第二部 無力感
さて、長承二(一一三三)年の三月頃から一つの記録が見えてくる。旱魃の記録である。とにかく雨が降らないのだ。もっともこの時点ではまだ慌てた様子はない。単に雨が降らずに作物に影響が出るかもしれないとはあるが、それだけである。この時代、雨が降らないとなれば雨乞いもするが、それすらない。
後の記録を知る者は、このときの旱魃が危機のスタートであることを知っている。だが、それを知らなければこのときの呑気な様子はむしろ正解とするしかない。言い伝えとしても「日照りに不作無し」というのはある。全く雨が降らないのではさすがに作付けに影響が出るが、日本国の河川はそう簡単に水量がゼロになるということは無い。河川の始まりである山はその多くが森林に覆われ、森林はその多くが地面に水をたたえている。足を踏み入れたことのある人は多いと思われるが、その中に、森に覆われた山の地面が乾いているなどというのを見たことがある人がどれだけいるであろうか? 山を覆う森はダムほどの貯水量は無いにしても天然のダムとして河川への水の供給源となり、日照りであっても山を覆う森からもたらされる水分が多少なりとも河川に水を供給する。田植えが始まろうかという時期の日照りは不穏なものではあるが、それで今年の作付け不良を考える人は少ない。地獄の始まりは後世の者が歴史の視点に立つことによってのみ知ることができるものであり、実際に地獄の始まりに立たされた者はその時期を迎えていることに気づかない。
地獄の始まりであることを知らぬ人たちがワイドショー的に着目していたのは、一人の女性の入内であった。長承二(一一三三)年六月二九日、一人の女性が入内した。藤原忠実の娘である藤原勲子である。政界復帰を果たした藤原摂関家の有力者が娘が入内したのだから、これだけを見れば特におかしな話ではない。
ところが、藤原勲子の年齢と、藤原勲子が誰に入内したのかに視点を向けると異例な話になる。年齢はこのとき三九歳。そして、崇徳天皇ではなく鳥羽上皇への入内である。年齢も異例だか上皇への入内など前代未聞だ。
ただし、当時の人はこの入内を異例とは思っても、純粋に祝福すべき入内と考えていた。藤原勲子は三九歳という年齢まで声が掛からなかったわけではなく、運命に翻弄され続け、この年齢になるまで入内が許されずにきてしまった悲劇がこれで終わると誰もが考えたのだ。受け入れる鳥羽上皇も、これだけの年月を経て、それも天皇を辞して上皇となってようやく受け売れることが許されたのかという万感の思いであった。
藤原勲子はもともと、天仁元(一一〇八)年に当時の鳥羽天皇のもとに入内する予定であったのだが、この入内に対して白河法皇の出した交換条件に、父である藤原忠実が難色を示したことで白紙になったという経緯があったのだ。白河法皇の寵愛する祇園女御の養女である藤原璋子を藤原忠実の息子である藤原忠通に嫁がせることが藤原勲子を鳥羽天皇のもとに入内させることの交換条件であったのだが、藤原璋子が亡き藤原公実の子であることに藤原忠実が難色を示したのだ。白河法皇の寵愛する女性の養女なだけであれば藤原摂関家にとって何の問題も無かったであろうが、藤原公実の子となると藤原摂関家の中心が藤原道長の子孫の系統から藤原公実の系統へと移ってしまう可能性が出てくるのである。これは藤原摂関家の主導権争いにおいて許されざる話であった。
とは言え、藤原忠実は娘の入内そのものを諦めたわけではなかった。交換条件なしの入内は模索し続けていて、保安元(一一二〇)年一一月には、白河法皇が熊野詣で京都を離れている隙を狙って鳥羽天皇に入内させようとするところまではできた。実際、鳥羽天皇はこのとき、藤原勲子の正式な入内を公表している。ところが、これに白河法皇が激怒した。藤原勲子の入内を認めないどころか、関白藤原忠実の内覧停止命令まで出したのである。関白から内覧の権利を取り上げるというのは事実上の左遷命令だ。藤原忠実は運が尽きたと言って内覧停止命令に従い、藤原勲子の入内は白紙に戻った。
それから一三年を経て、藤原勲子はようやく鳥羽天皇の、いや、すでに退位して院政を敷いていた鳥羽上皇のもとに入内できたのである。鳥羽上皇にとってはようやく祖父白河法皇の呪縛から逃れることができたということか。
このときの藤原勲子への祝福なのか、この頃になると、旱魃の記録が消え、その代わりに祝福すべき雨の記録が増えてくる。何しろ、ただの雨ではなく霖雨、すなわち恵みの雨とまで記しているのだ。霖雨がなかなか終わらぬこと、それが水害を招き農地にダメージを与えることを、このときの人たちはまだ知らない。
鳥羽上皇は、それまでの藤原勲子に強要された不遇を一気に解消するかのように藤原勲子に特例を次々と与えていった。そもそも上皇に入内するという時点だけでも異例であり特例であるのだが、それですら問題にならぬほど、特例を積み重ねていったのである。
年が明けて長承三(一一三四)年三月二日、まずは女御宣下が与えられた。藤原勲子は天皇の妃ではなく上皇の妃である。上皇のもとに入内した女性が女御になるというのは前代未聞であったが、この後のことを考えれば、このときの前代未聞も儀礼みたいなものであった。
同年三月一九日には藤原勲子が皇后宮に冊立されたのである。これは、女御宣下をはるかに超える前代未聞の出来事であった。同日、藤原勲子は泰子と改名。
白河法皇の逆鱗に触れたために隠居することとなった藤原忠実が政界に復帰し、入内が許されなかった藤原勲子、いや、藤原泰子が皇后にまで上り詰めた。これで、当時の人は白河法皇の呪縛が終わりを迎えたことを悟った。
と同時に、新しい時代の萌芽も現れた。
藤原泰子の皇后冊立と同時に正二位権大納言で実弟でもある藤原頼長が皇后大夫兼任となり、姉のサポートをすることとなったのである。と書けば弟が姉のサポートをすることになったのかとだけ感じるが、実際にはそう単純では無い。いつかは藤原氏のトップの地位に立つことが決まっている藤原頼長を、兄のもとから姉のもとに移すことが主眼だったのである。
藤原泰子の入内から皇后立宮までの過程で穏やかならぬ心境に至ったのが関白藤原忠通である。と言っても、心境を穏やかならぬものとさせたのは藤原泰子ではなく藤原頼長の存在であった。より正確に言えば、父である藤原忠実が、自分ではなく弟を藤原氏のトップにするために藤原頼長に対して露骨な行動を見せたことであった。藤原忠通自身、自分の後を継ぐのが弟の藤原頼長であることは受け入れていたが、それはあくまでも自分の後継者としてであって、父の藤原忠実の威光も、姉の藤原勲子の威光も認められないと考えていた。しかし、今の構造は、自分がいてもいなくても構わない構造になってしまっている。ただでさえ関白でありながら内覧の権利を奪われているのがこのときの藤原忠通であったが、それでも関白にして藤氏長者であるとの自負は抱いていた。しかし、このままでは自分が全否定され、鳥羽上皇から藤原勲子を経由して藤原頼長のもとに藤氏長者の地位が流れていってしまうことは目に見えた。ただでさえ父の復帰で心中穏やかならぬ状態であるところでのこのニュースは、不穏な未来を実感させるに充分であった。
政治家として為すべきは庶民生活の向上である。
この視点で、白河法皇の呪縛から脱却した鳥羽上皇はどうであったか?
天は鳥羽上皇の味方ではなかった。
藤原泰子の皇后立宮とほぼ同時期に京都を洪水が襲ったのである。このときはまだ修理可能な規模の洪水であったが、長承三(一一三四)年五月一七日に発生したこの年二度目の洪水は絶望的なものであった。前年春の日照りのせいでその後の雨を霖雨とまで記したほどであったが、霖雨はなかなか止まなかったのである。それどころか、雨が止まぬことを嘆く記録が増えてきて、止まぬ雨は河川の増水を招いた。いかに森林が天然のダムであると言っても、その貯水能力はダムにははるかに及ばない。すなわち、現在のようにダムがあればどうにかなるであろう雨でも、貯水能力を超えた水量は河川を増水させる。
平安京は、三方向を山に囲まれた地形である上に、東に鴨川、西に桂川が流れる都市であるが、これに加え、都市内の水需要を満たすために南北に多くの水路を張り巡らせている。基本的に、平安京内とその周辺の水は北から南へ流れると考えてもらえればいい。
川の水が溢れるのは上流よりも下流である。より上流から流れ込んだ水が通り過ぎるだけであっても、上流から流れ込んできた水をより下流に流さねばならない。しかし、流し込むべき場所がないとなると限界を迎え、水が溢れる。平安京の地価が北に行くほど高く南に行くほど安くなっていたのも、北の方が貴族たちの高級住宅街であるという認識に加え、実際に水害に遭う可能性を考えれば当然の結果であった。
洪水が起こると、まず打撃を受けるのが平安京の南部である。水が豊富であるからこそ都市として発展できているのであるし、庶民街を形成できてもいたのであるが、水が豊富であるということは水害が起こりやすいということでもある。そして、水害が起こると庶民街が真っ先に被害を受ける。住まいが流され、人が流され、多くの命が失われる。
天災を、天から突きつけられた執政者失格のサインとするこの時代の考えに従えば、この年の二度の洪水は白河法皇の呪縛から脱却した鳥羽上皇に対して突きつけられた天からのサインということになるのだが、当時の人はそう考えなかった。少なくとも、鳥羽上皇を悪しざまに評する人はいなかった。
なぜか?
鳥羽上皇がこの災害に真正面から向かい合ったからである。
本来であればそれは朝廷の仕事であった。平安京の区域内なら京識、平安京の敷地を一歩でも出れば山城国府が最初に向かい合うのが律令に定められた自然災害時の規定であるが、首都であり、かつ、この時代最大の都市で発生した大規模自然災害で、それは地方の仕事であって国の仕事でないと突き放すようなことがあればそのほうがおかしい。しかし、このときの朝廷は何もしなかった、いや、何もできなかったのだ。何もできなかったからこそ鳥羽上皇が真正面から向かい合ったのだ。
鳥羽上皇が何をしたかの前に、朝廷がなぜできなかったのかの記す必要がある。
そもそも、朝廷はなぜ何もできなかったのか?
