第三部 諍う若者たち
多くの人が火災に遭ったという人災に接したとき、まともな宗教団体であれば考えるのは被災者の救済である。しかし、この時代の宗教団体にそのような概念はなかった。救援しなければならない被災者とは自身の寺社の関係者のみであり、それ以外の人は救済の対象ではなかったのだ。
それでも火災直後に行動するのでは自らの評判を落とすと考えたのか日数を後ろ倒しにはしたが、それでも保延四(一一三八)年四月二九日に比叡山延暦寺は神輿とともに京都に押し寄せデモを繰り広げることを取りやめたりはしなかった。要求内容は賀茂社支配下の荘園の下司に対する日吉祭に参加禁止を求めるものであった。下司とは本来ならば下級役人のことであるが、この時代になると荘園に仕える下級役人を意味するようになる。賀茂社の者が日吉社の祭に参加することを禁止するというのは寺社の争いの延長と捉えれば同意はできなくても理解できなくはない。ただし、冷静に考えれば無茶苦茶な要求内容である。差別問題や人権問題という単語はなくても、そういう概念ならばこの時代にも存在する。そして、比叡山延暦寺が求めているのはまさにその差別を認めろという内容である。これを無茶苦茶以外の言葉で形容はできないが、比叡山延暦寺もそれはわかっている。わかっていて突きつけたのである。重要なのはその要求を呑ませることではなく、どんな無茶な要求であろうと朝廷が要求を呑んだという実績を作ることなのだから。
しばらく途絶えていたデモの本家本元というべき集団の大規模なデモに平安京内外の庶民は恐怖を募らせ、その要求内容に不満を抱いた。朝廷もデモに対する取り締まりを考えたようであるが、取り締まりに対する具体的な行動は存在しなかった。内大臣藤原頼長は怒りを隠せなかったが、その怒りを爆発させたところでデモが沈静化することもなく、デモの取り締まりがなされないことの不満を述べても、さらには、取り締まりを担当すべき検非違使の職務怠慢を取り締まろうとしても、空を切るだけで実は伴わなかった。
結果は比叡山延暦寺の要求を全て呑むというものであった。それ以外にデモを沈静化する方法はなかった。これでデモが暴徒となる前に平安京は解放されたが、デモが暴徒となることを防いだわけではなかった。平安京から出たデモ隊は暴徒と化し、賀茂社へと襲いかかり賀茂社の周辺の民家へと襲撃を掛けた。賀茂社周辺の民家にとっては自宅にいきなり暴徒が襲いかかってきて、奪えるものは全て奪われ、壊せるものは全て壊され、家そのものも破壊されたという惨事である。いかに平安京内で暴れさせないためとはいえ、これで朝廷への敬意が増したとしたらそのほうがおかしい。
朝廷の権威失墜は思わぬところで現れた。鳥羽上皇の住まいである二条東洞院殿が火災に遭ったのが保延四(一一三八)年二月二四日のこと。それから日も浅い三月五日には平安京の複数の邸宅を焼く火災が起こったのであるが、それとは比べものにならない火災が一一月二四日に発生した。里内裏となっていた土御門内裏が焼けたのだ。
土御門内裏はただの里内裏ではない。立地条件こそこれまでの数多くの里内裏とほぼ同じ位置ではあるが、内部構造が大違いである。どういうことかというと、一つ一つのサイズは小さいものの建物の配置は大内裏と同じなのである。恒久的な里内裏となることを想定して建造された里内裏であり、この里内裏が焼亡するということは朝廷機能の停止を意味してもいた。崇徳天皇自身は小六条殿に一時的に避難したが、崇徳天皇自身の身の安全は確保できても、小六条殿は政務機能という点で土御門内裏に大きく劣る。六条という土地名からもわかるとおり、左京四条以北であることが前提となっている貴族の邸宅街から南に離れている。貴族たちの出勤にも不便だ。
もっとも、鳥羽上皇はそのあたりのことを全く気にしていなかったようである。
鳥羽天皇は一六年間の在位期間中、正規の里内裏先だけで一二箇所を数えるという記録を持った天皇である。平安京内の遷御であるとはいえこの数値は尋常ではない。おまけに、里内裏から里内裏への遷御の間に方違えとして本来であれば里内裏とすべき場所でない場所を一時的に里内裏としたから、それらを踏まえると、里内裏一箇所あたりの平均滞在期間は一年間を下回るほどだ。それで不都合はなかったのかとは誰もが思うであろうが、鳥羽天皇は不都合を感じなかった。当時は白河法皇院政の絶頂期であったこともあるが、この点を除いても、鳥羽天皇という人は、どこで政務を執るかではなく、どこであろうと自分のいるところが政務を執る場所であると考えていたようなのである。
それで政務が執れるのかと疑問に思うかもしれないが、成功例はある。藤原道長がそれだ。藤原道長という人は頻繁に体調を崩して寝込んでいたが、それで政務を止めることはなかった。自分のもとに情報を集めさせると同時に、手紙を送ることで政務をリモートコントロールしていたのである。鳥羽上皇はこの先例を活用しようとしたのである。藤原道長だからうまくいったことであり、鳥羽上皇も上手くいくとは限らないと気づいてはいなかったようであるが。
年が明けた保延五(一一三九)年は奈良からの不穏な情報によって始まった。興福寺内部が緊張度を増してきており、いつ爆発するかわからないという情報が届いたのだ。興福寺と言えば大和国の事実上の支配者とまでなっている巨大寺院であり、どれだけ巨大であるかと言えば、鎌倉時代のこととなるが、あまりにも興福寺の勢力が大きすぎるために守護を設置できなかったほどである。守護を設置しない代わりに興福寺に守護としての役職を果たさせたほどなのだが、鎌倉幕府に守護を断念させるほどの勢力はこの時代にはもう成立していた。
ただ、興福寺は内部の派閥争いが激しくなる宿命を持った寺院でもあった。興福寺は藤原氏の氏寺であると同時に、皇族や有力貴族が出家したときに身を寄せる寺院でもあった。寺院では、優秀な僧侶が亡くなったときに、その僧侶を偲ぶための塔を建て、その僧侶に親しかった者が塔の近くに住まいを構えることがあるが、興福寺のように皇族や有力貴族がやってくるとなると、僧侶としての優秀さではなく血筋によって塔を建てるかどうかが決まるようになる。さらに、塔の周辺の住まいが寺院内の一つの勢力となって他の勢力と争うようにもなる。この寺院内勢力のことを塔頭と言うが、興福寺は塔頭が乱立し、塔頭同士の対立が目に見えて激しくなっていたのである。その中でも一乗院と大乗院の二つの塔頭が双璧をなしており、どちらのトップが興福寺全体のトップである別当に就くかで興福寺を二分することは珍しくなかったのだ。
この問題に一石を投じたのが鳥羽上皇である。白河法皇の逝去後、鳥羽上皇が興福寺の別当をトップダウンで任命するようになったのだ。大乗院と一乗院の対立を無視し、あるいはわざと踏みにじるように、別当を任命するようになった。しかも任命するのは興福寺とは無縁の者だ。鳥羽上皇の目的が興福寺の勢力縮小を狙ってのものであるから当然と言えば当然だが、鳥羽上皇のこの命令が興福寺に大きな不満を呼び起こしたことは容易に想像できる。しかも、鳥羽“上皇”であり、鳥羽“法皇”ではない。すなわち、僧籍にある身ではない。元々は僧侶でもある白河法皇が、あくまでも一人の僧侶として興福寺の別当を任命する権利を手にしていたのであるが、ここまでなら興福寺も完全に賛成とまでは言えないにせよ納得はしていた。白河法皇は僧侶なのだから、仏教界のことを仏教の僧侶が決めるのは納得できる話だ。ところが、白河法皇を継承した鳥羽上皇は、僧籍のないまま興福寺のトップを任命する権利も継承したのである。皇族ではあるからこれ以上の権威はありえないが、それでも僧籍のない者が寺院のトップを任命するというのは法的に微妙な状態である。しかも、白河法皇は一乗院と大乗院の双方の意見を受け入れた後に、双方のトップに別当を輪番制とする妥協案を見せていたのであるが、鳥羽上皇はそれも無視したのだ。
保延五(一一三九)年、鳥羽上皇は薬師寺と法華寺の別当も兼ねていた隆覚を興福寺のトップに任命した。名目上は薬師寺と法華寺の別当としての実績を買ったということになっているが、誰がどう見ても興福寺の勢力縮小を狙ったトップダウンである。表面張力で保っていた興福寺にとって、この人事発表はコップの水をあふれさせる最後の一滴となった。
隆覚はかつて右大臣にまで上り詰めた源顕房の子であり、境遇次第では政界に身を置いてもおかしくない人であった。しかし、いかに右大臣まで上り詰めた人の子であると言っても、隆覚の母親は明らかになっていない。正室の他に側室を構えるのが通例である時代であるだけでなく、正室の子とそうでない子とで扱いに違いがあることを差別として社会問題にすることすらなかった時代に、母親の素性が不明の子が政界で大手を振って歩くことは困難であった。その女性との間にしか子が産まれなかったというのであればまだ父親の威光を期待できる可能性もあったが、源顕房という人は確認できるだけで男児一七名、女児七名、合計二四名の父である。源顕房の子と噂される人まで含めればいったい何人を数えるであろうかというのがこの時代の評であった。このような時代に、母親の素性が不明である有力貴族の子が行くのは仏教界と相場が決まっていた。隆覚が僧籍に身を置いたことは、この時代の考えで言うと至極当然なのである。そして、右大臣の子が興福寺に身を寄せること自体も珍しい話ではない。
ただ、それが外から落下傘でやってきた別当となると話は別だ。爆発寸前であった不満は、爆発という形をとった。
この情報を受けても朝廷は何もしなかった。興福寺は藤原氏の氏寺なのだから藤原摂関家の圧力でどうにかなるかと思うかもしれないが、この時代の藤原摂関家は藤原忠実と藤原忠通の親子間の対立に、若き内大臣藤原頼長の暴走が加わり、藤原摂関家としての思い切った行動をとることもできなかった。
平安京から指示どころか情報すら届かない日々が過ぎた末の保延五(一一三九)年三月八日、興福寺の僧徒が別当隆覚の住居に押し寄せ火を放った。さらに興福寺の僧徒は京都へのデモ行進を企画するようになった。目的は一つ、鳥羽上皇の別当任命権を弱めることである。最良なのは鳥羽上皇が興福寺の別当任命権を返上することであるが、政治的に重要なカードを相手の都合だけを受け入れる形で手放す者はいない。実際、興福寺のデモ隊の京都侵攻の情報を聞いた鳥羽上皇は興福寺への全面対決姿勢を見せる。保延五(一一三九)年三月二六日、興福寺僧徒の入京を防ぐため、平忠盛らを宇治と淀に派遣したのである。これでどうにか興福寺のデモ集団を防ぐことができたのであるが、軍勢派遣は断じて不満の沈下ではなかった。
保延五(一一三九)年七月二八日、皇后藤原泰子に対し高陽院の院号が与えられることが発表された。藤原泰子は皇后であるが、崇徳天皇の妃ではなく鳥羽上皇の妃である。それも鳥羽上皇が退位する前、すなわち鳥羽天皇であった頃に入内した女性ではなく、退位後に鳥羽上皇のもとに嫁いできた女性である。上皇のもとに嫁いだ女性が皇后に就いただけでも異例であったのだが、その女性が院号を授けられるとなると更に異例が積み重なる。何しろ正暦二(九九一)年に皇太后藤原詮子が女性としてはじめて院号を受けて以降の一四八年間で、院号を受けた女性は藤原泰子を含めても七例を数えるだけ、およそ二〇年に一人いるかいないかという稀有な事例なのだ。
院号は尊称である。それも、この時代における最高の尊称である。藤原泰子が高陽院という院号を受けた一事を以て、当時の人は藤原泰子の立場が推し量ることができたのである。
