。でも、これからキミといい友達になれそうな気がする」
よろしく、と彼女は八重歯を見せて破顔一笑する。
「ああ、こちらこそよろしく」
胸の奥がじんわり温まっていくのを感じながら、俺も笑顔で応じた。
これが、俺たち二人の青臭い出会いだった。
よくつるむようになった俺たちは周りからカップル扱いされ、噂を耳にした俺たちは「んな訳ね~だろ」と互いに笑い合った。
高校も示し合わせて同じ公立に進学した。放課後はしばしば学校の最寄駅近くのファーストフード店で閉店時間ギリギリまでくっちゃべり、俺の恋の相談にも親身に付き合ってもらった。頂戴したあまたのアドバイスが活かされたことは皆無だったが。
中学で出会ってから今に至るまで、俺とあぐりはそういう風に時間を共有してきたのだ。
***
無形文化財に指定してやってもいいくらいの芸術的な仕草で、マスターがカクテルをリズミカルにシェイクする様を見やりながら、
「――そういえば最近どうよ、まだ例のスタイリストと付き合ってんのか?」
俺は訊いた。
「ううん、昨日別れた」
あぐりはモスコミュールを一気にあおった。
「彼女バイだって以前電話で言ったじゃん。こないだ怪しいな~って思って携帯のメールこっそりチェックしたら出てきたですよ、例の元彼とのラブラブなやり取りの数々が」
「あちゃ~。切れたとか言いながらやっぱ続いてたんだな、ズルズルと」
「うん。ボクと行った円山町のホテルに翌日も元彼と行ってたのには、さすがに怒りを通り越して呆れちゃったよ。で、プチ修羅場を一時間ほど挟んだ末にバイバイという訳ですよ」
あぐりは苦笑いを浮かべて、まるで身体中の空気を抜くように長いため息をした。
「そりゃ別れるわな……お前の話聞いてていっつも思うけどさ、やっぱ業界系ってシモに関しては相当ルーズなんだな」
「うん、ボクはそういうの嫌いだけど」
軽くかぶりを振って気持ちを切り替えたあぐりは、俺の鼻先にピンと人差指を立てて、
「そういうキミは……って聞くまでもないか」
「ちょ、お前なぁ」
一応聞いてくれ、礼儀上。
「ああ、そうですよ。俺は相も変わらずこの光って唸る右手が十年来の恋人ですよ。毎晩独りで轟き叫んでますよ。あ~、オナニーって楽しいなあっ」
俺は半ばヤケクソ気味に声を張り上げた。
「いや……そんな逆ギレ風味で言われても反応に困るんだけど」
「まあ、考えてもみろ。世の中には避妊を怠った上に男としての責任も取らないクズ野郎が星の数ほどいるけど、オナニーは自分一人でやることだから誰も傷付けないし、前に雑誌か何かで読んだんだが――オナニーをする人はしない人に比べて前立腺ガンに罹る確率がグンと減るらしいぞ。女性に優しくて健康にもいいだなんて、最高じゃないか。オナニー万歳!」
「そんな、唾飛ばして熱弁されても……悪いけど、キミの言葉はいっくら理論武装しようと負け犬の遠吠えにしか聞こえないよ。それに、いつだったか深夜ラジオで伊集院光か誰かが言ってたけどさ、オナニーはどんなに極めても絶対にセックスには進化しないってさ」
「……至言だな、それ」
ヘコんだ俺が肩を落とした時、背後を通り過ぎる二つの靴音がした。
振り返ると、三十分ほど前に俺の隣からテーブル席に避難していった件のカップルがレジで会計を済ませようとしているところだった。
男の方が万札を二枚出して従業員から釣りをもらい、両手をスーツのポケットに突っ込みながら出口に向かうと、女の方は男の左腕を両手でしがみついて自分の胸元にぎゅっと引き寄せ、鼻にかかった甘ったるい声で語尾をやたら上げて「次はどこ行く~?」と言い、男は「じゃあ、坂の上の方行こうぜ」と応えてドアを開け、密着した二人の姿はカランカランとベルの鳴る音と共に闇の中に溶けていった。
「ホテル街方面だな」
俺が呟くと、あぐりはドアの向こうにやたら熱を含んだ視線を向けて、
「……ベッドインの光景を想像すると何だか興奮してきちゃったよ、女の子の方ボクのストライクゾーンに入りまくりなんだよね~」
今にも舌舐めずりせんばかりの勢いである。
「つくづく思うよ、お前ってホント女の皮をかぶったオヤジだよな」
「ふん、二十歳過ぎて童貞の奴に言われたくないね」
「うっせ~、変態百合女」
――とまあ、以上のような心温まる会話を夜中の一時くらいまでダラダラと続けてバーを出た俺たちは、明かりが消えてすっかり静まり返った東急百貨店を横切ってセンター街に入り、始電が動くまでカラオケボックスで時間を潰すと、
「じゃ、まったね~。ボクのグラビアでヌいてぐっすり寝るといいよ」
向こうはタクシーで事務所が借りている南青山の高級マンションまで、
「ふざけろよ。てゆ~か、次はもうちょい肩肘張らず気楽に呑める店チョイスしろよな」
俺は東急東横線で武蔵小杉のボロアパートまで、それぞれ帰宅した。
男やもめに適度にウジの湧いた、陽あたり不良な六畳一間。卓袱台の上、飲み終わったペットボトルがニューヨークの摩天楼よろしく林立する中に、あぐりが表紙を飾っている件の雑誌があった。
魅惑の常夏ボディ――安っぽいにもほどがある惹句が添えられたグラビアの中のあぐりは、白地に黄の水玉模様の水着姿だった。白い砂浜と青い海をバックに中腰でカメラの方に水をかけるようなポーズを取って、さほど豊かでもない胸の谷間を精一杯強調していた。
その吸い込まれるような笑顔にしばらく視線を落としていた俺は、おもむろに雑誌をひっくり返した。裏表紙はこの手の雑誌の常で、持っているだけで幸運を呼び込むという《何とかストーン》の広告だった。生まれてこの方モテなかった僕に石の力で素敵な彼女がっ――という、ヤラセ以外の何物でもない利用者の声が、ふと目に付く。
「んな訳ね~だろ」
声に出してそう毒突き、微妙に湿気った万年床に寝っ転がった。
秘蔵のコレクションの中の一本をDVDプレイヤーに挿入して、三十分ほどかけて堪能した後、使用済みのティッシュを枕元のゴミ箱に放り込み、携帯のアラームを三時に合わせてから眠りに就く。
六時からまた駅前の居酒屋でバイトだ。