答えは簡単で、予算が無かったのだ。
まったく、この時代の朝廷の資産の少なさは異常だ。徴税という仕組みが無くなったわけではないが、どこもかしこも荘園になってしまい、荘園領主への年貢は納めても国への税は払われず仕舞い。乏しくなった朝廷資産をどうにかしようと朝廷が徴税できる荘園外の土地に税を課すも、税率が重くなって払えずに逃亡。逃げ込む先が荘園ならまだマシで、強盗集団や海賊に流れ込んでしまう例も続出とあれば、これ以上の増税は無理だ。かと言って、荘園に税を課そうとしてもそれはもっと無駄。そもそも荘園の存在意義の第一は税に頼らない生活である。税を納めないが税に頼らないというのが荘園であり、その権利を自らの権勢で認めさせているのが荘園領主だ。有力寺社が荘園領主である場合はともかく有力貴族が荘園領主だと、彼らはこのような行動に出る。
自分は税を払わないが他者には税を払わせる仕組みでの増税だ。
それでも白河法皇の前まではどうにかなったが、白河法皇以後は、それまで税を払わされて続けていた土地がことごとく院の荘園になった。こうなるともっと税が徴収できなくなる。結果は財源の絶望的な不足だ。
この年、二度の洪水が京都を襲ったと記した。そして、一度目は修理可能な規模であったが、二度目はそう記さなかった。二度目のほうが規模の大きな洪水であったこともあるが、それより重要な問題があった。朝廷が捻出できる予算が一度目の水害で枯渇したのだ。現在のように赤字国債という概念があれば税収以上の支出も可能となるが、この時代は税収だけが支出可能額である。
国家の歳入不足の問題は以前からあったが、そのときは有力貴族、特に藤原摂関家の私財による緊急出動という方法で回避できていた。藤原道長のように平安京を襲った火災に対処すべく全資産を供出することだってあった。しかし、この時代になるとそれも期待できなくなった。藤原摂関家始めとする有力貴族が吝嗇になったのではない。私財そのものが減っていたのだ。藤氏長者は一人しか就任できないが、藤氏長者が藤原氏の全資産を手にするのではなく、継承するのは父の資産の一部である。藤原氏に次ぐ有力貴族の源氏に至っては、藤氏長者に相当する概念そのものは存在するものの、それが資産を伴うものではなく、資産は各々が築き子供に継承させている。子供が複数いれば分割される。分割された資産を元手に荘園開拓をして資産を増やすことはあるが、それで父代を超える資産を築き上げることは極めて少ない。この時代から見て一〇〇年前の藤原道長のように全資産供出をしても、一〇〇年前の藤原道長のような成果は得られなくなってしまったのである。
これで、なぜ鳥羽上皇が災害と真正面に向かい合ったかの答えが出る。この時代の資産状況で、国家予算に代わって救済にあたれるだけの資産を持つのは、ただ一人、鳥羽上皇しかいなかったのだ。
鳥羽上皇は白河法皇の作り上げた院というシステムの継承者であり、その資産の大部分を増やしただけでなく、院というシステムの拡張という形で自らの資産を増やした人でもある。ただし、出て行く額も大きかった。白河北殿や三条烏丸殿といった建物を建てさせているのも、建物を建てることそのものよりも、建設という仕事を用意しての失業対策であり、同時に、災害からの復旧までの仮の住まいの提供という意味も持っていた。建設するとき、真っ先に建てるのは建設作業員用の宿舎であるし、建設期間中は食事も出る。建設に関われば衣食住のうちの食と住が保証されるとあれば、当面の生活はどうにかなる。また、建設技術を学べば、朝廷や院、有力貴族や寺社といったところでの建設需要に応えることのできる技術者にもなれるし、この時代の一般庶民の家の構造を見れば、自分で自分の家を建てることも可能だ。建設現場で働いて稼いだ額で建築用資材を買って、水害で流された自宅を自力で建てなおすことは非合理的とは言い切れなかった。
こうした鳥羽上皇の救済策についてこのように考える人はいないであろうか?
建設現場で働けない子供や女性や高齢者はどうなるのか、と。
鳥羽上皇はこれについても対策を出している。もっとも、建設が水害からの復興対策だと考えた鳥羽上皇が、それでは救いきれない人がいると気づいて打ち出したであろうことは推測可能だ。というのも、対策を出したのが遅すぎるのだ。
その対策とは、コメの支給である。年が明けた長承四(一一三五)年、鳥羽上皇はコメの無料配布を始めた。コメは食料であると同時に、貨幣経済が復活しつつあるものの依然として貨幣としての価値も持っている。そのコメを無料で配布するというのは、食糧支援と同時に災害被災者への義援金でもある。鳥羽上皇が配布したコメの量は、長承四(一一三五)年三月一七日に一〇〇〇石、四月八日に三〇〇〇石という数値を数えた。このときの無料配布に集まった民衆の様子を、当時の記録は「千万人集会」と書き記している。
スタートは水害に対する復旧支援であったが、鳥羽上皇のもとには、そして、朝廷のもとにはこの頃、水害より深刻な、しかし、人間のやることであるがために人間の手でどうにかなる問題の報告が届いていた。
長承四(一一三五)年四月に届いた瀬戸内海の海賊問題だ。
朝廷では誰がどのように対処すべきなのか議論が集中した。具体的には、源為義と平忠盛のどちらを派遣すべきかという点で議論が二分していた。海賊を犯罪集団と捉えると、鳥羽上皇から拒絶されるようになったとは言え源為義はなお検非違使であり、警察権力の発動ということではおかしなことではなかった。一方、平忠盛の公的地位は備前守であり、瀬戸内海に面する令制国の国司が軍を指揮して治安維持にあたることもまたおかしなことではなかった。そう、公的には。
ただし、検非違使を送るか国司に軍事行動をとらせるかというのは名目であって、実質はどちらの武士を派遣するかという問題であった。源為義を推す貴族は、軍事力そのものは清和源氏の方が優れていると述べ、平忠盛を推す貴族は平忠盛の海戦経験を述べたのであるが、そこには裏事情も存在したのである。海賊討伐は危険な職務であるために見返りも大きなものとなる。この時代の見返りと言えば、位階か官職のどちらか、あるいはその両方ということとなる。この時点で源為義はまだ貴族の一員とカウントされていないが、平忠盛は貴族の一員としてカウントされているだけでなく、その息子の平清盛まで貴族の一員とカウントされるようになっている。ここで海賊討伐という危険な任務に対する褒賞を用意するとなると、源為義相手であれば位階も官職もさほど大きなものとならないが、平忠盛のものとなると相当に大きなものと、それこそ、今まさに議論をしている貴族たちを追い抜く権勢を手に入れるほどのものとなる。
貴族たちの議論が並行している最中、議論の趨勢を決めたのは鳥羽上皇の意見であった。鳥羽上皇は源為義派遣に対し「為義を遣わさば路次の国々自ずから滅亡か」と述べたと当時の日記に記されている。これで源為義を派遣するという意見は完全に潰えた。
それにしてもなぜ、鳥羽上皇は源為義をここまで否定したのか。
大治四(一一二九)年に暴行事件の犯人逮捕のために奈良に派遣された源為義が、逮捕ではなく容疑者を保護したために鳥羽上皇の怒りを買ってから五年以上経過している。その間、鳥羽上皇が怒りを抱き続けていたのはその通りであるが、源為義は源為義で、怒りを鎮めさせるどころか火に油を注ぐことをしていたのである。延暦寺の僧侶を逮捕させようとしたら、誤って無関係である藤原季輔に源為義の郎党が暴行を加えたという事件があった。藤原季輔は、鳥羽上皇から見て母方の従兄弟にあたる人物である。また、丹波国に郎党を派遣したと思ったら、犯罪者の逮捕どころか郎党のほうが殺人事件を起こしたという事件もあった。どちらも源為義自身ではなくその郎党の所業であるが、武士団を率いる人間であるにもかかわらず、部下がこのようなことをしても何もできないでいる人物を、果たして信頼できるであろうか?