皇位に就いたことのない者が院号の尊称を受けることが認められるのは簡単なことではない。
天皇が退位したときは例外なく院号が与えられる。この場合、通常は住まいの名称を院号とする。嵯峨の御所に住まいを構えたことから嵯峨上皇のことを嵯峨院と呼ぶようになったことからはじまり、冷泉院、円融院、白河院、鳥羽院などが院号として記録に残っている。後一条院や後冷泉院などのように最初に「後」がつくのは、既に同じ住まいの名称による院号が存在したときの名である。なお、先に一人のみいるという場合は二人目が「後」となるという規定は存在するものの、三人目はどうするのかという規定は定まっていない。日本史上一度も存在しなかったケースであり歴史上誰一人として考慮しなかったということか。
現代の日本国で手に入る歴史書のほとんどは「○○上皇」もしくは「○○法皇」と上皇や法皇の名を記しており本作も現在の歴史書の記載に則っている。また、当時の法で定められた呼び名も上皇や法皇であって院号を用いてはいないが、史書となると上皇や法皇ではなく「院」の文字が用いられていることが多い。名を直接記すのを憚り院号を以て記すのが礼儀であったことの影響である。
院号として次に挙げるべきは、在位中に崩御した天皇への追号である。上皇や法皇が受ける尊称としての院号は、理論上、天皇がその地位を降りたときに与えられる尊称であるため、皇位に就いたまま逝去した場合は該当しないはずであったが、いつしか、皇位にあったまま逝去した天皇への尊称として院号を用いる慣例ができた。
さらに院号の尊称は広まり、皇位に就くことのなかった皇太子にも院号が贈られるようになった。後世になると子が天皇になった親王への尊称として用いられるようになったが、この時代にその例はなく、皇位に就いたことがない男性が院号を受けた例は皇位に就かなかった皇太子への尊称のみである。もっともこれは、三条天皇の第一皇子である敦明親王に対し、藤原道長が皇位断念の見返りに用意した妥協案という側面もある。
そして、最後に挙げるのが女性である。具体的には、皇后、皇太后、太皇太后のいわゆる三后であるが、三后であれば無条件に院号を受けることができるというわけではない。女性で院号を受けた初例は一条天皇の生母で関白藤原兼家の娘である藤原詮子。それからおよそ一五〇年を経過しているが、その間に院号を受けた女性はわずかに六名であり、藤原泰子は前述の通り七例目となる。ちなみに、初例の東三条院という院号は藤原北家が代々住まいとしてきた東三条殿を由来とするので東三条院藤原詮子は通常の院号と同じであるが、二例目である上東門院藤原彰子から女性への院号の特例が始まり、建物名ではなく、内裏の門の名が院号として付されるようになった。たとえば崇徳天皇の実母として院号を与えられた藤原璋子は待賢門院であり、当時の史料に残されているのも、藤原璋子という名ではなく待賢門院という院号である。
これまでは院号を有するという一点で藤原璋子がこの時代において圧倒的存在を持った女性であったのだが、院号を与えられたという点で藤原泰子が藤原璋子に並んだことで圧倒的存在に陰りが見えてきたのである。それまで代父でもある白河法皇の権勢のもとで圧倒的な立場を築いていた藤原璋子と、白河法皇の怒りから三九歳まで入内を許されなかった藤原泰子。
この二人の女性の対比を当時の人は院号によって推し量ることができたのだ。
藤原泰子に院号が与えられたことは藤原璋子を動揺させるに充分であったが、その動揺を加速させたのが、保延五(一一三九)年八月一八日の一つの発表である。この日、鳥羽上皇の皇子である躰仁親王を皇太子とすると発表されたのだ。後に近衛天皇となる躰仁親王はこのときまだ生後三ヶ月である。
躰仁親王は鳥羽上皇の息子であるが、生母は未だ皇后である鳥羽上皇妃の藤原璋子ではなく、また、院号を得た藤原泰子でもなく、この頃鳥羽上皇の寵愛を受けるようになっていた藤原得子である。躰仁親王は崇徳天皇と中宮藤原聖子の養子であり猶子であるとされたが、このときの宣命に記されていたのは「皇太弟」、すなわち、崇徳天皇の次は弟の躰仁親王が皇位に就くという宣言であった。
後述するが藤原璋子の生んだ子は崇徳天皇一人だけではない。皇位継承権だけを見ても、元服はまだしていないが生後三ヶ月の乳児である躰仁親王より年齢が上の雅仁親王がいる。その雅仁親王を差し置いて、生後三ヶ月の躰仁親王を皇太子とするのは藤原璋子の動揺を増すに充分であった。
鳥羽上皇は自身の皇后である藤原璋子の動揺を無視して藤原得子に地位を与えつつあった。保延五(一一三九)年八月二七日、皇太子躰仁親王の生母である藤原得子が女御の宣旨を賜る。皇太子躰仁親王のウィークポイントの一つである生母の地位の低さという問題がこの瞬間に消滅した。
その間も興福寺では混迷が続いていたが、興福寺の混迷を京都の人たちが着目することはなかった。奈良から興福寺の中で混迷が続いているという情報が届いても、京都の中での最大関心事は鳥羽上皇の周辺の三人の女性たちと、その結果としての皇嗣争いである。奈良がいかに京都から近いと言っても、京都からは見えない奈良と、まさに京都の中で繰り広げられている女性たちの権力争いとでは、女性たちの権力争いのほうがより強い着目を集めたのだ。
保延五(一一三九)年一一月九日に興福寺別当隆覚が、興福寺の僧徒と争うために軍兵を派遣するが敗れたという情報が届いた。従来であればそれで充分にニュースだが、この頃になると、奈良からのニュースを受けても京都の人たちはどこか遠い世界での出来事という感覚しか抱かなうくなるようになっていた。何かしらの関心を持ったとしても、どこか遠い世界で起こっている内紛がそろそろ片付くのではないかという感覚しか生じさせなかったのである。
とは言え、朝廷が全くの無策なわけではない。何しろ暴動が起こるかどうかという話である。このまま放置しておくようでは執政者失格である。保延五(一一三九)年一二月二日、検非違使が奈良に派遣され、興福寺別当隆覚の軍兵が逮捕された。鳥羽上皇の送り込んだ別当であっても、興福寺に対する牽制どころか暴動の火種になるようでは鳥羽上皇も対処を考える。興福寺別当隆覚自身が逮捕されたわけではないが、隆覚はこの逮捕劇をきっかけとして別当職を停止されることとなる。
鳥羽上皇という人を政治家として評するのは、一見すると難しい。しかし、現在の政治学には鳥羽上皇のような政治家を評する単純明快な単語がある。ポピュリストがそれだ。ポピュリストというと、右派、反知性主義、反エリート感情というイメージを思い浮かべる人が多いであろうが、実際のポピュリストは右にも左にも中道にもいるし、反知性どころか知性あふれる人も多いし、反エリートどころかこれ以上無いエリートである人も珍しくない。
そもそも、ポピュリストとは何か?
簡単に言うと、「敵を作って攻撃することで政権を掴もうとする政治家」である。敵とするのは何でもいい。反知性主義とか反エリートとか、あるいは右とか左とかの立ち位置はポピュリストであるか否かの判定になど何の関係もない。重要なのは、自分ならどういう政治をするかではなく、敵を攻撃することに徹底することである。敵を攻撃し、敵を殲滅させた後でどうするのかは全く考えない。そもそもそのような考えなどないし、考える必要性すら感じていない。敵を攻撃することに快感を覚えさせ、敵を攻撃することで支持を集めることに執着するのがポピュリストである。
この、敵を見つけるという点で鳥羽上皇はかなりのポピュリストであった。藤原璋子を敵と扱うために藤原泰子に院号を与え、興福寺を敵とするために落下傘候補とも言うべき形で別当を赴任させている。敵に対する攻撃の渦中にあるときは気分が高揚し多くの庶民の支持を集めるが、敵への攻撃が鎮静化すると攻撃があったことなど忘れてしまい、まともな後始末もしなくなる。その代わりに次の攻撃対象となる敵を探し出す。ついでに言うと、敵への攻撃が失敗であったことを認めることはない。
鳥羽上皇にとって興福寺別当問題は大きなダメージとなるはずであるし、普通の政治家であればダメージを受け止めて今後の対処を図るところであるが、ポピュリストにそのような行動パターンは存在しない。ダメージの原因となったことは無視し、新しい敵を見つけて攻撃するというのがポピュリズの常道であり、鳥羽上皇もまた例外ではなかった。鳥羽上皇の作り出した敵は藤原璋子である。正確に言えば以前から攻撃すべき敵として認識させていたところで改めて脚光を浴びせたのである。
考えてみれば藤原璋子以上に攻撃するのに都合の良い存在はいない。自分の力でなく有力者の権勢を利用して自らの権勢を築いた人の周囲を見渡すと、その人の力を利用しようとする人ならば現れても、その人自身の魅力で近寄ってきた人はいない。多くの場合、遠ざかり、そして嫌われるというのが通常だ。ポピュリストは、既に嫌われている人や集団がいればその人や集団を攻撃し、適切な攻撃対象がなければ敵を作り出して攻撃する。既に存在する藤原璋子という人物は、ポピュリスト鳥羽上皇にとって手っ取り早い攻撃対象となる。
さらに言えば、藤原璋子の後ろには、今は亡き白河法皇がいる。白河法皇を直接名指しはしないものの、この時代の人たちにとっての白河法皇の時代というのは郷愁ではなく思い出したくない過去だ。鳥羽上皇の権力基盤は白河法皇の遺産と資産の継承であるが、それと白河法皇の意思の継承とは同じ話ではない。
その例証の一つが保延五(一一三九)年一二月二七日に見られる。この日、後に後白河天皇となる雅仁親王が元服したのだが、通例に反し左大臣源有仁が加冠役を務めたのである。通常、皇族の元服の加冠役は天皇が務める。例外は天皇自身の元服であり、このときだけは太政大臣が加冠役を務める。普通に考えれば崇徳天皇が弟である雅仁親王の加冠役を務めるのはおかしな話ではないのだが、崇徳天皇の立場に立つと、あるいはその後ろの鳥羽上皇の立場に立つと、崇徳天皇が雅仁親王の加冠役を務めるのに問題点があった。
皇嗣争いだ。白河法皇の意思では、崇徳天皇の後の皇位を継承するのは崇徳天皇の男児であり、崇徳天皇に男児がいなければ藤原璋子の生んだ崇徳天皇の弟が皇位継承権第一位となる。しかし、この意思を鳥羽上皇は無視した。雅仁親王よりも幼い、さらに言えば生後間もない乳児である躰仁親王を皇位継承者として指名したのだ。
鳥羽上皇は自らの長子である崇徳天皇に譲位した。これは白河法皇の意思によるものだ。鳥羽上皇にしてみれば自分の後継者選定を自分の意思で決めることができなかったのは事実であるが、そこから先まで自分の意思を発揮できなくなる謂われはない。いや、鳥羽上皇は間違いなく白河法皇に逆らうことを最優先に考えていた。雅仁親王に何かしらの問題があるかではなく、白河法皇の寵愛する藤原璋子の子には皇位を継承させないことのほうが重要だったのだ。
鳥羽天皇の中宮藤原璋子は七人の子を産んだ。男児五人、女児二人である。崇徳天皇は長男であり、雅仁親王は四男である。次男の通仁親王と三男の君仁親王は生来病弱で、通仁親王は大治四(一一二九)年に六歳という若さで夭折、君仁親王は保延五(一一三九)年時点で一五歳になっていたが病床で横になったまま動けない日常を過ごしていた。五男の本仁親王は長承四(一一三五)年に対仏教勢力対策として七歳という若さで鳥羽上皇の命令によって出家させられていたため、崇徳天皇の弟のうち雅仁親王を除く三人の親王は皇嗣争いの対象と見なされておらず、ただ一人、雅仁親王のみが崇徳天皇の後継者として考えられていた。藤原璋子自身も、崇徳天皇の次は雅仁親王だと考えていた。考えていたのにその思いが裏切られた。しかも、皇太子に任命されたのは生後三ヶ月の乳児だ。
