第八話
居酒屋で呑んで、美由紀と別れた後。
夜の街をひとりで歩き、明人は自宅に帰った。一人暮らしの、ワンルームのマンション。四階建ての、二階の部屋。その建物の前に着いた。
美由紀と呑んだ居酒屋から明人の家までは、本来であればバスで帰る距離だ。実際に、行くときはバスに乗った。たぶん、四キロメートルほどの距離。
けれど、なんとなく歩いた。ひとりで、余韻を感じていたかった。
美由紀と二人きりで呑んだ。自分より十歳も年上の女性。そうとは思えないほど可愛らしく、若々しい彼女。既婚者。人妻。
最後の試合の日から──あの、慰めるように美由紀に抱き締められた日から。明人は、度々、彼女のことを思い浮かべるようになっていた。
自分の涙で、美由紀の服を濡らしてしまった。それくらい、近い距離にいた。美由紀の温もりも、感触も、匂いも分かる距離。
自分よりも遙かに小柄な美由紀に抱き締められた。悔しさも悲しさも苦しさも、彼女が全て溶かしてくれる気がした。
その瞬間から、明人の心に美由紀が住み着いた。彼女と時間を共有したいと思った。
だから、引退してもジムに通った。
美由紀がジムに来るのは、火曜日と土曜日。その日に合せて、ジムに行った。けれど、そんな下心を周囲に悟られるのが嫌だから、水曜日もジムに行っている。
思惑通りに、美由紀に会えた。慰めてくれたお礼などと言って、呑みに誘えた。チャットのIDを交換して、いつでも連絡が取れるようになった。
でも、と思う。
自分には、詩織という婚約者がいる。
美由紀と時間を共にしたいと思う。反面、詩織を好きな自分もいる。
詩織とは、高校一年のときから付き合い始めた。互いに、互いが初めての恋人だった。今まで、色んな思い出を共有してきた。
お互いに、初めてのデート。緊張して、食事もなかなか喉を通らなかった。
お互いに、初めてのキス。詩織の肩は緊張で強張っていて、それが、驚くほど可愛かった。
初めて詩織の部屋に行ったとき。彼女の匂いがする部屋に入ると、身も心も彼女に包まれた気がした。
互いに、初めてのセックス。コンドームがなかなか上手く着けられなくて、二人で笑ってしまった。
互いに、初めての一人暮らし。お互いの家を行き来して、何度も体を重ねた。
互いの両親が、初めて顔を合わせた。これから家族になって、一生一緒にいるのだと実感した。
自分が住んでいるマンションの前に立って、明人は、自分の部屋を見上げた。部屋の明かりが点いていた。
詩織には、家の鍵を渡している。今日はジムメイトと呑むと伝えていた。酒に弱い明人を心配して、来てくれたのだろう。
胸が痛くなった。
これは、罪悪感だ。詩織が好きなのに、詩織以外の女性に惹かれている。詩織が好きなのに、詩織以外の女性と一夜を共にすることを期待した。
明人は、今日、最初の二杯しか酒を呑まなかった。
期待していたからだ。美由紀と、深い関係になることを。彼女と寝ることを。呑みすぎて潰れたら、それが叶わなくなる。だから、意図的に、呑む量をセーブしていた。
でも、そうはならなかった。帰り道で、途中まで一緒に歩いて。別れ際に、美由紀を呼び止めた。美由紀の左手を掴んだ。彼女の細く小さな腕の感触が、心地よかった。
そのまま、抱き締めてしまいたかった。試合の日は、美由紀が抱き締めてくれた。今日は、自分が、彼女を抱き締めたかった。
だが、掴んだ美由紀の左手を見て。明人は、それ以上の行動ができなくなった。
美由紀の左手の薬指には、指輪が着いていた。結婚指輪。明人以外の男との、結婚の証。生涯を誓う、約束の指輪。
胸が痛かった。
この人は、もう、自分以外の誰かの妻なんだ。
そう思うと、美由紀の腕を掴む手から、力が抜けた。
それでも、また二人だけの時間を過ごしたいと思ってしまって。
『また、一緒に遊びに行きませんか?』
その言葉が、今の自分にとっての精一杯だった。