長承四(一一三五)年四月八日、平忠盛に対し海賊追討の命が下った。その日は奇しくも、鳥羽上皇が二度目のコメの無料配布を実施した日でもあった。
長承四(一一三五)年四月二七日、保延へ改元。
ほぼ同時期に、平忠盛の軍事行動が始まった。
瀬戸内海からは平忠盛の軍事行動の様子が京都に届いていた。
見事なまでに海賊を討伐していく平忠盛からの戦況報告に京都は沸き返ったが、同時に一つの噂も流れ始めた。平忠盛から届く戦況報告がウソなのではないかという噂である。
この時代は現在のように戦場報道記者や戦場カメラマンなど存在しない。見えないところで戦闘があることは知っていても、戦況報告は公的な記録か非公式な伝聞のどちらかしか存在しないのである。この時代の瀬戸内海はこの時代の最重要交通路でもある。人も、モノも、情報も、瀬戸内海を通ってくるのが最も早い。にもかかわらず、瀬戸内海で行われているはずの戦闘についての情報が流れてこない。これは異常だと誰もが感じた。商人が船に乗って西から東にやってくるし、漁師が瀬戸内海に出て漁をしているのだから、瀬戸内海で繰り広げられているはずの戦闘についての伝聞が届かないのはおかしい。ただし、海賊がいるのは事実で、被害にあったという報告ならば届いている。
この奇妙な事態は保延元(一一三五)年六月の情報でピークを迎えた。平忠盛から海賊集団の首領を逮捕したという情報が寄せられたのだ。
四月に出発して六月に逮捕。時系列的におかしくはないが、早い。出発してから何もかもがうまくいきすぎていて、公式情報は平忠盛からの報告しかなく、瀬戸内海を通る商人からも、瀬戸内海で漁をする漁師からの伝聞もないというタイミングで首領逮捕の情報が届いたのである。
平忠盛が凱旋したのは同年八月一九日。凱旋する軍勢の中には捕らえられた海賊七〇名の姿もあった。壮大な軍事パレードは平安京の人たちを熱狂させたが、同時に、冷めた目で迎え入れられもした。この日の様子を権中納言源師時はその日記に「忠盛朝臣虜海賊七十人渡検非違使」と平忠盛から七〇名の海賊を検非違使に渡したことを記しているが、同時に、「此中多是非賊只以非忠盛家人者號賊虜進云々」と海賊の多くは忠盛の家臣ではない者を海賊ということにして捕らえて連れてきたのではないかとも書き記している。
さらに不可解であったのが、平忠盛が凱旋した二日後の保延元(一一三五)年八月二一日に平忠盛本人ではなく、その息子の平清盛が海賊討伐の功労として従四位下に叙せられたことである。本人ではなく息子がこのような処遇を受けるのは異例中の異例であり、この一件は、平清盛は平忠盛の子ではなく白河法皇の隠し子であるという噂に拍車をかけることにつながった。
ただ、こうした噂は無責任なものであるとも感じる。
実は、平忠盛が海賊討伐に出向いたとき、平清盛も実際に従軍しているのである。いや、従軍していたどころの話ではない。平忠盛が全体の指揮をとるが、軍勢は大きく二分され、半分をこのときわずか一八歳の平清盛が率いていたのである。平忠盛の率いる水軍となると、瀬戸内海だけでなく日本近海の海賊が姿をくらます。平忠盛がいる間は海賊が静かになるが、平忠盛がいなくなると再び暴れ出すというのはもはや通例になっていた。だとすれば、平忠盛が軍勢を指揮するわけにはいかない。姿を見せない海賊を拿捕することはできないのである。そこで、息子に軍勢の半分を指揮させ、平忠盛がいない代わりに息子が指揮しており、その上で、平清盛は海の経験が乏しいのだと思わせる行動を取らせたのである。海戦指揮に慣れた者がトップに立つ軍勢は航行する船の並びからして違う。いつでも攻撃できるように、それでいて攻撃を受けても防ぐことのできるように整然と並んでいる。一方、平清盛が指揮する船団はバラバラ、のように見えた。親が海戦のスペシャリストでも息子はそうではないという情報が伝われば海賊も出てくる。海賊にしてみればここで平清盛を拿捕すれば、さらには殺害に成功すれば、平忠盛に対する大打撃を与えることも可能だ。うまくいけば海賊稼業を今以上に堂々とできるようになる。
船の並びがバラバラである平清盛の軍勢を見た海賊は海戦に打って出た。と同時に、海賊たちは思い知った。平清盛の率いる軍勢は囮で、平忠盛の率いる本隊は後ろに控えていることを。平忠盛は息子に囮をつとめさせて海賊を引き出し、回り込んで挟み撃ちにすることで海賊拿捕を狙ったのである。作戦としては申し分ないものであった。
ただ、平忠盛の立てた作戦は、予想を良い方に裏切った。平清盛が父の軍勢を必要とせずに海賊に完勝してしまったのである。囮が持ちこたえている間に駆けつけて海の上でとどめを刺そうとしていた平忠盛が目の当たりにしたのは、海戦の光景ではなく、息子が捕らえた海賊たちの姿であり、伊勢平氏の武士たちを完全に掌握した息子の姿であった。
こうなると、いかに平忠盛が総指揮をとっていると言っても、評価すべきは平清盛となる。平忠盛は何もしていないではないかという不満すら伊勢平氏の武士たちの中に生まれきつつあったのである。この現状を踏まえると、平清盛に何の褒賞も与えないというのは得策ではなくなる。平忠盛が総指揮をとった軍勢のうち、別格で優れた功績を残した平清盛を従四位下に昇格させることは、異例どころか、あるべき姿と評するしかなかった。
さて、海賊跋扈の話が瀬戸内海から届き、その対処を平忠盛に命じ、討伐の主軸を為した一八歳の平清盛に褒賞として位階を与えたところまでは鳥羽上皇は正しい判断をしたといえる。
しかし、海賊跋扈の真因について対処をしなかったことについては称賛できなくなる。
海賊跋扈の真因、それは、不作である。収穫が乏しくなってしまったのだ。収穫が乏しくなり、市場に出回る食料品が減り、都市生活者が食料を手に入れることができなくなった。水害は直接の原因であり、水害復興を目的とした公共事業投資は失業者を減らす効果を生んだが、食料品が出回らない以上、働いて給与を得たとしても食料を手に入れることはできない。タイミングの悪いことに、貨幣経済が復活しつつあった。そして、建設労働者に支払われる給与は、従来であればコメや布地であるべきところが、コメ、布地、そして宋銭という三重構成になってしまったのだ。これまでであれば、給与として受け取ったコメをそのまま調理して食べることもできたし、コメを持って市場に行って欲しいモノを手に入れることもできた。コメが足らなければ布地を持って市場に行けばコメが買えた。
ここに宋銭が絡んだ。宋銭を持って市場に行っても、そもそもの収穫量が足らないのだから市場にコメをはじめとする食料品は並ばない。それでいて食料品を欲しがる人は多い。こうなると、ただでさえ乏しい食料品の値段は上がる。消費財の生産が悪化しているときに給与を増やすとハイパーインフレが始まるのは古今東西どこでもある話だ。
それでも職を得て給与を得ている人はまだマシと言える。問題は職に就けない人だ。年齢や性別、疾病や怪我といった、本人の意思ではどうにもならない人に、働かざる者食うべからずなどと言い放つ人はいない。だが、食えないという現実は容赦なく押し寄せる。鳥羽上皇は平安京内外の貧しい人のためにコメの無料配布をしたが、それは一次的な対処でしかなかった。より深い問題、すなわち、そもそも今後どうやって生きていくかという術を失った人に、明日の生活を保証する必要はどうしてもあった。具体的には食料ではなく、多様な職業を用意し、健康上の問題や年齢とか性別とかいった事情で職業が絞られる人にも職業で食料を得る術を用意しなければならなかったのに、鳥羽上皇は、そして、このときの朝廷は、全くと言っていいほど用意しなかった。公共事業は失業者を減らすが、ゼロにするわけではない。
職もなく、食にありつけぬ人が増えた結果が海賊であり、海賊討伐に待っていたのは飢餓だった。保延元(一一三五)年には不作と食糧不足の傾向が見られるというニュースであったのが、翌保延二(一一三六)年になるとはっきりと飢餓というニュースになる。京都市中で餓死者が続出するようになったのだ。
西暦一一〇〇年頃は現在よりも海水面が高かったが、毎年海水面が下がってきていたことを、地形に残された痕跡は伝える。現在は地球温暖化が環境問題となっているが、この時代は現在と逆に寒冷化が環境問題として存在していたのだ。
それでなくともコメというのは熱帯性の食物である。気温が下がればそれだけで収穫が減る。ただ、それだけでコメの作付けが悪くなったわけでは無い。寒さも要因の一つであるが吹き荒れる台風もコメの作付けに大打撃を与える。風そのものもそうだが、台風が生み出す水害はもっとそうである。
それでも、一年間だけであれば翌年の収穫に希望は持てる。ところが、保延二(一一三六)年の飢饉は一年だけの特例として発生した飢饉では無かった。複数年に渡っての寒冷化と自然災害、そして人災が招いた飢饉だったのだ。
最初の記録は長承二(一一三三)年の三月に見える。ただし、そのときは単に水不足を伝える記録であり、水不足であるが一時的なものとしか感じられず、この時点ではまだこの年の収穫に不安を感じさせる記録では無い。しかし、長承二(一一三三)年の八月になって記録に登場するようになるのは、水不足の逆を行く霖雨である。霖雨は本来であれば恵みの雨である。水不足なのだから降りしきる雨は恵みの雨であろう。霖雨の記録の始まりは雨を喜び歓迎する記録である。ところが、雨が止まない。いつまで経っても青空が姿を見せないのだ。結果は凶作。実るコメの粒が減ってしまった。
コメは複数年の貯蔵が利く食物である。貯蔵していれば一年の不作ならどうにか耐えることもできる。しかし、二年、三年と続くと耐えることは困難になる。長承三(一一三四)年は前年と同様に雨が降ったことを伝えるが、そこに霖雨の記録は無い。あるのは水害の記録である。
水害だけでも充分に大問題となる自然災害であるが、長承三(一一三四)年の記録は水害だけで収束してはくれない。台風と大火がここに加わり、年末になると咳病が大流行した。今ではインフルエンザの大流行と記録に残るであろう。
食糧不足イコール飢饉ではない。食糧不足の状態にとどめておいて食料生産をどうにかすれば、あるいは食料輸入を国策として展開すれば、飢饉を防ぐことはできる。ましてや、南宋はコメの生産が需要と供給のバランスを崩しコメの価格が下がっていたのである。つまり、南宋からコメを輸入するという手もあったのだ。理論上は。しかし、朝廷は食料輸入を選ばなかった。あるのは民間が利益を求めて行う私的交易のみであり、国家戦略としての海外公益ではなかったのだ。
食糧不足イコール飢饉ではないが、飢饉の恐れとはイコールである。目の前に食料が無く、明日の食事はどうやって手に入れればいいのか、明日はどうやって生きていけばいいのかという恐れは飢饉への恐れを生み出す。その恐れを時代の執政者への不平不満として訴えているうちはまだいい。不平不満を述べるということは公権力でまだどうにかできると考えていられるのだから。もっとも、自分が公権力を握れば問題が全て解決すると考える図々しさも持ち合わせているのだから、脳天気といえば脳天気な話でもあるとは言える。しかし、公権力でどうにかなる話ではないと考えるようになると、すなわち、自分の明日は自分の手で作り出さなければならないと考えるようになると、絶望的な社会が到来する。アナーキズムだ。アナーキズムとカタカナで記すと穏やかな感覚になってしまうのは日本語の悪しき点であるが、アナーキズム、日本で言う無政府主義というのは、公権力の存在しない無秩序状態を意味する。生きるために働くのではなく、生きるために盗みあい、奪いあい、殺しあうという状態だ。働いて得た収穫は奪われる対象でしかなくなるというのに、これで誰が真面目に働くというのか。自分が公権力を握れば問題は解決するという脳天気さを持ち合わせていないだけマシと言えるが、アナーキズムの民度もたかが知れている話である。海賊にしろ、山賊にしろ、公権力に楯突くという点ではアナーキズムである。世の中には様々なアナーキズムが存在するが、その全ては強盗集団の言い換えでしかない。
アナーキスト集団が、より正確に言えば強盗集団が暴れまわる中で、真面目に田畑を耕し、真面目に海洋に出て漁労に励むことができる人は少ない。その少ない人というのは、強盗集団に立ち向かう勇気のある人たちではなく、強盗集団を力でねじ伏せることのできる武力を持った人たちである。一見すると自分たちで自分たちを守る、あるいは自分たちを守ってくれる人たちがいるという安心感を抱くかもしれないが、これはかなり危険だ。自分たちの生産を守るのではなく、自分たちの生活を守るようになった場合、生きていくために他者の生産を奪うという選択があるのだ。