これに納得いかなかったのが藤原璋子である。藤原璋子は白河法皇の寵愛を受けて育ち、入内したときも白河法皇を代父として入内した経緯を持っている。何しろ崇徳天皇の実父は鳥羽上皇ではなく白河法皇であるとか、鳥羽上皇は崇徳天皇のことを叔父子と呼んだとかの噂まであるほどなのだから藤原璋子と白河法皇との関係性の深さは計り知ることができる。噂は噂でしかないが、記録から確実に言えることもあって、藤原璋子の産んだ七人の子のうち五男の本仁親王以外の六人は白河法皇が亡くなる前に出産し、本仁親王が懐妊したのも白河法皇の亡くなる前であることは確認できる。
白河法皇が亡くなったと同時に鳥羽上皇は白河法皇の資産と権威を継承したが、白河法皇の意志までは継承しなかった。鳥羽上皇にとって都合の良いことは継承したがそうでないことは継承どころか反旗を翻したのである。そのわかりやすい例が躰仁親王だ。白河法皇を代父とする藤原璋子は彼女自身の能力ではなく白河法皇の威光によって権勢を手にし、威光と権勢は鳥羽上皇ですら黙って従わざるをえないほどであり、その結果が五人の親王と二人の内親王の誕生であった。しかし、白河法皇の逝去によって威光は消滅し、権勢は激減した。それまで抑えつけられていた思いである鳥羽上皇がわかりやすい形で反旗を翻すのは容易に想像できる。その結果が藤原得子だ。藤原得子を寵愛し、藤原得子の生んだ子を自身の後継者とするのは、白河法皇に対するこれ以上ない意趣返しとなる。
意趣返しとなるが、その意趣返しを藤原璋子が黙って見ているわけはない。自分の産んだ雅仁親王よりも年下の幼児が皇位継承権筆頭となることは納得行かなかったのだ。藤原璋子は何度も雅仁親王を皇位継承権筆頭とするよう要請したし、雅仁親王を事実上の皇太子とさせるよう画策もした。とは言え、白河法皇の権勢だけを頼りにしてきた女性に何ができるであろう。崇徳天皇の実母であるから無視されることはないが、その一言で国政を動かすわけではない。本来ならば。
ところが近年、院政のメカニズムを解き明かす新説が登場した。藤原璋子は白河法皇と鳥羽天皇とのパイプ役を果たしていたのではないかとする説である。そもそも、いかに実の祖父とは言え、退位したあとも宮中に姿を見せることは許されないというのが白河法皇の時代の不文律である。これは平城上皇と嵯峨天皇との間の権力バランスの崩れが薬子の変まで生み出してしまったことから生まれた不文律であり、たしかに振り返ってみると、平城上皇より後の上皇や法皇は自身を宮中から一線を画させている。白河法皇は絶大な権力を手にしたが、白河の地に自らの権勢を示す寺院群を建立し、その地で権力を振るいはしたものの、宮中の中心に陣取って権力を振るったわけではない。
現在のように離れた場所であってもリアルタイムで情報を手にできる情報通信技術も無いし、藤原摂関政治のように情報網が張り巡らされた既存システムを利用したわけでもないのにどうやって白河法皇が情報を逐次入手できていたのかを考えると、その役目を藤原璋子が担っていたと考えれば合点がいくのだ。娘が父の元に足を運ぶのは特に珍しいことではないし、父娘間であれば頻繁な手紙のやりとりもごく当たり前のことだ。
時代を経ると院政がメカニズムとして確立するし、朝廷と院庁との間での人の異動の頻繁さも見られるようになるが、白河法皇はゼロから院政を作り上げなければならなかったのである。アイデアは後三条天皇が出していたものであり、また、白河法皇は自身を関白に比する存在として捉えることで既存の藤原摂関政治を応用できたとは言え、統治システムの構築に目を向けるとゼロからの構築である。このようなとき、最初から綿密なシステムを作り上げようとすると、現実離れしていてたいてい失敗する。しかし、既存の環境でできることを考えて少しずつ現実に合わせて作り上げていくというのであれば、システムが現実と大きな乖離を見せることなく出来上がる。その、システム構築の過程において重要な役割を果たしたのが藤原璋子ではないかというのがその説である。
忘れてはならないのは、藤原璋子は白河法皇を代父として入内してきた女性であるという点である。鳥羽天皇の実の祖父であるということをいったん忘れて、鳥羽天皇と白河法皇、そして藤原璋子の三人の関係を捉えると、白河法皇はまさに藤原摂関政治における摂政や関白に比肩する存在となる。そして、摂政や関白のみの専任となって、あるいは太政大臣となって議政官から身を引いた藤原摂関家の歴代の面々がどのような立ち位置で権勢を手にして権力を行使してきたかを考えると、白河法皇は文字通り、藤原摂関政治における関白に比肩する存在となる。そのときの白河法皇と鳥羽天皇とのつながりを考えると、藤原璋子異常に相応しい存在がいない。
これが現実の関白にどのような感情をもたらすかと考えると、後年の保元の乱の構造は既にこの時点でできあがっていたことが推測できる。崇徳上皇対後白河天皇ではなく、鳥羽上皇対白河法皇という図式が。
国境の外に目を向けると、この年、中国大陸で一つの動きが見られた。
現在の我々は南宋と称しているが、当時の人の呼び名は、宋。中国大陸全土を制圧していた宋は金帝国に国土の北半分を制圧されたが、宋の公的な立場は金帝国に制圧された地域も全て宋の領土であり、今は金帝国と戦争中で、金帝国に占領されている領土は戦争に勝利して取り戻すというのが公的なスタンスであった。
しかし、西暦で言うと一一三九年、宋は公的なスタンスを変更した。長江の南の港町である臨安(現在の杭州市)を首都と定め、本格的な首都とすべく臨安の都市工事を始めたのである。それまでは開封が首都であり、首都開封も含めた一帯が金帝国に制圧されているため一時的に避難しているというのが公式見解であったのが、このときから、首都は臨安であり、開封はかつての首都という位置づけに変わったのだ。
これは南宋内部の政権争いにも関わる話であった。現実主義と理想主義との対立としても良いであろう。これまでは、岳飛、韓世忠、張俊といった武人らが宋の中枢を担っており、彼らは揃って金帝国に対する徹底抗戦を主張し、首都は臨安ではなく開封、制圧された領土は一時的に侵略されているが本来は宋の土地、さらに言えば金帝国の存在そのものが許されないというスタンスであったのだが、これは理想主義に過ぎた。宋の軍事力は金帝国に打ち勝てるものではなく、国家としての総力を挙げてもこれ以上の侵略を食い止めるのが精一杯であり、武力で金帝国に奪われた領土を取り戻すというのは夢物語の世界であったのだ。
というところで宋の宰相に就任したのが秦檜である。秦檜はこれ以上の戦争は国力を衰退させるのみでメリットはないとし、金帝国との和平論を主張し始めたのである。和平論に対する反発は強いものがあったが、秦檜は自分の主張を断じて曲げなかった。とは言え、秦檜は平和主義者ではない。さらに言うならば、現代日本における自称平和主義者の典型と言える人間である。すなわち、戦争をしないためなら誰かを殺しても構わないという、第三者から見たら全く成り立たない、しかし当人には何一つ矛盾しない感覚を持った人間だったのである。このような人物が宰相となったらどうなるか? 戦争をしない代わりに多くの人が殺される。平和に反対する者は容赦なく投獄され、平和の敵とされた者は容赦なく処刑される。それが臨安遷都後の南宋であった。戦争と平和、自由と不自由とを組み合わせるとき、普通の社会であれば、平和は自由と、戦争は不自由と一緒になるのであるが、この時代の南宋は、戦争が自由と、平和が不自由と一緒になるという、人類史を振り返っても稀有な社会となっていたのである。
虐殺が繰り広げられ、不自由が社会を覆い尽くしているとは言え、平和が作られつつあるのは事実である。そして、純粋にビジネスだけを考えるならば、自由が伴っていようと戦争状態である土地より、不自由であろうと平和であるほうがまだマシである。無論、最良は自由で平和な社会であるが、自由で平和な社会を望めないときは、不自由でも平和な社会の方が、自由だが戦争状態にある社会の方がマシだというだけで、平和の代わりの不自由まで肯定するわけではない。
これを貿易相手国の立場で考えると、自由で平和な社会ではなく、不自由で平和な社会であるがゆえに可能になることが一つある。
密貿易だ。
不自由というのは自由も取り締まる厳しさのことである。取り締まりが厳しくなるのだから一見すると密貿易などというあからさまな不法行為も取り締まられる対象となる、はずである。しかし、実際にはそうならない。自由を取り締まって不自由を作り出すというのは、不法であると訴える自由も封鎖されてしまうということなのだ。そして、取り締まりを厳しくすることと、取り締まりをする人自身が不法に手を染めない清廉潔白さを持つということとはつながらない。それどころか腐敗は強固なものとなる。取り締まりを厳しくすればするほど取り締まりに関わる人間は闇に手を染め、取り締まりの目を逃れる手段を生み出す。不自由が極まるほうが密貿易はかえってやりやすくなる。
その国に入ってきて欲しくない、あるいはその国から出て行って欲しくない物品を運び込むのを防ぐために港湾でガードしているのに、不自由を増して取り締まりを厳しくすればするほどそのガードが緩くなる。さらに、宋の法に従えば、宋が日本との間での貿易で使用できる船は宋人の操縦する宋の船に限定されているのであるが、いつの間にか日本人が操縦する日本人の船でも問題なくなってきている。宋の船が日本と宋との間を行き来してくれるというのは航海リスクを日本が背負わないで済むというメリットもあるが、航海リスクを宋が全て引き受けるために航海に要する費用が高くなる。これを日本で運ぶように変更するとなると、航海のリスクを背負う代わりに、航海に要する費用を日本で決定できるというメリットがある。要は航海費用を安く済ませることができる。こうなると、不自由な平和であるがゆえに日宋貿易はより活発になる。日本社会に与える影響も、南宋の社会に与える影響もある。それも、プラスとマイナスの両方があり、マイナスが生み出す悲劇についても看過できないものとなる。ただし、貿易業に従事する個人だけに視点を向ければマイナスは無視できる。航海のリスクさえどうにかできれば莫大な利益を築くことができる。
中国大陸で不自由を伴う平和が確立されつつあった頃、日本では平和がだんだんと壊れてきていた。年が明けた保延六(一一四〇)年という年は、日本国内の宗教勢力が暴れまわる一年であったのだ。裏を返せば政権に楯突いて暴れまわる自由があったということでもあるから、平和で自由な暮らしから、自由はあるが、平和から戦争へと堕落していった一年でも言うべきか。
きっかけは内大臣藤原頼長であった。と言っても、藤原頼長が何も無しに騒動を起こしたわけではない。事件が起こり、その対処を藤原頼長が買って出たら、事件の対処どころかより深い混迷へと陥ってしまったのである。
その事件とは何か? スタートは保延六(一一四〇)年二月二三日に発生した石清水八幡宮の焼亡である。
