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第七話


 美由紀がジムに行ったのは、火曜日。


 明人とチャットアプリのIDを交換し、それから何度もメッセージのやり取りをした。


 一緒に食事に行く日を決めた。それが、今日──金曜の夜。


 明人が予約すると言っていたのは、街中にある居酒屋だった。全国チェーンのように大規模経営をしているわけではないが、安くて旨い店だという。大学の友人とも、何度か行ったことがあるそうだ。


 そんな会話をトークルームでしていたときに、ふと、美由紀は聞きたくなった。


 ──詩織さんとも、行ったことがあるの?


 昨夜の、トークルームのやり取りで。

 トークに打ち込んだその文字を、美由紀は、送信せずに消した。


 こんなことを聞いたら、まるで詩織に嫉妬しているみたいだ。そんなわけないのに。仲睦まじいあの二人を、微笑ましいと思っているのに。


 胸の中に淀みを感じながら、美由紀は苦笑した。自分の心の中にある気持ちに、違和感を覚えていた。今まで経験のない感情。


 今日になって、夕方になって。美由紀は、出掛ける準備をして家を出た。


 待ち合わせは、午後七時。夏なので、夕方を過ぎても外はまだ明るい。天気は、快晴と言ってよかった。


 シャツワンピ、と呼ばれる類の濃紺のワンピース。ファッションの研究のために購入したが、ほとんど着ていなかった服。肩には、小さめのショルダーバッグ。左手薬指には、ちゃんと指輪をしている。外そうかとも思ったが、裕二に変な疑いをかけられるのが嫌だから、つけたままで出掛けた。


 地下鉄に乗って、街まで出た。


 街中の商店街とも言える場所に、目的の居酒屋はあった。わかりやすい場所にあるので、迷うことなく見つけられた。


 時刻は、午後六時四十分。約束の時間まで、あと二十分もある。来るのが早すぎた。


 店の近くで明人を待つ。金曜の夜なので、人通りが多い。明人を待つ美由紀の前を、多くの人々が通り過ぎてゆく。


 美由紀はスマートフォンを手にした。チャットアプリを開く。明人とやり取りをしているトークルームを表示させた。


 チャットアプリのIDを交換したのは、たったの三日前。それなのに、ずいぶんたくさんのトーク履歴ができていた。夫である裕二と付き合い始めた頃だって、こんなにメッセージを送り合わなかった。


 祐二と付き合っていた頃。結婚する前。彼とのトークは、いつも美由紀から終わらせていた。ご飯を食べるから。お風呂に入るから。もう寝るから。いつも、適当な理由をつけて切り上げていた。メッセージを送り合うのが、面倒で。そんな時間があるなら、小説を書きたくて。


 裕二には、今日の外出の理由を、ジムで仲良くなった人と飲みにいくから、と伝えている。


 珍しいな、と裕二は言っていた。彼と付き合い始めてから、もう九年になる。その間に、美由紀が友人と飲みに行ったことなど、一度もなかった。


 午後六時五十分になって、明人が来た。彼は美由紀の姿を見つけると、ここまで駆け寄ってきた。


 半袖のストライプシャツにジーンズ。童顔の明人は、高校生にも見える。


「すみません、お待たせして」


 走ってきても、息ひとつ切れていない。


「ううん。私が早過ぎただけだから」

「じゃあ、もう入りますか」

「大丈夫? まだ時間じゃないけど」

「大丈夫だと思いますよ」


 明人に先導されて、美由紀は店の中に入った。


「予約していた市川です」


 明人が名乗ると、店員が席まで案内してくれた。小上がりの個室。襖を閉めれば、外との空間は完全に遮断される部屋だった。


 テーブルを挟んで、向かい合うように座った。

 

 二時間飲み放題のコースを選択する。案内をしてくれた店員に、二人とも、まずはビールを頼んだ。一緒に、フライドポテトと唐揚げ。


 注文を取った店員が、襖を閉めて部屋から出て行った。


 個室に、二人きりになった。


「明人君、お酒、呑むんだ?」


 沈黙が気まずかったわけではない。ただなんとなく、聞きたくなった。酒も煙草も口にしない。美由紀は、ボクサーにそんなイメージを抱いていた。


「まあ、凄く弱いんですけど。すぐに顔が赤くなって、酔っ払っちゃうんです。酒は嫌いじゃない──むしろ、好きなんですけど」

「じゃあ、経済的でいいね」

「そうですね。酒で散財、なんてことはなさそうです」


 明人が微笑んだ。笑った顔が、やっぱり可愛い。


 美由紀は頬杖をついて、明人をじっと見つめた。考えてみれば、祐二以外の男と二人っきりでどこかに出掛けるなんて、初めてだ。


 恋愛に興味がなかった美由紀は、ずっと、小説執筆を最優先に生きてきた。短大生の頃も、社会人になってからも。男と二人だけで出かけたのは、後にも先にも祐二だけだった。


 祐二と二人だけの時間を過ごしたのも、恋愛感情があったからではない。彼と結婚して、専業主婦になって、小説を書くのに適した環境を得たかった。目的は、ただそれだけだった。


 祐二と共に過ごす時間を、楽しいと思ったことはない。それでよかった。形だけでも恋愛をすることで、執筆の参考にできた。初めてのセックスの痛みも、今となってはいい経験だった。


 そう考えると、二年前の祐二の不倫も、いい経験だったかも知れない。揺れ動く男の心を、誰よりも近い場所で観察できた。祐二は結局、不倫相手と別れて美由紀のもとに戻ってきた。あの出来事を参考にして、男に裏切られて捨てられる女と、男を取り戻した女の二通りの物語が書けそうだ。