スタートは天候不順による作付不良という天災でも、時間とともに人災による収穫不足へと変わる。それは飢饉への恐れから、飢饉そのものへの変化に等しい。そして、飢饉に直前した人が流れ込むのは都市であるというのは古今東西変わることのない現象である。都市に行きたいから都市に行くのではない。都市しか生きていられる可能性のある場所がないから都市へ行くのだ。そして、この時代の都市と言えば、平泉、奈良、難波、太宰府、博多、そして、それらの都市の全てを上回る規模である京都。これらの都市に人は集まり、今の安全と未来の可能性を求めた。ただ、その可能性は簡単に失望へと変わった。
保延二(一一三六)年一月七日付として信じられない記録がある。『百錬抄』のこの日の記事には「節会、公卿饗無飯」、すなわち毎年一月七日に開催する皇室の行事のために集った貴族たちに対し、朝廷が饗宴用の料理を用意することができなかったというのである。いかに食糧不足とは言えこれは異常だ。食糧不足に対するアピールとして「朝廷も料理を提供しなかった」と公表して「お偉いさんがたは旨いもの食いやがって」という怒りを沈静化する意味もあったであろうが、「朝廷ですら料理が出ない」というのは飢饉への恐怖を増幅させる効果もあったのだ。
保延二(一一三六)年の飢饉について、朝廷でどのような検討がなされたかの記録が残っている。崇徳天皇の名で勘申、すなわち、現状の分析とその対策を広く求めたのである。これは朝廷の限界を示すというよりも、不満をそらせる効果のほうが大きい。と言うのも、誰もが現在の状況も問題を認識し、その上で解決することを願っているのだ。分析と対策を挙げさせるのは、その願いの難しさと、案を出したときの稚拙さを悟らせる効果を持つ。もっとも、ごく稀ではあるが具体的で実行可能、それでいて稚拙でないという意見も存在する。そうなったら意見を挙げさせた者を抜擢して担当者にすればいい。報酬は出世、それでいて問題は解決するのだから不都合ではない。
もっとも、天皇への上奏は制度化されている。理論上は誰でも上奏可能だ。ただし、途中に何度もフィルタが挟まる。通常であればいかに有力貴族の意見であろうと議政官の検討を経なければ天皇まで上奏されないのであるが、勘申となると途中を経ずに直接天皇のもとに意見が届く。これは自らの優秀さを疑わず、出世を狙いながらも出世を果たせずにいる貴族にとっては人生一発逆転のチャンスであり、これまでにも何人かの貴族が勘申によって出世を遂げていた。保延二(一一三六)年の勘申においてもこのチャンスを狙った貴族はいて、その貴族の提出した勘申が現在でも残っている。
現在まで残る勘申を提出したのは藤原敦光。藤原敦光はどのような理由で飢饉となり現在の事態へとなっているかを述べたのち、その対策を書き記している。
現在の状態に至った理由として藤原敦光が挙げているのは、伝染病の流行、自然災害、治安悪化の三点であり、その上で、三点を包括する解決策を挙げている。
まず、仏門への信仰心の低下が原因の一端であるとして、寺院の建立と再建、そして大般若経の写経を国費で行うべきと主張し、伝染病の流行以来見られるようになっていた患者の路上放置の禁止の再確認を述べた。伝染病が流行しだすと、家族の誰か、あるいは使用人の誰かが罹患した、あるいは罹患したという疑いがもたれただけで、家の外へと放り出されることが当たり前に見られたのがこの時代である。伝染病のメカニズムは知らなくとも、伝染病患者の近くにいることで自分も罹患する可能性が高まることは知られていた。ゆえに、伝染病に罹らないようにするには、患者を遠ざけるか、自分が患者から遠ざかるというのがこの時代の在り方だった。
法はこのような非人道的な行いを禁止していたが、守られていなかったのである。藤原敦光は改めて、患者の遺棄は禁止されていることを周知徹底させ、患者は家族が面倒見ること、面倒見る家族がいない場合は寺院が面倒を見ることを主張したのである。寺院興隆の国庫負担は、患者救済を寺院に負担させるという流れでの社会福祉政策でもあった。
なお、患者の面倒を家族が看るとなると家族の負担が増える。国民皆保険制度どころか近代的な病院という概念もなく、さらに薬はもっぱら輸入に頼っているとなると、患者を個人で面倒見ることに対する費用と時間の負担はかなりのものとなる。そこで藤原敦光は、減税、無償強制労働の廃止、そして、就職先として役人への登用を提唱している。役人は給与が定期的に支給されるだけでなく、家族の介護のための休暇も認められている、この時代にあって数少ない職場である。
就職先としての役人への登用といっても、能力もないのに役人とすることはできない。少なくとも読み書きはできなければ役人として働くなど到底できることではない。そこで、藤原敦光は学校制度の再興を訴えた。大学を、この時代の正式な名で言えば大学寮をトップとする律令制時代の学校制度はこの時代も形の上では残っていたが、荒廃が甚だしく、大学寮の建物が崩れ、敷地内は草木が生い茂る有様であることを訴えている。本来であれば各令制国ごとに国学があり、そこで優秀な成績を収めた者が平安京に上京して大学に入り、大学を卒業して役人になるというシステムであったのだが、大学を卒業しても任官が難しく、任官できたとしても成績より家柄が求められるとなると、大学に通うことのメリットが無くなる。
能力ではなく家柄で役人を求めるとなると役人の質の低下が懸念されるところであるが、その問題は無かった。藤原氏をはじめとする有力貴族は自前の教育機関を設けて人員育成をし、こうした独自の教育機関を卒業した者を役人として採用すれば役人の質は維持できていたのである。ただし、こうした自前の教育機関に通うことができるのは、藤原氏の経営する勧学院なら藤原氏だけというように、学校の段階で家柄での選抜が行われている。それではあまりにも不公平ではないかとなるが、事実上はともかく理論上は、誰であろうと入ることの許されている大学寮が存在しており、藤原氏の勧学院であろうと、国の経営している大学寮であろうと、そこに差はないということになっている。この状態で貴族独自の教育機関だけで人員を充足できるとなると、公教育に対する重要性への認識が薄れてしまう。このような教育環境ではダメだと思う者は多いとしても、必要とする人材は充足できているではないかとなると、公教育に予算を割くという考えを浮かべることすら難しくなる。
公教育への予算の必要性を考える者でも、予算には限度があること、公教育への予算を増やすとどこかの予算を削らなければならないことはわかっている。そうでなくとも藤原敦光は減税を主張しているのだから、減税が展開されるとなるともっと国庫収入は減る。さらに言えば、現在ではボランティアという名で呼ばれ、この時代は「庸」や「徭役」と呼ばれていた無償強制労働も禁止と主張しているのだから、今までのように働いてもらうためには相応の報酬を出さなければならなくなる。つまり、出費が増える。収入が減って出費が増えるところでさらに出費を増やすことを求めるのだから、藤原敦光の主張は無理があるが、これも藤原敦光は考えている。無駄な支出を減らせば必要出費は捻出できるとして緊縮財政を求めるだけでなく、新たな財源を提唱している。現在の感覚で行くと所得税の累進課税、あるいは、個人所有資産に課す税を主張したのである。それも、新しい税を導入するのではなく、現行法で対応可能だとしている。本来ならば払わなければならない税を金持ちが払っていないのが問題なのだから、法を厳密に適用して金持ちに税を課せばいいというのが藤原敦光の主張であった。
この延長上で治安の回復も可能であると藤原敦光は主張した。寺院再興と学校制度の復活は平安京だけの話ではない。いや、平安京はあくまでも一地域であり、藤原敦光の主眼はむしろ地方にこそ向いていた。海賊や山賊となって暴れ回るのは、海賊や山賊にならなければ生きていけないからであり、寺院再興を図ることで寺院に地方の福祉を担わせ、学校制度の復活により全国各地の者に幅広く職を与えることができると考えたのである。職があれば犯罪に走らなくとも生活できるし、職に就けなくとも寺院が救済に当たれば、やはり犯罪に走る必要がなくなる。
さらに、教育の推進は寺院再興だけでなく寺院対策にもなっていた。すでに述べた通り、この時代の公教育は完全に破綻していた。しかし、どの時代であろうと学習する意欲のある者はいる。学びたいのに生まれのせいで学ぶ余裕を持てずにいる者に対し、学習機会を用意していたのが寺院であった。寺院には学習の機会が存在していた。文字を学ぶことに始まり、本を読むこと、それも、仏典だけでなく社会科学や自然科学の本を読むことも可能であった。そして、著述を残すことも認められていた。僧侶になり、寺院のために働くことという制約はつくが、この時代、寺院というのは数少ない研究学習施設でもあったのだ。
それに、寺院の中というのは実力がまだ通用する世界でもある。皇室に生まれた、あるいは藤原氏に生まれた者が出家して寺院に入るのはさすがに特別扱いされることが多いが、それでも理論上は、貧しい一般庶民の生まれの僧侶と区別されることはなく、寺院の中では一人の僧侶であるという扱いになる。裏を返せば、どんなに貧しい生まれであろうと僧侶としての実績で寺院の中で出世できる可能性がある。僧侶としての地位が上がれば貴族に匹敵する社会的地位と生活を手に入れることができるし、地元に残した家族を養うことも可能だ。
野心ある者を集める理由が寺院には存在していた。その野心は学問だけとは限らない。
僧兵を苦々しく思う者は多かったが、それでも僧兵の人材不足に陥ることはなかった。学ぶことに興味を示さなくとも僧兵として寺院の警護にあたる者を寺院は常に求めていて、常に人手不足状態であったのだ。深く考えること無く武器を持って暴れていれば生きていけるとなったら、武器を持って暴れる訓練を積むことが求められるものの、これまでの暮らしよりは楽で、今までよりも社会的地位の高い暮らしが待っていることとなる。寺院は人生一発逆転のチャンスを用意する機関でもあったのだから、今までの人生のままで良いのかと考える者を誘えば人材不足に困ることはない。
藤原敦光が公教育の復活と役人登用を提唱したのは、学習の機会と、人生一発逆転のチャンスの両方を、寺院の外に設けることにもつながることでもあった。僧侶になりたくて出家するのではない。学びたいから、あるいは、生活を好転させたいから出家するのである。出家せずとも学ぶことができれば、そして、人生を変えるチャンスを手に入れることができるならば、寺院の人材過剰を抑え、さらには人手不足に追い込み、僧兵のデモを今よりも小さなものとすることも不可能ではなくなる。
これらが藤原敦光の勘申の内容である。
一見すると納得できる提言に見える。おまけに、新しい法は不要で、全て現行法で対処可能だ。いかに感情的に許せないことであろうと法が罰則を定めていなければ罰することもできないし、許せないからと法を作ったところで、その時点では適法であったことを新しい法律を遡らせて罰することもできない。今の日本でそれができるのは日本サッカー協会だけである。しかし、現行法で処罰可能なら罰則の適用も問題ない。これまで裁かれなかったことのほうが間違っているのであり、今後は正しい姿に戻すのだと宣言すればそれで終わる。
藤原敦光は藤原氏であるが藤原北家の人間ではなく藤原式家の人間である。藤原北家ではないにしても藤原氏であるのは貴族社会で多少は有利に働いたかもしれないが、基本的には自身の学識を以って出世してきた貴族である。勘申を提出した時点の藤原敦光の役職は式部大輔、すなわち、朝廷の役人の人事を司る式部省のトップであり、大学を卒業した者に試験を課して役人として採用するのも式部省の管轄であるところから、大学の実情、そして、教育環境にも目が向いて、この勘申を提出したのであろう。
ただ、現実離れした勘申であるとも言える。
根本原因は寒冷化による収穫悪化である。田畑を耕してもこれまで通りの収穫を残せないという大問題があり、それでもなお、これまで通りの納税を求めてきたのが全ての根幹なのだ。税の苦しみから逃れるために田畑を捨てて逃げることもあったし、武士に頼んで、あるいは自分自身が武装して力づくで税から逃れようとすることもあった。そして何より、荘園があった。荘園の住民になれれば、年貢はあるが税は消える。荘園領主への年貢は国の求める税より安い上に、荘園の住民になれば国が行うよりも優れた福祉を享受できるのだ。藤原敦光の勘申は、荘園については何も記していない。荘園などこの世に存在しないかのように無視されている。自分は寺社に仕える神人や僧であると主張して税を逃れる者がいるという現状認識は述べられているが、荘園については何も記されていないのだ。