石清水八幡宮焼亡の連絡を受けた藤原頼長はただちに、自身が主導して、朝廷の命令として石清水八幡宮の再建を採決させたのだが、その再建方法が現在では考えられない方法だったのだ。保延六(一一四〇)年二月二七日に崇徳天皇の名で出された指令は、美作国に宝殿六宇と南楼一宇を、播磨国に廻廊三五間半東と南楼一宇と馬場屋一宇を、越前国に廻廊三五間半西と舞殿を幣殿と馬場廊屏と築垣と鳥居と門を修復せよというものであった。要はその国の国司に対して、任国内からの租税を朝廷に納める必要はないから、その代わりに石清水八幡宮再建のために用いよという指令である。これは何もこの時代の法から逸脱した指令ではない。法の通りに税を徴収し、その税を朝廷に直接納めるのではなく災害復興に充てること自体は以前から頻繁に存在していた方法であり、近年は見られていなかっただけである。藤原頼長はかつて行われていたその方法を復活させたのだ。三ヶ国に命じられた負担は再建そのものだけでなく、再建に要する人件費や資材費も含んでいる負担であるが、それらを全て足しても法の上では住民の税負担そのものに違いはない。税負担を法の通りに払っていたならば、の話であるが。
保延六(一一四〇)年四月二日に石清水八幡宮再建のうち宝殿がまず完成したことで、この日に正式に遷宮となった。焼亡に遭ったことで再建するまで一次的に避難していたのが解除されたということである。避難解除だけを捉えるなら祝事ではあるのだが、再建を命ぜられた国司たちのことを考えると、単純に祝事であるとは言えなくなる。彼らは間違いなく想定外の出費を命じられていたのだ。
本来であれば誰であれ税を払わなければならないのであるが、荘園制度はその概念を崩壊させた。有力者に年貢を払う代わりに国への税の支払いを拒んだのである。税を払わないなら国の庇護も受けられないという脅しも荘園には通用しない。国の庇護は受けられなくても荘園領主の庇護は受けられる。国が治安を守らないという脅しがあっても、荘園と契約している武士団や、荘園に住んでいる武士団が彼らを守るのだから問題ない。税を払わなかったら災害で田畑が損壊しても国が助けないぞという脅しはもっと無意味だ。税を払っているのに国は田畑が損壊した人を助けないが、荘園領主は年貢を納めている住民の生活を助けている。
荘園の絶対数が少なければ税の徴収額は本来の税収から見て微減というレベルで済んでいたが、荘園の絶対数が増えると予定通りの税収など絵に描いた餅になる。かつては全体の二パーセントしかなかった荘園も、保延六(一一四〇)年頃になると全体のおよそ七五パーセントにまで及んでいる。単純な人口比とするわけにはいかないから正確な値とは言い切れないが、それでも、一〇〇人中九八人が課税対象であった頃と、一〇〇人中二五人しか課税対象ではない時代とで同じ税収を求めて、果たして払いきれるものであろうか?
これに対する藤原頼長の姿勢は単純明快である。荘園の免税を認めないというものだ。荘園であろうと国に対する税は払うべきという、よく言えば建前通り、悪く言えば現実離れしたことを言って終わりである。一方、荘園は、特に荘園領主と荘園の住民は、獲得している免税の特権を捨てるつもりなどない。そこで国司は頭を抱えることとなる。荘園に出向いて税を払えと命じるか、自分で身銭を切ってどうにかするか。藤原頼長の命令を無視したらそこで人生は終わる。出世を断念しなければならなくなるとかのレベルではなく、任務放棄として逮捕されるのだ。
さすがに藤原頼長の姿勢に不平を持つ者は多かった。そして、せめて父としての尊厳で息子の暴走を止めてくれと願う者も続出した。隠遁したままでいる藤原忠実の元に足を運んで陳情する者が続出したのである。
ただ、父であるからこそ藤原忠実は息子の性格を理解している。議政官における貴族同士の議論ならまだしも、親として内大臣に私的な陳状をするというのは藤原頼長の怒りに火を点けこそすれ、自らの政策の過ちを顧みる要素にはならない。さらに言えば、藤原頼長は無茶苦茶なことをしてはいるが法の上では正しいことをしているのである。
これ以上ない面倒ごとに巻き込まれるのは面倒だと考えたのか、それとも以前から考えていたのか、あるいはこれしかないと考えたのか、藤原忠実は一つの行動を見せる。
出家だ。
藤原忠実は既に六三歳を迎え、従一位の位階を有するものの、公的には太政大臣と関白を辞した無官の貴族という扱いになっている。年齢的にも、境遇においても、このときの藤原忠実のような貴族が出家するのはこの時代においては特に珍しいことでも何でもない。それどころか、ここまで出家せずに官界に身を置き続けたことのほうが異例である。藤原頼長も、父が政治について私的に何かを言ってくるのは我慢ならなくとも、父として息子に出家の意思を伝えることについては当然のこととして受け入れている。自らの政策によって沸き上がった不満の声に対する怒りを鎮静化する効果は持たなくとも、一人の人間として父の行動に付き沿って冷静にさせる効果はある。
三位以上の位階を持つか、参議以上の役職に就けば、貴族としての公的記録である公卿補任に名が残る。それも毎年の記録に名が残る。しかし、出家すると貴族としての位階を全て失うことになるため名前が消えることとなる。そのため、貴族としての藤原忠実の公的記録は保延六(一一四〇)年で終わりを迎える。公的記録に書き加えられることがあるとすれば、亡くなったとき。そのときだけは、貴族としての最後の記録の後の余白に、何年に何歳で亡くなったかが記されることとなる。
藤原頼長をどうにかしてくれそうな可能性のあった藤原忠実が出家したことで、最後の希望を失った国司たちは、任国内の荘園のうち、自分の勢力でどうにかできそうな荘園について税負担を求めるようになった。その多くは寺院や神社だ。特に今回の徴税は石清水八幡宮の再建であり、石清水八幡宮は比叡山延暦寺と深いつながりを持つ。比叡山延暦寺に関わる人や神社の荘園であれば徴税は可能と言えば可能であった。そして実際、税を納めはした。ただ、足らなかった。いかに延暦寺の勢力が強く抱え持つ荘園が広大であっても、延暦寺の系列の荘園からの税だけでは不足分を埋めるに不充分だったのだ。おかげで国司は自分の財布を傷めることとなったのである。
石清水八幡宮が比叡山延暦寺に関わるということは、比叡山延暦寺と敵対する園城寺の荘園からの納税は期待できないことを意味する。また、延暦寺のデモに迷惑を被っている人たちからの納税もやはり期待できないことを意味する。これを比叡山延暦寺の立場から捉えると、国を守護する石清水八幡宮の再建に協力しないなど罰当たりも甚だしい悪行となる。また、石清水八幡宮再建の指令は崇徳上皇の名で日本全国に向けて発令されたものであるから、荘園の持つ免税の権利を行使して税を納めないことは天皇の命令に逆らう国家反逆罪に値する大罪を意味する。宗教の罰当たりを信じない者であっても、法令違反はどうにもならない。自らの力で逮捕しにくる者と戦うか、あるいは、どこかへ逃亡するかという話になるのだが、問題は、税を払わない者を処罰しにやって来るのが比叡山延暦寺の僧兵たちであるという点にある。朝廷が検非違使を派遣して逮捕しにくるというならまだいい。無罪を獲得できる可能性が低くとも、裁判に持ち込むという最後の希望ならば残されている。だが、比叡山延暦寺の僧兵となると話は別だ。彼らは捕まえにくるのではない。奪い、犯し、殺しにくるのである。しかも、比叡山延暦寺は崇徳天皇の指令の遂行という、無視することの許されない名目を掲げているのである。
対立している集団のうちの一方に絶好の口実を与えたらどうなるかを藤原頼長は考えなかったのかと疑問に思うかもしれないが、おそらく、そこまで考えなかったのだろう。たしかにこの人は古今東西の書に目を通し、法にも明るい人であったが、人間性については全く理解していなかったのではないかと考えられるのだ。そうでなければこんな無責任な指令を出すわけなどない。
藤原頼長の生み出した災厄は、延暦寺が園城寺に襲撃をかける絶好の機会を生み、園城寺の僧侶や園城寺の所有する荘園に住む人々を、延暦寺の僧兵たちの殺戮のターゲットとさせることとなったのである。
崇徳天皇の皇太子は母親違いの弟である躰仁親王であるというのはもう決まっている。そして、躰仁親王を皇太子とした時点ではまだ崇徳天皇に実子がいなかった。男児がいない天皇が弟を皇位継承権筆頭にするのは通例通りである。異例を挙げるとすれば躰仁親王より歳上の、しかも崇徳天皇と母親を同じくする弟がいるという点であるが、それを問題とする意見が出てもポピュリスト鳥羽上皇が敵と認定した藤原璋子の意見であると断定されて終わりだ。
ところが、保延六(一一四〇)年九月二日に女房兵衛佐局が重仁親王を産むと話がややこしくなる。中宮藤原聖子が男児を産んだなら問題なかったのだが、入内している女性のうちの一人が男児を産んだとなると問題が深くなるのだ。しかもこの兵衛佐局という女性は白河法皇に深いつながりがあった。生前の白河法皇と何かあったとかではなく、実父が白河法皇の建立した法勝寺の僧侶だったのである。
兵衛佐局の曽祖父は藤原経季であり、入内時の養父は源行宗であるから、藤原氏と源氏の双方のつながりも手伝って、兵衛佐局について血筋の悪さをどうこう言う者はいない。しかし、中宮でないのに崇徳天皇の男児を産んだとなると、それについてどうこう言う者は現れる。特に口出しするのが中宮藤原聖子と、藤原聖子の父である関白藤原忠通の二人。一方、意外と平然としていたのが鳥羽上皇である。鳥羽上皇にしてみれば躰仁親王の次の後継者が誕生したと言って憚らず、それどころか美福門院藤原得子の養子に迎え入れたのである。もっともこれは、生後間もない乳児の安全を考えてのことである。
重仁親王の安全を考えたのは、乳児死亡率の高い時代であったことももちろんあるが、皇嗣争いをめぐる争いを考えてのこともある。怒りのままに乳児を殺害する恐れもあった以上、これ以上ない身辺警護が求められたのだ。その答えが乳母の選択である。重仁親王の乳母に選ばれたのは藤原宗子、一見すると藤原氏の女性を選んだのかと思うかもしれないが、彼女が平忠盛の妻であると書くと評価は一変するだろう。あくまでも乳母としての役割と乳幼児教育の役割を考えての選択ということになっているが、平忠盛とその子の平清盛が後ろに控えている女性だ。鳥羽上皇は重仁親王に対してこの時代で考えられる最高のボディーガードをつけたのである。
さらに鳥羽上皇は安全策を強化する。保延六(一一四〇)年一一月四日、崇徳天皇を再建工事完了となった土御門内裏に遷御させることで、誰にでも文句の言えない形で重仁親王と中宮藤原聖子および関白藤原忠通との間を引き離すことに成功したのである。この時代、子供は母親の家庭で育てることとなっており、重仁親王は鳥羽上皇と藤原得子の養子となっている。上皇は内裏と距離を置いた住まいであることが求められるため、これで必然的に重仁親王は内裏の崇徳天皇と藤原聖子と距離を置くこととなる。
京都の東で比叡山延暦寺が園城寺に対して攻撃を仕掛け続けていた頃、京都の南西でも一つの騒動が起こっていた。保延六(一一四〇)年一二月八日、高野山の僧徒が密権院覚鑁を襲撃したのである。この襲撃を受けた覚鑁は高野山の西の根来に身を移した。
これだけを見ると高野山の中で発生した物騒な出来事と映るだけだが、覚鑁のこれまでの人生、そして、この出来事は一つのスタートなのである。
何のスタートか?