 襖がノックされた。開く。店員が、注文した物を運んで来た。ビール二つと、フライドポテトと唐揚げ。テーブルの上にそれらを置いて、店員が出て行く。襖が閉められる。


「じゃあ、とりあえず乾杯、ですかね?」

「そうだね」


 美由紀の顔から笑みがこぼれた。明人と一緒にいると、自分でも驚くほど表情が動いた。ビールのジョッキを掲げる彼に、微笑みを向ける。


 明人も、楽しそうに微笑んでいた。


「じゃあ、明人君の試合の慰労会ってことで」

「ありがとうございます」

「乾杯」


 キンッ、とジョッキを合わせる。


 ビールを喉に通した。不快ではない苦み。冷たいビールが、喉から胃に流れてゆく感触が分かる。


 美由紀は、俗に「ザル」と呼ばれる程度には酒に強い。祐二に誘われて晩酌をすることはあるが、ほとんど酔わない。いくらかの酒を体に入れて、ほどよく酔った祐二に誘われて、ベッドに行く。妻としての勤めを果たす。


 それは、小説家であり続けるために自分に課している義務と言えた。祐二の妻でい続け、彼のために家事をこなし、要求があればセックスをする。執筆以外には楽しみなんてない生活。


 ジョッキから口を離して、美由紀は明人を見つめた。


 半分ほどジョッキを空けた明人の顔は、もう赤くなっていた。


「本当にすぐに赤くなるんだね」

「ええ。美由紀さんは、余裕そうですね」

「実はね、私、お酒強いみたい。ほとんど酔ったことがないの」

「いいなあ。酒の席で延々と楽しめそう」

「でも、あんまり呑みに行ったりしないから。こんなふうに誰かと呑むのなんて、本当に久し振りで」

「へえ。前はいつ行ったんですか?」

「え……と──」


 美由紀の口の動きが、一旦止まった。前に誰かと二人で呑みに行ったのは、ずいぶん前。夫──祐二と。


 そのことを、なぜか言いたくなかった。


「もう覚えてないかな。歳だね」

「いやいや、まだまだ若いじゃないですか。俺と同級生って言っても、誰も疑わないですよ」

「大学生は無理でしょ」

「本当ですって」


 少しムキになったように言う明人が、やっぱり可愛い。


 少し口を止めても、またすぐに会話が弾む。話したい。聞きたい。コミュニケーションを取るがの楽しい。美由紀にとって、それは、人生で初めてのことだった。


 明人は最初の二杯だけピールを呑んで、それ以後はウーロン茶を飲んでいた。顔は、絵に描いたように真っ赤になっていた。


 美由紀はずっと、ビールを注文し続けた。酔わない自信があった。けれど、今日は、どこか変だった。


 時間は、驚くほど早く過ぎた。店員が、ラストオーダーの注文を取りに来た。


「もうそんな時間なんですね」


 明人も、時間が過ぎる早さに驚いているようだった。


「どうします? よければ、延長します?」


 聞いてくる明人と、視線が絡んだ。


 美由紀の頬は、熱くなっていた。

 

 美由紀は、酒に強い。今まで、どれだけ呑んでも酔ったことがない。それなのに、今日は変だ。頬が熱い。


 いや、熱いのは、頬だけじゃない。体まで熱い。これはきっと、夏の気温のせいじゃない。

 

 でも、それなら、どうしてこんなに熱いのか。


「ごめんね、明人君」


 今日の自分は変だ。熱い。楽しいのに、どこか恐い。美由紀は、そんな奇妙な気持ちを抱えていた。


「なんか、私、少し酔ったみたい。珍しいな」


 名残惜しい、という言葉が驚くほど当てはまる気持ち。本当は延長したい。でも、こうしているのが、なぜか恐い。


 延長はせずに、二人は店を出た。

 言っていた通り、会計は全て明人が出してくれた。


 時刻は、九時ちょうど。外は、もう暗くなっていた。


 帰り道を、途中まで明人と一緒に歩いた。明人は酔った美由紀を気遣って、「少し休みますか?」と何度か聞いてきた。


 美由紀の足取りは、しっかりしている。フラフラになるような酔い方はしていない。それなのに、熱い。顔も体も、熱い。


 帰り道が別々になる場所まで来て、美由紀と明人は立ち止った。


「今日はありがとうね、明人君」


 彼に向かって手を振った。笑顔は、やっぱり自然に出た。


「いえ。俺の方こそ。楽しかったです」

「じゃあ、またジムでね」


 美由紀は明人に背を向けた。家に向かって、歩き出そうとした。


「──待って下さい、美由紀さん」


 明人に呼び止められた。その声に反応して振り向く前に、後ろから、彼に腕を掴まれた。


 左腕。結婚指輪を着けた、左手を。


 明人に掴まれて、美由紀は振り返った。彼と視線が絡んだ。


 明人は、どこか熱っぽい目をしていた。その顔は、赤い。酔っているのだろうか。それとも、夜の暗さと街灯の明かりのせいだろうか。


「あの、美由紀さん──」


 美由紀の頬が、またも熱くなった。火照る頬。頬だけじゃない。体も熱い。全身が、熱を放っている。


 頬や体と同じくらい──いや、それ以上に、明人に掴まれた左手も熱い。


 掴まれた左手から、明人の体温が伝わってくる。

 それは決して、不快じゃなくて。

 それどころか、むしろ、心地よくて。


「どうしたの? 明人君」


 吐息のように漏れた、彼の名前。


 明人が、躊躇うように口を開いた。

 


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