荘園について記さない理由は容易に想像できる。このような提言をする者によく見られる傾向であるが、誰かの負担を増やすことは提唱しても、自分の負担を増やすことを提唱しはしない。自分は今まで通りの暮らしをし、あるいは、自分は今まで以上の暮らしを過ごせるようになることを目論み、その上で、他者に負担をさせることで全体の底上げを図ることが普通だ。これは藤原敦光も例外ではなかった。
藤原敦光は、その学識と洞察力ならば評価された。しかし、藤原敦光が真に狙っていたこと、すなわち、出世は果たせなかった。そして、崇徳天皇の名で集められた勘申は飢饉対策にならなかった。時間を経ての沈静化を待つしかなかった。
藤原敦光は自分の意見を自画自賛した。ただ、その自賛に崇徳天皇が応えることはなかった。朝廷が圧力をかけたわけではない。崇徳天皇が勘申の内容を理解しなかったわけでもない。問題の根本解決につながらないと判断したのである。それはこの年の人事からも明らかであった。
保延二(一一三六)年の飢饉は平安京内外の多くの人の命を奪った。
その中には、飢饉とは無縁であるはずの貴族たちも含まれていた。飢饉のさなかでも食料を手に入れることは可能であろう地位の人であっても、天候不順と伝染病の流行は身分の差など関係無しに襲いかかる。
まず倒れたのが権中納言源師俊である。一月一三日に病状が悪化し、政界引退を表明すると同時に出家した。ただし、源師俊は他の人より恵まれていたと言える。というのも、出家したもののただちに命を落とすことにはつながらなかったからである。
四月になると、源師俊の兄で、弟と同じく権中納言である源師時が倒れた。四月六日に出家したという情報が伝わってきて間もなく、同日中に命を落としたという情報も届いた。
四月一四日、今度は左大臣藤原家忠が倒れた。体調が悪化し、本来なら禁止されている牛車での宮中入りが許可されるようになったことで左大臣藤原家忠の容態は世間の知ることとなった。それでも体調回復を図ったようであるが、五月一二日、藤原家忠は自らの体調悪化を悟り、政界引退を表明すると同時に出家。しかし、この出家も体調回復につながることはなく、五月一四日に帰らぬ人となった。享年七五。
現在でも四ヶ月という短期間で内閣の大臣が三人も辞職したら、それも健康上の理由で辞職したら大騒動となる。さらに言えば、組閣間もなくの混乱ではなく、安定政権となっていた上での体調悪化による辞任の連発であるのだからさらなる大騒動だ。保延二(一一三六)年という、ただでさえ飢饉で世相が不安になっているところで起こるとなると、騒動にさらに拍車が掛かることとなる。特に左大臣藤原家忠が不在となったのが痛かった。藤原家忠の統治能力が高いからではない。藤原師通の異母弟であり、藤原忠実からみて叔父にあたるという血統の高さが周囲に幅を効かせる要素となっていたのである。
四ヶ月間で三人亡くなったことに加え、七月一日に参議藤原家保が、一〇月四日に権大納言源顕雅も出家し、それぞれ八月一四日、一〇月一三日に亡くなると、混迷にさらに拍車が掛かる。
この混迷をどうにかするのにおよそ一年を要した。一二月九日、二四名中一七名を入れ替えるという議政官の大幅入れ替えが行われたのである。これは一七歳の内大臣という異例の若き大臣の誕生でもあった。それまで権大納言という高い地位にあった藤原頼長が、大納言を経験することなく内大臣になったのである。混迷の中にあっての若き内大臣の登場は、多少ではあるが、混迷を軽減させる効果を伴った。
そして注目されるべきは新しい四人の参議。いずれも正四位下の位階でありながら議政官の一員となっている。三位の位階を得ていながら参議に、すなわち、議政官の一員になることもできずにいる者が続出している状況で正四位下の貴族が参議に抜擢されることは一つの答えを導き出す。彼らの勘申は採用されたのだ。勘申の話を聞きつけ勘申を出した貴族は藤原敦光ただ一人ではない。多くの貴族が、それも下級貴族が勘申を提出し、そのうち四人が採用された。その四人の中に藤原敦光は含まれていない。勘申での出世は狭き門であり、簡単に通ることのできない門だったのだ。
とは言うものの、勘申の差だけで藤原敦光ら多くの貴族の出世が見送られたのかというと、それも怪しい。参議になった四人とも正四位下の位階であるのは事実だが、うち三人は藤原北家の人間である。藤原季成は亡き権大納言藤原公実の子、藤原宗成は内大臣から右大臣に出世した藤原宗忠の子、藤原忠基は権大納言から大納言に出世した藤原忠教の子、すなわち、藤原北家で議政官の一員である者の子のうち、上が詰まっているために出世できなかった者を出世させるのに勘申を利用したとも言えるのである。
狡猾なのは、四人の中に平実親がいたことである。姓から判断できるように平氏であるが、伊勢平氏ではない。血筋を遡れば桓武天皇まで行き着くという点では桓武平氏ではあるのだが、平実親の九代前の先祖まで遡らなければ伊勢平氏とのつながりとならないという薄い血縁関係である。この平実親が参議に抜擢されたのは異例と言えば異例だが、キャリアを考えればおかしなことではなかった。一五歳で文章生として大学を卒業し一六歳で蔵人所として朝廷に仕える役人となり、その後も着実にキャリアを重ねていき、位階を重ねて正四位下にたどり着き、弁務官として中央で、国司として地方でキャリアを重ね、事務方のトップである左大弁を務めたのち、現在の会計監査院院長に相当する職務である勘解由長官を務め、五二歳という年齢にはなったがようやく議政官の一員となることができたのである。藤原氏でも源氏でもなく、大学を出て役人となった後に自らの能力と実績で出世をし、中央と地方の職務を務めたあとで議政官入りをするという、律令制が機能した頃であれば望ましい議政官の姿とされたキャリアを重ねた人材を抜擢するのは、誰にも文句の言えることではなかった。
藤原敦光をはじめとする多くの貴族は悔しさを隠せなかったであろうが、純然たる実力だけで官界を上り詰め、官僚としての能力も実績も上回っている平実親の抜擢となると、誰もが負けを認めざるを得なかった。
ただし、負けを認めることと諦めることとは別の話である。特に、平実親の実績に負けたことは納得できたとしても、自分より実績の乏しい者が藤原北家の血筋を持つだけで議政官の一員になっているというのは簡単に納得行くものではない。
これは保延二(一一三六)年に始まった話でなく、昔からこうした不満を持つ者は多かったし、こうした不満者を集めて反藤原の組織を作り上げることもまた多かった。とは言うものの、藤原北家の勢力は反藤原の組織を、簡単にとは言えないものの、抑えることには成功していた。これまでは。
今はもう違っていた。反藤原の集団を集め、無視できぬ勢力へと成長させることに成功した組織が存在していたのだ。院という組織が。
院は人材不足に陥ることがなかった。生まれの低さゆえに望みの地位を入れることのできずにいる者に、挽回のチャンスを与えることに成功していたのである。院でキャリアを重ねたあとで朝廷に戻り、朝廷でキャリアを重ねて院へと行くことがキャリアプランとして確立されてくると、院の権威も権力も無視できぬものとなる。
公的地位を得ぬ者、また、公的地位を得てはいるが納得できていない者が、公的地位を妥協した上でより上の生活を築くために藤原摂関家をはじめとする有力貴族に仕え、藤原摂関家をはじめとする有力貴族のもとでキャリアを重ねてくる者は多かった。そうしてキャリアを重ねることで、満足とまではいかないしシステム化されていたわけでもないが、仕えている貴族の力で公的地位を築くこともあった。しかし、院は違う。資産も公的地位もともに築くことができる、それもシステマティックに築くことができる。どれだけの職務をこなせば資産と公的地位の両方についてどれだけの結果を得られるかがはっきりしているだけでなく、得られる成果も有力貴族に使えるよりはるかに上だ。これで院に人手不足が起こるわけも、有力貴族に人手不足が起こらないわけもない。
ただし、院にも弱点があった。組織としての永続性だ。
藤原摂関家は良かれ悪しかれ組織として永続していた。一方、院は白河法皇の存在が巨大であり、その人脈も白河法皇個人の資質によるものであった。すなわち、藤原摂関家は誰が藤原氏のトップであろうと組織として継続しているのに対し、組織としての院は白河法皇と、白河法皇の後継者となった鳥羽上皇という個人の人脈が頼りである。藤原摂関家の後継者はいるが、院の明瞭な後継者はいないのだ。
さらに言えば、白河法皇が人材を集めることに成功したのは公的地位と資産の双方を築く機会を与えることに成功できたからであるが、その根拠となっていたのが議政官の過半数を獲得したという政権与党としての強みであった。しかし、鳥羽上皇に政権与党としての強みは無かった。気がつけばまた、藤原摂関家が議政官の過半数を占め政権与党へと舞い戻っていたのである。ついこの間、議政官の最大勢力となることに成功した村上源氏も、今や議政官の小規模政党へと勢力を縮小させていた。
普通に考えれば、色々あろうと最終的には藤原摂関家が権力を取り戻すと考えたとしてもおかしくはない。いかに院という最新勢力がこれまでにない規模であろうと、個人の資質に由来した、それも、鳥羽上皇ではなく先代の白河法皇の遺産に由来した組織というのは弱くなるはず。システムとしては藤原摂関家の方がはるかに強固であり、これまでに存在した全ての反藤原勢力も一瞬の政権奪取はできても永続的な政権構築とはならなかったではないか。
たしかに、この時代の藤原摂関家最大の問題として、藤原氏の実質上のトップが不明瞭であるという点がある。公式には前関白として扱われるのみで位階はあるものの役職はない藤原忠実と、現役の関白である藤原忠通がいる。この二人のうちどちらをトップとすべきなのかという問題は存在していた。単にどちらがトップに立つかを噂しあったわけではない。
この二人のどちらに仕えることが将来の人生を左右するかという大問題がこれまではあったのだが、この問題についても、保延二(一一三六)年についに明瞭な答えが出たのだ。
今はともかく、そう遠くない未来の藤原氏のトップは一七歳の若き内大臣藤原頼長のものとなる。この若き俊英が作り出す未来に希望をかける者は多かった。それは、藤原頼長に取り入っての自身の栄達という希望も含まれる。
藤原頼長は後に「悪左府」と、すなわち、悪の左大臣と呼ばれ、嫌われ続けた生涯を迎えることとなることとなる若者である。ただし、ここで言う悪の文字は、殴る蹴るといった文字通りの悪ではなく、世の中を悪くしたという意味の悪である。どのように悪くしたのかは藤原頼長が実際に権力を握るようになってから記すが、この段階で記さねばならないことがある。それは、藤原頼長がどのようにして自派を形成していったのかという点である。藤原頼長の性格は内大臣であったこの時代にはすでに現れていた。その性格こそが世の中を悪くした真因であり、藤原頼長の性格が招いた藤原頼長派の形成過程についてはここで記すのが適当であろう。
藤原頼長という人を一言で評価すると、生真面目、である。真面目は通常ならば良い評価の意味になるのだが、これが生真面目となると、融通が効かず、自分を正しいと信じる独善者となる。そこには他者への思いやりもないし、現実を直視する能力もない。そして何より、自分のしたこと、あるいは現在進行形でしていることを失敗と認めることは、断じて、無い。自分は正しく、自分より格上と格下とは歴然として存在するし、格下と考えている人間が自分の上に立つことのみならず、自分より優れた客観的評価が下ることすら我慢ならなく感じる。甚だしい場合は、自分以外の人間を一人の人間として認識することもなくなる。
このような人間に取り入るにはどうすればいいか? 自分が正しいと信じ込んでいるだけでなく、周囲を格上と格下とに分けて考えているのだ。取り入ろうと考えている人間は例外なく格下認定されているのだ。おまけに真面目で融通がきかないとなると不正の入り込む余地はなくなる。それどころか、どんな些細な不正も許されざることになる。生真面目な人が許していること以外は全てが許されざることであり、何一つ許されざることをしない人だけが存在を許される。このような人を相手にどうやれば取り入ることができるのか?
