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第六話


 八月最終週の国体予選が終わって、二週間経った。


 九月。


 美由紀は、試合の翌週からジムを休み、小説のプロットを作成していた。登場人物の作成、物語の大まかな骨組みの作成。取材したことを活かし、試合会場や試合そのものの雰囲気をプロット内に書き綴っていた。


 しかし、パソコンのキーボードを叩く指は、度々止まった。


 指を止めるたびに、市川の──明人のことが思い浮かぶ。ボクサーとしての明人のことではない。執筆している小説には、関係のないこと。


 明人は、今頃、どうしているだろうか。最後の試合が終わって、もうジムには行っていないのだろうか。就職の準備をしているのだろうか。それとも、今まで遊べなかった分、羽根を伸ばしているのだろうか。


 婚約者の詩織と、二人だけの時間を過ごしているのだろうか。


 思考の海に沈む度に、手が止まる。執筆は、決して順調とは言えなかった。物語のイメージはできている。登場人物の姿も思い浮かぶ。それなのに、進まない。


 心の中に、別の物語が思い浮かぶ。主人公はボクサーで。でも、ボクシングを題材とした小説ではなくて。


 美由紀は溜息をついて、書いたところまでパソコンに保存し、電源を切った。


 執筆が進まない。きっと、ボクシングをイメージできているつもりでいて、できていないからだ。


 美由紀は、自分の手が止まる理由を、そう結論付けた。まるで、言い訳のように。


 もっとボクシングのことを知れば、きっと書き進められる。ジムに行こう。今日は火曜日。ジムに行って、精一杯動いて、よりボクシングを体感しよう。そうすれば、きっと書ける。


 ドラムバッグに、必要な物を詰めた。トレーニングウェアやランニングシューズ、バンテージに替えの下着。


 着替えて家を出ようとしたときに、不意に思い出した。メモ帳とペンを持っていない。ジムに行く目的は、取材だ。小説に使える内容を得るために行くのだ。それなのに、メモ帳とペンを忘れるなんて。


 メモ帳とペンをバッグに放り込み、美由紀は家を出た。


 時刻は、午後六時。

 もうすぐ夜になる。


 車を走らせ、ジムに行く。

 ジムの駐車場に車を停めた。


 家を出てからジムに着くまでの間も、ずっと考えてしまった。明人のこと。執筆の手を止めてしまう思考。

 

 明人は、ジムに来ているだろうか。きっと、来ていないだろう。彼は、この間の試合を最後に引退した。もう、ジムに来て練習する理由がない。


 今頃は、詩織と二人でゆっくり過ごしているはずだ。婚約者と、二人で。二人きりで、体を寄せ合って。


 小説を書き進めるためにジムに来たのに、美由紀の気持ちは重くなった。


 明人が来ていないであろう、ジム。その入り口のドアを開けた。


 内側から、生温かい空気が漏れてきた。


 ジムの中の光景が、美由紀の目に映る。その途端に、重かった気持ちが軽くなり、心が晴れやかになった。


 リング上に、明人がいた。練習生のミットを受けている。


 ミット打ちは、指導者──トレーナーが手に着けた綿の詰まったミットに、選手がパンチを打ち込む練習だ。指導者はパンチを受けながら、選手にアドバイスをし、もしくは同じ動きを繰り返させることで技術を習得させてゆく。


 選手として引退したから、トレーナーに転身するのだろうか。でも、春からの就職は?


 疑問を抱きつつ、美由紀はジムの中に入り、リングに近付いた。


 ジムにある電光掲示板が、ラウンド終了のブザーを鳴らした。


 美由紀は、リング上の明人に声をかけた。


「明人君、こんにちは」

「なんかお久し振りです、美由紀さん」


 試合後の体育館裏で、互いを名前で呼び合った。それまでは、ずっと、互いを名字で呼んでいた。それなのに、名前で呼び合うことが、不思議なくらい自然に感じた。


「どうしたの? トレーナーに転身するの?」


 美由紀の問いに、明人は苦笑を浮かべた。


「いえいえ。引退したけど卒業と就職まで時間があるから、ジムの手伝いに来てるんですよ。あと、やっぱり、俺も少し体を動かしたいんで」

「そうなんだ」

「はい。なんで、美由紀さんのミットも受けますよ。取材の役に立てて下さい」


 ちょっとだけ、美由紀は笑ってしまった。こんなふうに自然に笑えるのが、珍しかった。自分は、感情を表に出すのが下手なのに。


「ありがとう。じゃあ、着替えて用意したら、お願いしていい?」

「ぜひ」


 自分でも不思議なほど、気持ちが軽くなった。美由紀は自分の胸に触れた。悩みが胸の中から消えたときのように、スッキリしている。執筆していたときもジムに着いた直後も、気が重くなっていたのに。


 更衣室に入って、颯爽と着替えた。更衣室から出て、準備運動を始めた。


 軽くシャドーボクシングをする。一ヶ月少々通い続けたことで、練習の要領が掴めてきていた。準備運動をし、シャドーボクシングで体を温めながら動きの確認をする。その後に、ミット打ちで動きを見てもらう。ミット打ちが終わったら、復習も兼ねてサンドバッグを叩く。