鎌倉仏教のスタートである。
年々混迷が深まり、記憶に残る過去よりも現在のほうが厳しい暮らしであり、その上、未来に希望が持てないというとき、人は二つのことに希望を求める。現在の理由を解明する科学と、現在の理由を説明してくれる宗教である。この時代はまさに科学と宗教の双方に対する需要が高かった。それなのに、科学も宗教も需要に応えていなかった。
その流れを断ち切ったのが後に鎌倉仏教と称される新しい仏教であるが、鎌倉時代にピークを迎えたために鎌倉仏教と称される一連の新しい仏教の先陣を切った僧侶が覚鑁であった。宗教が人々の救済に全く役割を果たしていないと考えた覚鑁は高野山金剛峯寺の改革を推し進めていたのであるが、このとき、改革に対する僧侶たちの反発が爆発したのである。
出家したなら身分差はないという建前は存在していたが、現実には、どのような身分から出家したかが寺院内の地位を決めるようになっていた。官僚ピラミッドに比べれば一発逆転のチャンスはまだ残っているとは言え、寺院内のトップは何と言っても皇族から出家した僧侶、次に藤原氏をはじめとする有力氏族出身の僧侶が来て、そうでない僧侶は寺院内でも低い地位に留め置かれるのが通例であった。
覚鑁の父は名前は伝わっているもののその地位は荘園を管理する役人であり、通例に従えば覚鑁は僧侶として出世することはない。ところが、寺院内は官僚ピラミッドに比べればまだチャンスが残されている世界であり、覚鑁はそのチャンスを握り掴むことに成功したのである。もっとも、空海以来の才能と称される知性と教養の持ち主であったことだけでなく、鳥羽上皇の病気を祈祷で治癒させたことから上皇から直々に荘園が寄進されたという経歴が有効に働いたという側面もある。この時代、鳥羽上皇の後ろ盾というのは強力だ。
覚鑁は高野山に新たな寺院を建立したのを皮切りに高野山において勢力を築くことに成功し、長承三(一一三四)年には金剛峯寺の座主に就任して高野山の事実上のトップに君臨することに成功したのである。このときの覚鑁、わずかに四〇歳。五〇歳で高齢者扱いされる時代の四〇歳は充分な年齢であるが、それでも、皇族に生まれた身でもなければ貴族出身でもない僧侶でありながら、四〇歳という若さで一つの宗教勢力のトップに立ったというのは特筆すべきことである。
覚鑁が高野山のトップとして高野山で展開したのは真言宗の建て直しである。真言宗の総本山である高野山は、本来であれば空海の意思を受け継いで真言宗を学び、布教し、真言宗に基づいて多くの人たちを救済するための集団でなければならなかったはずなのだが、覚鑁がトップに立った頃の高野山は、上を見れば権力争いを繰り広げ、下を見れば僧侶になれば食いっぱぐれないという理由で出家し、ただ漠然としら日々を過ごすだけの僧侶ばかりという状況であった。覚鑁はこの建て直しを図ったのであるが、規律を求め腐敗を撲滅させるというのは反発を生みやすい。
既に何度か記しているが、鳥羽上皇という政治家はポピュリストである。ポピュリストはわかりやすい敵を作り出して攻撃することで支持を集めるものだが、その視点でも覚鑁は鳥羽上皇の期待に応える僧侶であった。覚鑁が改革を展開すればするほど高野山で反発が強まり、高野山を見つめる庶民の視線は改革を展開する覚鑁と、改革に抵抗する既存勢力という図式へとますます成長していくのである。覚鑁は真面目に、仏教の、そして真言宗の再生を願っていたのであるが、覚鑁を応援している鳥羽上皇にとって重要なのは、高野山という武装勢力を持った寺院が外に向かって暴れ出さないことであり、中で対立を深めているというのは歓迎すべきことだったのである。
高野山の中での改革に頓挫した覚鑁は、覚鑁を支持する弟子たちとともに根来に出て豊福寺に拠点を移し、権力争いではなく民心救済を最優先に行動する根来寺を成立させていくこととなる。鎌倉仏教の鏑矢となる動きがここに誕生したのである。もっとも、覚鑁の後ろ盾となった鳥羽上皇が考えていたのは高野山の武装勢力の勢力縮小であったのだが。
鳥羽上皇の仏教寺院対策には一つに欠点があった。
いかに上皇としての権威を以て接しようと、鳥羽上皇の手元には、公的には白河法皇から相続した権利と資産しか手元にないのである。現実問題として天皇の実父である上皇の意見や意思は無視できるものではないが、上皇や法皇の意見は理論上、退位した天皇の個人的な意見であって法的な効力を持つものではない。院政期の上皇や法皇は治天の君として絶大な権力を持っていたというのが教科書的な回答であるし、当時の人もそのように考えてきていたのであるが、法を綿密に適用しようとすると、それこそ藤原頼長のように律令を絶対の存在と考える人が政務をとるとなると、上皇の意見はあくまでも個人的な意見でありって天皇の意見のように法的な効力を持つものではなくなるのだ。
さすがに一般人が上皇の意思に接したならその意思を無視するなんてことはほとんどないが、命の危機や組織の存亡の危機となったならば上皇の意思と法との関係性を突くことも可能だった。比叡山延暦寺が園城寺に対してあれだけの行動を見せることに成功したのも崇徳天皇の名で出された石清水八幡宮の復旧指令であったからで、これが鳥羽上皇の院宣だとしたら園城寺にもどうにかする余地があったのだ。
しかし、保延七(一一四一)年三月一〇日にこの状況は終わりを告げる。この日、鳥羽上皇が出家したのである。ゆえに、歴史を扱う場合は、本作のタイトルのように上皇と法皇の区別をせずに院と記すゲースを除いて、本作品の本文のようにこの日以前と以降とで鳥羽上皇と鳥羽法皇とを書き分けることとなる。
法皇と上皇の違いは出家したか出家していないかの違いだけではない。法的地位だけを考えれば上皇と法皇に違いは無いが、法皇は出家しているために、個人として仏教界に影響を与えることができるのである。僧侶であるため自分で寺院を構えることができるし、寺院を構えることができれば寺院を利用した荘園構築もできる。上皇のままでも院としての荘園形成が可能であるが、院に仕える役人は朝廷の役人のキャリアアップのための一段階であり、院に人生を捧げるつもりはないのが通常である。たしかに白河法皇以後は院司と朝廷との間を行き来するのがキャリアアップの一手段になっていたし、院司にして議政官の一員でもあることは珍しくなくなっていたが、それが通用するのは俗世間に限った話であり、僧職においては適用されなかった。院にいる僧侶はいても、院との接点は無視できぬとは言え、僧としての地位は高くなかったのである。
それが、法皇になると激変する。
いかに一僧侶であると言ってもかつて皇位にあった僧侶がただの僧侶であるはずはない。その側近ともなれば、身の回りの世話をするだけでも蔵人、さらには五位以上の位階に相当する。位階を捨てたはずの僧侶であっても、皇位にあった僧侶の周囲に仕えるとなれば相応の地位と権力が手に入る。
しかも、天皇の周囲、あるいは上皇の周囲となったら、自身も相応の地位の生まれでなければ話にならないが、法皇の周囲となると相応の地位でなくとも僧侶としての実力でどうにかなる。すなわち、仏教を通じた地位の一発逆転が可能となる。
官界に身を置いていたとしても、高い地位は藤原氏をはじめとする上流貴族で独占しているため限界が見えているが、仏教界に身を投じれば、覚鑁の例にもあるように生まれを問わない実力勝負に打って出るチャンスも以前から存在していたのであるが、法皇が誕生すれば野心あふれる僧侶に対するチャンスがますます開かれることとなる。
ただし、鳥羽法皇が提供したチャンスは絶対的なものではあるが相対的なものではなかった。後述することになるが、いかに鳥羽法皇の権勢を頼れると言っても、比叡山延暦寺や興福寺といった勢力の強さは無視できる話ではなかったのである。出家して仏教界に身を投じなければわからなかった話であり、わかったときにはもう遅かった。たしかに野心あふれる僧侶と接する機会は増えたが、延暦寺や興福寺と同じ土俵に立つことの難しさも痛感させられることとなったのである。
一方で、出家したからこそ可能になったことが一つある。資産形成だ。
上皇は退位した天皇であり、朝廷の仕組みの中に組み込まれている存在である。鳥羽上皇の保有する資産も、現実には鳥羽上皇そのもので自由にできるが、理論上は朝廷の傘下に位置づけられる。ところが、出家すると鳥羽院そのものが寺院と同等の扱いになり、朝廷から一定の距離を置いた位置づけとなる。これが保有資産の増加を生み出すこととなる。鳥羽上皇の保有する資産の多くは白河法皇からの相続によっており、維持と運用は可能であったが新たな確保はさほどではなかった。しかし、出家したことで鳥羽法皇は朝廷と一定の距離を置くことに成功し、独自の資産を確保することが可能となったのだ。鳥羽上皇のままであれば律令の制約もかなり多く受けるが、出家して寺院扱いとなったことで、課せられる律令の制約が寺院に対するそれとなり、自由度が増したのである。
ここで、一人の男としての鳥羽上皇が出家したことで、正妻である藤原泰子はどうなったのかに目を向けてみる必要がある。
結論から言うと藤原泰子も出家している。夫の出家とほぼ同時に出家するというのは、平安時代に夫が出家した女性に残された二つの選択肢のうちの一つで、特に珍しいものではない。ちなみにもう一つの選択肢は離婚で、夫の出家後も婚姻生活を続けることは許されていないのがこの時代である。
では、出家して尼僧院に入ったのかというと、それも違う。かつては剃髪した尼僧も仏教というシステムにおいて当然の存在と見なされていた。国分寺だけで無く国分尼寺も日本全国に建立され、全ての国分寺に男性僧侶二〇名、全ての国分尼寺に女性僧侶一〇名を置くように定められていたことからもわかる。ところが、奈良時代からだんだんと仏教界における女性の地位が落とされていき、尼僧院として建立された寺院が女人禁制の寺院の支配下に置かれることも、さらに廃寺になることも珍しくなくなった。廃寺となるのは国分尼寺も例外ではなく、もともと国分寺と国分尼寺がきわめて近い場所に建立されていたことが多かったことも手伝って、国分尼寺は国分寺に取り込まれるようにして歴史に消えていったのである。
尼僧院が減っていったが、女性の出家そのものが喪失したわけでは無い。悩める日々からの救済を仏門に求める女性も多かったし、前述の通り、夫の出家に伴って出家する女性も多かった。数少なくなった尼僧院に入る女性、女人禁制の寺院の周囲に住まいを構え仏門に励む女性、そして、出家したものの寺院に入らず自宅に留まったまま女性が現れた。その延長上で、夫の出家に合わせて出家し、出家後も夫婦で暮らしケースが見られた。ちなみに、女性の出家の場合は剃髪では無く肩の辺りで髪を切り落とす尼削ぎである。現代の人がこのときの鳥羽法皇を見たら間違いなく僧侶と感じるであろうが、出家後の藤原泰子を見ても肩のあたりで髪を切りそろえた女性としか感じないであろう。
同様に、当時の人が、その二人が鳥羽法皇と藤原泰子であると知らずに一組の男女を目の当たりにしたら、その時代における典型的な出家した夫婦であるとしか捉えなかったであろう。日本霊異記に妻や子のいる僧侶のことが描かれているのを初見とし、今昔物語をはじめとする当時の文学作品や、当時の仏教史料などからも、結婚してはならないということになっていた僧侶の婚姻生活は幅広く認められていたことが確認されており、そのあたりは厳しく取り締まられなかった。鳥羽法皇と藤原泰子の関係は、法皇と院号宣下を受けた女性という特別な要素はあるものの、構造自体はこの時代の出家した夫婦と同じであった。
ただし、藤原泰子には高陽院という院号がある上、藤原泰子の父は元関白の藤原忠実、現役の関白である藤原忠通と現役の内大臣である藤原頼長は弟である。ここまでの条件が揃うと藤原摂関家の荘園を高陽院の荘園に移すことによって藤原泰子自身の資産形成も可能になる。荘園の所有権を移すというのは大事に感じるかもしれないが、荘園を現在の株式会社とすれば何らおかしな話ではない。株式売買の結果で筆頭株主が変わることも、筆頭株主とまではいかなくとも大株主が誕生することはある。
ここで、鳥羽法皇自身の院の荘園と、高陽院藤原泰子の荘園とが合わさるとどうなるか?