美由紀は微笑んで、頷いてくれた。
『うん。また、一緒に出掛けようね』
美由紀が背を向け、帰って行く。明人以外の男が待つ家に、帰って行く。
その後ろ姿をしばらく見送ってから、明人は、歩いて帰ってきた。美由紀と過ごした時間の余韻に、浸りながら。彼女の笑顔を、言葉を、唇の動きを、細い肩を、掴んだ手の感触を、思い浮かべながら。
一時間近くも歩いて、自分のマンションの前まで着いて。
部屋の電気が点いているのを見て。詩織が来ていることを察して。
途端に、罪悪感に襲われた。同時に、何もせずに帰ってきたことに、安堵した。
一線を越えずに済んで、良かった。
マンションの建物内に入って、階段を上る。一段一段足を踏み出しながら、考える。
自分は確かに、美由紀に惹かれている。
だけど、詩織と別れたいわけではない。別れたくない。大事な思い出を一緒に積み上げてきた、大切な人。傷付けたいなんて、思うはずがない。
それなら、美由紀への想いは断ち切るべきだ。二人とも好きなんて、許されるはずがない。まして、美由紀は人妻だ。好きになっても、どうにもならない人だ。
もう、火曜と土曜にジムに行くのは、やめようか。就職までの自由な時間を、できるだけ詩織と一緒に過ごして。時間と距離を置いて、少しずつ、美由紀への気持ちを薄めていって。
これまでと同じように、詩織だけを想うようにして。詩織と生涯を共にすることだけを考えるようにして。
そうすれば、きっと──
階段を昇り切った。二階の、自分の部屋の前に着いた。
鍵を開けて、中に入った。
八畳一間のワンルーム。風呂とトイレは別々になっている部屋。
「ただいま」
「あ、おかえり、明人」
やはり、詩織が来ていた。ショートボブがよく似合う、もう七年も付き合っている彼女。
婚約者。自分の、好きな人。自分を、好きでいてくれる人。
詩織はスマートフォンで動画を見ていたようだ。明人の姿を目にすると、スマートフォンを床に置き、こちらに来た。
「あれ? もしかして、あんまり酔ってない?」
「まあ、あんまり呑まなかったから」
「そうなんだ。酔い覚ましにお味噌汁でも作ろうと思って、待ってたのに」
「サンキュ。でも、大丈夫」
好きだ。詩織が、好きだ。
もうすっかり見慣れた、でも見飽きない詩織の顔を見て、つくづくそう感じる。
それなのに、明人の心の中には、確かに美由紀もいて。それが、苦しくて。
罪悪感を誤魔化すように。後ろめたさを、好きという気持ちで隠すようにして。
明人は、詩織を抱き締めた。
急に抱き締められて驚いたのか、詩織は「きゃっ」と声を出した。
「どうしたの? 明人」
詩織の質問を聞き流して、明人は、彼女と唇を重ねた。
詩織の唇から「んっ」と吐息が漏れた。
明人が初めてキスをした相手は、詩織だった。
詩織の初めてのキスの相手は、明人だった。
今ではもう、あのときのような初々しさはない。当たり前のように重ねることのできる唇。けれど、決して軽くはない触れ合い。
「明人、少し、お酒臭いね」
唇を離すと、詩織は少し微笑んだ。
好きな人が、腕の中にいる。微笑んでいる。
明人の視界の中だけで、詩織の微笑みの横に、別の女性が浮んできた。微笑んでいた、美由紀。つい先ほどまで自分の前で微笑んでいた、彼女。
視界に浮んだ美由紀を振り払うように、明人は、詩織をベッドに押し倒した。
裏切りたくない。傷付けたくない。ずっと一緒にいたい。
でも、自分の心には、確かに美由紀が住んでいて。
心の住人から目を逸らすように、明人は、詩織を脱がせた。夢中で、彼女を抱いた。
残暑が残る季節の夜。暑さが、玉のような汗を体に浮かび上がらせた。混じり合う二人の汗のように、ひとつになろうとした。
もう婚約してるから。もう結婚するから。そんな言葉を交わして、避妊をしなかった。
まるで、逃げ道を塞ぐように。
詩織と、離れられなくなるように。