これが欲にまみれた人ならば賄賂でどうにかなるが、藤原頼長相手にそれは無駄だった。藤原頼長は、贈り物のやり取りを礼節で考えて行うことはあるが、それと便宜とはつながらなかった。その人が手にできれば喜ぶであろう物事を提供する代わりに便宜を図ってもらうのを贈収賄と定義するなら、賄賂にはモノだけでなくコトも含まれる。たとえば国司の地位を斡旋するなどというのはコトの賄賂の典型だが、この手の賄賂も藤原頼長に通用しなかった。考えてみれば当然で、藤原摂関家の後継者になることが決まっており、すでに内大臣にまで上り詰めている人に、地位の斡旋をはじめとするコトを提供できる人などまずいない。
ついでに言えば、この人には昔からの迷信やマナーも通用しない。律令に定められていればそれに従うが、律令に定められていないなら、いかにそれが当時の人にとっては不文律として当然のことであったとしても、守ろうという意欲を全く見せないでいる。また、当時の人は和歌を読むのが当たり前、教養ある人は漢詩も嗜むのが当たり前とされていたが、藤原頼長はそのどちらも全く興味を示していない。詩歌など何の役にも立たない無駄な労力であると一刀両断して終わりである。そのおかげで、当時の貴族が想い人に送り届けるラブレターは想いを和歌に託して届けるのが当たり前であったのに、藤原頼長の記したラブレターは、良くよく言えば無骨、悪く言えば無神経なラブレターになっている。
真面目で融通がきかない人にも欲望はある。学ぶのが好きな人なら同じジャンルの学問で接するという方法もあるし、現在と違って書物が簡単に買えるわけではない時代であることを踏まえると、南宋で刊行されたばかりの本を贈るという手もある。これは一応の効果を持つが劇薬でもある。法律なら法律、歴史なら歴史といった同じ学問のフィールドに立つだけの知力が必要だ。
古今東西どこにおいても共通して言えることとして、どう考えても取り入ることの難しいというのが生真面目な人であるというのがあり、藤原頼長もその例外ではない。しかし、藤原頼長相手であれば他の生真面目な人と違い、取り入ることのできるたった一つの方法があった。
藤原頼長の男色趣味だ。
平安貴族が同性愛を嗜むことは珍しくなく、この頃の一般常識として同性愛を嗜まない貴族はむしろ異常扱いされていた。と言っても、女性を愛さないわけではなく、男性とも女性とも性的関係を持つことが当たり前になっていたのである。詩歌など何の役にも立たないと言って一刀両断してきた藤原頼長であるが、男色趣味だけは当時の流行に乗っているどころか、当時の流行の最先端を走っている。
藤原頼長は確認できるだけで三人の女性の名が妻として残されていると同時に四人の男児をもうけていることも判明しており、男性しか愛せなかったわけではないことは確認できる。ただ、藤原頼長は同性愛も嗜む貴族の一人であるというより、同性愛が主軸で異性愛のほうが副次的という恋愛指向であった。そして、それが事実上唯一の付け入る隙になったのである。
権力者は男性であることが常識とされていた時代に限らず、性別を問わないということになっている現在でも、権力を持つ男性に取り入るために女性を利用することがよくある。自分の部下である女性、あるいは親戚の女性、あるいは娘、あるいは妻を差し出して性欲の相手とさせることで権力者に近づくことがあるし、さらにはそうして成立した肉体関係を利用して相手の弱みを握ることもある。許されざることであるがハニートラップは今もなお存在している。
これが、権力は男性のものという固定観念ができている環境での男色となると、話が単純になる。ややこしくなるのではなく単純になる。
命じる者が上司であろうと、親戚であろうと、父であろうと、夫であろうと、自身の栄達のために自分以外の人に対して身体を売れと命令する者に、その人がどこまで黙って従うだろうか。しかし、男色となると、権力者の性欲の相手に差し出す身体は自分自身となる。自分の欲望のために相手の性欲の相手をするとなると、躊躇が一段階減る。すなわち、話が単純になる。「いくら仕事のためとは言え……」とか「いくら家族のためとは言え……」とかという躊躇が無くなるだけでなく、その後で待っているのは権力者との恋愛関係を利用した権力の奪取だから話はもっと単純になる。
藤原頼長が自分の性の相手となる男性を求めた結果、それに応じた者は藤原頼長の近臣となることに成功したのだ。純粋な恋愛関係ならば異性間であろうと同性間であろうとそこに差異はないが、栄達を目的とした肉体関係となると、権力者が男性であるという固定観念が強い時代であったからこそ、男色の相手となることが容易な取り入りの手段になる。
藤原頼長の性欲の相手をすることで藤原頼長に取り入ることに成功し、藤原頼長の権力を利用して自らの権勢を築き上げようとする者が、必ずしも無能者の分不相応な出世欲であるとは断言できない。能力はあるが機会に恵まれてこなかった有能な人物が、藤原頼長との肉体関係をきっかけとして能力を発揮する機会を手にすることもゼロとは言い切れなかったであろう。ただ、理論上はそうでも、記録に残された藤原頼長の相手たちの権力者としての実績には疑問符が付く。ただ単に、藤原頼長の好みのタイプであったという以外に特色のない者が並ぶだけなのだ。
ただ、こうも感じる。藤原頼長が本当に肉体関係を理由に人材として活用したのか、と。物欲にも名誉欲にも関心を示さない藤原頼長が性欲には公私混同を見せるだろうか、と。藤原頼長は自分で自分のことを清廉潔白な人間であると考えていたし、周囲の人もそう判断していた。その人物が、単に自分との恋愛関係だけで人材の抜擢を図ることがあるだろうか?