空前絶後の規模の荘園勢力ができあがる。上皇には不明瞭な法的権力しかなくとも、法皇となり妻の保有する荘園と足し合わせた巨大荘園の所有者となると、法的権力は上皇と同じ不明瞭なものであっても、荘園領主として発揮できる権力が壮大な規模となり、荘園領主として保持できる武力もまた壮大な規模となる。天皇としてこの国の全てに命令を発することはできなくとも、他の追随を許さない巨大な荘園領主となることができれば、鳥羽法皇の権威と権力は誰もが無視できないものとなる。無視できなくなるのは頻繁にデモを繰り返す寺院勢力も例外ではない。
保延七(一一四一)年七月一〇日、永治へ改元することが発表された。
保延七(一一四一)年という年は十干十二支で記すと辛酉であり、これまでを振り返ると、辛酉である承暦五(一〇八一)年は永保元年へ、寛仁五(一〇二一)年は治安元年へ、天徳五(九六一)年は応和元年へ、昌泰四(九〇一)年は延喜元年へとそれぞれ改元している。ただし、昌泰四(九〇一)年以前にそのような慣例はない。
十干十二支での辛酉の年は天命が改まる年であり中国では王朝交替の起こりやすい年とされていた。この王朝交替を辛酉革命というのだが、日本では三善清行が昌泰四(九〇一)年に、辛酉革命による国家転覆レベルの社会変革を起こさせないために、辛酉革命による社会変革という名目で改元をすることを提唱してから、六〇年に一度、必ず改元する年として認識されるようになった。そのため、保延七(一一四一)年のどこかで改元することは事前から予期されており、七月一〇日に改元の詔が発令されたことは驚きではなかった。
ところが、まさにこの頃、鳥羽法皇は辛酉革命と言いたくなる社会変革を目論んでいたのである。
永治元(一一四一)年一二月七日、崇徳天皇が退位し、躰仁親王に受禅したのである。この日が近衛天皇の治世の始まりであるが、鳥羽法皇によって周到な準備が整えられた末の青天の霹靂であった。
保安四(一一二三)年に崇徳天皇が即位したとき、崇徳天皇はわずかに四歳。それから物心ついたときには既に皇位に就いており、元服して、政治を学び、一八年一〇ヶ月の天皇としての経験を踏まえて、さあ、これから執政者として政治を執り行おうかといった矢先に帝位を父の手で奪われたのである。自分の次の天皇は弟の近衛天皇だが、このとき近衛天皇わずか二歳。この幼さで天皇としての職務が果たせるわけはない。
普通ならば、これから執政者としてやっていこうかという二二歳から、まだ物心もついていない二歳へと譲位するなど、天皇としての政務を停滞させるだけでメリットなどないと考えるところなのだが、鳥羽法皇にしてみれば、まさにそのことが帝位を譲らせる理由になるのである。天皇としての職務を果たせないために法皇である自分が政務を補佐するというのは、鳥羽法皇が権力を握り続けるのに絶好の名目となるのだ。それも、崇徳天皇、いや、崇徳上皇の同意も得た上で。
人口に膾炙すれば崇徳天皇はこの譲位を不満ながらも受け入れたということになっているが、はたしてそうなのだろうかとも考える。先に私は辛酉革命と言いたくなる社会変革と述べたが、これは単に近衛天皇への譲位だけを意味しているのではない。鳥羽法皇が為そうとしたこと、それは、統治システムとしての院政の強化である。しかも、崇徳上皇の同意を取り付けた上での。
幼帝では天皇としての統治などできないが、律令は天皇の臨席が求められる国事行為についての対処法を規定している。摂政がそれだ。摂政は、天皇の代理として国事行為に携わることができるどころか、職務として携わらなければならない義務を持っている。
そして、摂政は一人しか存在できない。摂政と関白がそれぞれ一人ずつの計二人ということはありえない。誰かが摂政である間、関白は絶対に空席となる。
一方、上皇はどうか、あるいは法皇はどうか。
そもそも臨席が求められる国事行為自体がない。臨席されると格が上がるというのはあるが、臨席必須という国事行為はない。その上、摂政に課されているような天皇の代理を務めねばならない義務もない。それどころか内裏から離れた場所に身を置かなければならない。さらに言えば、天皇から退位することだけが条件なのであるから何人いても構わない。鳥羽法皇にしてみれば、自分の一部を肩代わりできる崇徳上皇という存在が誕生したことは、寵愛する女性の子を皇位に就けるだけではない意味を持つ。崇徳天皇にしても、自身が天皇でなくなり幼き弟が帝位に就くというのは逡巡するところもあるが、白河法皇が構築して鳥羽法皇が継承した院政という政治システムの三代目に指名されたというのは、皇位から降りることも同意できる話である。
たしかに上皇や法皇に法的権力は無く、その意見や意志も参考意見であって最終決定ではない。ただ、最終決定をする存在が最終決定できなければ話は変わる。
律令に従えば議政官から上奏された法案に天皇の御名御璽があれば正式な法となって日本全国で有効となる。天皇が幼少である場合や病床にある場合などは摂政が代替してそこで正式な法となる。では、仮にその摂政が多忙となり義務として課されている業務をこなすだけで手一杯となったらどうなるか? 天皇を儀礼的な存在とまでさせた摂関政治が、まさにその摂政も儀礼的な存在となるという皮肉を招くのだ。上奏された法案に対するワンクッションが入ることなく自動的に法として全国に適応されることとなってしまうのである。
平安時代に話を戻すと、上皇や法皇はそうした儀礼的要素をいっさい有さない。政務に関する感想を述べるという体裁ではあっても、その意見や意思は充分な熟慮の結果である。上皇や法皇に対して退位したからという理由で無視することはあり得ない。ましてや近衛天皇から見れば鳥羽法皇は実の父で崇徳上皇は実の兄である。断じて無視できる存在では無い。天皇との血縁を無視する考えの人であろうと、日本国で最大規模の荘園領主だ。抱えている経済力と操ることのできる軍事力を考えるとやはり無視できなくなる。
ここで重要なのは、関白ではなく摂政であるという点。どういうことかというと、摂関政治と言うが、摂政と関白とでは、与えられた権力も、こなさねばならぬ義務も大きく違うのである。単純に言えば、摂政のほうがより強い権力を持つ代わりに摂政のほうが多忙である。日常を振り返るだけでも朝から晩まで国事行為に追われてプライベートどころか政務に専念する時間すら無くなる。藤原道長は頻繁に病欠したが、結果として、その病欠が多忙の中の休息とプライベートの時間の確保、そして日常に煩わされることなく政務に専念できる環境を生んだ。だからこそ、藤原道長は議政官を支配し続けることに成功したのである。
摂政が国事行為に追われるというのは、摂政が政務にあたることもできずに議政官の議決をそのまま法令とすることを意味する。あくまでも理論上の話であるが、摂政は議政官の意見を無視して自らの意思を天皇の名で法として公布できるという特権を持っている。持っているだけで使わないのが通例であると言っても、存在するが使用しない特権を黙って見ている者などいない。しかし、持っている特権を使用できる状況でないと言うなら話は別だ。摂政と関白とでは摂政のほうがより多くの権力を持つがより多くの義務を持つ。これを、摂政や関白と向かい合う立場から言うと、関白より摂政のほうが恐ろしい存在となるが、摂政のほうが義務が多いために政務に専念させづらくすることも可能であることを意味する。
崇徳天皇はとっくに元服を終えていた。そのため、摂政はおらず藤原忠通は関白であった。元服を終えている天皇と関白という組み合わせは、もっとも安定している組み合わせである。議政官に対する睨みも効かせられるし、国事行為も二人で分担することとなるから一人あたりの労力も減らせることができる。労力が減れば政務に専念できる時間も環境も用意できる。この状況を院という新興勢力視点で考えると、時間が経てば経つほど不利になっていく。レギュラーな権力である朝廷が正しく機能するようになり、院政はイレギュラーな存在であることがクローズアップされてくる。
この状況からの一発逆転だけでなく、院政の強化を考えた結果が、崇徳天皇の退位と近衛天皇の即位だった。レギュラーな権力は弱いままである一方、鳥羽法皇が院政の後継者として崇徳上皇を指名することによりイレギュラーな院政という権力が強化されるのだから。
鳥羽法皇、崇徳上皇という二名体制で院を強化することはできるが、院はあくまでもイレギュラーな存在である。これをレギュラーな存在とするためには、弱いままである朝廷権力を利用する必要がある。鳥羽法皇や崇徳上皇の意思を、議政官から上奏された正式な法案とさせ、近衛天皇の御名御璽で全国的な法とすることである。そのためには議政官に院がコントロールできる人材を送り込む必要があった。