 美由紀は、鏡の前でシャドーボクシングを始めた。


 ジムに入った当初は、まるで思うように動けなかった。手足の動きがバラバラだった。パンチが綺麗に真っ直ぐ打てない。スポーツ経験などなかった美由紀は、ひとつの動きを体得することがどれだけ大変かを思い知った。


 同時に、練習をすればするほど、明人がどれだけ凄いかを思い知った。閃光のように伸びるパンチ。瞬間移動のような前後のステップ。それは明かに、彼の努力の賜物だった。


 けれど、その努力は、明人に望むものを与えなかった。彼の涙が自分の服に染み込む感触を、美由紀は今でも覚えている。


 明人の、堪えながらも漏れる嗚咽。彼を抱き締めた感触。彼を慰めたいと思った自分の気持ち。それらは美由紀の胸に深く刻まれて、決して忘れることはできない。


 シャドーボクシングをして、体が温まった。


「明人君、次のラウンドからお願いしていい?」


 ミットを受ける合間に体を動かしていた彼に、声をかけた。


「もちろんですよ」


 明人の快諾を受けて、美由紀はグローブを着け、リングに上がった。


 電光掲示板のブザーが鳴った。ラウンドが始まると、明人が指示したパンチを、彼のミットに打ち込んでいった。


 合間合間で、明人が美由紀に修正点などを指摘してくれた。優しい彼の性格を物語るような、親切で丁寧な指導。上手く動けたら、笑顔で褒めてくれた。童顔の彼が浮かべる笑みに、つい、美由紀の頬が緩んだ。


 美由紀は、今まで、自分のことを、ずっと無表情な女だと思っていた。少なくとも、意識して表情を動かさない限り、感情が表に出ることはなかった。


 それなのに、今は自然に笑えた。


 三ラウンドのミット打ちが終わった。


「ありがとうございました」


 美由紀が礼を言うと、明人は笑顔で返答してくれた。そのまま、美由紀に顔を寄せてくる。


「あの、美由紀さん」


 明人との距離が、耳打ちできるほど近くなった。


 少しだけ、美由紀の顔が熱くなった。きっと、激しく動いた直後だからだ。そんな自己分析をして、明人に聞き返した。


「何?」

「この間──試合のときは、すみませんでした」


 あの、体育館裏でのことだろう。


「ううん。悪くないよ。悔しくて当たり前だし」

「そう言ってもらえると安心できます。それで、あの──」


 明人の声が、小さくなった。他の選手が叩いているサンドバッグの音に、消されてしまいそうな小声。


「今度、食事を奢らせてくれませんか? お礼とお詫びも兼ねて、みたいな感じで」


 明人は、どこか照れた顔をしていた。それでいて、恥ずかしそうでもある。


 まるで、デートのお誘いのようだ。明人の言葉も、彼の表情も。


 だけど、と思う。明人には詩織がいる。大学を卒業したら結婚することが決まっている相手。試合会場にも来ていた恋人。仲睦まじい姿を見せていた二人。


 明人の言葉に、他意はないはずだ。そう、美由紀は判断した。そう、自分に言い聞かせた。


「ありがとう。でも、いいの? 奢りなんて」

「大丈夫です。一応、バイトもしてるんで。居酒屋くらいなら奢れます」

「じゃあ、お言葉に甘えるね」

「甘えてください。その──」


 ミットを手に着けたまま、明人は頭を掻いた。


「──俺も、試合のとき、甘えさせてもらったんで」


 恥ずかしそうな、明人の顔。照れたような明人の顔。


 彼の顔を見ていることが──彼と目を合わせていることが、美由紀にとって、驚くほど心地よかった。


 美由紀は明人とチャットアプリのIDを交換し、二人だけのトークルームを作った。二人だけの連絡の場。二人だけのコミュニケーションの場。


 美由紀は、トークルームを非表示設定にした。メッセージが来たときの通知も、オフにした。後ろめたいことをしているわけではないのに。


 明人は、ただのジムメイト。十歳も年下の、ただ可愛いだけの、ジムメイト。敗戦の悔しさを慰めたお礼に、奢ってくれるだけの。


 ただ、それだけの人。


 でも。


 ふと、美由紀は、夫のことを思い出した。


 夫の祐二は、二年前に不倫をしていた。不倫相手と、二人だけのトークルームでやり取りをしていた。不倫相手の、亜弥(あや)という女と。


 亜弥とこっそりトークでやり取りをしているとき、祐二は、こんな気持ちだったのだろうか。でも彼は、トークルームを非表示にするのを忘れていた。通知も、オフにしていなかった。それほど、気持ちが高ぶっていたのだろうか。


 こんなふうに、胸を躍らせていたのだろうか。


 だが、自分は祐二とは違う。明人は、美由紀の不倫相手ではない。自分には、明人への恋愛感情などない。


 だって自分は、Aセクシュアル──恋愛感情がない人間なのだから。


 だから、この気持ちは。

 だから、こんなふうに嬉しいのは。

 ただ単に、自分が明人というボクサーのファンで、彼を可愛いと思っているから。


 そう、美由紀は胸中で繰り返した。


 それはまるで、言い訳のようで。


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