これについての答えは藤原頼長自身が書き残している。藤原頼長は誰と恋人関係にあるのかを日記に書き記しているし、同時代の記録から、藤原頼長の恋人とされる人物が出世したことも追い求めることができる。しかし、それらを合わせても藤原頼長が抜擢したとは言えないのだ。それどころか、肉体関係を理由に見返りを求めてきたことに失望したことを書き記しているのである。そして、日記を追いかける限りでは、失望した相手とその後の関係を絶っていると言える。すなわち、肉体関係を結ぶことで藤原頼長の近臣になることまでは成功するし、近臣になったがために地位を掴むことまでは藤原頼長のもとでは許されても、そこから一歩進んで、取り入ることの見返りを求めることまでは許されなかったのだ。
後に悪左府と呼ばれる藤原頼長は嫌われた人生を過ごしてきたし、藤原頼長に対する悪口を挙げてくださいと同時代の人に訊ねたら、冷酷、残酷、人情味がない、融通がきかないなどの言葉が途切れることなく挙がってくるであろう。しかし、挙がった悪口の中に藤原頼長の頭の悪さを揶揄する単語は出てこないはずだ。現在の感覚からすれば藤原頼長の知性に疑念を感じざるをえないが、現在に残る記録から判断すると、当時の人が藤原頼長を優秀な人と扱っていたことは間違いない。間違いないのだが、この人に人望があっただろうかという問いには否とするしかない。
デビュー直後こそ若き秀才として着目を集めたが、年齢を重ねるにつれ怪しさが増してきて、着目は失望へと変化し、人望を生み出さなかったのだ。
優秀で生真面目な人によくあることだが、自らの優秀さを疑わないために超然とし、自分以外の人への興味を極端に減らしていたのだ。人に興味を持たなければ人から好かれることもないし、ましてや人望を集めるなど想像するだけ無駄だ。藤原摂関家の後継者なのだから藤原頼長の周囲を取り巻く人の少なさに悩むことはなかっただろうが、藤原道長の時代ならともかく、藤原頼長の時代となると、藤原摂関家は日本国における唯一絶対の組織ではなくなっている。出世を考えれば藤原摂関家ではなく院になるし、資産形成だけを考えれば寺院になる。藤原摂関家に取り入ることは出世を考えたときに悪くない選択肢となるが、唯一絶対の選択肢ではないのだ。こうなると、周囲を取り巻く人の絶対数が減る。それでも藤原摂関家となれば無視できぬ勢力となるが、藤原摂関家を構成する勢力の中に、藤原頼長自身の魅力で周囲に寄ってきた人は、ただ一種類の例外を除いてゼロであると断言できる。その例外の一種類が同性愛であった。
寄ってくる人がいないということは、権力を手にしたあとで周囲を固め、手足となって働く人がいないということを意味する。いざそのときを迎えて振り返ってみると、残っていたのは自分との肉体関係の相手だけであった。すなわち、藤原頼長は同性愛で人材登用をしたのではない。登用できる人材が同性愛の相手しかいなかったということなのだ。
これがのちの日本国に悲劇を、そして藤原頼長の破滅を生み出す原因となる。
飢饉は個人生活を動揺させるだけでなく、世情そのものを動揺させる。若き内大臣の誕生は新しい時代を予期させる出来事ではあったが、飢饉に対して画期的な対策を打ち出すわけでも、ましてや、一瞬にして飢饉を無かったことにするわけでもない。食料生産の改善は見られてもマシになったというレベルであって満足とまではいかなかったのが保延二(一一三六)年末時点の状況である。
年が明けて保延三(一一三七)年を迎えても満足いく状況でないことに違いはなかった。ただ、回復はしてきていた。
回復は喜ぶべきことであるが、治安問題だけを考えると手放しで喜べるものではない。人は、危機そのものよりも危機を迎えることへの恐れの方が爆発を引き起こす。今日はどうやって生きて行けばいいかという現実の危機より、明日はどうやって生きて行けばいいかわからないという恐怖のほうが爆発を呼び起こしやすいのだ。
そして、これは古今東西どこにでも見られる現象であるが、危機からの回復は都市部のほうが、それも首都のほうが始まりやすい。首都にはその国の首脳陣の多くが住んでいるから首脳陣の生活のために物資が優先的に運び込まれる。それがたとえ自分の生活のためであっても、結果的には首都の住人にも物資が出回るようになる。裏を返せば、首都は回復してきているのに自分の住んでいるところはまだ危機から回復してきていないという現象が起こる。さらに言えば、基金で苦しいさなかに何とかして納めた税が首都に持っていかれているという不満が沸き起こる。仮に実数が提示されて、首都と、あなたたちが今住んでいるところとでさほど違いはなく、同じ程度の回復具合であると示されても、首都の住民のほうがいい暮らしをしていると考える人にそのような論理は通用しない。不満が解消されるのは、実際に首都に出向いてみたら、首都の住民は自分たちよりむしろ苦しい暮らしをしていると実感し、さらに、税で食べている貴族や役人といった人たちが自分たちより苦しい暮らしをしていると目の当たりにしたときだけである。前者はともかく、後者はあり得ない話であるが。
保延三(一一三七)年の情報インフラ事情であれば、平安京の暮らしぶりを地方の人が知ることは難しい。ネットはおろかテレビもラジオも新聞も雑誌もない時代であり、地方と首都との情報のやり取りは、実体験と、手紙のやり取りのどちらかしかない。そして、そのどちらも往復一ヶ月はかかる。
しかし、難波や奈良といった近畿地方の都市、あるいは、比叡山延暦寺や園城寺といった京都に近い寺院の門前町は別だ。京都に近いということは、京都の情報が、リアルタイムではないにせよ比較的早い段階で届くことを意味する。さらに言えば、京都ほどの規模ではないし、現在と比べれば小規模都市とするしかないが、前掲の諸都市はこの時代では充分に大都市だ。
こうした都市の中でもっとも危険だったのが、奈良。奈良には興福寺という絶対に無視できない存在があっただけでなく、京都までの道のりが整備されている。徒歩で一日で往復することも不可能ではない距離だ。比叡山延暦寺と園城寺は相互の争いが相互に動きを牽制させる効果を持っていたが、興福寺にそれはない。位置的にはともに京都の南であるといっても高野山や熊野は奈良から遠い。
保延三(一一三七)年二月九日、興福寺から京都へとデモ集団が向かったという情報が朝廷に届いた。実に一五年ぶりのデモであり、白河法皇逝去後初のデモとなる。厳密に言えば前年三月にも金剛峯寺の主催するデモが計画されてはいたのだが、デモが発生する前に沈静化している。
普通のデモであれば鎮圧はできたであろうが、デモ隊出発の情報の後に届いた第二報は、今回のデモが普通のデモ集団でないことを示した。その数、およそ七〇〇〇名。嘉承三(一一〇八)年にも数千人のデモ集団が京都目指してやってきて源平連合軍一万人と向かい合ったという記録があるが、このときの興福寺の七〇〇〇名というデモ隊の人数はそれを超える規模である。しかも、嘉承三(一一〇八)年のデモは比叡山延暦寺と園城寺の連合という驚異的な集団であっても時間的猶予ならば図れた集団である。ところが今回は規模も去ることながら、奈良という京都まで徒歩で往復できる近さの都市から出発した、すなわち時間的猶予を考えられない都市から出発したデモ隊なのだ。おまけに、嘉承三(一一〇八)年は平正盛と源為義の二人が率いる源平連合軍およそ一万人の軍勢が京都で用意できたが、保延三(一一三七)年にはそれもない。平正盛の息子で伊勢平氏を率いる平忠盛はこのとき美作国司となっていた。源為義にいたっては、前年に左衛門少尉を辞任という名の外官の処分を受けておりこの時点では無官の身であった。朝廷がどうにかできる武力となるとこの時点で弱冠二〇歳である従四位下平清盛がおり、中務少輔兼肥後守という朝廷から一定規模の独立性が保証された軍事指揮権をとることが許されていた地位ではあったが、現実に動員できる武力となるとデモに対峙できる規模ではなかった。
本来であれば朝廷の持つ警察権力、律令に従えば、近衛、衛門、兵衛。令外官を含めれば検非違使がこうしたデモ隊に向かい合うところであったのだが、そうした公的権力はすでに有名無実と化していた。それでも、たとえば左右の大臣が左近衛大将といった役職を兼ねることで武士に武官としての地位を与え、人事権を駆使して武力の発動を図ることは可能であったのだが、それもなかった。
保延三(一一三七)年時点の朝廷は七〇〇〇名というデモ隊の人数の前に為す術なく、ただ、デモ隊の名目上の要求を受け入れるしかできなかったのである。
興福寺のデモ隊の名目上の要求は東寺長者で権僧正である定海が、興福寺別当で権僧正である玄覚よりも先に僧正に任じられたことに対する抗議である。仏教界の人事を不服とする寺院の組織したデモであり、デモに対する法的な規制をかけることはできないことを見越しての無茶な要求である。自分たちのトップが追い抜かれたことに対する怒りという外部の同意を得づらい動機ではあるが、興福寺の内部では意見の一致を簡単に見いだすことのできる動機であるため、人数は膨れ上がり、集団は強固なものとなる。もっとも、デモの本質は首都と首都以外の地域との格差への怒り、そして、生活苦への怒りであり、デモ隊自身も名目上の欲求より本質的な欲求を朝廷にぶつけることを主目的としていた。
ここで朝廷から定海の僧正就任を白紙撤回するという回答が出たことはデモ隊の名目を喪失させ、デモ隊を解散させる効果を持ってはいた。持ってはいたが、一時凌ぎでしかなかった。デモの欲求を受け入れたら次に何が待っているかは簡単に想像できる話である。一五年間の沈黙を打ち破るかのようにデモ隊はありとあらゆる要求を朝廷にぶつけるようになったのだ。
朝廷の立場からすれば無力を否応なく実感させられることであったろう。特に、若き俊英と目され、次世代の指導者との着目を受けていた藤原頼長にとって、この現実は悔しさをにじませるに充分であった。保延三(一一三七)年時点の武官の構成は、武官のトップである左近衛大将を左大臣源有仁が兼任し、武官の二番手である右近衛大将を内大臣藤原頼長が兼任している。そのため、藤原頼長にも武力を発動させる権限はあったのだが、藤原頼長に従う武官がいなかった。これはある意味当然と言える。武官は軽んじられ、事実上唯一の公的武力機関となっていた検非違使の一員になったとしても、それは出世への途中過程であって命を賭する職務ではない。大禍なく過ごしてより上の職務に昇るための職務としか考えていない者に、いかに内大臣兼右近衛大将の命令が降ったとしても、死ぬかもしれないことに従うわけはない。仮に職務を忠実にこなし命令を完遂したとしたら、待っているのはやりたくもない職務の継続だ。「他に適任者はいないから危険な武官の地位を継続してもらう」となったら本末転倒と言うしかない。
おまけに、検非違使の社会的地位は低い。職務遂行で位階が上がることがあるかもしれないが、検非違使であるというのは出世の一階梯であると割り切っている人ですら差別される職務であった。ましてや、検非違使をなかなか終えることができないというのは、差別され続けるだけでなく、検非違使から上へと昇れない無能者という烙印を押されることを意味する。このような社会情勢で誰が検非違使としての職務に専念するというのか。
この現実を前にした藤原頼長は、現実が大問題であることは認識した。認識したが、現実に対する妥協は全く見せなかった。職務を遂行しようとしない者を罰するとしたのである。これが独善的な思いつきであるなら対処することもできたが、藤原頼長は何一つ法令違反をすることなく、罰則の適用を宣言したのである。
法に対する考え方は二種類ある。法と現実とが食い違いを見せたとき、法を変えようとするか、現実を変えようとするかである。現代社会は、法を変えようとする側を改革派、現実を変えようとする側を保守派と称すが、日本国ではどういうわけか法を変えようとする側が保守派で、現実を変えようとする側が改革派ということになっている。こうした概念はどうも藤原頼長にはあったようで、藤原頼長は自分のことを改革派と考えていたらしく、法を変えることなく法を厳密に適用して現実を変えることこそ改革と考えていた。そして、現実に合わせて法に妥協させていたことの全てを白紙撤回し、現実を法に合わせようと改革した。