院に貴族や役人がいること自体はおかしくない。院号を持つ皇族は法に基づいて身の回りの世話をする者が用意される。ただし、彼らの位階は高いものではなく、貴族界の出世階段におけるステップの一段に過ぎない。院で過ごすか朝廷で過ごすかの選択肢が突きつけられたら、ほとんどの貴族は朝廷を選ぶ。そのほうが地位も名誉も、ついでに言えば給与も高い。鳥羽上皇が出家して鳥羽法皇となったのも、僧籍にある者を自身に忠義を尽くす部下とする目的があったからである。ただ、実際に出家してみると、その目的は甘い見通しによるものであった。実際にその目的もある程度は果たせていたのだが、満足いく結果ではなかったのだ。院政とは院号を持つ皇族の身の世話をするための既存の法の仕組みを利用しものであるから、いかに法皇や上皇が権力を持とうとその側近に与えることのできる位階や地位は法の束縛を受ける。出家して法皇となった場合、周囲で身の世話をする者に官僚ピラミッドとは無縁の僧侶が加わるが、僧侶に自身への永遠の忠誠を求めても叶う可能性は低い。真面目に仏門に励みたい者は出世欲や物欲を見せないし、宗教界での出世を求めるなら、法皇のもとに仕えるのは悪くない選択であるが、比叡山延暦寺や園城寺、あるいは興福寺といった一流どころの寺院に身を置くほうが効率がいいのが現実だったのだ。
ただし、院の息の掛かった者を議政官とするとなると話は変わる。院からの強い推薦で位階を手にし、役職を手にできるとなると、院に人員を集めることができる。白河法皇は個人的に位階と役職の付与をやったが、鳥羽法皇は院政というシステムで位階と役職を用意することを考えたのである。それも、相対的に院が最強の存在となるよう、他の存在の力を弱めることで。
藤原摂関政治は摂政や関白だから権力を振るえたのでなく、摂政や関白の意見を通す議政官の構成に成功したから権力を振るえた政治体制である。藤原摂関政治打倒のために議政官から藤原摂関家の者を減らして過半数割れをさせたこともあったが、失敗した。そこで鳥羽法皇が考えたのが、院の人材を議政官に送り込むことである。それも、藤原摂関政治を制御しつつ、藤原摂関政治と同じ方法で、イレギュラーな存在であるはずの院をレギュラーの仕組みに組み込むことが可能となるのである。
藤原摂関家が一枚岩でないのも有効に作用した。前関白となっている藤原忠実とその次男の内大臣藤原頼長が一つの勢力になりつつあり、その一方で現役の関白である藤原忠通が一つの勢力となっている。厳密に言えば近衛天皇はまだ正式に即位をしているわけではないのでこの時点の藤原忠通はまだ関白である。
藤原忠通が正式に摂政になったのは永治元(一一四一)年一二月二七日のこと。この日、中宮藤原聖子を皇太后、近衛天皇生母女御藤原得子を皇后とすることが決まり、その後で近衛天皇が正式に即位した。近衛天皇の最初の指令は藤原忠通を摂政に任命することであるが、何度も述べているように近衛天皇はまだ二歳。幼児が言われるままに摂政任命を指示し、以後は藤原忠通が天皇の代理を務めることとなった。
この永治元(一一四一)年一二月二七日時点の議政官の構成を見ると以下の通りとなる。
一見するだけでわかるが、かつて問題となっていた位階のインフレが鎮静化している。以前であれば三位になっても参議になれずに議政官に加わることもできないでいた貴族は多かったのであるが、この頃になると三位以上でありながら議政官に加わることのない人物は三人に留まっている。
前述の通り、院に仕える貴族の位階は法で定められている。トップである院別当でも四位だが、かつてであれば参議など夢でしかなかった位階であっても今や参議でも珍しくない位階だ。院に仕える貴族の立場で見ると、院で実績を積むことが朝廷での出世に直結することを意味するようになる。これまでであっても例外的に四位のまま参議になることはあったが、それでも白河法皇の強い推薦があったときに限られていた。しかし、鳥羽法皇や崇徳上皇の元に仕えれば、その功績で参議になることができる。参議になったらあとは貴族としての出世街道は順風満帆だ。
一方で、議政官の人数に大きな変動があるわけではない。誰かが亡くなったり引退したり出家したりすれば欠員は出るからその穴を埋めるのは通例であるが、四位の参議が珍しくないとなると、その欠員は四位である院に仕える貴族のものと考えるのが普通だ。おまけに、藤原摂関家の人数そのものが増えているから、かつてのように藤原摂関家に生まれたというだけでは貴族界の出世争いでポールポジションを手にするなどできず。プラスする何かしらの要素がポールポジションで必要となる。その何かしらの要素という視点で院に仕える院司である、あるいは、かつて院司であったというのはかなり有効に働く。
こうなれば、院は忠実な手足となる貴族を手にしたも同然だ。院に仕え、鳥羽法皇や崇徳上皇の意思を朝廷に反映させることに尽力すればするほど貴族としての出世がより強い形で実を結ぶとなれば、院で働くことはキャリアアップの手順の一つどころか、キャリアアップの最高最善の手段となる。こうなれば、何もしなくとも人手が院にやってくる。振り返ってみると、人員確保という視点では出家して鳥羽法皇になったことは、飛び抜けたメリットのあることではなかったと言うことか。無論、院が寺院になることでの資産管理となると飛び抜けたメリットとなるが。
人手が集まれば、院が藤原摂関家を凌駕する勢力を築くことが可能だ。それも、かつてのように白河法皇の個人的な能力による勢力ではなく、その時代の上皇や法皇がトップに君臨し、配下の貴族たちが朝廷の最有力勢力となるというシステム化された勢力だ。
院政は後三条天皇のアイデアより始まり、白河法皇が実現させた。鳥羽法皇は言わば院政の三代目であるが、その三代目は、個人の能力ではなく、誰であろうと機能する、院政というシステムを作り上げることに成功したのである。
このシステムを維持するために必要なのはただ一つ。天皇が天皇としての政務をとることのできる状況にならないこと。すなわち、幼いことである。
これから五〇年後のことになるが、建久元(一一九〇)年一一月九日に、ときの太政大臣九条兼実は源頼朝との会談の様子を日記にこのように記している。
「謁頼朝卿所示之事等依八幡御託宣一向奉帰君事可守百王云々是指帝王也仍当今御事無双可奉仰之然者当時執法皇天下政給仍先奉帰法皇也天子如春宮也法皇御万歳之後又可奉帰主上当時全非疎略云々」
(源頼朝が言うには、八幡の託宣での『君に帰し奉り百王を守るべし』について、ここで言っているのは帝王を指し示す言葉であって、今は後白河法皇が国政を執っていて後鳥羽天皇は皇太子のような立場になっているから、まずは後白河法皇に帰し奉り、後白河法皇が亡くなられた後で後鳥羽天皇に帰し奉るべきです)
これは源頼朝が述べた言葉として九条兼実が書き残しているものであるが、天子如春宮(天皇は東宮(=皇太子)の如し)というのは源頼朝が最初に言い出した言葉ではなく、源頼朝の時代には既に一般に広まっていた概念であり、少なくとも近衛天皇即位時点では成立していた概念であった。ちなみに、後鳥羽天皇というと後の承久の乱を思い浮かべるかもしれないが、このときの後鳥羽天皇はまだ一〇歳の少年であり、院政というシステムを維持するのに必要な要素、すなわち、天皇が幼いことという条件に合致している。
天皇の幼さゆえの統治能力の無さを拠り所とすることで、院政というシステムははじめて成立したのである。
日本で院政が個人的なシステムから個人に寄らない政治システムへと展開されていた頃、中国大陸でも一つの政治システムが展開されつつあった。前述した平和主義である。戦争をしないという一点のために、南宋は大きな代償を支払うこととなった。
金帝国は南宋からの平和交渉を受け入れた。それも、金帝国にとってはこれ以上無い最高の形での平和条約となった。この平和条約を紹興の和議という。
まず、南宋は金帝国が占領した土地に対する領有権を全て放棄する。次に、南宋はこれ以上金帝国が南宋の領土に攻め込まないよう、銀二五万両と絹二五万疋、現在の日本円で言うと総額一〇億円ほどを毎年支払う。そして、南宋はこの平和条約に反対する者を罷免する。
どう考えてもムチャクチャであるし、案の定というか、南宋では条約締結の責任者となった宰相秦檜に対する反発が強まった。それに対する宰相秦檜の態度は強固なものであり、戦争継続を主張する者は容赦なく逮捕され死を命じられた。
このような人間が国の英雄になるわけはない。実際、後世の記録に残る宰相秦檜に対する評価は最低最悪なものがある。宰相になる前に知事であった地域では、知事としては有能であった秦檜を評価する祠が建てられていたのだが、後の朱子学の祖となる朱熹の命令で破壊されている。その一方で、明代には秦檜の像も建てられているのだが、その像の姿は宰相としてではなく罪人としての像と考えられるようになり、像を見に来る人に対して、像に唾を吐きかけ叩き壊そうとしたりしないようにという掲示されていた。
ところが、宰相秦檜を評価する向きもある。評価する人には二種類あって、まず、金帝国と同じ民族が築いた国家である清の学者の評価がある。先祖が有利な条件で結んだ条約を肯定的に評価することはおかしな話ではないが、その点を差し引いても、その内容は同意できるものがある。次に、第三国の歴史家や経済学者の評価がある。色眼鏡無しで紹興の和議を分析すると、清の学者と同じ結論で評価している。
話が後回しになったが、紹興の和議に対してどういう内容の評価をしているのか?
少なくとも平和になったのは事実であり、軍事負担から解放されたことで南宋の庶民の暮らしぶりは良くなっていたのは評価すべきことというのがその主張である。ただし、自由は減り、自由がなければ生まれない産業のイノベーションも起こらないから、緩やかな衰退を迎える宿命を持っているが。
話を当時の南宋に戻すと、そのような評価など起こるわけはない。国の英雄を殺害し、反対する者を逮捕し、屈辱的な内容の条約を結び、独裁者として君臨する者を称賛する者はいない。今の日本国のように選挙があるならば、宰相秦檜とその支持者の政党は平成二四(二〇一二)年の衆院選のように大敗を喫し、掴んだはずの国政を手放さざるを得なくなっていたであろう。たとえそれが自身に豊かさをもたらすものであろうと。
その後の時代を知る者ならばこう考える。
このときの平和を活かして国力を蓄え、軍事力を蓄えることで、金帝国も、南宋も、第三勢力に向けて対抗すべきであったと。
理論上はそうだろうが、この時代の人に第三勢力のことを説明しても信じる人はいない。この時代に、知識として第三勢力のことを知っている人はいても、その第三勢力を脅威に感じる人はいない。実際、第三勢力と直接接した金帝国の記録に残されているのも、金帝国の国境警備隊が国境の外と戦闘となり、敵のトップであるアンバガイ・カンを捕らえて処刑したという記録だけである。しかし、この処刑された者は第三勢力の二代目のトップであり、その二代目の親族には一人の少年がいた。チンギス・ハンの父、イェスゲイである。イェスゲイが生まれたのは一説によると一一三四年だという説を正しいとすれば、この年はまだ八歳の少年。
さすがにこの年齢の少年が民族を率いて強大な勢力になると想像する人はいないであろうし、その少年の息子が、それも、この時代にはまだ生まれていない子が、チンギス・ハンとしてトップに立ち、世界史上最大版図の大帝国を築き上げると考える人などまずいない。まずいないが、歴史はそのような時代の移り変わりを記録している。その歴史を知る者ならば少なくとも平和になったこの段階でモンゴルを制御できたではないかと考えてもおかしくはないが、後代を知らぬこの時代の人にモンゴルの脅威を説明したとしても、信じる人は、いない。
鳥羽法皇と崇徳上皇の二頭体制から完全に取り残されたのが待賢門院藤原璋子である。元々から人気と人望の無い人であったのだが、白河法皇という後ろ盾を失った瞬間に人望と人気をさらに落とした。
人気と人望の無い有力者というのは良くない噂が勝手に発生するというのが世の常である。待賢門院藤原璋子も例外でなく、永治二(一一四二)年一月一九日に起こった出来事も噂が引き金となった事件である。どういう噂か? 皇后藤原得子を誰かが呪ったという噂である。あくまでも「誰か」であって具体的に呪っている人の名は誰も言わない。しかし、その人の名は全ての人がわかる。
噂の信憑性を審査することもないまま、呪詛の実行犯として、法金剛院の法橋信朝、源盛行、源盛行の妻の津守島子、御子の朱雀の四名が逮捕された。法橋信朝は検非違使に拘束され、残る三名は土佐国に配流となったのであるが、この四人が誰なのかを当時の人は知っていた。法橋信朝は藤原璋子の乳母子、源盛行は待賢門院判官代、津守島子は待賢門院女房となると、待賢門院藤原璋子の周囲の者がことごとく追放されたこととなる。
これに対する藤原璋子の怒りは激しいものがあったが、怒りに震えるかつての有力者というのは、庶民にとってこれ以上無い娯楽の対象となる。怒りを見せれば見せるほど最高の娯楽となり、後ろ盾を失った憎まれる有力者が破滅する道程というのは気分爽快な物語となる。
藤原璋子の破滅の道程は永治二(一一四二)年二月二六日に一つの結末を迎える。この日、待賢門院藤原璋子が出家したのである。前述したが、夫の出家に伴い妻も出家するというのはこの時代において頻繁にみられることであり、高陽院藤原泰子が鳥羽法皇の出家に合わせて自身も出家したというのはおかしなことではない。
ただ、忘れてはならないのは藤原璋子も鳥羽天皇の中宮であった女性であったということ。このあたりの皇室の女性関係はややこしくなるところがあるので整理すると以下のようになる。
鳥羽天皇の退位後も崇徳天皇即位からしばらくの間は天皇の実母として中宮であり続けていた藤原璋子であるが、それでも一年一〇ヶ月が限度。中宮の地位を失ってからおよそ一八年に渡っては公的地位を持たない女性であった。さすがに天皇の実母ともなれば権威を伴うが、崇徳天皇が退位したことでその権威も喪失した。
ただ、藤原璋子には最後の希望があった。このとき一五歳になっていた雅仁親王である。皇太子ではないが、元服している皇族の中ではもっとも近衛天皇に近い親族であり、普通に考えれば雅仁親王が皇位につくと考えるのは当然である。
もっとも、その当然だという考えは鳥羽法皇に通用しない。近衛天皇にいざということがあった場合、鳥羽法皇は藤原得子の産んだ重仁親王に皇位を継承させることを想定していたのである。幼少の天皇でなければ院政のシステムは成立しない。それを考えると元服してしまっている雅仁親王はむしろマイナス要素にすらなってしまう。
さらに言えば雅仁親王の資質にも難があった。自身が早々に皇位継承権から除外されたことを悟っていたこともあって、かなり自由奔放に生きていた。自由奔放過ぎて周囲から白い目で見られていた。
趣味に生きる皇族や貴族は珍しくないが、雅仁親王が好んだのは庶民の娯楽である。田楽や猿楽といった当時の庶民の娯楽を好む貴族も珍しくないと言えば珍しくないが、雅仁親王の田楽と猿楽好きは度を超えていた。何しろ一般庶民を邸宅に招いて田楽や猿楽を披露させるだけでなく、自分もそのダンスの輪の中に加わるのである。ヒップホップダンスにはまるのと同様と考えると、だいたい一致する。
それよりはまった趣味が、今様。現在で言うJ-POPである。それまでの音楽と全く違う新しい流行歌はいつの時代もどの社会にも登場するものであるし、若者がその流行に染まるというのもよくある話であるが、皇位継承権を持つ皇族が流行の最先端を走るというのは異例であった。田楽で踊らない間はずっと歌い続けていて、今の時代に生きていたらカラオケボックスに入り浸りで一人カラオケに専念していたであろう。朝から晩まで歌い続けていたせいで声が出なくなること三回、うち二回はのどが腫れて水を飲むのもできなかったというのだからその程が知れる。
鳥羽法皇は息子のこの姿を見て、藤原璋子の息子であることを抜きにしても皇位に就ける器量ではないと判断した。元服している雅仁親王ではなく生後間もない重仁親王を皇位継承権筆頭とするのは納得いく話でないとする人は多かったが、雅仁親王の様子を知っている人には、雅仁親王を選択肢から外すという決断を最優先させた末の選択として納得する人は多かった。
待賢門院藤原璋子が出家したのも、自分に残されたただ一つの選択肢の現実を目の当たりにしたからであったとも言える。
もっとも、雅仁親王の立場に立つと、同意できるかどうかは別として理解できなくはない。父は母を捨てて他の女性のところに行き、兄が相続した父の資産は、他の女性が生んだ弟のもとに、それも自分よりはるかに幼い弟のもとに渡った。それでも同情されるならばまだ救いはあるが、捨てられた母は日本中から嫌われていて、捨てられた母のことを笑う人はいても慰める人はいない。おまけに、同じ母を持つ兄は母を捨てて父のもとに行き、父とともに幼い腹違いの弟の上に立っている。帝位ではなく矮小な喩話に置き換えたら雅仁親王の立場はこうなってしまうのだ。これでは雅仁親王が自暴自棄になるのもおかしな話ではない。
石清水八幡宮の復旧工事費用負担を拒否したことで園城寺が比叡山延暦寺の襲撃を受けたことは既に記した通りである。ただし、園城寺がこのまま黙っているわけはなく、永治二(一一四二)年三月一六日、園城寺僧徒が延暦寺を襲って東塔などを焼いたことから、二つの僧兵勢力が真正面からぶつかり、合戦へと発展した。
迷惑極まりない武装集団同士が潰し合いをすれば双方ともに自滅するのではないかと考えるのは早計にすぎる。無関係の一般庶民が受ける被害は計り知れないし、仮に無関係の人に被害がまったく及ばないと証明されていても、この国に住む人が武器を手に向かい合って命にかかわる状況にあることを放置するようでは、それはもはや国家ではない。
それに、いかに冷酷な人であろうと延暦寺と園城寺の持つ武力が平安京の東部を守る存在であることは理解している。仮に日本海の向こうにある国が日本海を渡って日本に攻め込もうとした場合、首都平安京を陥落させる最短距離は琵琶湖北岸に近い越前国や若狭国に上陸し、琵琶湖を渡って平安京に襲いかかるというルートだ。上陸を許して琵琶湖を奪われたとき、琵琶湖と京都との間の最終防衛線を担当するのが延暦寺と園城寺を二大巨頭とする寺社勢力の武力である。ここで延暦寺と園城寺の双方が潰し合い、双方が自滅することになったら平安京の東の守備は白紙になる。
現在進行形で複数の勢力が武器を手に争っているとき、武装解除を命じて全ての争いを中止するよう命じることは当然と言えるが、理想を超えて空想ですらある。自分の行動は被害者が加害者に対して見せている正義の抵抗であると考えている者に対してその理屈は通用しない。さらに言えば、攻撃することそのものが目的になっていて、仮に相手をこの世から完全に消滅させたとしても新しい攻撃相手を見つけ出すし、攻撃相手が見つからなくなったら身内から攻撃相手を探し出す。こういう人に話し合いは通用しない。
しかし、話し合いなら通用しなくても殴り合いなら通用する。
殴り合いになったら負ける、あるいは、勝つにしても莫大な損害を被るとなったら、攻撃は中止せざるを得なくなる。後先考えずに突っ走る者がいたとき、まともな集団であるならば集団の中の自浄作用で沈静化できる。自浄作用できなかったら、それは集団そのものの衰退と滅亡を明示するに過ぎない。集団が衰退する気配を見せないときというのは、物騒極まりない集団であっても上層部は意外と冷静なものである。
どうあがいても武力衝突を白紙撤回できないならば、白紙撤回は無理でも武力衝突を抑えつけることを考えるのも執政者としての一つの手段である。しかも、執政者としての鳥羽法皇は法的根拠を持たない執政者であり、かつ出家した一人の僧侶となっているがゆえにかえって自由が利く。国がやったら許されないことであっても、一人の僧侶の独断であると主張すれば許されるようになるのだ。
それが延暦寺の側に立つことであった。武力のメリットがあるわけではないが、鳥羽法皇が延暦寺の側に立つことで延暦寺に正当性が生まれる。それに、今回の件について言えば延暦寺に非はないと言い切ることも可能なのだ。納税拒否をする園城寺に対し正しく納税するように求めただけななだというのが延暦寺の言い分である。その目的が自らの配下にある石清水八幡宮復旧であるし、納税を求める方法が暴力であるというのは支持を得るに苦しい話であるが、それでも正当性を主張しようと思えばできない話では無い。さすがに国として正当性を保証するのは苦しいが、一人の僧侶ということになった鳥羽法皇が個人的にどこかの寺院に協力するというのは、支持を集めるか否かは別として、可能ではある。
永治二(一一四二)年四月二八日に近衛天皇即位に伴い、康治へと改元。
新元号になってすぐ、鳥羽法皇は寺社の争いにおける自らの立場を表明する。
康治元(一一四二)年五月五日、鳥羽法皇、東大寺で受戒。
康治元(一一四二)年五月一二日、鳥羽法皇、延暦寺で受戒。
京都の南の奈良では、奈良の地で圧倒的勢力を持つ興福寺ではなく東大寺を選んだ一方、平安京の東では園城寺を捨てて延暦寺を選んだことで、南都北嶺の勢力争いは比叡山延暦寺が圧倒的優位に立つこととなった。比叡山延暦寺のデモを過激化させる副作用を伴ったが、少なくとも武装蜂起を抑える効果ならばあったのである。
鳥羽法皇が延暦寺の側に立ったことで園城寺は一気に苦しくなった。武装蜂起を考えても、正当性を失ってしまっているという現状はどうにもならない。延暦寺に正当性はないと主張することは可能であったかも知れないが、園城寺に正当性があると主張するのは無理があった。何と言っても納税を拒否したのは園城寺の側であるし、延暦寺に対する武装蜂起も、延暦寺に何をされたかを訴えたところで、突き詰めると納税拒否に対する処罰に対する反発となってしまう。
苦しくなったのは興福寺も同じである。いや、興福寺のほうがより厳しい状況に置かれたとも言える。奈良の地で圧倒的優位を持つと自負していたのに、鳥羽法皇は東大寺を選んだのだ。
仏式で葬儀をあげると故人に戒名がつけられるが、戒名というのは本来、故人への称号ではなく仏門に帰依した際に与えられる名である。授戒というのも戒授かる、すなわち、俗世間との関係を断絶して仏門に入り、残りの人生を僧侶として過ごすことを宣言する儀式である。
出家した者は基本的には授戒の際の寺院に身を寄せる僧侶となるため、鳥羽法皇が授戒が延暦寺であるというのは鳥羽法皇が延暦寺の僧侶になることを意味するのであるが、これが東大寺になると話が変わる。東大寺は単なる寺院ではなく、日本全国に建立された国分寺を統括するのが東大寺だ。いかにこの時代になると国分尼寺が国分寺に吸収されただけでなく国分寺そのものも衰退してきたとは言え、国が統括する仏教寺院の頂点に立つ東大寺での授戒となると、勢力で興福寺の後塵を拝するようになっても、東大寺の権威は裏付けされるものとなる。それも、皇室の権威と歴史の権威の双方で裏付けされることとなる。こうなると興福寺は身動きできなくなる。
康治元(一一四二)年八月三日に、興福寺の悪僧一五人を陸奥国へ追放するという処分が下ったとき、今までであれば興福寺も抵抗を見せていたであろう。だが、ここで抵抗を見せるのは得策ではない時代を迎えた。
そして、一人の人物の復活を招いた瞬間でもあった。