悪左府という名で呼ばれることになる藤原頼長であるが、自分が悪事を為しているという認識はなかった。超強硬的な保守でありながら自分で自分のことを改革派と考えるのみならず、自分は正しいことをしていると思い込んでいたのである。罰則を厳密に適用すればするほど世の中は良くなるというのが藤原頼長の考えであった。
それでもまだ議政官のナンバー3である間は議政官の内部で藤原頼長の暴走を食い止めることも可能であったのだが、年が明けた保延四(一一三八)年になると、暴走を食い止めることのできる人が一人いなくなってしまった。正二位右大臣藤原宗忠である。すでに七五歳と高齢であった藤原宗忠は、年が明けてすぐに従一位へと昇格した。大臣が従一位になるのは珍しい話ではなかったが、このタイミングでの従一位昇格は一つしか意味を持たなかった。体調不良による政界引退である。政界引退の間際に位階を昇らせることは珍しくなく、藤原宗忠も来るべきときが来たのかというのが、保延四(一一三八)年時点の世情の反応だったのだ。位階のトップは正一位であるが、正一位は亡くなった後に送られる追号であると認識されていたため、事実上、従一位は最高の位階である。その最高の位階に昇りつめた藤原宗忠は、同年二月二六日に政界引退を発表し、同日に出家した。これで、議政官の二番目の地位は一九歳の内大臣藤原頼長のものとなった。
藤原頼長の上には左大臣源有仁がいる。また、議政官の一員ではないが、関白は実の兄で養父でもある藤原忠通のものだ。さらに言えば前関白にして前太政大臣でもある藤原忠実も健在だ。つまり、理論上は藤原頼長の上に三人の人臣がいることになるのだが、現実としては、三人とも権力の発揮を期待できなかった。
左大臣源有仁は後三条天皇の第三皇子である輔仁親王の子として生まれ、当初は白河院の養子となったことで次期天皇候補と目されていた人物である。しかし、鳥羽天皇の子として、後に崇徳天皇となる顕仁親王が生まれたことで皇嗣候補から外され、臣籍降下により源氏となったという経歴を持つ。素性が素性であることと、今なお残る後三条天皇派の動きを封じるためとして、急激な出世を果たし、全ての源氏のトップに立つ源氏長者の地位を村上源氏から奪取するほどの権勢を見せはしたが、いきなり人臣となり、いきなり貴族界に組み込まれた源有仁に、派閥を構成できるほどの人材を集める余裕はなかった。何しろ、源有仁に匹敵する急激な出世となると、二五〇年前に嵯峨天皇の子から臣籍降下した源定まで遡らなければならないという急激な出世なのだ。それでも左大臣なのだから議政官の議事進行権はあるし、決議を奏上するのも源有仁の職務なのだが、思い出していただきたいのは、かつてと同様にこの時代も藤原摂関家が議政官の圧倒的多数を占めているという現実である。議政官二五名中、源氏は二名、平氏が一名、残りは全て藤原氏だ。現在の国会を思い浮かべていただければわかると思うが議席の八割以上を一つの政党が占めていたらどうなるか? いかに議長をその政党ではない人物が務めていたとしても、よほどのことがない限り、決議は八割を占める政党のものとなる。その政党のトップとして議政官で君臨することとなったのが、一九歳の藤原頼長だ。
藤原氏内部の派閥争いが勢力としての藤原氏の自浄能力を発揮することは期待できなかった。一度でも勢力を失った存在が再び勢力を取り戻したときは、自浄作用よりも勢力維持を優先させる。おまけに、先頭に立つのは一九歳の若者だ。政治的な何かをしようというときは、高齢者よりも若者が先頭に立っているほうが支持を得やすい。その若者が危険な考えの人物であろうと、若さというのは新しい時代をイメージさせ高い支持を得るきっかけにもなる。こうなると、個人の政治信条を優先させて集団に逆らうより、所属する集団の政治信条のほうに自分を寄せるほうが政界で生き残るのに有効だ。議政官を構成する藤原氏たちは、個人の意見よりも藤原頼長の意見に与することを選んだのである。
律令制によれば、議政官の議決を覆すことのできる存在は、天皇、摂政、太政大臣のいずれかしかない。うち、天皇は議政官の決議を覆す権限を持っていると言ってもその権限を発動させることは無い。そして、摂政はおらず、太政大臣もいない。関白がいるではないかと思うかも知れないが、関白はあくまでも天皇の相談役であり、事実上はともかく、理論上はその発言が議事に影響を与えることは無いとなっている。おまけに、関白藤原忠通は内覧の権限を剥奪されている。内覧となればかなり早い段階で情報を手にできるし、情報を手に入れることもできれば対処も可能だが、情報が手に入らなければそれも不可能となる話だ。
剥奪された内覧の権利を手にしたのは前関白にして前太政大臣である藤原忠実であるが、この人の行使できる政治的権限はあまりにも低い。無視できる存在ではないが、この人が何を言おうと、理論上はすでに引退した政治家なのである。政界から離れた人間の言葉が現役の政界に響くことはあっても指図するまでには至らない。おまけに、藤原忠実は藤原忠通への牽制役として藤原頼長を利用していた。暴走しつつあることを理解していたのかどうかも怪しいが、理解していたとしても、藤原頼長の暴走より藤原忠通への牽制を優先させる人だ。藤原忠実に藤原頼長の暴走を制御することを期待する方が間違っていると言える。
藤原頼長は命令する。法を守れと。法を守れば全ての問題は解決し、法を守らぬ者を処罰すれば全ては順調にいくと考えて命令する。
ただし、その命令を遂行するのは誰なのか、という一点が抜け落ちている。前述したとおり、藤原頼長には人望がない。おまけに、法でいくら定められていると言っても法と現実とが乖離して長い年月が経過している。藤原良房からカウントすれば三〇〇年は経過している。それだけの長い年月に渡って法と現実との乖離とを法の妥協で対処してきたところでいきなりほうではなく現実に妥協を命じたところで、その命令に従うことはできない。法でいくら定められていても現実的にできる話では無い。
それでも人望のある人物からの命令であれば従おうとする者もいるであろうが、人望の無い人間が命令をするのだから、その命令に従う者は、ゼロとは言えないが、いない。
奈良からやってきた七〇〇〇名のデモ隊の前に何もできず、要求を受け入れてどうにかデモの鎮静化に成功したという前例は藤原頼長を激怒させたが、その激怒に対する満足いく回答が得られない。それどころか、これが先例となって影を潜めていたデモが息を吹き返したのだ。たとえば、保延三(一一三七)年一二月一二日には伊勢神宮からのデモを鎮静化させるために、デモの要求を全て受け入れ、主殿助として伊勢神宮の備品管理の最高責任者であった平季盛が佐渡へと流罪になっている。
藤原頼長に言わせれば命令が遂行されないから状況が良くならないとなるのだが、実務担当者にしてみれば、ただでさえデモに向かい合わなければならないところで内大臣から難癖がやってくるので迷惑極まりない話である。
さらに迷惑になるのが、藤原頼長の命令の遂行はできなくても、命令を遂行しないことの罰則適用ならどうにかできてしまうのだ。デモを鎮静化しろと藤原頼長が法に基づいて命令するが、藤原頼長の命令を遂行する余裕はどこにも無く、デモの鎮静化は果たせない。果たせないために命令遂行を怠ったと判断され、処罰される。遂行できない仕事を命令され、無茶に無茶を重ねて命令を完遂したとしてもノルマを達成したと判断されるだけで評価が上がるわけでは無い。まして、完遂できなければ処罰の対象だ。現代日本でもこのような働かせかたをする者は珍しくないが、それで尊敬を集める者も、さらに言えばそれで結果を出す者は珍しい。珍しいと言うより、仮に存在するならば、その分析をしただけでノーベル経済学賞を受賞できるというレベルの話である。
藤原頼長がヒステリックに法の適用を求めていた頃、鳥羽上皇は何をしていたのか?
情報は掴めていたが、策を講じることはできなかった。藤原頼長がありとあらゆる法を利用して鳥羽上皇の動きを牽制したからである。
徹底的に法を守る姿勢を見せる藤原頼長にとって、上皇という存在は厄介な存在であるものの、法的は対処が可能な存在でもあった。天皇を辞した皇族は、権威はあっても権力は持たないというのが藤原頼長の思考であったのだ。
こうなると、上皇として何か述べたところで藤原頼長の行動を動かすことはできない。権威はあるから鳥羽上皇の意見は拝聴はするが、その意見を受け入れるかどうかは別である。受け入れることがあるとすれば藤原頼長と意見の一致を見たときのみで、そうでなければ鳥羽上皇の意見は完全に無視されたのだ。そのせいか、右大臣藤原宗忠の政界引退とほぼ同時に鳥羽上皇の政治的な記録は形を潜め、代わりに行幸の記録が増えていく。もっとも、その行動範囲は白河法皇よりかなり狭く、平安京から離れてもせいぜい宇治が限界、現在の東京で言うと東京駅と羽田空港ぐらいの距離の移動しかない。そうでないときはもっぱら、二条東洞院殿において日々を過ごしていた。二条東洞院殿は崇徳天皇の内裏である土御門内裏と少し距離を置いている。
それにしても、鳥羽上皇に対するこのような態度は果たして許されたのであろうかと思うかもしれないが、この時代、君臨すれども統治せずという言葉は無くとも、そのような概念は存在していた。絶対君主制ではなく立憲君主制、すなわち、天皇が法を超越する存在ではなく天皇であろうと法の束縛が課せられるのが日本国の皇室であり、白河法皇のように自分には法が適用されず、自分の行動こそが法になると考えるのはきわめて限られている。法に規定のある天皇ですら法によって許された範囲内でしか権力を行使できず、天皇を辞した上皇は法的な権力の根拠が無いのが法の厳密な適用であったのだ。かつての天皇であり、また、崇徳天皇の実父であることに付随する権威は藤原頼長も認めていたが、権力を行使することを藤原頼長は認めなかった。
藤原頼長は院が荘園を持つことにも不快感を抱いていたが、出家して僧侶となった白河法皇が一人の僧侶として荘園を持つこと自体は法で禁止されておらず、白河法皇の遺産を相続した鳥羽上皇が荘園を持つことも、法の抜け穴であるとは言え違法とは言い切れないことと考えていた。そして、荘園領主であるために自領に対して権力を行使することもまた、違法とは言い切れないことだった。だから、その点については見逃している。しかし、鳥羽上皇が法的根拠を持たない範囲にまで権力を行使することは絶対に認めなかったのである。
鳥羽上皇と藤原頼長の関係は、表面上は上皇と藤原氏の有力貴族という関係であったが、実際には激しい権力争いがあった。
争いは同じレベルの者の間でしか起こらないという。この争いは権力争いも例外ではない。藤原頼長は実行を伴わない命令だけをして問題の解決を図ろうとするが、問題解決能力の低さという点では鳥羽上皇も負けてはいない。その現実が如実に示されたのが保延四(一一三八)年二月二四日のことである。この日、鳥羽上皇が住まいとする二条東洞院殿が火災にあったのだ。旧暦の二月末だから現在の暦に直すと一月。空気の乾燥している季節であることに加え、平安時代は平成時代と負けず劣らずの高温の時代。住まいはいかに暑さをしのぐかを最優先に建設されているから、冬となると寒くなる。それで厚着をしてやり過ごそうというのが当時の考えであるが、いかに厚着をしようと寒さを克服できるはずはない。おまけに時代は寒冷化だ。夏は涼しくなったかも知れないが、冬の寒さは以前よりはるかに厳しくなった。それなのに防寒対策のとられていない住まいのもと、まともな暖房器具もない日々を過ごすのだから、暖房目的での火の利用が増えてくる。さらに言えば、建築資材も燃えやすい木材だ。火災は地震と違って、取り扱いに気をつければどうにかなるといっても、火があり、火への需要があり、燃えやすい建物があり、乾燥した気候があれば、起こる災害は一つ。
鳥羽上皇の住まいが焼け落ちたことを鳥羽上皇自身は何もできなかったが、何もできずにいる鳥羽上皇のことを笑えない自体もすぐに起こった。同年三月五日、平安京で大火が発生し、多くの貴族の邸宅が焼け落ちたのである。